ととじブログ

書きたい時に書きたい事を書いている、あまり統一感の無いブログです。

坂田莉咲 (20) ~ マクドナルドCM バリューセット ¥500 ~

2019-08-25 05:29:54 | さかたりさ
2019年夏、坂田莉咲がマクドナルドのCMに出演した。
「バリューセット/¥500」のCM。

マクドナルドの公式ツイート。
真ん中が坂田。
撮影は7月で、一日中屋外にいたため、日焼けが大変だったそうだ。

CMの動画はしばらくYouTubeで公開され、その後削除されてしまったのだけれど、マクドナルドの公式ツイートに残っていた。

--
2023/03/08 最終更新


やがて海へと届く / 彩瀬まる

2019-08-14 04:35:07 | 本/文学
昔、あるきっかけがあって、夫婦でお互いの死について話をしたことがあった。

自分が残された方だった場合、相手の死を簡単に受け入れられるものではないと思う。
しかし、自分が死んだ方だった場合を考えるとどうだろう?
もし残された相手が深い悲しみや絶望の中で生きているのを見たとしたら、それが何よりも辛い事ではないだろうか。
生きている間はどこまでも味方であって欲しいけれど、死んでしまったらもういい。
残された方は、自分の幸せを第一に考えよう。
お互い、相手の死にエネルギーを浪費することなく、残った自分の人生を好きに過ごしていこうよ。
と、そのような結論に至った。

死がある程度正常で、安らかなものだった場合は、そのように振る舞い、生きて行けるかも知れない。

では、そうではない場合は?

例えば、こんな場合。
妻がレイプされ身体をボロボロにされ、その後まだ息があるうちに、生き埋めにされて殺害された。
そして、その犯人が法に裁かれることなく、生きているとしたら。
死んでしまった者は帰ってこない。仕方がない。自分は自分の人生を楽しもう。
そのように割りきって生きていけるだろうか?

あるいは、こんな場合。
災害で犠牲になった人々。
その一人一人に対して残された人々は。
死んでしまった者は帰ってこない、仕方がない。自分は自分の人生を楽しもう。
そのように割りきって生きていけるだろうか?

現実の世で満ちあふれている、理不尽な死。
想像を絶する恐怖や痛み、そういう死に対しては?

そんな問いかけに挑んだのがこの作品。
彩瀬まるが描いた『やがて海へと届く』。

単行本は2016年2月に講談社から、文庫本は2019年2月に同社から刊行されている。

--
坂田莉咲(※)推奨により。
「坂田莉咲のSHOWROOM」は2020/03/31に終了した。



--
2023/03/09 最終更新


暗い夜、星を数えて 3・11被災鉄道からの脱出 / 彩瀬まる

2019-08-13 03:31:22 | 本/文学
暗い夜、星を数えて 3・11被災鉄道からの脱出
著者:彩瀬まる
発行所:新潮社
新潮文庫
2019年3月1日 発行

2011年3月11日、14時46分に発生した東日本大震災。
その直前、同日午後一時過ぎに宮城県、仙台駅にいた著者。

本文より、
『その日私は、二泊三日の東北旅行の二日目を楽しんでいた。同行者のない、気ままな一人旅だ。前日は松島に泊まり、おいしい牡蠣料理と、優しい鴇(とき)色に染まる夕暮れの海景色を堪能した。今日は仙台から友人の待つ福島県いわき市へ移動する。』

仙台駅から常磐線で福島県のいわき市へ向かっている途中、新地駅で地震が発生する。
新地駅は福島県沿岸の最北部、宮城県との県境近くに位置している。
この地は、地震発生後、津波に飲み込まれた。

著者は…
もちろん、震災から無事生還した。
生還したからこそ、このルポを書くことができたわけだ。

非常に不謹慎な表現だが、まるで、よくできたフィクションのようだ。
あるいは、計算しつくされたゲームのようでもある。
モンスターやラスボスがいないドラクエのあらすじみたいだな、と。

仲間と出会い、間一髪津波から逃れる。
しかし、原発事故が発生、余震による更なる津波の警報、避難所へ。
錯綜する原発事故の情報。
残り少ないガソリンで避難所から脱出、仲間との別れ。
ゴーストタウンのような街からの帰宅手段を模索する。
最初の作戦は失敗するが、ある情報を得る。
「あの街で鉄道が復旧しているらしいよ…」

しかし、言うまでもなく現実に起こった震災であり、著者のリアルな体験と、その時々の心の動きが綴られた、本物のルポだ。
実は私も被災者の一人だ。
旅行者だった著者と被災地の住民だった私、被災した場所も違う。
全く違う被災体験なのだけれど、読んでいると涙があふれてきて仕方がなかった。

単行本が刊行されたのが2012年2月25日。
7年の時を経て、新たに「文庫あとがき」を加えて刊行されたのが本書。
「文庫あとがき」を読み、被災地の住民だった私とは違う形で、今でも著者と震災はつながっているのだな、と感じた。


人魚の棲む森 / 松本さゆり

2019-08-06 23:25:34 | 本/文学
小学生の頃のキラッキラッの夏休み。
楽しかったな。
最高だったな。
もう一度戻りたいな。
なんて思いながら、よくよく記憶を辿ってみると、最高の思い出も、今の自分とはプッツリと断ち切られていたり、辛くて悲しい結果に行きついていたり。
圧倒的な光のイメージに、細かい事が覆い隠されてるだけなのかも知れないな。
いやいや、でも夏はいいよ、夏休みは最高だよ!
そういうことにしておこう。
…と、ひと言でいうと、いや全然ひと言じゃないか、まぁ、そんなことを思わせてくれる小説だ。

この小説を初めて読んだのは、20年以上前の初夏、たぶん7月の上旬だったと思う。
当時、フリーで仕事を始めてから2、3年目で、毎日が忙しく、忙しい割には金は入らず、解決できない悩みや不安をいくつもかかえ、数か月先も見通せず、楽しいとは言い難い日々を過ごしていた。
そんな時にたまたまこの小説を読んで、変な言い方ではあるが、色々な事がどうでもいいと思うほど感動した。
「どうでもいい」と言うのは、仕事に対して手を抜いてもいいんじゃないかとか、適当に生きて行けばいいんじゃないかとか、もっと楽をしようとか、そういう事を思ったわけではない。
これから先、最悪のシナリオが進行していったとして、それがどうだというのか?
抱えていた悩みや不安が、どうということのない小さな事に思えた。
そんな意味での「どうでもいい」だ。

今ちょうど季節は夏真っ盛り、あの時の気分をもう一度味わえるだろうか、と改めて読み直した。
面白かったけれど、不思議と、初めて読んだ時に感じた感動は沸き起こってこなかった。
何でだろうな? と色々考えてみたり、部分的に読み返したりしてみた。
それでも、よくわからなかった。
でも、たぶん、たぶんだが、初めて読んだ時の自分の年齢や境遇、そしてその時の過去と未来、そういったものが、この小説を書いた時の著者と、何か強く共鳴したのかも知れないなと、そんな風に感じている。

人魚の棲む森
著者:松本さゆり
発行所:河出書房新社
1995年8月25日 初版発行