ととじブログ

書きたい時に書きたい事を書いている、あまり統一感の無いブログです。

村上春樹『街とその不確かな壁』

2023-04-19 05:56:45 | 本/文学
小説を読み終えて、結局、著者は何を言いたいんだろうか? と思うことは多々あって、この『街とその不確かな壁』はまさにそうだった。
でも、別に批判しているわけではない。
村上春樹の小説はだいたいいつもそうだし。

小説家には二つのタイプがいると思う。
小説を書く前に、自分が何を書きたいのか(言いたいのか)を予め明確に認識していてそれを書いていくタイプ。
逆に、認識していないけれど、書いているうちに自分が何を書きたいのか(言いたいのか)が抽出されていくタイプ。
村上春樹は後者だろう。
たぶん。

ただ、両者の間の壁は「不確か」だ。
何を書きたいのか(言いたいのか)が明確だったのに書いているうちに揺らいでくることもあるだろうし、書く前も書き終わってからも何も抽出されないこともあるだろうから。

それでその…最初に戻る。
『街とその不確かな壁』を読んだのだけれど、著者が何を言いたいのかはよくわからなかった。

村上春樹の小説にはよく絶対的な関係性の、あるいは少なくとも一方が絶対的な関係性であると信じているような男女が出てくる。
例えば「ノルウェイの森」の僕と直子、「海辺のカフカ」の佐伯と昔の恋人のような。
『街とその不確かな壁』にもそれが出てくる。
主人公と、主人公が「きみ」と呼ぶ少女だ。

「街と、その不確かな壁」
「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」
「街とその不確かな壁」
と書き重ねられて行って、それを読み、よくわからなかったけれど、感じたのは、その「絶対的な関係性」のようなものも所詮は幻想?
ということだ。

最後に、それ以外何も感じなかったのか? 面白くなかったのか? というと、別にそういうわけではない、とだけ言っておこうと思う。


街と、その不確かな壁 ~村上春樹『街とその不確かな壁』刊行直前~

2023-04-02 04:03:26 | 本/文学
4月13日(2023年)、もう間もなく村上春樹の最新作が刊行される。
タイトルは『街とその不確かな壁』。
『騎士団長殺し』から6年ぶり、15作目の長編小説である。

村上春樹の本を発売直後に買うことは今までほとんどなかった。
長めの作品『ねじまき鳥クロニクル』『海辺のカフカ』『1Q84』『騎士団長殺し』などは、すぐに読みたかったのだけれど、2冊セットで出費がきつかったから。
短めの作品『スプートニクの恋人』『アフターダーク』『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』などは、そんなに急いで読みたいと思わなかったから。
でも、今回の『街とその不確かな壁』は買いたい。
発売日に買いたい。
すぐに読みたいし、3000円ぐらいなら、いちおうハルキ・ファンなのだから、そのぐらいはね、払って読みたいと思っている。

この記事の『街と、その不確かな壁』は、上記の『街とその不確かな壁』とは別の作品である。
タイトルをよく見るとちょっと違う。
読点があるか無いか。
ここはあまり深読みせず、普通に、二つの作品にかなり密接な関係があり、でも区別できるように、このようにしたのだろうと解釈しておく。

それで『街と、その不確かな壁』。
これは文芸誌、文學界の1980年9月号に掲載された中編小説である。
書籍化されていない(単行本、文庫本に収録されていない)。
電子書籍化もされていない。
著者が結末に納得できなかったために封印され、後に『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』として生まれ変わった作品である。

『街と、その不確かな壁』と『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』の結末を比べると、確かに違う。
真逆とも言える。
『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』に著者は納得していたのだろうか?

あらためて『街と、その不確かな壁』を読み返してみると、『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』とは結末が真逆だけれど著者が描きたかった物語の‘核’は変わらないんじゃないだろうか? あるいは‘核’が微妙に違うんじゃないか? という気がした。
う~ん、何言ってるのか自分でもわかんない。

さて、新しく刊行される『街とその不確かな壁』では、いったいどんな物語が描かれるのだろうか?
『街と、その不確かな壁』の書き直し?
『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』の書き直し? 
それとも続編?

楽しみだな。
早く読みたい。


しゃぼん玉 / 乃南アサ

2021-08-30 05:03:19 | 本/文学
ひったくりにコンビニ強盗でその日ぐらしを続ける伊豆見翔人。
ある日脅すつもりのナイフで女性を刺してしまう。
逃走するためにトラックをジャックするが、居眠りをしている間に運転手から車外に放り出される。
そこは宮崎県の山奥にある椎葉村で、偶然バイクの転倒事故で身動きがとれなくなっていた老婆スマと出合い、助ける。
一人暮らしをしているスマの家での居候生活が始まる。
隙あらば逃亡することを考えながらも、スマとの生活が続き、シゲ爺の山仕事、村の「平家まつり」の準備を手伝うようになる。
村人達からはスマの孫だと思われていて、頼りにされ、信頼を得ていく翔人。
そんな中、若く美しい女性、黒木美知と知り合う。
美知に好意を抱く翔人だったが、美知が椎葉村に戻って来た理由を村人から聞き、衝撃を受ける…

以上があらすじ。
へたくそなあらすじで、申し訳ない。
しかもさらにネタバレしてしまう。申し訳ない。
最終的に翔人は過去を償って更生し、椎葉村で新たな人生を歩むことになる。

ここまで書くと、都会で犯罪を繰り返し荒んだ若者の心が、大自然と心優しい田舎の人々との交流の中で少しずつ癒され、更生へと導かれていった…と、なんとなく、そんなありきたりなイメージを持たれるかもしれない。
が、本作はあんまりそういう感じじゃなくて、けっこう最後の方まで翔人の心は荒んでいるし、ちょっとしたきっかけで何をしでかすかわからないという危ういバランス…大げさに言うならば、翔人がスマを殺害し金品を奪って逃走するという、常にそんな危険を孕みながら物語は進行していく。

あらゆるストーリーは単純化されてしまうと、どこかで聞いたことのある、ありきたりな話になってしまう。
例えば、ハリウッドのアクション映画なんて、どれもこれも「ヒーローが幾多の苦難を乗り越えて悪いヤツを倒しました」という単純な話で、まぁありきたりなんだけど、じゃどれもこれも観る価値は無いかというとそんなことは無い。
一言で言えば同じようなストーリーでも、面白い作品もあれば、面白くない作品もある。

ちょっと話がくどくなった。
『しゃぼん玉』は面白い作品である。
荒んだ犯罪者、翔人はどのようにして更生に至ったのか?
それはこの作品にしかないストーリであり、面白さである。

スマ、シゲ爺、黒木美知という魅力的な人達が翔人と関りを持ち、言い換えれば翔人を更生へと導くことになるのだが、私が個人的に、もっとも強烈な印象を持っているのは、スマの息子、豊昭だ。

豊昭は、言ってみれば、クズ中のクズで、物語の終盤、どうしようもないクズなことをする男だ。
ところが、このクズ男によるクズ行為が、翔人を更生へと導く決定的なひき金になっているところが強烈に面白い。
何というか、私自身もけっこうクズなので、クズ男にも生きている価値があるものだなという、非常に勇気づけられる一シーンだった。
著者がそんな意図を持って書いたかどうかはわからないけれど。

『しゃぼん玉』は映画化もされていて、公開は2017年。
監督・脚本は東伸児。
伊豆見翔人を林遣都、スマを市原悦子、黒木美知を藤井美菜、豊昭を相島一之、シゲ爺を綿引勝彦が演じている。
原作に忠実に制作されている印象が強い。
作品中で映し出される「椎葉平家まつり」の準備、本祭風景は、本物の祭りから切り取って撮られた映像のように見える。
黒木美知を演じる藤井美菜がキレイ過ぎて、そりゃ翔人の心も動くよな、と思う。
本作は市原悦子の遺作、最後の出演作品だそうだ。
「椎葉平家まつり」は平家の落ち武者伝説にちなんだ祭りなのだが、椎葉村に限らず、平家の落ち武者伝説はこの地方に数多くあるらしい。


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しゃぼん玉
著者:乃南アサ(のなみあさ)
発行所:新潮社
新潮文庫
平成20年2月1日 発行


はてしない物語 / ミヒャエル・エンデ

2021-04-07 05:18:35 | 本/文学
物語はバスチアンという名の少年があるきっかけで「はてしない物語」と題された本を手に入れてそれを読み始めるところから始まる。
「はてしない物語」はバスチアン少年が読んでいる本、つまり作中作品として描かれている。
この構造はバスチアン少年に読者のお供、物語を読み進めていく上で読者が共感を分かち合うために用意された存在なのか?と想像させる。
しかし読み進めていくうちに、バスチアン少年の役割はそんな軽いものではないことが徐々に明らかになっていく。

また、物語前半では、「はてしない物語」に登場するファンタージエンという世界と現実的な人間の世界は表裏一体の関係にあり、想像力の欠如した人間のせいでファンタージエンが徐々に蝕まれていき、蝕まれたファンタージエンの住人たちがさらに人間の世界に悪影響を与えていくという、簡単に言うと、人間たちは想像力を失ってはいけないのだ!的なことを言いたいのかな?と思ったりするのだが、物語が後半に進むと、そんな単純な話ではないことがわかってくる。

さらには、この物語を書いたのはミヒャエル・エンデでありながら、著者ミヒャエル・エンデを超越した存在によって書かれているものだと読者に思わせる仕掛けがあったりと、非常に重層的な、とても児童文学と片付けることができない壮大な作品となっている。

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ところで、この物語の最後は、
「けれどもこれは別の物語、いつかまた、別のときにはなすことにしよう。」
という一文で終了している。
この一文は物語途中で何度も出てくる。
出てきながら、当然のように、この「はてしない物語」の中で語られる事はない。

なんかこういうの、最近どこかで聞いた覚えがあるな…と考えてみて、思い出した。
このブログでも記事を書いた舞台作品『はるちゃん、あのね』だ。

『はるちゃん、あのね』のストーリーは割愛して、その部分だけを抜粋すると、
「このイザっちゅう時のために靴底に一万円ば入る習性が後にやえちゃんを救うことになる。ばってんそれはまた別の話」
 
作・演出:鳥皮ささみ
出演:坂田莉咲 今川宇宙 青矢修

これを観たときは「別の話」が語られる機会があるに違いないと思っていたのだけれど、『はてしない物語』を読んだ後の今となっては、語る気などさらさらなく、むしろあなた(作品を観た観客達)が作りなさいと言っているように思えてくる。


1Q84 / 村上春樹

2021-03-09 00:18:38 | 本/文学
『1Q84』は村上春樹の12作目にあたる長編小説で、単行本は2009年から2010年にかけて、文庫本は2012年に刊行された。

二つのストーリーが並行して進んで行くという構成で、これは『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』『海辺のカフカ』に続くもので、その3番目の作品ということになる。

二つのストーリーが並行して進んで行く作品を描く難しさは、二つのストーリーがそれぞれ面白くなければならないし、かつ面白さが‘同程度’でなければならないというところにあるのではないかと思う。
面白いストーリーを度々中断され、その間にもう一方の面白みに欠けるストーリーを読まなければならないというのは、読者にとって辛いものだ。

この二つのストーリーがそれぞれ同程度に面白く、さらには最終的に二つのストーリーが融合するという点では、3作品(『世界…』『海辺…』『1Q84』)の中で最も成功しているのではないかと思う。

個人的には、村上春樹作品としては、一番好きなのが『羊をめぐる冒険』で、次が『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』。
『1Q84』がその次かな? といったところだ。

ちなみに時代背景は1984年。
だから、例えば、昨今のように、防犯カメラが要所要所で目を光らせネットワークにつながっている中で、青豆が従業員を装いホテルの客室に侵入して中にいる男を殺害するような事は、とてもできそうにない。
また、スマートフォンやSNSで街行く人々が皆撮影者かつ発信者という中で、世間に顔をさらして時の人となったふかえりが潜伏している部屋を出て買い物に出かけるような事も、やはりできないであろう。

しかし不思議と時代的な古臭さは感じられない。
と同時に、1984年という時代を彷彿とさせるものもあまり無い。
また、舞台は主に東京で、首都高、高円寺、中央線等々東京に含まれる要素が多々出てくるが、東京臭のようなものもあまりない。
細部を修正すれば、2021年のロンドンを舞台にしても成立してしまう、ある意味、とても村上春樹らしい物語だと思う。