エッセイ  - 麗しの磐梯 -

「心豊かな日々」をテーマに、エッセイやスケッチを楽しみ、こころ穏やかに生活したい。

静かな時の流れを求めて

2008-02-28 | 日々の生活
              【気づけば夕闇迫る】



明日で平成20年2月も終わる。月日の流れの何と速いことか。
何か辛いとき、沈みがちなとき、一人になりたくて図書館へ行ことがある。
今日も夕方、思い立って大学図書館へ行った。

 図書館の大きな全面ガラス張りの窓越しに、雪をかぶった植え込みが見える。今日もチラチラ雪が舞っていた。同じ庭を、何度同じこころで眺めたことか。ぼんやりと目に映る自然に目をやりこころを見つめる。そんな時間がとても有難かった。
 いつもこんな生活ではいけないと思うとき、一人になり気持ちを整理してみる。

 指定席のようにソファーに座り、何冊かの本をみる。書籍に目を通し、ときどき広い窓越しに小さい雪の庭を眺める。そんなひとときがあまりに貴い。

 今日も、目に映る文字、写真から、いろいろな思いを巡らすことができた。
 約2時間、気づけば表は夕闇が迫り、硝子窓に部屋の照明が明るく映っていた。

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 文藝春秋3月号〈読書メモ〉
○ 書道家・武田双雲は言う。「感謝 感性 感動」この態度を志すことこそ、人類の普遍的な価値を示す日本人のスピリットだと。
○ 歌人・岡野弘彦のエッセイ「父子墓と没後の門人」にこころ動かされた。
 同居していた愛弟子、能登出身の藤井春洋は太平洋戦争の末期に応召して金沢で入隊したが、この時覚悟のあった折口は急いで春洋の養子縁組の届けを出した。
 春洋の部隊は硫黄島に送られ、洞窟の中で全滅し、春洋は還ってこなかった。
折口信夫の子を思う歌
 「きさらぎの はつかの空の 月ふかし また生きて子はたたかふらむか 」
折口は春洋の故郷の能登一ノ宮に父子の墓を建た。その碑文に
「もっとも苦しき たたかひに 最もくるしみ 死にたる
むかしの陸軍中尉 折口春洋 ならびにその 父信夫の墓」 とある。
○ 芥川賞受賞作、川上未映子の「乳と卵」 少し読みかじったが、好みでない。選評は各人各様だったが、石原慎太郎に共感?、読むのを止めた。

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1年ぶりの飯坂温泉

2008-02-26 | 旅行
          【フロントのスケッチ】

  昨日の夕方、妻と1年ぶりの飯坂温泉へ向かった。午前中世話をした萌香ちゃんを、勤めから戻った娘にバトンタッチ。今日は、武琉君の幼稚園保育参観で、ママは勤めを休み萌香ちゃんも連れて行くことになっていた。数少ない旅行のチャンスだった。

 飯坂温泉には、毎年何回か泊まりに行くが、昨年は、1月に泊まったあとは、具合が悪く入退院を繰り返して行けなかった。

旅館に着くと、いつか顔見知りになった受付の方に、しばらくですと挨拶を受けた。フロントには、大分前に差し上げた私のスケッチ「冬の磐梯」が2つ並んで飾られていた。粗末にされていないで良かった。
 早速、温泉に浸かった。風呂場の大きな窓からは、雪がうっすらと斑に残る庭が見える。手前の、まだ枯れたままの芝がいくらか黄緑に見え浅い春を感じさせた。
 何度かの積雪を支えたモミジの雪吊りが、冬の名残を見せていた。福島はほとんど雪が無く驚いた。まだまだ雪がどっさり残っているわが家の庭を思った。一羽のツグミがすぐそこに舞い降り、何かをついばんで飛び去った。
透明な熱い温泉に浸かり、しばらく湯船の泡を見つめた。「よどみに浮かぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたる例なし。」方丈記の一節をつぶやいた。
2月もほどなく終わる。

旅館の宿泊客は月曜日のせいか少なかった。夕食会場の座敷のお膳は約20名と言ったところか。お酒は大きなぐい呑みに「国権の大吟醸」を2ついただいた。ゆっくりとご馳走を美味しく頂いた。何でも美味しくいただけるまでに、健康を取り戻せた幸せがありがたくてならなかった。
 たまには、いつも賑やかな孫の世話で一時も自分の時間が持てない妻にのんびりして欲しかった。最近、そんな思いが募っていた。
 のんびりとくつろぐことが出来た。また、六十肩?か、しばらく右の肩が上がらなかった妻にはいいお湯だったようだ。でも、孫がいなければいないで、いろいろ心配になるものだ。もうご飯は食べたろうか、もう寝ただろうかと・・・。

帰りは、米沢廻りで昼は喜多方ラーメンと計画していたが、栗子峠、大峠の雪道を考えると止めて、早めに帰宅した。
 飯坂線の飯坂温泉駅に寄って、久しぶりに芭蕉の像に会って来た。

昨日夕方に家を出て、午前中に帰宅。高速道で往復、ほんの一瞬の一泊温泉旅行ではあったが、十分くつろぎのときであった。今年は健康に気をつけて、ときどき泊まりに来たいと思っている。


【飯坂駅前の芭蕉の像】
「おくのほそ道」に「温泉あれば湯に入て宿をかるに」と書かれた。


【日本初のラジウム温泉発見の記念碑】 

「感動のテレビ鑑賞」

2008-02-25 | 文芸
                 【吹雪の日曜日】

  昨夜来の吹雪が断続的に続いた。今日は炬燵に当たり、厳寒の吹雪を眺めながらのテレビ鑑賞となった。はからずも、午後3時過ぎから5時半まで、感動の2本立てだった。
(2008.2.24 (日))

○「“きつね”になった少年~新美南吉・童話の世界~ 」

「北の賢治、南の満吉」と言われた、あの有名な「こんぎつね」の作者、童謡作家・新美南吉の半生と作品の紹介。「でんでん虫の悲しみ」と「きつね」などの作品が朗読された。 幼いころに亡くなった母への思いを、狐の親子に託した「きつね」など、どの作品も、悲しいものであった。
孤独な生い立ち、あまりに悲しい生涯であったと思う。 病気で29才の若さで死ななければならなかった南吉の悲しみが辛くてならない。
 子どもたちの豊かなこころを育む児童文学について、少し考えてみたいと思った。
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 〈NHK番組紹介より〉
童話『ごんぎつね』で知られる愛知県半田市出身の作家・新美南吉(1913~1943)を特集します。30年に満たない波乱の人生を駆け抜けた南吉。死の直前に書いた『狐(きつね)』という隠れた名作を紹介し、南吉の作品と生涯に新たな光を当てます。
朗読は、女優の浅野温子さん。日本神話の語り舞台をライフワークとする浅野さんが、半田市の南吉が育った民家で語りに挑みました。
『狐(きつね)』は、夜道で「コン」と咳をした一人の少年が、「“きつね”がついた」と噂され、不安に脅えながらも、最後には母親の優しさに救われるという物語です。幼い頃に母親を亡くし、「親子の絆」を生涯のテーマにした南吉にとっては、集大成となる作品です。また、“きつね”は、18歳の時に書いた『ごんぎつね』以来、南吉童話に繰り返し登場するキャラクターで、少年の心を描き続けた南吉の分身でもありました。
秋、南吉のふるさと半田の矢勝川の堤は、2キロにわたって200万本の真っ赤な彼岸花で埋め尽くされ、童話さながらの世界が広がります。美しい秋の風景とともに新美南吉の童話の世界に誘います。

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○「この世界に 僕たちが生きてること」(プレミアム10 再放送)

辛い病状にあり、自分の病気と生きることの意味を考える彼の心が痛いほどわかった。一時は、「もういい」と思ったことなど、自分自身の病魔に冒されていたころの心と重なり、切なく涙が止まらなかった。日々の肉体的な苦しさ、精神的な辛さを、笑顔の絶えない家庭が支えていた。家族に支えられて、彼が追求する幸せを思った。番組を見終わって、しばらく放心状態であった。そして、生きていることの意味を自分自身に問い直した。

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〈NHK番組紹介より〉
 愛知県・旧下山村(現 豊田市)の山あいの静かな地区に、家族が営む素敵なカフェ「ときどき館」がある。そこには双子の画家が描いた美しい絵が飾られている。
 河合正嗣(まさし)さん、範章(のりあき)さん。難病、筋ジストロフィーとともに生きてきたが、弟、範章さんは、すばらしい油絵を描き上げた直後に、眠るように息をひきとった。23歳だった。同じように病気が進行していた兄、正嗣さんは、声を失うかわりに気管切開手術を選択し、一日でも長く、絵を描き続ける道を選んだ。
 そうして正嗣さんが描き始めたのが「ほほ笑み」の絵だ。手術をした病院でモデルを募集、命を支えてくれた医師や看護師、そして入院している患者たちの笑顔を、一人一人時間をかけて丹念に描いていく。目標は、110人。「1(ひと)10(と)人(ひと)」、人と人がつながる、という意味をこめる。
 たとえ世界がどんなに絶望や苦しみに満ちていても、それでも人は「ほほ笑む」ことができ、人生は生きるに値する。
 そんな「ほほ笑み」を求めて、鉛筆の繊細な線で画用紙に優しい笑顔を浮かび上がらせてゆく。

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 思い出した昔

2008-02-24 | 日々の生活
          【雪下ろしのお手伝い】

 最近、眼が見えにくくなり困っている。近くは眼鏡をはずさないと見えない。本や新聞は、メガネを額の上にずらして裸眼で読んでいる。数年前に遠近両用のメガネをあつらえたが、上手く使えなかった。度も強すぎたようで、以前のものをそのまま使っうことになってしまった。
 もともと目は良かった。父も母も眼鏡はかけていなかったし、社会に出るまで視力は1.5、かなり自信があった。自分の近眼も生活習慣から来たものだと思っている。
 眼鏡をかけるようになったのは、会社勤めを始めたころだ。会社では月一回研究報告会があり、暗い部屋でOHPでのスクリーンがよく見えないことに気付き、急に視力の衰えを感じた。そのころは、今のようにメガネの量販店などはなく、日本橋の高島屋のメガネコーナーで初めてあつらえた。黒縁の眼鏡だった。

あれから40年近くになる。いろいろ考えていたら、会社の研究室の皆さんの顔が浮かんできた。室長だったAさん、直属の上司Mさん、Muさん、同期で入社したTさん、みんなどうしているだろうか。
 会社勤めをした年の秋に結婚して、会社の裏の借家で新婚生活が始まった。
近くには、たしか「橘銀座」という、それはそれは賑やかな商店街があった。珍しい賑やかさが好きで良く買い物に行ったものだ。大学のゼミで一緒だった後輩のH君やK君が、わざわざたずねてきたこともあた。「神田川」を地でいく風呂屋通いも懐かしい思い出だ。時間を待ち合わせ出てきた風呂屋の前でかき氷を食べた覚えがある。東京亀戸での思い出の一コマだ。

突然40年も前の、会社勤めをしていたころが思い出された。
 今まで開けることの無かった思い出の引き出し、これから頻繁に覗くことになりそうだ。そんな歳まわりになったのだろう。

今を生きる (その2)

2008-02-22 | 文芸
    【春らしいデンドロビウム  息子の嫁への誕生プレゼント】

 一日一日、瞬間、瞬間のときが流れていく。
 道元が「今を大切に」と言う、「生も一時のくらいなり、死も一時のくらいなり。たとへば、冬と春とのごとし。冬の春となるとおもはず、春の冬とはいはぬなり。」 に、いろいろ思い巡らしたばかりである。【拙ブログ「今を生きる」(2/19)】

 今朝、「徒然草」を読んでいたら、春、夏の文章に出くわした。
 徒然草155段で、四季の変化を例に、死の到来のすみやかさを言っている。

春暮れて後、夏になり、夏はてて秋の來るにはあらず。春はやがて夏の氣をもよほし、夏より既に秋はかよひ、秋は則ち寒くなり、十月は小春の天氣、草も青くなり、梅もつぼみぬ。木の葉の落つるも、まづ落ちてめぐむにはあらず、下よりきざしつはるに堪へずして、落つるなり。迎ふる氣、下にまうけたる故に、待ち取るついで、甚だ速し。
 生老病死の移り來る事、又是に過ぎたり。四季はなほ定まれるついであり。死期はついでを待たず。死は前よりしも來らず。かねて後に迫れり。人皆死ある事を知りて、待つことしかも急ならざるに、覺えずして來る。沖の干瀉遙なれども、磯より潮の滿つるが如し。

 生老病死の移ってくることは、 人は誰でも死が来ることを知っていながら、自分の死についてそんなにも切実でないため、不意にやってくるのだ。これは、道元の「今ここに」に通じるこころだと思う。九死に一生を得た我が身であれば、今を大切に生きなければならないと痛感する。

 またさらに、兼好は徒然草93段の「牛を売る者あり・・・」で、
 「されば、人、死を憎まば、生を愛すべし。存命の喜び、日々に楽しまざらんや。」と書く。
 
 今生きていることの喜びを日々新たにしたいものだ。
 


「大観静思」

2008-02-21 | 文芸
 
  【 磐梯 夕景  (2階の窓から)】


  今週の月、火(2/19,20) 午前4時からのラジオ〈こころの時代〉で 「但馬國・出石静思塾」を聴いた。 出石の街並み保存や活性化い取り組んできた、出石観光協会顧問の上坂卓雄氏のはなしだった。
但馬、城崎、天橋立などの地名が出てくるが、「いずし」と聞こえる町がどこにあるのか分からなかった。聞き終わって地図を拡げてみたら豊岡盆地の山ぎわに「出石」いう地名を見つけた。近くに若狭湾があり、山陰海岸の文化圏なのだろう。
 出石のこれまでの発展の基礎は、故・草柳大蔵氏から始まっていた。久しぶりに聞いた名前で、テレビでの穏やかな笑顔で語る姿が思い起こされた。7年前に亡くなられたと聞いた。草柳大蔵氏の著書「斎藤隆夫かく戦えり」とのつながりからだそうだ。話は但馬出石(いずし)出身の「斎藤隆夫記念館(静思堂)」建設の経緯から始まった。

 「静思堂」を名付けた 故・草柳大蔵氏の造語らしいが、「大観静思」と言う言葉がすがすがしく感じられた。自分も「静かにいろいろに思い巡をらすこと」を心がけたいと思った。 そして、出石をふるさととする、政治家・斎藤隆夫、文芸評論家・小林秀雄や洋画家・伊藤清永、建築家・宮脇檀、そして講演で訪ねた水上勉など、それぞれの人の縁、つながりの不思議をつくづく考えさせられた。
 また、今回、気骨の政治家・斎藤隆夫について知ることが出来た収穫は大きかった。2・26事件当時の軍部の独裁を批判し、衆議院議員を除名された気骨ある政治家である。その「粛軍演説」、「反軍演説」の原稿を読み、堂々とした命がけの演説にこころから感動を覚えた。

普通は5時起きだが、4時から放送されるラジオ深夜便の「こころの時代」は良く聴いている。関心あるものはなるべく聴く様にしている。ここから、沢山のことを学び、生き方を教えてもらうことが多いからだ。



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(ラジオゼンターオンライン 「ラジオ深夜便番組表」より)
 出石(現・兵庫県豊岡市)を訪れた評論家の故・草柳大蔵を案内した上坂さんは、大観静思(大きく観て静かに考える生き方)を説く草柳に感銘を受けた。その後、草柳を囲む勉強会・静思塾を立ち上げ、出石の町並み保存などに尽力してきた。上坂さんが、草柳との出会いや地域の活性化などについて語る。
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いい曲に出会いたい

2008-02-20 | 日々の生活
 
 夕食後くつろいでいると、ピアノが聞こえてきた。実に久しぶりだ。
 心地よいメロディは何という曲かと娘に聞くと、「ハナミズキ」だという。
 ヒトトヨウが歌っているという。早速、ネットで検索してみた。ヒトトヨウとキーボードをたたくと、漢字変換で「一青窈」とちゃんと出てくるではないか。
 なにしろロートル、最近の流行の音楽はほとんど聴かないので、ましてや歌手など知るはずもない。思い浮かぶのは、歌謡曲の美空ひばり、五木ひろしや島倉千代子、石川さゆり、南こうせつ、松山千春、小椋佳、あとは、さだまさし、谷村新司・・・などか。
 どうも最近の若い者の曲は、姿格好からか初めから毛嫌いしていて、聴く気になれずにいた。
 もちろんZARDも知らなかった。この間、部屋を片づけていたら息子が聴いていたらしいZARDのCDが4枚も出てきた。聴いてみたら、軽快な調べで歌う坂井泉水の澄んだ歌声や良くわかる歌詞、どれもとてもいい曲だった。
子どもたちの残した大量にあるCDを1枚1枚聴いてみたいと思っている。そして、こころ和む曲を見つけてみようと思っている。


「今を生きる」

2008-02-19 | 日々の生活


【麗しの磐梯  赤井より】

   いつか、東京丸の内に相田みつを美術館を訪ねたとき、すり減る程に読まれた彼の愛読書、道元の「正法眼蔵」の文庫本が展示されていた。そのとき彼の作品に禅の思想を垣間見て納得したことを覚えている。
丁度、私自身大病を乗り越え、死の淵から生かされたときで、それまでの人生観が一変し、「今を生きる」という道元の教えに出会ったころであった。
 それ以降、難解な道元を理解しようと思い、いろいろな解説の参考書などを読みあさった。

 今日は久しぶりに春の気配を感じさせる天気、庭の銀世界に春の陽ざしが降り注ぎ、最高気温も3℃まで昇り、穏やかな日であった。今日は暦の上では「雨水」と言うらしい。しばし、縁側の大きな窓を開け、孫と遊びながら静かな庭を見つめた。

  冬から春へと巡る季節は、実は春、夏、秋、冬の連続したものではなく、その一瞬一瞬の空間、時間はそれぞれが、冬は冬、春は春と独立しているのだという。
 道元の「正法眼蔵」には、〈現成公案〉に「前後際断」の思想が書かれている。
 中野孝次の勧めで、私もときどき〈現成公案〉の一節を声を出して読んでいる。
「生も一時のくらいなり、死も一時のくらいなり。たとへば、冬と春とのごとし。冬の春となるとおもはず、春の冬とはいはぬなり。」
 冬が去り春が来ると言うより、冬は冬、春は春であって、同じように生は生で完結していて、死は死で完結している。生が死に移ると考えるのは誤りで、生のときは生しかなく、死のときには死しかない。前も後ろも、因も果も、過去も未来も、遠も近も、全部の関係を断ち切った「今ここに」と言う時だけがある。過ぎ去った過去はすでに無く、未来はまだいていない。今という時だけが続いていく。
何度も繰り返していると、何か少し分かったような気持ちになってきた。そして、目の前にある美しい自然の「今」を愛でながら生活していこうと思うようになった。

 「今ここに」と言う、瞬間、瞬間を受け入れながら日々を過ごしていきたいと思っている。
 

 

雪の季節の蕎麦と温泉

2008-02-18 | 旅行
          【小野川温泉 尼湯】

      
 日曜日、久々に孫に開放され、いつものコース「蕎麦と温泉」を楽しむドライブに出た。冬期間はあまり行かなかったが、雪の米沢の様子も見てみたかった。
 春の日差しに恵まれ、多少の春の気配を感じながら雪道を走った。

 喜多方の熊倉にさしかかったときk先生にばったり出会った。懐かしい限りであった。車を止めしばらく話した。勧められて、先生宅へ少し寄ることにした。趣味で飼っている観賞用の錦鯉を見せて頂いた。そういえば、在職中に水質について相談を受けたことがあったことを思い出した。
 養魚池はかなり広く、水深は2メータくらい、色や模様の違った錦鯉が、水温のせいだろうか、とてもゆったりと泳いでいた。
 懐かしい話をし、またの再会を願い辞去した。数分の時間のずれがあれば会うこともなかったであろう偶然の再会を思った。

 大峠にさしかかるカーブでパトカーが片側の通行規制をしていた。なんと大型のトラックが反対車線の山ぎわの雪につっこんでいるではないか。下りのカーブでスリップしたのだろう。もう少し通過が早かったら、事故に巻き込まれたかも知れなかったと思い、k先生との偶然の出会いが、なぜか幸いしたように思われた。
 アイスバーンの雪道を運転に注意しながら大峠を越えた。山形県に入ると一段と雪は深く、道の駅「田沢」なごみの郷はすっぽり雪に埋もれていた。

いつものように、妻は「もりそば」、私は2段重ねの大盛りを註文した。ここの蕎麦はとても美味しく、わざわざ遠くからでも訪ねたい、ときどき食べたくなる蕎麦である。食堂には正月の大きな「団子刺し」が飾られ、賑やかに春を思わせてくれた。


 ゆっくり蕎麦を味わって米沢へ下り小野川温泉を目指した。いつしか雪が舞い始めた。
 国道から逸れると、道は狭くなり、雪はいっそう高く積もっていた。途中、雪下ろしをしている家を何軒も見かけた。さすがにすごい。秋の雪囲いの周到な準備もうなずけるほどの積雪だと思った。
 目的地の小野川温泉「尼湯」はすっぽり雪に埋まっていた。お腹のカテーテルの穴がふさがって初めて、ゆっくり浸かる温泉は実にうれしかった。
小野川温泉はとても熱い。でも、熱いからといって水でうめたりすると客に怒られることがあった。きれいな透明なお湯にゆっくり浸かり、身も心も洗濯することが出来た。おっくうがらずに、また春までにもう一度行きたいと思っている。


始まったハクチョウの北帰行

2008-02-17 | 自然観察
【猪苗代湖 笹山】


【冷たい風に向かって勢揃いするコハクチョウ】


昨日の信濃毎日新聞の「今日の一枚」タイトルは「コハクチョウの北帰行始まる 安曇野」だ。

安曇野市田沢の犀川には白鳥湖という湖があるそうだ。夏の広い犀川の河原へは何度か行ったことがあるが、アルプスを背にハクチョウの季節もいいものだろうと想像した。コハクチョウの北帰行は、例年こんなに早かったろうか。もうそんなに早く帰ってしまうのかと思いつつ、急に白鳥に会いたくなった。

 大雪注意報がでているが、朝、雲に隠れていた磐梯山も昼近くになり晴れてきた。思い立てば、すぐに別世界が広がる幸せを思っている。猪苗代湖まで約10分、ときどき地吹雪の雪道を笹山の浜へ直行した。



手袋を忘れてしまった。零下5度、北からの厳しい風がでシャターを切る手は数分でかじかみ、感覚がなくなってしまった。しばらくこんな経験はなかった。
厳寒の湖畔に30分ほどいたが、山頂付近に雲がかかっり、瞬く間に視界がなってしまった。これから積もりそうな予感がした。
いつも水鳥たちとの別れはせつない。まだ全部が飛び立つまでには間がある。もう何度かは愛おしい水鳥たちに会いに行きたいと思っている。


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愛おしい水鳥たち   (2004/3.4福島民報)
 
猪苗代湖の崎川浜に水鳥を訪ねた。しばらくぶりだったが、大自然のすべてが昔のままだった。遙かに真白な磐梯はどこまでも麗しく、対岸の雪の山並みが紺碧の湖水に低く浮かんでいた。
 神々しく聳える磐梯を背に、数羽の白鳥が湖水に舞い降りた。湖水、水辺、雪の原に数百羽のオナガガモが鳴き交い、つぶらな瞳で何かを訴えるように私を見つめた。寒気に包まれる冬の使者たちを見つめながら、愛しく切ない感動がこみ上げてきた。なぜにこんなにもこころ動かされるのだろうか。
 どう生きたらよいか訪ねる私に、大自然は答え癒してくれるようだった。水鳥たちが何の邪心もない純粋な清らかなこころで、一人たたずむ私を励ましてくれるように思えた。
厳しい寒さももう少しだ。ほどなく北へ帰る白鳥たちの叫びがいっそういとおしく厳寒の静寂に響いた。いつまでもなごりが惜しく、再会を願い湖水をあとにした。

ひな人形の思い出

2008-02-16 | 文芸
             【明治時代の雛飾り】

 先日、お城のそばのレストハウス鶴ヶ城会館に寄ってみたら、県内各地から集められたひな人形が飾ってあった。明治時代から現代まで、時代毎に並べられた雛飾りを、比較して眺めてきた。ひな祭りは古くは平安時代中期ころが起源らしいが、その後時代により、地方によりいろいろな変遷の歴史があったことだろう。
 ひな人形で思い出すことがいつくかある。いつか会州一酒造で見せて頂いた素晴らしい段飾り、新潟村上の町屋での各家の雛飾り巡ったこと*、東京三井記念美術館での「三井家のおひなさま展」などである。

 ひな祭りというと、淡雪、紅いもうせん、雛あられなど、早春のすがすがしいさわやかな春の陽が浮かんでくる。こころ和む素晴らしい文化である。
 今年も、あちらこちらで工夫して展示してくれるひな人形を鑑賞しながら、子どもたちの健やかな成長を願いたいと思っている。



(*) エッセイ「村上の町屋を巡る」(2004.3)

  先日、藤沢周平の世界を見たい思いで東北の日本海沿岸を旅した。途中、新発田から村上へ、知らない街の古を訪ねに瀬波温泉に宿を取った。
 久々に見る冬から春への大海原、永遠に寄せては返す白い波に海鳥が舞っていた。大病した後の療養の身、窓越しの静かな大海原との対話にしばしこころ癒された。
 翌朝は冷たい雨の中を城下町村上の十数軒の町屋を巡った。お茶、菓子、陶器、染物、漆器、酒店と、いろいろな店に昔の町屋の暮らしの一端を見ることができた。無くなってしまうものを今のうちにとの思いに駆られた見学であった。春は「町屋の人形さま巡り」が行われていて、各店が所蔵する江戸時代から今に至るいろいろな人形が展示されていた。町屋の伝統建築と共に失われつつある大切なものが継承されていく様を見ることができ嬉しかった。「屏風まつり」がある秋の季節にもう一度町屋を訪ねたいと思っている。


モクレンの雪の花

2008-02-15 | 自然観察
           【春を待つモクレン】

 春近し小さな蕾に雪の花

 しばらく冬型の気圧配置が続いていて毎日寒い。昨日から時折吹雪、磐越道が吹雪で通行止めのニュースを聞いた。この冬1番の寒気団が南下して、今朝もときどき吹雪だ。

庭の木々も、北から吹き付ける雪が片側にくっついている。
 小降りになった庭に出てあちこち春を探したが、この吹雪では見つからない。でも、木々にかかる雪は、しばらくのいのちだがとても美しく、何となく春近しを感じさせた。
 モクレンの小さな蕾に雪がきれいに咲いていた。

〈ジンチョウゲ〉


〈ツバキ〉
 

 写真を撮っていたらシメが数羽飛来、しばらく遊んでいった。頭は冬羽なのか灰色だ。頑丈でずんぐりした身体に太いピンクのくちばし、目の廻りの黒い線が鋭い目つきを感じさせた。

〈シメ〉


 もうしばらく、名のみの庭の景色を楽しみたい。
 (2008.2.14)

「温もりのある社会システムを」

2008-02-14 | 日々の生活

僧侶・玄侑宗久氏の日曜論説「新しい郵便局にお願い」(福島民報 2月10日付け)を読んだ。
 いつも氏の人間らしくやさしい論調に敬意を覚えていた。この記事もきわめて常識的な「おかしな社会」の批評であり、なによりも、雲の上の人が我々と同じ感情であったかと安心した。
 実は、私も先月同じような不愉快な思いをした。某信用金庫で、家の普請にかかった費用を送金しようとしたら、本人確認がなければ出来ないという。たまたま退院直後で、娘の車に乗せてもらったので免許証はなかった。財布には公共図書館の利用カードや銀行のキャッシュカードはあったが、これらで自分を証明することは出来ないという。
 しばらくおかしい旨訴えたが、決まりだからと言われ、渋々諦めて後日出直すことにした。ちっぽけな自分を証明することが如何に面倒なことかを知らされる事件だった。
 最近、何か冷たい世の中を感じている。新しいシステムも、もっと社会生活の温もりを大切にするものでなければならないと思った。
 


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日曜論説「新しい郵便局にお願い」(福島民報 2月10日付け)

 またしても、郵便局で嫌な思いをしてしまった。承知はしているのについ忘れてしまい、よく知っている職員に、自分を証明する免許証か保険証の提示を求められ、私は俄(にわか)に湧き起こる不快感を抑えることができなかった。
 昨年1月からそういうシステムになったことは知っているのだから、忘れずに免許証を持参すればいいのだが、歩いていったし、つい忘れてしまうのだ。あの人が、そんな莫迦(ばか)なことをまた言うはずがないという思い込みがどこかにある。きっとそのせいで、何度も無防備に出かけ、何度も嫌な思いをするのだろう。
 10万円以上を送金する場合、本人確認が必須だという。それならあなたは私のことを知っているでしょうと思う。窓口にいる人は私も以前からよく知っている人である。ところが現在のシステムはその人間関係を信用しようとしない。ではいったい何を信用するのか。人間ではなく、文字情報である。それは職員の記憶や認知力どころか、その人がそこに生きていることすら無視するシステムと云えるだろう。
 要するに、職員も客も信用しない。あからさまにそのように主張しているのが、現在の送金システムではないだろうか。銀行の場合も同じ規制のもとにあるわけだが、支店長に許された裁量権はもっと大きい。10万円以上には自己責任さえもてないのが現在の郵便局長なのである。
 どうしてこんな手続きが必要になったのかと、以前職員に訊(き)いたことがある。すると「オレオレ詐欺」の防止のため、という答えが返ってきた。ほかに、マネーロンダリング対策、テロ資金対策のための国際的な取り組みという触れ込みで始まった制度だ。しかし私がそのとき振り込もうとした相手は禅文化研究所だった。檀家さんに配ったカレンダーの代金を送付しようとしていたのである。3つのどれにも該当しないことは、小学生にでも分かるではないか。
 しかもそのときの請求書にはお寺の名前だけが書かれていた。すると、宗教法人の登記簿謄本を持って八十余歳の住職が自分で来るか、その自筆の委任状が必要だという。むろん委任された私の免許証も必要だ。
 これほど無慈悲で厄介なやり方で、誰か喜ぶ人はいるのだろうか。オレオレ詐欺にもマネーロンダリングにも、テロにも関係しない庶民が、どうしてこれほど迷惑を蒙(こうむ)らなくてはならないのだろう。
 なにも個々の職員が憎いわけじゃないが、このシステムが続くなら、窓口に生身の人間がいる必要はない。むしろ精巧な機械でも並べ、指紋や眼の光彩で識別してもらったほうがずっと楽なはずである。
 なにごとも全国一律に、というやり方は今の日本の大いなる病弊だが、こと郵便局の送金システムについては厳重な抗議を申し入れたい。
 田舎に住む我々は、むろんそこが故郷であったりする事情はあるものの、顔見知りが多く、人間の距離も近い状況を肯定的に捉えつつ田舎に暮らしている。つまり、そのことの煩わしさはあるが、楽しみのほうが勝ると考えているのである。
 しかし、顔見知りであることが何のメリットも生みださないばかりか、顔見知りに他人のように振る舞われる今のシステムは、人間関係を歪めるばかりか、田舎暮らしの根底を揺るがす罪深いやり方ではないか。
 利用者も、職員も、まっとうな常識がある人々はみな困り果てている。家族が亡くなったときすぐに融通をつけてくれた昔の郵便局などもう望みはしないが、せめて民営化したのだから民の立場で、このシステムだけでもなんとかしていただけないものだろうか。
(玄侑宗久 僧侶・作家、三春町在住)
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無心に遊ぶ孫

2008-02-13 | 日々の生活
 

 午前中は久々の快晴、すがすがしい春の陽が暖かかった。
我が家は無落雪の屋根で、このところの寒さで2階の軒から40~50センチほど雪がせり出していた。下は5,6センチほど厚い氷だったが、気温も5度ほどまで上がったようで、日中ドスンと大きな音を立て屋根から落ちた。

夜の間に積もった新雪を片づけ、孫たちと造った庭のゲレンデで遊んだ。武琉君は幼稚園3連休、春の穏やかさ一杯の雪の庭で妹と一緒に本当によく遊んだ。

【苦労してできたかまくらに満足】
 武琉君はしばらく放っておいた小さなかまくらを直し、萌香ちゃんはおばちゃんとソリで遊んだ。大分長い時間遊んで、今度は家に入りミニカーで遊んだ。

何の憂いもなく無心で遊ぶ孫たちを見つめた。この無心なこころが羨ましく尊く思われ、願わくばこのまま小さいままでいて欲しいと思った。いずれ社会の荒波に出て行かなければならないことが辛い。

 廊下の大きい窓を開け放ち、陽のあたる縁側でお茶を飲んだ。雪解けの雨だれがひたひたと落ちていた。こんなささやかな幸せがいつまで続くだろうか。止まって欲しいときを思った。
(2008.2.11)

雪の中の 啄木歌碑

2008-02-12 | 街中散歩


雪に埋もれし啄木の文字に手をやる

 

 啄木の年譜を見ながら、高田の法用寺にある歌碑を思い出した。
 啄木は明治44年(22才)、小樽日報記者として活躍中に、社の内紛に関して、事務長小林寅吉と争い暴力をふるわれ退社した。実は、小林寅吉は会津高田町の出身で、晩年この法用寺の住職を務めた。そんな関係から、啄木生誕100年を記念して会津啄木会が啄木の歌碑を建てたのだ。

夕方、思い立って車を走らせ歌碑を見に行った。
三重の塔が雪の中にひっそり佇んでいた。傍らにあるはずの啄木の歌碑はこんもりと、かなりの雪に埋もれていた。雪の中を膝まで埋もれながら碑の近くまで踏み入り、ねらいを定めて雪を手で掘ると、黒い御影石が現れ「啄木」の文字が見えた。
 歌碑は2つあるが、[敵として]の句の一部だけが雪の中からよみがえった。

敵として憎みし友とやや長く手をば握りきわかれといふに
あらそひていたく憎みて別れたる友をなつかしく思ふ日も来ぬ

 二人の悲しい人間関係を思い、啄木の境遇の辛さ、切なさに胸が詰まった。 

折角なので、2百数十年間、風雪に耐え立ってきた木造建築の美しさを鑑賞した。 
【雪の中の法用寺三重の塔】
  県指定文化財、江戸時代中期 安永九年 1780年、銅板葺、高さ 約19m

風雪に耐えて立つ塔春近し


【法用寺本堂)】

【御詠歌】

法用寺本堂は、会津33観音巡りの第29番札所(雀林観音堂)である。
観音堂には、いくつもの絵馬が奉納され、御詠歌も見られた。
「巡り来て 西を遥かに眺むれば 雨露繁き 古方の沼」

参考 【拙ブログ「法用寺にサクラを見る」2007-05-09】

http://blog.goo.ne.jp/tosimatu_1946/e/e334d702479d41a1a89dec4fb4ff39ee