エッセイ  - 麗しの磐梯 -

「心豊かな日々」をテーマに、エッセイやスケッチを楽しみ、こころ穏やかに生活したい。

街中散歩 郡長正の墓

2007-01-12 | 街中散歩
 先日、ドラマ「白虎隊」を見て郡長正を思い出し、思い立って萱野親子の墓を東山の天寧寺に訪ねた。
 郡長正の名を知る人は、会津人以外では非常に少ないと思う。
 郡長正(安政3年~明治4年(1856~1871))は、戊辰戦争で会津藩の言われなき逆賊の汚名を一身に背負った家老・萱野権兵衛の次男である。
(会津若松市「ゆかりの人物」参)
『明治のはじめ豊津小笠原藩(福岡県)に留学した。ある日郷愁を覚えた長正は母の手紙に食べ物が口に合わないと書いた。後母より届いた戒めの手紙を落としてしまい、拾った小笠原藩士の子弟に大衆の面前でののしられた。長正は会津武士の屈辱をはらそうと藩対抗剣道大会で完勝、その後切腹して果てた。時に16歳の若さだった。』

 あのことがなければ、彼は、どれだけ会津のために、日本のために大きな仕事をしたであろうかと思う。どんな思いで先立ったのだろうか、無念でならない。今の時代には考えられない彼の心の動きを思うと、切なく憐憫の情を禁じ得ない。


山道を行くと、途中の分かれ道、左へ行くと新撰組の近藤勇のお墓、右へ上ると萱野権兵衛、郡長正親子の墓と案内表示がある。




 左への道は、最近何人かが訪れた踏み固まった雪道だったが、右の道は真っ白で、山の中腹にあるお墓までの雪道には兎の足跡だけが続いていた。所々に丸い薄い黄色の糞が、一定間隔でかわいらしく落ちていた。誰も踏み入れない少し締まった雪道を気をつけながら踏み締めて歩いた。

 
 眼下のこんもりした林の中から雪をかぶったお城の天守閣が見えた。
 墓石には「郡長正乃墓」、裏に回ると戒名は「清心院殿覚道実性居士」とあった。萱野親子はここに眠り、会津の街を見下ろしているのだ。


自分の気持ちの整理がつき、さわやかな気持ちで雪の坂道を下った。
 私はいつも、「こうした幾多の先人がいて、今の会津がある」という認識をしている。