ととじブログ

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日の名残り / カズオ・イシグロ

2019-06-25 03:17:56 | 本/文学
日の名残り
著者:カズオ・イシグロ
訳者:土屋政雄 (つちやまさお)
発行所:早川書房
ハヤカワepi文庫
2001年5月31日 発行

以下、ネタバレ有り。


有能な執事。
職務に忠実で、頭脳は明晰。
そして、鋭い観察眼。

でも、例えば、
『しかし、ミス・ケントンはもう部屋を出ていました。そして、待っているという言葉のとおり、ときおり足音やらその他の物音を立てて、まだドアの外に頑張っていることを仕事中の私に知らせてよこしました。』
(引用 P80 L4 - L6)

あるいは、
『私にご用のあるとき、ダーリントン卿はよくこの本棚の前に立ち、百科事典の背をながめながら、私が階段を降りてくるのを待っておられました。ときには、ことさら偶然の出会いを装うため、中から本を一冊抜き取り、私が階段を降りきるまで熱心に読みふける降りをされることもありました。
〈中略〉
そのまま何気ない足取りで書斎にもどられるのですが、そのときもまだ手に本を広げたまま、そこにすべての意識を集中しているかのように振舞われました。』
(引用 P84 L9 - L15)

こういったところが、一面しか見ていないというか、思いあがっているというか。
何か嫌な奴だなぁというのが、序盤に、語り手であるスティーブンスに対して抱いた印象だ。

しかし、その印象が読み進めていくうちに、徐々に変化していく。
語らないからといって、ミス・ケントンに対する想いが無かったわけではないし、ミス・ケントンの自分に対する気持ちに気づいていなかったわけではない。
繰り返されるダーリントン卿に対する賛辞も、すべてを肯定してのものではない。
すべては有能な執事であり続けるためだったのか、と。

ミス・ケントンとの再会が近づくにつれ、有能な執事としての‘語り’に少しずつ綻びが生じてくる。
一人の男、スティーブンスの姿が見えてくる。
これは、スティーブンスが年老いて有能な執事ではなくなりつつあることを、また、有能な執事がもはや必要とされていない現実をも暗示しているように思える。

敬愛するダーリントン卿を失い、ミス・ケントンとの再会も結局は最終的な別れを決定づけるものとなってしまう。
あとに残ったものは、かつて有能な執事であったという栄光だけ。

何やら物悲しいストーリーではあるが、新しい主人、アメリカ人のファラディのもとで、また生きて行く。
主人が好むジョークの勉強をしながら前向きに生きて行こうという、まるでイギリスという国のしぶとさを感じさせる、決して悲壮感だけで終わらないところに救いがある。

絶妙なストーリーテリング。
見事に誘導されてしまった感。

カズオ・イシグロの作品は今回初めて読んだ。
なるほど、さすがに、ノーベル文学賞をもらうだけのことはある。
あえて斜に構え、絶賛はしない。
が、文句のつけようは、無い。


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