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エッセイ  - 麗しの磐梯 -

「心豊かな日々」をテーマに、エッセイやスケッチを楽しみ、こころ穏やかに生活したい。

楽しい探鳥

2007-01-11 | 自然観察
    《柿をつつくツグミ》

 小鳥は元気だ。積もった雪が落ちた柿の枝に小鳥が集まっていた。散歩の途中、しばらく佇んでいると、スズメ、ヒヨドリ、ツグミが次々と訪れた。
 さえずりが厳寒の静寂に響いた。すっかり雪に覆われ、食べ物に不自由するであろう真冬に、熟れた柿の木は小鳥たちの憩いの場だ。
 ツグミがとまり、さかんに柿をつついていた。胸元の黒いまだらがとても美しい。
 望遠で何枚か写真を撮ったが、300mmでは少し物足りない。野鳥は意外と警戒心が強く、なかなか良い写真は撮れないものだ。
 昨日は、珍しく庭にメジロの群れが愛嬌を振りまいてくれた。軒先のつるし柿を、逆さになってつついていた。そのしぐさを見ているだけで実に楽しいものだ。
 野鳥には興味はあったが、冬は猪苗代湖のコハクチョウやオナガガモくらいしか見ていなかった。しばらくは探鳥を楽しみたいと思った。

伝統の初市 十日市

2007-01-10 | 日々の生活
            《風車と起きあがり小坊師》

夕方十日市へ行ってきた。何年ぶりだろうか。子どもたちが大きくなってからはほとんど行かなかった。十日市は会津若松の初市で、420年以上の長い伝統を誇る年中行事で会津地方では、もっとも賑わい10万余の人出がある。
「荒れる十日市」と言われ、例年この日は大雪や吹雪のことが多いが、今日はチラチラ雪が舞う程度の穏やかな初市だった。
 昔は、大町通りの漆器を目当てに行ったものだ。昔のようなにぎわいはなかったが、懐かしい、植木屋や陶磁器の店や海産物の店は少なく、相変わらず、やきそばやお好み焼き、たこ焼きなどの店が多かった。

 
  《起きあがり小坊師 よく起きあがるものを求める》

 神明神社へお参りして、縁起物の店で起きあがり小坊師と風車を求めた。起きあがり小坊師6個、家族プラス1個が普通で、私と妻とまだ家にいる2女、そしてじきに結婚する長男と嫁の5人プラス1である。「起き上がり小法師」は、底に粘土の重りがついていて、転んでもすぐ立ち上がるところから、「粘り強さと健康」のシンボルとして縁起がよいといわれ、子孫繁栄、家内安全を願って買い求められるものだ。
「風車(かざぐるま)」は仕事やお金など、何事もクルクルと回るようにという願いが込められている。8本の竹に福、の、歳、寿、などと書かれた色紙の羽をつけ、豆で芯を止めてある。
 妻は菓子器の漆器を定価の半額にまけてもらい3つも買った。お買い得の鮭のすじこや市飴も買った。孫には、レンタルビデオの中古品を見つけた。
 十日市が終わると、会津ではこれから春まで、・団子さし(1/14)・歳の神(1/13~16)・会津絵ろうそくまつりや会津冬の陣(2月2週)・会津彼岸獅子舞(3月18日~24日)などの年中行事が行われる。

健康第一

2007-01-09 | 健康
 正月早々に病院通いが続いた。自覚症状はないが、医者の指示に従い安心のための諸検査だ。
 今日は3回目、日頃もうこれ以上痩せられないと思いながらの生活を続けてきたのに・・・、日を置いての検査だが、事前の食事制限に最低体重を記録しそうで心配だ。具合の悪い時は何も手に付かない。絶食中はただ目を瞑り、ときどき薄目を開け庭の雪景色をぼんやりと見ている。

 毎日、食事の前後に幾種類もの薬を飲んでいる。それぞれが意味を持つ薬であろうが、考えてしまう。本当は、薬よりも日々の食事や運動や生活習慣が大切なのだろう。病状に関連する本を読むうちに、改めてそう思うようになった。
 強い薬による治療を止めてからはむしろ体調が良く、最近はこれからのリズムができたような気がしている。また、確かに病気にならない生き方があったも知れないと今更ながら後悔もしている。

 思えば、退院後ときどき熱を出し、何度も入退院を繰り返した。でも、月一度の検査結果に一喜一憂しながらも、選ばれて丸3年が経った。回復してきた健康あっての今の幸せだ。
 今年は例年以上に健康を第一に考えて生活したいとの思いが強い。健康で日々当たり前の生活ができれば、他には何も要らないと思う。そのためにも医者の言を守り、健康に気をつけて過ごしていきたい。今の平穏がいつまでも続いて欲しいから。

ドラマ「白虎隊」

2007-01-08 | 日々の生活
          《献花や線香の絶えない白虎隊士の墓》

 正月の新春ドラマスペシャルで、2夜連続のテレビドラマ「白虎隊」を見た。(1/6、7)ひと味違ったドラマ「白虎隊」に、あらためていろいろな思いが巡った。

 テーマは、「戦争のむなしさ」だと思う。今から140年前の悲劇、戊辰戦争で白虎隊の19人の若い命が失われた。そこには母との別れがあった。愛するもの達との別れほどせつないものはない。会津人だからことのほか思い入れて見たのだろうか。
 その後も日本はさらにひどい戦争を体験した。そして、いまだに世界各地ではむごい争いが繰り返されている。有史以前から、こうした愚かな歴史がいつまでも繰り返されているのだ。なんと人間は愚かなのだろうか。戦争は、無益な殺し合い以外の何物でもない。
 ドラマの中で先人の語る言葉には胸を打たれた。
○「死は一瞬だが、残されたものの悲しみは辛い。」  ○「力は備わっているものではない。生まれてくるものだ。」  ○「気品のある死に方をする人は、気品のある生き方をした人だ。」  ○「正しい戦争などあり得ない。」
 次に、家老・西郷頼母(*)の平和主義が心に残った。察するにあまりある、辛かったであろう彼の心中、そして彼の生き方、半生をもう一度見つめてみたいと思った。 西郷家の悲劇も忘れてはならない。時代の流れを恨んだ。なぜこんなむごたらしい戦争をしなければならなかったのか。「戊辰戦争とは、いったい何だったのか」もう一度見つめてみたい。
平和な今の日本に、自由に生きられることを申し訳なく思う。それだけに、もっと質素にこころ豊かに生きなければと思う。

 またもや、会津の悲劇、その思いを適切に表している「愛しき日々」の歌詞が、浮かんできた。
《拙ブログ(2006.11.5)【 戊辰役殉難会津藩士二十二士之墓】》

愛しき日々」 
  小椋 佳作詞 堀内孝雄作曲
   【参:http://www.fk.urban.ne.jp/home/kazuaki3/utagoe-61.htm】

   風の流れの 激しさに 告げる思いも ゆれ惑う
   かたくなまでの 一筋の道 
   愚か者と笑いますか
   もう少し 時がゆるやかであったなら・・・・・
   
   雲の切れ間に 輝いて 空しき願い また浮かぶ
   ひたすら夜を 飛ぶ流れ星
   急ぐ命を 笑いますか
   もう少し 時がやさしさを投げたなら・・・・・・
   
   愛しき日々の はかなさは
   消え残る夢 青春の影
   きまじめすぎた まっすぐな愛
   不器用者と 笑いますか
   もう少し 時が たおやかに過ぎたなら・・・・・・・
   
   愛しき日々は ほろ苦く
   一人夕日に 浮かべる涙 

(参考)年末に白虎隊の墓に参りをした。《拙ブログ(2006.12.17)【街中散歩 飯盛山】》

『何年ぶりだろうか、いつもお花が供えられ線香が絶えない白虎隊士の墓に参った。寒くなったが、今日は日曜日、観光客もちらほら見かけた。
 前途のある子どもたちが戦火に散った、「忠烈永久に香を残す花も会津の」白虎隊の悲劇をあらためて思った。隊士の墓の傍らには会津藩主 源容保公の弔歌碑が建っている。 「幾人の涙は石に注ぐとも その名は世々に朽ちじとぞ思う」
 また、いままで気づかなかったが、少年武士慰霊碑が建ち、碑の裏には14歳から17歳までの戦死した少年の名が記されていた。今更のように時の流れが恨めしい。』

(*)
西郷頼母 【フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より】
1862年、容保が幕府から京都守護職就任を要請されたとき、政局に巻き込まれることを恐れて容保に辞退するように進言したため、容保の怒りを買う。その後、禁門の変が起きる直前に上京して藩士たちに帰国を説く。だが、認められず国許へ帰らされ家老を解任され、蟄居する。1868年、戊辰戦争が起きると容保から家老職復帰を許された。このとき、頼母は新政府への恭順を勧めたが、藩主容保と主立った藩士たちはこれを無視して新政府との戦いに挑んだ。やむなく頼母も白河城にて新政府軍と戦ったが、伊地知正治率いる新政府軍の攻撃を受けて白河城は落城し(白河口の戦い)、頼母は会津若松城に逃げ戻って再び恭順を勧めた。しかし、会津藩士の多くは頼母の進言を聞き入れず、なおも新政府への抗戦を主張したため、藩主容保の命により一子吉十郎と共に城を脱出し、その後榎本武揚や土方歳三と合流して箱館戦線まで戦った。なお、母や妻子など一族21人は頼母が登城後に自刃している。
西郷頼母  【 HP「とげちょ」《会津の名君・名将》より】
 家老西郷頼母は鶴ヶ城大手門外の近くに邸を構えていた。頼母は抗戦(戊辰戦争)を主張する藩論の中にあって、終始恭順を説いていたが、和平策の尽きたとき、まだ幼い長男(吉十郎)伴って篭城を決意した。この別れの宴のとき、母の律子は漢詩を吟じて頼母を励ました。妻の千恵子は「なよ竹の風にまかする身ながらも たわまぬ節はありとこそきけ」と辞世の歌を詠み韻々と響く砲声を耳にしながら、9歳、4歳、2歳の子を自らの手で刺し、これにならって妹2人、16歳の長女、13歳の次女ら一族21名ことごとく刃に伏し、頼母の後顧の憂いをたったと言う。
 篭城が続く中、これ以上の篭城戦は無益と悟った藩主松平容保は、孝明天皇より賜った御震翰を頼母に託し、城から脱出させ、頼母は山形方面に逃れたという。後に孝明天皇より賜った御震翰が会津は朝敵ではないとの証となる。城を脱出した頼母は明治・大正の世を生き抜いたが、一子吉十郎が夭折してからは、ただ一人茫々とした面持ちで世の移り変わるさまを眺めて暮らしたという。
 なお、富田常雄の柔道小説「姿三四郎」のモデルとなった西郷四郎は、西郷頼母の養子であるという。

雪降りに 宇吉郎を思う

2007-01-07 | 日々の生活
 昨日は暦の上では「小雪」、暮れに積もった雪も道路が見え始めたが、今朝はしばらくぶりに雪がしんしんと降っている。昨日の雨が明け方から雪に変わり、天気予報ではしばらく降り続き大雪になると言う。
 犬は現金だ。もう15年になるおばあちゃんだが、今朝の散歩は、昨日の調子の悪いのはどこへ行ったのか、率先して駆け回っていた。雪がよほど嬉しいのだ。

 いつか石川県加賀市にある「中谷宇吉郎雪の科学館」で中谷宇吉郎の世界を垣間見た.
それまで宇吉郎について学ぶ機会がなかったが、見学を機に「中谷宇吉郎随筆集」を求め読んだ。彼に多大な感化を与えた恩師、寺田寅彦の追憶の文章からは、同時に二人の自然観、科学観を学ぶことができた。
 「雪は天から送られた手紙である」と言った宇吉郎は、雪について、
「何時までも舞い落ちてくる雪を仰いでいると、いつのまにか自分の身体が静かに空に浮き上がっていくような錯覚が起きてくる。」と書いている。
 今朝は、久しぶりの雪にまさにそんな体験をした。私は大好きな雪景色にどれほどこころ癒されたか知れない。
 書棚から中谷宇吉郎随筆集を取りだした。もう一度大きな感動に浸りたいと思っている。

PCやTVに向かう時間

2007-01-06 | 教育を考える
今朝の「毎日新聞(2007.21.6)」に、連載の【ネット君臨】の記事で「携帯なしで生きられますか・・・」を興味深く読んだ。
携帯を使わないで5日間実験をした。その実験での感想には、・必要なことを検索できなかった。・連絡が取れなかった と言った不便さもあったが、・時間にゆとりが持てた。・時間を有効に使える。・辺りが静かだった。・辺りに目を向ける機会や会話が増えた。 などの生活の変化もあった。また、一応に・電源を入れた時は安心した。であった。
 もはや必需品になっている携帯にも、いろいろ問題があると考えさせられた。また、自分では携帯は使わないが、端から見ていて ・いかに依存しているか。・いかに時間を無駄にしているか。 と言う印象が残った。

 同じ紙面に世論調査特集「ネット社会」の記事があり、作家・柳田邦男が『「負の側面」見る重要性』を書いていた。
 そこでは、まずPCやネットについては、○急速な普及でアセスメントがなされなかった点  ○PCには自己中心的全能感の錯覚、バーチャルと現実の混同、生身の人間接触の希薄化、その社会に入らない時の疎外感、見ないでいられない依存感などをもたらす魔力がある。社会は、それらと毅然と距離を保てる知性豊かな人だけで構成されてはいない点  ○子どもの人格形成への影響  などが挙げられ、問題点がいずれもこころの形成、こころの持ち方をゆがめる影響にあり、公害などをもたらした21世紀型技術と異質だと述べてあった。

 PCはメールのチェックとネットで新聞各紙の社説、コラムを読むのが日課だが、ブログを始めてからは、やはり結構長い時間使っていると思った。でも、何か本を読んだり、考えたりする時間が少なくなるようなので、日頃はなるべくは使わないように心がけてはいた。
テレビも同じだ。各家庭での視聴時間はどうだろうか。子どもへの影響を心配していた。まず時間の無駄だろう。また番組の内容も問題だと思う。
 あえて、テレビを見ないようにしていると同じようなことに気づく。まず、惰性で見る、受け身人間になりものを考えることが少なくなる点。ときどき、見終わって何が残ったのかと振り返ることがある。心に残り、いろいろ考えさせられることもあるが、多くの場合、それは刹那的なある意味その時だけの花火のようなものである。テレビとはそういうものだとは割り切れないでいる。
 時間がどんどんと流れていく。そんな中で、どんな風に時間を過ごすかが、これからの国民の命題だと思っている。余計なお世話かも知れないが、限りある時間をどうしても考えてしまうのである。

感謝の気持ちを忘れずに過ごしたい

2007-01-05 | エッセイ
今朝の福島民友新聞「窓」の欄に掲載された、我が新年の抱負である。

 般若心経の色即是空は真実だと思う。諸行無常、行雲流水、すべては移り変わりやがて消え去って行く。物体はおろか、懐かしの心の動きもいずれなくなる。この美しい大自然も、見つめる感動も、すべてが・・・。
 しかし、たとえ短い人生でも、生きとし生けるものが互いの持てる幸せを有難く受け入れ、いつも生きている喜びを共有したいと思う。
 年の瀬に静かに一年を振り返った。まず当たり前に過ごすことができた健康を有難く思った。数年前に健康を損ね、九死に一生を得て初めて気づかされた感謝の念だが、喉元過ぎればで、また自己中心に流れた日々を反省した。思えば亡き父母に、何よりも妻や子どもたちにどれだけの恩返しをし、ありがとうの気持ちを伝えただろうか。
 新年にあたり、今年は昨年以上に健康に気をつけ、何事にも感謝を忘れずに、穏やかに過ごしたいと思っている。


伝えたいお正月

2007-01-04 | 日々の生活
      【雪に咲く・冬薔薇】

 元旦の新聞で、堀文子の絵「スイセン」とエッセイ「伝えてもらった厳粛な時間」をすがすがしく読んだ。
そこには「日本の家族は長幼の序を忘れ品格を失った。もう一度祖先が伝えた新春の儀式のあの厳粛な時間を、取り戻さなければならない」とあった。その通り、忘れていたことと思った。
 
 自分の子どもの頃のお正月はもう無い。たこ揚げ、はねつきなどはもはや遺物、書き初め、七草、鏡開き・・・すべてが歴史の中に埋もれていきそうだ。
 あの頃は経済的には貧しかった。新しい衣類はお正月に買ってもらった。今もあの頃着ていたセーターやジャンバーの模様が懐かしく思い出される。冬の暖房はこたつや火鉢、炭を補充し、火箸やヘラで火鉢の灰をかき混ぜるのが楽しかった。
 お正月には木箱に入ったミカンを買い求めた。頼まれては木箱の板をはずして小さい手にミカンをこたつに運んだ。テレビのない時代、夜はこたつに当たりながら、家族中でトランプやすごろくで遊んだ。1,3ぺろりなどの遊びは夢中になった。すべてが懐かしいお正月だ。
 所帯を持ってからの暮れの忙しさは少し記憶に残っている。妻の子ども達に教えながらのお正月の準備は大変だったろう。子どもが小さい頃は、年に一度、母の作ってくれた紺の着物をきて一家の主らしさを装っていた。お屠蘇を飲み、おせちをつつきながら、やおら懐からお年玉を取り出し3人の子どもたちにあげた。

いろいろなしきたりの中に、日本らしさを見つめてきたが、これからも伝えていきたいことだと思った。自分もかなり少なくなったしきたりの中で生きてきた。今後はさらに希薄になるだろう伝統的な日本らしいしきたりを、お正月にかかわらず、子や孫、若い人に伝えたていきたいと思っている。

賀状を書く

2007-01-03 | 日々の生活
           【S先生からの賀状】 

 元旦にいただく年賀状が嬉しい。すっかり御無沙汰してまた1年が経った。お世話になった人からの賀状を手に、遅れての賀状になるが、一枚一枚お正月になってから書いている。昨日と今日、箱根駅伝テレビ中継で、沿道の景色や人々の暮らしを見ながら・・・。
 賀状を書きながら、時間のゆとりがあり、今考えることは《人との付き合い》だ。
 元来人間嫌いだったのかも知れない。特に若い頃の気が合わない人との付き合いは下手だった。自ら距離を置き、遠ざかってきた。自分の個性なのだからそれで良かったと思う反面、これで良かったのかなとも考えている。
 今お付き合い頂いている人たちを大切にしたいと思う。過去のふれあいを思いながら、一人一人に日頃の御無沙汰を詫びている。そして、新しい希望を夢に描きながら賀状を書いている。

書き初め

2007-01-02 | 日々の生活
 今日は「書き初め」、しばらくぶりに筆を握った。
ウィキペディアによると、昔は、若水で墨を摺り、恵方に向かって詩歌を書く習慣があったらしい。いかにもこころ豊かな生活に憧れる。
 しばらく開けなかった硯箱のほこりを払い、筆を取った。お気に入りのウメの木の透かし彫りの硯が懐かしかった。静かな空間で墨を擦ると本当にこころが落ち着く感じがした。最近、こうした静かな空間が良いと思うが、世の中の喧噪のせいだろうか。
 色紙に「老而学死而不朽」と「生涯懶立身 騰々任天真」と書いた。これからもこれらの名言を信条に、穏やかに日々を過ごしたいと思う。
 また、布に寒気に聳える新春の磐梯を描いたが、今年は水墨画に挑戦しようと思っている。書も絵も、その基礎を習ったことはない。上達を求めるではなく、ときどき筆を握ってこころを落ち着けて過ごしたいと思っている。
 

年越し 初詣

2007-01-01 | 日々の生活
   《湯川村からの磐梯 元旦》


 大晦日、いつものようにTVで紅白を見ながらの年取りだ。恒例のすき焼き、静かに子どもや孫たちの成長を見つめながら1年の健康を感謝する。いつも飲み過ぎて紅白も終りまで見ることはまれったが、最近は、体調を心配しながら飲むので、目が冴えたまま、新しい年を迎えていた。
紅白も様変わり、年を取ったものだ。歌手の名もほとんど分からなくなった。やかましい歌は見る気にならず、隣の書斎で机に向かった。嘘のような静寂が訪れ、喧噪の世の中を、遠くから傍観するような感じだった。

 いつの年も、お祭り騒ぎの紅白の後の番組「行く年来る年」の静寂はいい。日本各地の除夜の鐘を聞くのが常だ。今年の初めは、会津喜多方の願成寺からの中継だった。雪の中の、落ち着いた会津大仏が全国中継された。他に、京都知恩院や北海道江差、柴又帝釈天などから、1年の無事を感謝し新しい年の幸せを祈る人々の様子が映し出された。

 年が明けて、年越し蕎麦をいただく。そして、守り本尊、町内のお八幡様へ詣でた。いつもは酔いつぶれ、子どもたち3人で行っているが、久しぶりに一緒に出かけた。
 近在の人々が、雪の参道、階段を上りお参りしていた。賽銭を上げ、1年の健康、幸せを祈った。

明けて元旦。今朝もいつもと何ら変わらず、犬と散歩に出る。こんな日が1年に何度あるだろうか。穏やかだった。雪の田畑がキラキラと朝日が輝いていた。


 今朝はお屠蘇は止めた。初詣は、今年の恵方(北北西)に当たる勝常寺へ行くことにした。湯川村の雪は、若松よりずっと少なく驚いた。夜中のにぎわいを想像しながら、静まりかえった雪の境内にお参りした。

 勝常寺の創建は807年に、名僧・徳一上人によって開山された。創建当時は七堂伽藍を備え隆盛時には12の坊舎と百余の末寺をもつ大寺院であったという。
 薬師堂は、会津中央薬師堂と呼ばれ、1398年の再建で和様、唐様式の手法を加えた堂。



 

 本堂の脇には「土井晩翠ウォーナー碑」を見つけた。これまで気づかなかった碑だ。
 その表は、土井晩翠の詩が彫られてあった。
         一千余年閲(けみ)したる
         仏像の数十三を
         伝へ来りし勝常寺
         尊き国の宝なり
         秋のけしきの深みゆく
         会津郊外勝常寺
         仏縁ありて詣できて
         十三像を拝みぬ
裏は記念碑で、太平洋戦争中、米軍の爆撃から勝常寺を守ったウォーナー博士について知ることができた。
『ラングドン・ウォーナー博士は一九〇三年ハーバード大学卒21歳の頃東京美術学校に留学中に同校教授にして勝常寺中尊寺国宝指定並修理委員六角紫水氏の愛弟子で太平洋戦争中は米軍の遺跡保護委員であった
 このウ博士のためその六角氏が横山大観画伯と終戦の翌一九四六年七月十日東京築地の旅舎川村で開いた歓迎宴の席上先にウ博士らの提言により三古都が爆撃から救済された話に及ぶと三人は鼎座して互いに手を握りあいしばし感激の涙にくれた
 この時またウ博士は六角恩師に対し爆撃しない遺跡のリストの中に東北では昔先生からよく教えられた勝常寺のある会津と中尊寺地方を入れておきましたと報告した
 我らは今は亡きウ博士の遺徳を永く偲ぶためここにこの碑を建てる
                 一九八一年夏 早川喜代次 撰並書 』

《いつか描いた薬師堂のスケッチ》


 2007年が、健康で穏やかな日々であることを祈る。