ととじブログ

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坂田莉咲 (54) ~ワールド極限ミステリー/セウォル号沈没事故再現ドラマ~

2021-04-10 00:28:58 | さかたりさ
2021年4月7日、TBS系列で放送されたワールド極限ミステリー。
その番組内の、2014年に韓国で起こったセウォル号沈没事故再現ドラマに、坂田莉咲が出演した。

セウォル号には修学旅行中の高校生が多数乗船していて、坂田が演じたのはその中の一人、リア。
ドラマは高校生達を中心に描かれ、主な人物はリアの他に、リアの彼氏テヒョン、リアの親友で学級委員だったミジ、同じく親友で妹のような存在だったスヨン。

テヒョン(渡邉伶(Instagram))は台本では他の名前だったのが撮影時にテヒョンに改められた。
リアと共に実在の人物ではあるが、仮名である。
そして、ミジを演じたのは藤本しゅり、 スヨンを演じたのは 白石優愛(InstagramTwitter) 。
同じく実在の人物で、ドラマでは実際のミジ(ユ・ミジ)とスヨン(イ・スヨン)の写真が紹介されている。

セウォル号沈没事故では死者・行方不明者は300人以上で、その内の250人が高校生達だった。
300人、250人という数字はそれだけで十分に重い。
しかしドラマでは、その中の一つ一つの命の重さが、またそれがいかにして失われていったのかが描かれていて、涙を誘う。

ドラマの台本はセリフの意味が日本語で書かれ、そのとなりにカタカナの韓国語、区切りやイントネーションの指示等がなされていて、実際、撮影は韓国語で行われたそうだ。
放映時には声優によって日本語に吹き替えられた。

キャストは先生役の女性と船長の二人が韓国人で、それ以外はすべて日本人。
この二人に韓国語を教わりながら、撮影が進められたそうだ。

韓国で放映される予定があるわけでもなく、最終的に日本語の吹替をかぶせるならば、なぜわざわざ韓国語で撮る必要があったのだろう?

ドラマは多くの命が失われていった悲惨さと同時に、それぞれの生きた証、また生還者の再生を描くものでもあった。
若い俳優達一人一人に対し、事故に巻き込まれた当時の韓国の高校生達に一歩でも近づき心を寄せて演じて欲しいという、そんな意図があったのかも知れない。

上記4人以外の出演者は、調べてわかった限りで、都宮京華(InstagramTwitter) 、畠山彩奈 (Instagram)、有馬ひより(Twitter)、飯塚悦子(Instagram)、田中芽佳実(Instagram)、真帆(Twitter)。


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ドラマの内容には関係なく、書かなくてもいい事なのだが、
坂田「同世代の女の子がいっぱいいたんですけど、何歳ですか? って聞かれて、21歳ですって言ったら、高校生かと思ったって言われて、本当ですか! めっちゃ嬉しい! 若く見られて! って言ってたら、他の子に中学生ぐらいだと思ったって言われて、マネージャーさんからもう高校生役厳しいって言われてたんですけどまだまだいけますかね! みたいな話で盛り上がりました」
と、Pococha配信(※1)にて。

高校生はいいとして、さすがに中学生は無いよな~ウソは良くないな~、と思いつつ、高校生に見える! 中学生に見える! と絶妙なワンツーで撮影前に坂田を絶好調にしてくれたのはいったい誰なんだろうか?

※1 配信アプリPococha。Pocochaでのユーザー名は「さかたりさ」。

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関連記事:

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2023/03/07 最終更新


はてしない物語 / ミヒャエル・エンデ

2021-04-07 05:18:35 | 本/文学
物語はバスチアンという名の少年があるきっかけで「はてしない物語」と題された本を手に入れてそれを読み始めるところから始まる。
「はてしない物語」はバスチアン少年が読んでいる本、つまり作中作品として描かれている。
この構造はバスチアン少年に読者のお供、物語を読み進めていく上で読者が共感を分かち合うために用意された存在なのか?と想像させる。
しかし読み進めていくうちに、バスチアン少年の役割はそんな軽いものではないことが徐々に明らかになっていく。

また、物語前半では、「はてしない物語」に登場するファンタージエンという世界と現実的な人間の世界は表裏一体の関係にあり、想像力の欠如した人間のせいでファンタージエンが徐々に蝕まれていき、蝕まれたファンタージエンの住人たちがさらに人間の世界に悪影響を与えていくという、簡単に言うと、人間たちは想像力を失ってはいけないのだ!的なことを言いたいのかな?と思ったりするのだが、物語が後半に進むと、そんな単純な話ではないことがわかってくる。

さらには、この物語を書いたのはミヒャエル・エンデでありながら、著者ミヒャエル・エンデを超越した存在によって書かれているものだと読者に思わせる仕掛けがあったりと、非常に重層的な、とても児童文学と片付けることができない壮大な作品となっている。

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ところで、この物語の最後は、
「けれどもこれは別の物語、いつかまた、別のときにはなすことにしよう。」
という一文で終了している。
この一文は物語途中で何度も出てくる。
出てきながら、当然のように、この「はてしない物語」の中で語られる事はない。

なんかこういうの、最近どこかで聞いた覚えがあるな…と考えてみて、思い出した。
このブログでも記事を書いた舞台作品『はるちゃん、あのね』だ。

『はるちゃん、あのね』のストーリーは割愛して、その部分だけを抜粋すると、
「このイザっちゅう時のために靴底に一万円ば入る習性が後にやえちゃんを救うことになる。ばってんそれはまた別の話」
 
作・演出:鳥皮ささみ
出演:坂田莉咲 今川宇宙 青矢修

これを観たときは「別の話」が語られる機会があるに違いないと思っていたのだけれど、『はてしない物語』を読んだ後の今となっては、語る気などさらさらなく、むしろあなた(作品を観た観客達)が作りなさいと言っているように思えてくる。