アンソニー・ホプキンスがスティーブンスを、エマ・トンプソンがミス・ケントンを演じている。
個人的に、アンソニー・ホプキンスは「羊たちの沈黙」のレクター、エマ・トンプソンは「ジュニア」のダイアナのイメージがあまりにも強烈で、この配役は正直微妙。
また、某レンタルショップではラブストーリーに分類されていて、さらに微妙。
などと思いつつ観たのだけれど、そのへんはさすがと言うべきか、両者ともビシッと決めてきて違和感は全く無かったし、さほど「ラブ」に重点が置かれているようには感じられなかった。
以下、ネタバレ有り。
感想文のようなもの。
小説ではスティーブンスが一人称で語る形式で物語が進行する。
有能な執事であるスティーブンスが日々押し寄せてくる職務をクールにこなしてきたかのような印象を受ける。
一方映画では、スティーブンスを中心に、カメラがとらえた映像で物語が進行する。
視点が小説よりも客観的になっている。
そのせいか、スティーブンスが有能だというよりも、その有能さによって踏みつけにされた人や事の方に目が行ってしまう。
父親の言う「品格ある執事」に捕らわれて、大事なものを見失っているのではないか?
そのやり方は正しいのか?
職務に忠実なあまり、心遣いが欠けていて偏狭。
そんな印象を受けた。
スティーブンスが有能であろうとなかろうと、ダーリントン卿がナチズムに感化される、また、イギリスが戦争に巻き込まれるという、もはや一執事の裁量ではどうにもならない現実が押し寄せてきて、スティーブンスの思い描く「品格ある執事」などという小さな理想世界(とでも言えばいいだろうか?)は崩壊していく。
ミス・ケントンとの再会に向かう旅の途中、知り合ったカーライルに、
「私自身も私なりに過ちを犯したのです」
「その過ちを正したくて」
「この旅も実はそれが目的なのです」
と告白するシーンは、崩壊した理想世界に対する様々な後悔であり、懺悔であろう。
ミス・ケントンとの再会、別れの後、鳩が屋敷内に飛び込んできて、主人のルイスが捕まえてそれを外に放つシーン。
これは、現在のスティーブンスと、父親がかつて語った品格ある執事、すなわち屋敷内に侵入した虎をエレガントに処分したという執事との対比だろうか?
スティーブンスはかつての同僚ミス・ケントンを迎えることはできなかったし、イギリスは衰退し伝統あるお屋敷をアメリカ人に買い取られるという屈辱を味わっている。
まさに「日の名残り」だ。
それでも、スティーブンスにとってミス・ケントンは家族だったわけではないし仕事も続けられる。
イギリスも別に戦争に負けたわけではない。
最後、スティーブンスが仕えるお屋敷とそれを取り囲むイギリスの田園風景の空撮は「まぁ、くよくよしてもしょうがないしね」的な逞しさ、奥行きの深さを感じさせられた。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます