エッセイ  - 麗しの磐梯 -

「心豊かな日々」をテーマに、エッセイやスケッチを楽しみ、こころ穏やかに生活したい。

スケッチドライブ

2007-01-31 | スケッチ
                《赤井の雪原から 磐梯》

冬晴れに誘われて、「麗しの磐梯」のスケッチに出かけた。
 約2時間のスケッチドライブに、ポイント、ポイントで7枚のスケッチをしてきた。
 いつも、大体は帰宅してからの彩色なので、いつもサインペンで数分のスケッチだ。

 河東から湊へ、いつものポイントから真っ白な磐梯山を眺めた。どこからも悠然とした眺めが素晴らしい。真っ白な山頂からは流れる山襞が「我が磐梯」を形づくる。
 市内から磐梯町方面へ進むと、磐梯山の右の肩に赤埴山がわずかに見えてくる。赤埴山は、猪苗代町や対岸の湊からは、磐梯山とバランスよく並んで見える。
 広々した雪原に均整の取れた麗しの磐梯が泰然と聳える。あるいは、周囲の葉を落とした雑木林のどこからでも形の良い磐梯は見える。でも、今の季節、冬のハクチョウが浮かぶ猪苗代湖の彼方に聳える磐梯はとても凛々しく、一番の眺めである。

【磐梯 笹山 ハクチョウ】 
 
 ハクチョウと磐梯を眺めに笹山へ立ち寄った。笹山の先の湖畔道は、冬場は雪のため通行止めだった。鳴き交うコハクチョウやオナガガモ眺めながらスケッチ、右手の名倉山と左手の藤崎の間に、裾野が隠れた真白な磐梯が美しかった。目をゆっくり右に移すと、静寂の湖水に翁島が浮かび、遙かに川桁から志田浜、上戸浜、湖南へと郡山方面の厳寒の山並みが連なっていた。
 誰もいない浜に、ざっと50羽ほどのコハクチョウと数百羽のオナガガモが仲良く浮かんでいた。鳴き合う声はなんと切ないことか。しばし立ちつくし静寂に響く叫びを聞いた。
 猪苗代湖の透き通る水に、冬の陽が揺らめき、再び大自然のすばらしさに震えた。(2007.1.30)

《スケッチ「麗しの磐梯」》
  

暖かい会津の冬

2007-01-30 | 日々の生活
                 《顔を出したスイセン》


暖冬で、庭の雪も消えかけている。十日市のころに降った後はほとんど雪は降らず、雨の日も何度かあった。このまま雪が降らずに春にはならないと思うが、普段見られない真冬の季節の、雪のない庭に春を探した。

【穏やかな日に輝くハクモクレン】
 ハクモクレンのつぼみの綿毛が穏やかな日の光に透けている。雪が消えて現れた、黒く濡れた落ち葉の間からスイセンが顔を出し始めていた。その淡い黄緑は、まだ夜の寒さにはかわいそうな気がした。ツバキやジンチョウゲのつぼみも膨らみ、ほんのり色づいていた。最近にない、驚くように暖かい冬だと思う。
でも、暦では後1週間で立春だ。この分だと本当の春も早いのではないだろうか。




ブロック遊び

2007-01-29 | 日々の生活
 今日もレゴブロックで半日つきあわされる。忙しいからとの言い訳は効かない。今日も、折角作った小さな恐竜を壊して、大きなでトリケラトプスを作った。
 それにしても、日本語のない初めての説明書は大人でも一苦労だ。それでも孫は、部品を捜したり、小さな部分は簡単に作ってしまう。相当な理解力に驚いている。全体構成を助言すれば、彼が眠気を覚え緩慢になってくるまではきわめて意欲的で、長時間休めない。
孫の頭の中はどうなっているのか。その創造力には驚かされる。
我々の小さい頃はブロックのおもちゃなどあったのだろうか。自分には記憶がない。これらの遊びから養われる感覚、能力は大きなものがあるような気がする。

孫は、いま恐竜に狂っている。4歳半とは思えない疑問を投げかける。前歴はいろいろな乗り物、カブトムシ類だったが、今は恐竜。大人でさえ覚えられない恐竜の名前を連発している。 恐竜類の特徴、肉食か草食か、住んでいたところ、大きさ等々実によく知っている。
最近は図鑑の裏表紙に勢揃いしている恐竜を索引で捜してそのページを開いている。
「何で・・・・なの?」のとの問いが彼の成長につながっているようで、末が恐ろしくも楽しみでもある。

歌聖 斎藤茂吉を訪ねて

2007-01-28 | 文芸
《上山市金瓶宝泉寺歌碑
     のど紅き玄鳥ふたつ屋梁にゐて足乳根の母は死にたまふなり

 雪の季節にはなぜか茂吉に惹かれる。
春まだ浅い金瓶の茂吉の生家を訪ねてから3年になる。ふとその時のこころの高鳴りが甦ってきた。その後何度か上山や大石田を訪ねていたが、季節は春や秋だった。
 この冬は雪の最上川を旅してみたいと思っていた。雪の中に金瓶や最上川に茂吉の面影を追ってみたいと思っていた。どうもこの暖冬では、想像するその趣が失われそうで迷っている。
 今日も大寒過ぎの雨降り、水たまりに静かに落ちる雨をぼんやり見ていると、庭にわずかに残る雪がなければ、梅雨時と間違えそうな気がする。
 書棚から、斎藤茂吉記念館で求めた「茂吉の山河」、北杜夫の4部作「青年茂吉」「壮年茂吉」「茂吉彷徨」「茂吉晩年」を取り出した。
 あらためて人間茂吉の生き様や、こころの叫びに迫ってみたい。感動を求めて。


 以下は、かつての茂吉を訪ねた思い

○「茂吉の古里探訪 幼き日々しのぶ
 
 退職まで残りわずかとなった休日、はるかに蔵王連峰を望む、歌聖斉藤茂吉のふるさと山形の上山を訪ねた。
旅の前に「茂吉と上山」や「青年茂吉」を読み返し、茂吉の歌と共に生い立ちやふるさと上山をこころに描いていた。生家の前の細い坂道界隈には、正に百年も前に茂吉少年が遊び廻り、彼の生命とこころを育んだ金瓶村の当時の風景がそのまま残っているように思えた。茂吉の菩提寺宝泉寺の境内には、あの「のど赤き玄鳥ふたつ屋梁にゐて足乳根の母は死にたまふなり」の歌碑が建っていた。茂吉の歌集「赤光」の「死にたまう母」の連作に、改めて心に響く慟哭を聞く思いであった。歌碑の奥の「茂吉の墓」とだけ刻まれた墓に参った。寂寥感と満足感が胸一杯に広がった。
 この茂吉を巡る旅は、私のこれからの生き方を探る旅でもあった。退職後は大病後の身体を愛おしみながら、興味ある土地の歴史や文化、自然を学んで歩きたいと思っている。(2005.3)

○「歌聖茂吉の歌碑を巡る旅
 
 歌聖、斉藤茂吉ゆかりの地、山形県大石田町をたずねた。上山の金瓶に茂吉生家を訪ねたのは春まだ浅い雪解けの季節であった。その折りに知った大石田での彼の面影を訪ねたかった。
 彼が気に入り何度も登ったという虹ヶ丘山頂には、独特な彼の書になる「最上川の上空にして残れるは いまだうつくしき虹の断片」の歌碑が建ち、眼下には彼が数々の歌に詠んだ最上川の流れが静かに広がっていた。
 茂吉自らが命名し住まいした「聴禽書屋」の居間に座り、彼の晩年を偲んだ。また、その横に併設されている歴史民族資料館には「河畔の夕(ゆうべ)」と題する高嶋祥光画伯の油絵の大作があり、とうとうと流れる最上川河畔にたたずむ晩年の茂吉が描かれていた。絵に見入り、茂吉の心を静かに思った。
 茂吉の大石田移居のきっかけは、芭蕉の歌仙の実見にあったといわれる。近在の茂吉の歌碑の他、芭蕉や子規の句碑に立ち寄り、昔日の秋に思いを巡らせた。(2006.10)

《斎藤茂吉記念館で 2005.3》

ゆとり教育の理念こそ貴重

2007-01-27 | 教育を考える
 身体を壊して高校を退職して丸2年が経つ。今、自分なりに年間テーマを設け試行錯誤を繰り返した当時の日々を思い、もう活用することのない資料の山を整理しながら一抹の寂しさを感じている。

 かつて教職にあった時に書いた文章「創造的教育活動」を読み返した。
 時まさに、幾多の受験体制の弊害を反省から生まれた「ゆとり教育」の始まりの頃で、教職に就いた頃からのキーワードだった「創造性」についてまとめたものだった。

 私の教職時代の大テーマは「創造性の涵養」。退職数年前の大きな関心事は「ゆとり教育」で、その理念の実践こそが私の大テーマに沿うものと考えていた。
 その後、「学力低下はゆとり教育の結果だ」との誤った学力の認識から始まり、昨年設置された教育再生会議でも「ゆとり教育の見直し」が答申された。実に残念なことだ。

 本当の学力とは何なのだろうか。決して知識量ではない。疑問を抱き、主体的にその課題を解決する創造性こそが生きる力につながるはずだ。子どもたちに、受験体制の偽物の勉強ではなく、本当の学力を身に付けさせたいと願っていた。
 人として豊かに生き行く大切な心、情操、感性などを養うには、家庭や社会と学校が共通の認識に立って行う「ゆとり教育」だと、今も信じている。


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「創造的教育活動」                  
 「脳と創造性の謎」(*)を読みながら、左脳と右脳のバランスのとれた働きを考えた。理屈でものを考える、言葉を聞くなどは左脳の、音楽を聞いたりイメージで空想するのは右脳の働きと言う。昨今創造性が強調されるが、それはこれまでの学校教育が左脳偏重人間を育てているという反省でもある。

 時折、窓際から風に揺れる木々の緑をぼんやりと眺め、訪れる小鳥のさえずりを聞く。これは自分なりの右脳の強化訓練だが、鼓膜や網膜を通したこれらのイメージ信号が右脳に潜在するという創造的パワーを引き出すかも知れないと思っている。そしてひらめきや大局を見渡す右脳を養うためせいぜい空想にふけり、芸術を鑑賞し、季節を楽しむなど、感性に響く情報を取り入れようと左脳人間を休むよう心がけている。

 思い返せば30年前、会社勤めを辞め郷里の工業高校の教員になった当時、私は学術的研究を継続しながらの工業技術教育を、と一石二鳥の夢を描いていた。それは教育者であり研究者でありたいと考えたからであったが、当然ながら本分である人間教育に追われる日々に夢はうち砕かれて行った。でも初任の頃企業人の体験から抱いた工業教育現場での課題の一つに「創造性はどうすれば涵養できるか」があった。以来、それは私の工業教育実践のキーワードとなり、いつも時代的危惧を抱きながら細々とふさわしい教材の開発を心がけてきた。

ここでは最近の本校学校改革にあたり実践した創造性涵養教材についてふれてみたい。
 時正に新しい時代の学校改革が叫ばれ、本校でも傍観は許されず、ドラッガーの言う”座して待つでなく、自らの変革を!”と特色あるユニークな新しい高校をめざした。本校では今年度から一括募集、2年次からのコース制がスタートしたが、改革の基本理念を具現する科目として、1学年共通履修の「産業社会と人間」を新設した。ここで、従来の工業教育に欠けていた内容を中心に、”自然・技術・人間”をメインテーマに、知識・技術、創造性、豊かな感性のバランスのとれた、生涯にわたって学び続けることのできる工業技術者の育成をめざした。そしてテキストでありノートであり、レポートでもある学習ノートを編集したが、その中で「創造科学」(①創造性について ②問題解決プロセス ③プロブレム・ソルバー ④望ましい工業技術者 ⑤問題解決の方法 ⑥個人課題研究)を教材化した。学習方法はほとんど体験的課題解決学習により生徒の主体的活動を重視した。

 過去の工業の教育課程改訂のあとを見ると、「目標」等に、・主体的・実践的な態度・創造的能力・環境に配慮などの追記が、「科目」は・総合実習・課題研究・総合的学習の時間などの変遷があった。最近、全国工業高等学校長協会の稲葉理事長は「工業教育のおける創造性の育成」の中で、創造性育成が魅力ある工業高校を作るための必要条件であり、科目「創造工学」の導入を提案している。また経団連は提言「グローバル化時代人材育成について」の中で当面の課題として創造性の涵養をあげている。
 創造的な思考能力や態度はふさわしい教材の工夫・開発と学習方法により育つはずと考える。今回は「問題解決の方法」の中で、BS法KJ法を演習教材として実践した。それは疑問を抱き、問題を提起し分析する、そして効果的な解決を図るプロセスに創造的思考、参画意欲、グループワーク等々の創造性涵養の可能性を期待してとしてのことである。

 これからはこころ豊かに生きてゆくために必要な感性や倫理観などの文化をより重視すべきと考える。そしてあらゆるものに主体的に取り組み、常に自己を啓発する姿勢、創造性を身につけた工業技術者でなければならない。そのためには教師自らが創造性を発揮しなければならず、今後一層広い視野からの創造的教育活動が求められると思う。(【工業教育 vol.37】)

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(*) 「脳と創造性の謎」 品川嘉也著  大和書房

ポイ捨て

2007-01-26 | 日々の生活
 雪が消えかけた路傍に、空き缶やペットボトルが転がっている。タバコの吸い殻、ガムやアメの包み紙もある。いつもがっかりし、やりきれない気持ちで犬と散歩している。  民家の前なので傍観していているが、落ちているゴミも長い間そのままだ。
犬の落とし物もあまりに多い。愛犬の落とし物の始末は当たり前なのに、たれっぱなしで立ち去る行為は、犬にも恥ずかしい。
 誰も見ていないからポイ捨てをするのだろうか。一体マナーとか常識はどうなっているのだろうか。
 人間の本性は悪なのだろうかと思いたくなる。人に迷惑をかけない、「ならぬことはならぬ」も理性で守られているのだろうか。
 物質的に豊かな社会に、ときどき、こころの貧しさを垣間見て悲しい気持ちになる。

あいさつを交わしたい

2007-01-25 | 日々の生活

散歩の道すがら、集団登校途上の子どもたちに「おはよう!」とあいさつしている。
 子どもたちには、地域での健やかな成長を願っての思いで大きな声で呼びかけている。子どもたちも、元気に大きな声であいさつを返してくれる。すがすがしい朝の始まりだ。 中学生にも「お帰り!」というと、「ただいま」「こんにちは」ときちんとあいさつが返ってくる。でもそれは中学生までだろうか。自転車で通り過ぎる高校生は、ましてや知らない人からでは、怪訝な顔をして無言で通り過ぎるのがほとんどだ。

顔見知りの人には「おはようございます」、「寒いですね」と、当然あいさつを交わすが、私は見知らぬ人とすれ違う時にも軽く会釈するようにしている。でもほとんどは反応が無い。他愛もない声かけだが、都会の人混みとは違う。無言で通り過ぎるのはおかしいと思っている。

会津大学の付属図書館

2007-01-23 | 日々の生活
 

 昨年から、利用証を発行してもらい、近くの会津大学の図書館を利用させてもらっている。今日も、車を車検に出して帰路立ち寄った。
 会津大学の附属図書館は、 開かれた大学図書館として地域社会に貢献する情報センターの観点から、図書資料について適切な利用者サービスの提供をしている。
私も、わずかに興味のある専門書を利用していたが、何よりも静かな空間が素晴らしい。館内には「教育」、「情報」、「文学」、「歴史」、「科学技術」から全国各地の地域情報 等々あらゆる領域の、私にとって興味深い雑誌類があり、月に1、2度閲覧している。
 図書館は図書を閲覧利用する場所だが、こころ豊かな空間と時間がなければならないと思う。ゆったりとした時の流れを演出する図書館空間であって欲しいと思っていた。
 書籍に囲まれる図書館でのひとときは、私にとって立ち止まって自分の心を見つめる機会でもある。ときどき、世間の忙しさから逃れたい気持ちで豊かな時間を過ごしている。そんなとき、意外と見えないものが見えてくるから不思議だ。
 でも、充実した心地よい穏やかに流れる時は、すぐに過ぎて行ってしまうものだ。そんなときいつも「時よ止まれ」と思う。
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会津大学の学校案内サイトを見てみた。
「To Advance Knowledge for Humanity」を目標に、カリキュラムを工夫した日本初の専門的なコンピュータ教育・研究機関である。
 会津大学の特色を見ながら、「トップダウン教育」が印象に残った。かつての自分の工業教育を振り返り、応用から基礎への教材を工夫していたことを懐かしく思い出した。
それはまず、最先端の研究成果にまず触れて、より良い成果を得るにはどういう基礎を学べばいいかを考える教育でその精神が好ましいと思った。そして、それらを具現する科目に学生一人一人が1年生から自分のペースで研究テーマを自由に選択する「課外プロジェクト」がある。また、英語教育に力を注いだり、何よりもコンピュータ利用環境は世界のトップレベルだ。実にうらやましい限りだ。
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てっきりなくしたと思った財布

2007-01-22 | 日々の生活
【午前中の顛末】
日曜の昼過ぎに、郡山へ買い物へ行った。帰りに財布を落としてきたようだ。多分ポケットの浅いズボンをはいていたので、駐車場で落としたようだった。
 今朝、孫のブロックを買いに行こうと思い財布を捜したが見つからない。
昨日の帰宅後の行動を思い出し、家中を捜した。車の中にもない。郡山の立ち回った店にも届けがなかったか電話したが、財布は見つからなかった。
  財布の中身は、現金数万円、約15,000円分の商品券と図書券、問題なのがカード類だ。ぱるる、図書館の利用カード、家電やおもちゃ量販店のポイントカードなどだ。
 諦めることにした。それでもと思い郡山警察署に電話で遺失物届けをした。
 これで、いつまでもくよくよしても仕方がないと決心した。自分の不注意だから、誰も恨むことはできないが、何とも悔やまれる。

【ところが、「あった!」】
 明日、来月の車検を前に車をディーラに出す予定だった。少しきれいにして、と思って足下のシートを取ろうとしたその時、まくれたシートの間にもう諦めていた財布があったではないか。「あった!」その時の喜びが忘れられない。嬉しかった。と同時に、これまでのいたらぬ後悔が巡った。

 最近電気のつけ忘れや、水道の蛇口の閉め忘れ、いろいろなものを思い出せないなど、ちょっと心配になるがある。これからは何事もいっそう慎重に行動しようと思った。
 以前20代の頃、免許証入りの財布を落としたことがあった。思えば、ものばかりではない、これまでの人生にも無くしてきたもの、忘れてきたものは沢山あったと思う。そんなときはいつまでもくよくよぜずに、前向きに考えてきただろうか。
 この、間違いなく失敗したと思った貴重な体験を、これからの警鐘にしたいと思った。
 神様が助けてくれた。
 夕方、ハロー、マックで孫にブロック教材を奮発して買ってやった。

残念な「ゆとり教育の見直し」

2007-01-21 | 教育を考える
このほどまとまった教育再生会議の第一次報告書に、「ゆとり教育の見直し」が挙げられた。これはこれからの日本の教育にとって明らかなマイナスだと思う。一部の有識者の集まりが、この国の教育の有り様を決めてしまって良いはずがない。
 受験体制の反省からようやく生まれた、創造性を涵養する豊かな教育の理念と実践が、いわゆる学力低下という誤解と偏見で消されようとしている。残念でならない。
 「こころ豊かな生き方」を求め、「生きる力」を育む明日の教育でなければならないはずなのに、また管理的な、ぎすぎすした詰め込み教育に戻ってしまうような気がしている。そして、教師と生徒の豊かな人間関係を基礎とした、潤いのある教育の場が失われてしまうのではないだろうか。
教師の仕事は創造的なものだ。机上のペーパー学力は、予備校、塾の世界でいい。真の教育は、学校や家庭での、豊かな人格の完成を目指す人間教育でなければならない。


救急車に乗った孫娘

2007-01-20 | 健康
 その日、1月18日は様子が違っていた。朝、勤めに出かけるママから萌香がどうしても離れなかった。これまでないことだった。ママが出かけてまもなく、おばあちゃんに抱かれながら吐いた。検温すると9度3分もあり、病院へ行かせたかったので、ママに早退してきてもらった。近くの医院で診てもらったが、腸炎だろうとのこと、でも解熱剤はもらえなかった。

 夕飯の後、9時過ぎに自宅へ戻ったばかりの娘に電話したがなかなか通じず、ようやく出た電話口からは「おかーさん!、萌香が痙攣しているすぐ来て!」だった。みんなで飛んでいった。抱かれた萌香の黒目が上まぶたに隠れそうになる様子が忘れられない。異常な様子にすぐに救急車を依頼、私は氷点下の外へパジャマ一枚で飛び出した。市道から自宅への入り口が分かりにくいので誘導しようと思った。消防署からは約2キロ、やがてサイレンが聞こえてきたが、救急車はいつまでも見えず、本当に長く感じられた。9時45分ころ、高熱による痙攣だと思われたが、顔面蒼白、息も止まったそうだ。

 救急隊員は、ママから様子や事情を聞いてメモしていた。毛布に包まれた萌香とママは救急車に乗り竹田病院へ向かった。庭の前での車の切り返しがももどかしかった。もう痙攣を起こしてから15分くらい経っていたろうか。早く早くと心の中で叫んでいた。

 高熱は42度もあった。よく高熱で、脳や耳、目などが冒される話を聞いていたので本当に心配だった。何よりも孫がかわいそうだった。できることなら変わってやりたいと思った。生まれてから3年ほとんど毎日見てきた萌香ちゃんが愛おしくてならなかった。

 小1時間ほど経った頃、病院のパパから連絡が入った。「点滴をしている、まだ熱が下がらないが大分落ち着いたようだと。入院になった。」
 翌朝、3時ころ帰ったパパの話から、ジュースを要求したり話の内容も分かったしで一安心した。朝早く、ママからも、熱が下がって大分落ち着いた旨の連絡があった。

 9時過ぎに武琉を連れ、妻と見舞った。小さい腕に点滴が痛々しいが、元気だった。お腹が空いたご飯が食べたいと訴えた。医師の許可が下りた。持参したおにぎりを半分くらい、美味しそうに食べた。ジュースも飲んだ。
5日間くらいの入院と言われたが、今日の回復だと日曜日には退院できるのではないかと思っている。また明日、楽しみにしている武琉と見舞いに行こう。
 この救急車事件によって、孫を思う家族の一人一人の気持ちをあらためて知ることとなった。    (2007.1.19)

県立博物館 くらしの器展を観る

2007-01-19 | 文芸
 ときどき博物館(福島県立博物館)を訪ねている。雪が数か所に山のように積まれていた。穏やかな冬の陽に雪がまぶしい。
 昨年秋から今週末までの展示【歴史・美術テーマ展】「くらしの器-鰊鉢から大皿まで」を見に行った。常設展示の一室に、本郷の「会津本郷焼資料展示室」には及ばないが、こじんまり会津の焼き物が集められていた。

おなじみのニシン鉢、漬物などを入れた切立、素朴な本郷の壺や鉢、貧乏徳利などの日用品である。日用雑器としての本郷焼きを思った。あまり見る機会のなかった染付絵皿は、呉須の青が鮮やかで興味が持てた。

 深閑とした人影のほとんどない館内を、折角の機会なので、原始時代から近世へ、その時代々々の人々の生活のすべてを十分すぎる時間をかけて観て歩いた。
 縄文土器や遺跡、仏像や古文書、そして近世のふるさとの産業等々、それぞれの歴史の中に人びとの精一杯の生活を思った。古墳時代の家族の生活、食事どきの会話はどんなであったろうか。戦争で流した血や涙は何だったのだろうか。
長い歴史の中の一つ一つの事実の前に、足が止まり、時が止まる。これら営々とした時間の流れの延長上に現代文明社会があることを、あらためて思った。
 休憩室の大きな窓から俗世間が垣間見える。雪の竹やぶ越しに、巡り来る感懐を心に止めながら、「人間とは」「人生とは」そんな問を反すうする。 
日々の生活に流され忘れかけていたさわやかな充実感に浸りながら、博物館をあとにした。    

雪の境内を巡り 思い出をたどる

2007-01-18 | エッセイ
              《雪のさざえ堂》

 我家の居間に、何年も前に描いたさざえ堂のスケッチが掛けてある。飯盛山に抱かれる戸ノ口堰洞門と厳島神社境内の心落ち着く風情が好きだ。
 今朝は春の雪のような大きな雪が、ときどきしんしんと降っていた。いつもの散歩コースから少し足を伸ばし、久々に飯盛山の厳島神社にお参りした。
 神社の坂の参道は凍てついた雪道だったが心温まる滑り止めの砂がまかれていた。改めてこぢんまりした静かな雪の境内を巡り、忘れられない趣に浸った。
 かつて白虎隊士がくぐった戸ノ口堰洞門からは、猪苗代湖からの灌漑用水が境内を縫うようにどこまでも清く流れていた。いつか自分も水浴びをした流れの傍らには戸ノ口堰水神社がひっそり立っていた。この雪の中を訪ねた足跡が畔まで続いていた。誰かもこの流れを見つめ、私のように時の流れを思ったであろうか。
 境内にはもう一つのお堂、子育地蔵尊があり、近在の人が詣でて団子さしを納めていたが、この感謝の念がとても尊く思えた。冷たい凍てつく手を合わせ、今年一年の家族の健康と幸せを祈った。

(参)拙ブログ 2006.12.17 「街中散歩 飯盛山」

禍福は糾える縄のごとし

2007-01-16 | 日々の生活
                 《真冬に咲くシバザクラ》

 禍福は糾える縄のごとしである。
 正月早々に、病状の点検で幾種かの検査をしてもらった。
ずいぶん忙しいお正月の始まりだった。検査結果はとりあえず異常はなく、安堵した。

土曜日は大安で、愚息の結納だった。末娘の運転で、新雪の中を郡山へ向かった。先方の娘さんはいわきなので、二人で結納式、結婚式も郡山に設定したようだ。
 今年は雪が少ないし、毎日でも少しづつの降りなので助かっているが、この新雪は二人の新しい門出にふさわしく思えた。
       待ち待ちし二人の門出雪さやか
 7月を予定している結婚式の会場でもあり、会場や式の様子などを案内してもらった。
親族書や婚約指輪を交換して、二家族の幾久しいお付き合いをお願いした。会食も、和やかな思い出に残るひとときとなった。

 一段落した翌日は、暮れからの予約で、妻と恒例の温泉旅行で飯坂へ行った。
 途中、福島市内の福島市古関裕而記念館や県立図書館へ立ち寄り、いつもの感激を持つことができた。
 会津を抜けると中通り地方は雪はほとんどなく、温かい冬の陽ざしが緑の畑に降り注いでいた。今更のように、雪の会津との不公平を思った。
 無理にならないように、すっかり温泉を楽しんだ。翌朝は医王寺を訪ねた。雪の季節は初めてなので楽しみだったが、日陰にうっすら残る程度で朝の寒気もさわやかだった。
 紅い山茶花が満開で、同じ色のシバザクラがいっぱい咲いていた。我が家でも、庭の雪の下ではつぼみが膨らんでいるのだろうか。

昼過ぎに帰宅すると、悪い知らせである。隣のご隠居が亡くなられたのだ。
 おじいちゃんは散歩が日課で、数年前までは小一時間は歩いてきたと思う。ときどき道で世間話を交わしていた。でも、最近は寒いしほとんど家にいたようだ。あまりに突然で、おばあちゃんが気の毒だった。今朝の雪は細かい。悲しみをいっそう強くしているように降りしきっていた。お顔を拝見し、線香を手向けた。今日がお通夜、明日がお葬式で、隣組でお伝いになった。
 
 正月は、元旦、初詣、書き初め、七草、鏡開き、歳の神、団子射しと伝統行事が続いた。
我々はこうした長い歴史と風土の中で生活していることを実感している。
 そして、良いことばかりは続かない。不幸や苦しみの度に立ち止まって生き方を考える。それが人生だ。
 昨日、結納で新しい若い二人を祝福し、今日、ご近所の逝かれた人の教えを思う。
 「禍福は糾える縄のごとし」を痛感している。

コラム
《「日本経済新聞」 春秋(1/16)より》

 きょうは藪入(やぶいり)。年末から年始にかけて、大掃除や掛け取り、初荷、初売りで大忙しの奉公人が、小正月の翌日、16日に暇をもらって生家に帰る昔の正月休みだ。草深い田舎の実家に戻ることから、この名が付いたという。「宿入」が転じたという説もある。

▼公式行事が続く大正月の次には、15日から女性や奉公人が一息つく女正月、小正月を迎える。農村では、月の満ち欠けに基づく農業の事始め、望(もち)正月でもある。今やその実質的な意味は薄れたとはいえ、季節と暮らしを区切る歳事としての存在感は大きい。「成人の日」という形でそれは残ったはずなのに……。

▼3連休づくりのため、成人の日は1月の第2月曜日となり、伝統の歳事と実生活をつなぎ留めていた暦の縛りは、消えかけている。今、憎悪がふくらんだ家族内の惨劇が連日報じられている。暦がいや応なしに運んでくる数々の行事で、人はすれ違った心を癒やし、ささやかな幸せを得てきたのではないか。

▼「女正月つかまり立ちの子を見せに」(中野三允)「やぶ入の寝るやひとりの親の側」(太祇)

▼働き方も、暮らし方も、家庭のあり方さえも時代とともに変わる。変わらないのは、親子、夫婦、兄弟のきずなが、成功や資産よりも、平凡な時と歳事の積み重ねに依拠していることだろう。


街中散歩 郡長正の墓

2007-01-12 | 街中散歩
 先日、ドラマ「白虎隊」を見て郡長正を思い出し、思い立って萱野親子の墓を東山の天寧寺に訪ねた。
 郡長正の名を知る人は、会津人以外では非常に少ないと思う。
 郡長正(安政3年~明治4年(1856~1871))は、戊辰戦争で会津藩の言われなき逆賊の汚名を一身に背負った家老・萱野権兵衛の次男である。
(会津若松市「ゆかりの人物」参)
『明治のはじめ豊津小笠原藩(福岡県)に留学した。ある日郷愁を覚えた長正は母の手紙に食べ物が口に合わないと書いた。後母より届いた戒めの手紙を落としてしまい、拾った小笠原藩士の子弟に大衆の面前でののしられた。長正は会津武士の屈辱をはらそうと藩対抗剣道大会で完勝、その後切腹して果てた。時に16歳の若さだった。』

 あのことがなければ、彼は、どれだけ会津のために、日本のために大きな仕事をしたであろうかと思う。どんな思いで先立ったのだろうか、無念でならない。今の時代には考えられない彼の心の動きを思うと、切なく憐憫の情を禁じ得ない。


山道を行くと、途中の分かれ道、左へ行くと新撰組の近藤勇のお墓、右へ上ると萱野権兵衛、郡長正親子の墓と案内表示がある。




 左への道は、最近何人かが訪れた踏み固まった雪道だったが、右の道は真っ白で、山の中腹にあるお墓までの雪道には兎の足跡だけが続いていた。所々に丸い薄い黄色の糞が、一定間隔でかわいらしく落ちていた。誰も踏み入れない少し締まった雪道を気をつけながら踏み締めて歩いた。

 
 眼下のこんもりした林の中から雪をかぶったお城の天守閣が見えた。
 墓石には「郡長正乃墓」、裏に回ると戒名は「清心院殿覚道実性居士」とあった。萱野親子はここに眠り、会津の街を見下ろしているのだ。


自分の気持ちの整理がつき、さわやかな気持ちで雪の坂道を下った。
 私はいつも、「こうした幾多の先人がいて、今の会津がある」という認識をしている。