エッセイ  - 麗しの磐梯 -

「心豊かな日々」をテーマに、エッセイやスケッチを楽しみ、こころ穏やかに生活したい。

チョウやトンボの絶滅を防ぎたい

2021-07-29 | エッセイ

   真ちゃんから拙文の新聞掲載の報あり。
  いつも同じだが、以下に、自分を鼓舞する内容の投稿文をあげる。

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チョウやトンボの絶滅を防ぎたい」      (福島民報 2021.7.29付け)

いつも里山を巡り、馴染みのチョウやトンボ、小さい虫たちとのふれ合いを楽しんでいる。

先日、クララの花穂に産卵を繰り返すルリシジミに出会った。

一瞬、すでに絶滅してしまったが、かつては会津盆地にも生息していたオオルリシジミを思い浮かべた。

100年近く前の会津の標本が国立科学博物館に保存されている。

実は、かつて信州での学生時代に、生物学概論の野外授業中、大学の裏の池畔で食草のクララに産卵するオオルリシジミを観察した記憶がある。

あれから半世紀、その後絶滅の危機にあり、長野県安曇野市で保護されてきたオオルリシジミに、数年前再会することができた。

そして、生息条件の難しいチョウの保護活動の実態を知り感動した。

いま会津にも細々といのちをつないでいるチョウやトンボがいる。

特に会津若松市内で唯一大川土手のみに生息するヒメシロチョウは絶滅寸前である。これらの虫たちを絶滅させてはならない。

この長野県のオオルリシジミの保護活動の取り組みに勇気づけられている.

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オオルリシジミ  2017.5.28 撮 (安曇野アルプス公園)           ヒメシロチョウ 2021.7.28 撮

  


雪景色の美しさ

2021-02-05 | エッセイ

このところ、毎日雪に埋もれる生活だった。

あらためて、庭に見る雪景色の美しさを思った。

雪景色の美しさには、これまでも何度も感動してきた。幾度となく書き残してきた。

今朝の思いもまた格別だ。

車の凍てついた雪を除いていると、東山から朝日が昇り始めた。

カメラを取りに戻り、山の端にかかり上る間際のお日様を撮った。

深呼吸し、神々しい陽の光を浴びた。

すがすがしい気持ちで、孫を学校まで送った。

  

   磐梯 雲に隠れる

キリの大木から風花が舞い散る。

そのキラキラ落ちる美しい風花を浴びながら、シャッターチャンスを狙った。

  

 いつかの感動を拙ブログに見た。
 【癒される 風花】 2012-01-14    https://blog.goo.ne.jp/tosimatu_1946/e/4d26660809ac8bbf231cefeaa2b770e5
 一部をあげる

《 雪の花を写しに庭に出た。長靴が埋まるほどの積雪だ。朝日が燦然と差し、輝く枝の雪が美しい。》

《真上の桐の枝を見上げると、青空に薄いもやが流れている。心が洗われるようだった。それはたぶん、眼に映ったその美しい光景はこころのファインダーを通るからに違いない。

そしてまた、その感動は冷たい澄みきった空気がなければ生まれないものだろう。とすると、本当の感動は、そのとき一瞬の美しさで、写真のデータは偽物の美しさかもしれない。

一瞬の感動であれば、しばらくはその余韻を楽しむことは出来るが、いずれ思い出として記憶されるものだ。記憶をたどり、これまでの感動のいくつかは思い出せる。

出来ればこれからも沢山の感動を味わえる人生でありたいものだ。

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  もう10年も前のことだが、嫌な思い出がある。
この雪の美しさを新聞に投稿したことがあった。その日、その文章について粗暴な脅迫の電話があった。

1~2分の一方的な話で恐ろしさを感じた。あまりにひどい話で、警察へ相談に出向いたことがあった。

 趣旨は、「みんな大雪で苦労しているのに、風物詩的な書き方をするな。書くのも悪いが、載せる新聞社も悪いと。今後一切投稿するな、殺すぞ!」と。

 奥会津金山の記述が悪かったのか?。苦労を逆なでするつもりもないし、しばらく我慢して春を待とうとの本意だった。                                              

人それぞれの思いであり、尊重されるべきだ。どこの誰かもわからない、どんなに被害意識があったにしても異常とも思える電話だった。

(参考までに) 以下、新聞掲載文
   「会津の雪景色を楽しみたい」    福島民友新聞「窓」(2011.2.1付)

  今朝も枯れ木に雪の花が咲いた。妻は積もった雪かきに余念がない。昨年末の大雪で、庭はうずたかい雪に埋まっている。

 今が一年中で一番の寒い時期、しんしんと降る雪、横殴りの吹雪の日と、毎日自然の厳しさを見つめている。

 何年も前に、読者の欄(に「豪雪に悩む地域の方のつらさはわかるが、私は雪が大好きだ。そして雪が降るから冬が好きだし、会津が好きだ。」と書いた。

 その数日後、奥会津金山の人からお叱りのはがきを貰い、それで済まない辛さを詫びて反省したことがあった。

 確かに、来る日も来る日も鉛色の空から落ちてくる雪には恐ろしささえ感じるし、膝ほどの雪道でも、開けるのに一苦労だ。

 とはいうものの、雪を厄介者としか見ない生活は味気ない。厳寒の中にも雪のぬくもりも感じられるものだ。

 しばらくは雪マークの予報が続き磐梯の雄姿も見えないが、やがて節分、雪解けの陽が差す日も訪れるだろう。

 それまで、密かに会津の雪景色を楽しみたいと思っている。

   読者の欄(
 「楽しみたい会津の雪景色」    朝日新聞「声」(2005.1.23付)

 昨夜来の吹雪に車がすっぽり埋もれていた。市道までの雪かきを妻に任せ、徒歩で出勤することにした。

「雪の降る街を」と口ずさみながら、何を考えるでもなく歩を進めた。太郎の屋根、次郎の屋根に降り積む雪は人の心にお構いなしだ。

 豪雪に悩む地域の方のつらさは時折の体験から十分わかるが、私は雪が好きだ。そして雪が降るから冬が好きだし、会津が好きだ。

 立ち止まり手袋に舞い降りた雪の美しさに見入った。時折小止みになると、目の前に杉林の雪景色が山水画のようにぼんやりと浮かんだ。

「雪は天から送られた手紙である」と言ったのは中谷宇吉郎。私には雪は天からのこの上ない贈り物だ。

 雪景色にどれほど感動し、こころ癒されるか知れない。

 雪を厄介者としか見ない生活は実に味気ない。厳寒の中にも雪には暖かささえ感じられるものだ。

 厳しい寒さに耐える静寂の木々だが、じきにすべてが萌える季節が巡る。

 雪に埋もれる会津の冬をしばし楽しみたいと思っている。

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いつか書いたことがあるかも。忘れて、雪景色を愛でたいと思う。

日々生きて、いろいろな幸せを楽しみたい。

まずは「存命の喜び、日々に楽しまざらんや」 兼好


遷ろう季節に感動したい

2020-10-26 | エッセイ

 

入院中に、新聞の読者欄に投稿した一文が掲載された。      

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自然を前に過ぎゆく時思う」 (原題:遷ろう季節に感動したい)  
 静かに揺れるコスモスを眺めながら、過ぎにし夏の季節に思いを馳せた。それは遠い小学生の夏休み、麦わら帽をかぶり水筒を提げて山へ向かった。
 ハンミョウが先導をつとめる炎天下に、テングチョウやミヤマカラスアゲハが集団で吸水している。セミ時雨の林道で無心に網を振りまわし、感動に震える手でチョウを捕らえた。
 ああ、あの遙かなる日は戻らない。昆虫少年は、いまは、捕虫網をカメラに持ち替え、自然への畏敬の念を抱きながら崇高な虫たちのいのちを見める昆虫老人となった。
 秋も深まり、やがて虫たちに替わって猪苗代湖には冬の使者が訪れる。移ろう季節には、湖水の水鳥と遊び、磐梯の雪景色を楽しみ、それら大自然からの感動をもらいたいと思っている。         (2020.10.21掲載)
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近いうち、猪苗代のハクチョウと落葉松林の散歩を楽しみにしている。

 

この記事に関連した写真を探したが適当なものなし。

ふと浮かんだ写真を貼る。

日橋川の流れ、ゆく川の流れは絶えずして。

  参:拙ブログ  「行く雲と水の流れ」 2008/7/24 https://blog.goo.ne.jp/tosimatu_1946/s/%E5%8A%A0%E5%B3%B6%E7%A5%A5%E9%80%A0/1


「悠々不休」の日々を過ごす

2020-08-10 | エッセイ

           


「悠々不休」という言葉を、ブログ「京の辻から」(7/25)知った。

沢村貞子著 『わたしの脇役人生』の本文にあるとのことだが、読んだことはない。

以下は、そうありたいと思った一文

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最近、「悠々不休」という聞き慣れない言葉に触れた。

目に入ったとき、実はこうありたいと思う自分にぴったりの言葉ではないかと直感した。

悠々と不休、このアンバランスな言葉を考えてみた。

まず、「悠々自適」や「悠々閑々」などが浮かぶ。

これは、コロナだの政治だのスポーツだのと、日々の世間の雑音に煩わされることなく思いのままにゆったり暮らすことだろう。

一方の不休、これは読んで字の如く少しも休まないことで、不眠不休の表現もある。

いまの自分は、多少責任のあったボランティア活動を止めたばかりで、正に悠々だ。

そして、小さな虫たちとのふれ合いを求める里山巡りは1日の休みもない。

好きなことを悠々と休まず続けられる日々こそ、健康で豊かな生き方ではないだろうかと感謝している。

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美しい夜明け 遠い思い出

2020-07-29 | エッセイ

午前4時、カーテンを開け遥か磐梯山を望む。

会津盆地の山の端、低くたなびく雲の上に黒いシルエットが聳える。

梅雨明けが遅く、しばらく見えなかった雄姿が美しすぎる夜明けだ。

やがて、箒で掃いたような雲がうっすらあかね色に染まり、僅かにかけらのような青空が見える。

明けきれない闇に、小鳥のさえずりに混って、一瞬今年初めてのヒグラシの声が響いた。

窓からのひんやりした空気を吸い込み、今日の1日が始まる。

この朝ぼらけの感動に、寮歌の一節が浮かんだ。

あれから半世紀、今朝も老いた心で故郷の黎明の山を見つめながらしばし時を忘れ、口ずさんだ。

「嗚呼黎明の 空の色 牧場の草も 雫して・・・」、かつて声高らかに歌った青春の歌は、今なお歌われているのだろうか。

「黎明」、なんと爽やかな言葉の響きだろうか。

(2020.7.29付 新聞掲載の駄文)

 

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(参照) 拙ブログ 「黎明の空の色」(2009-06-09) https://blog.goo.ne.jp/tosimatu_1946/e/1e52467b7a885e3da472ad2b87677aa1

          

   思えば憧れてたどり着いた信濃路に、大いなる自然の中に、我が青春は流れた。
   今、回想する遠い昔のほのかな思い出、よく学び、遊んだ。

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あらためて知るいのちに涙 

2020-07-14 | エッセイ

                                                    庭で

人間による自然環境の悪化により、かつて幾多の虫たちが消えて行った。ごく最近でも、絶滅が危惧されるチョウやトンボがいる。これら小さな虫たちの生息を気にかけながら里山を巡り、細々と保護活動を続けている。彼らとは、物心のついた小学生のころからの付き合いだったが、最近新しい発見があった。それは、少しキザだが「小さな虫たちへの愛」だ。一寸の虫にも・・・ではないが、これまで色やかたち、動きにとらわれ、彼らの心を思うことなどなかったと反省している。減ってきた種は特別に心配だが、どんな虫たちも区別なく精一杯のいのちを生きているのだ。ありがとうと彼らに語りかけファインダーを覗くとき、あらためて愛おしいと思う。これからの余生、物言わぬ健気な小さないのち、さらには生きとし生けるものすべてに感謝して過ごしていきたい。

(2020.7.14付 新聞掲載の駄文)


                           


いつも快適なステイネイチャー

2020-05-21 | エッセイ

リンゴ咲く 

 大きな声では言えないが、コロナ騒ぎの前からほとんどが不要不急の外出、自然とのふれあいに心動かされながら里山めぐりを続けている。

たまに、預かる幼い孫を里山の風景を見せたくて連れ出している。

彼らには、普段はあまり見ることのない小さな自然に触れて欲しい願いもある。

いよいよ新緑の季節、タンポポはもう綿毛を付けている。

ウワミズザクラが穂状の花を咲かせ、初夏を知らせるカワトンボやウスバシロチョウが舞い始めた。

人との接触は、頼まれる買い物くらいだが、マスクを忘れ家人に注意されている。

しばらくは、人と顔を合わせることない里山の自然は救いだ。

いつか、この子等の心に残って欲しい何かを求めて、「ステイホームでなくステイネイチャ-でありたい」と思っている。


ものを持たない生活

2020-05-01 | エッセイ

 最近、有り余る蔵書を整理している。もう使うこともない半世紀も前の専門書はようやく決断したが、

より分けた趣味や教養本のたぐいはいざとなると捨てられない。

 ヨガの行法の断捨離は、不要な事物を断ち・捨て・離れることにより、人生を改善しようとする考えだ。

本だけではない、食器類や衣類、靴、数々のバザーに出したら良いものなど、要らないのではというものがいっぱいある。

古いPCやプリンター、凝っていたフィルムカメラなども捨てられず悩んでいる。

そのあげくに、慌てず時間をかけてなどと心を落ち着かせている。

そんな折、手に取った本は、下重暁子著「持たない暮らし」や久保田昭三著「風来好日」、加島祥造著「ひとり」など。

それらの本から、老子の「足を知る」や良寛の生き方に行き着くことを知った。


新聞投稿まとめ 出版へ構想練る

2020-04-02 | エッセイ

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ある朝、通勤途上のいわきの国道で、ごみを拾うおばあちゃんの姿に感銘し福島民報「みんなのひろば」に投稿した。

もう30年も前の、初めての投稿だった。(1990.7.18付 「おばあちゃん毎日ありがとう!」:いわき市植田への単身赴任のころ)

数年後、それまでの投稿文の約200編ほどをまとめ、「エッセイ 麗しの磐梯」を出版した。 (2001.4)

その後も新聞投稿を続け、掲載された駄文はいつしか1000編を超えた。 (福島民報、民友、河北新報、信濃毎日、毎日、朝日・・・etc)

少し時間のとれる雪の季節、パソコンを前に思いを巡らせていた。

ふと、貯まった駄文をもう一冊、本にまとめようかと思い始めている。

章立ての構想は、興味関心のある「あるべき教育の姿」「求め続けた豊かな心」、「讃えたい自然」「環境問題に思う」「文芸に触れる」・・等などか。

また、趣味の磐梯山のスケッチをカットに取り込みたいなどと考えている。

ちっぽけな半生だが、その都度の生き方を鳥瞰し、残された日々の指針になればと次の1冊へ構想を練っている。

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庭の豊後梅咲く

             

  チオノドグサ

 スノードロップ

 


 待ちかねたカラマツの道

2019-12-19 | エッセイ

 

過ぎ去った短い秋を思いながら、「カラマツの黄葉を鑑賞」  2019/11/13  を短いエッセイにまとめた。 

blog.goo.ne.jp/tosimatu_1946/e/7cb7770631f0001f97ee2894e0ea5bcf

 

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深閑とした森の秋はどこも美しい。

燃えるような落葉樹の紅葉も良いが、何故かカラマツの黄葉に惹かれる。

ずいぶん前からカラマツの色づきを待っていたが、ようやく時機到来、

毎年訪ねるカラマツ林の眺めを楽しんだ。

ここに来ると、季節は違うが何故か東山魁夷の作品「緑響く」を思い浮かべる。

湖はないが、大自然の静寂は同じだ。

そしてまた、いつも白秋の詩が浮かぶ。

”からまつの林を過ぎて からまつをしみじみと見き からまつはさびしかりけり たびゆくはさびしかりけり”

ほどなく雪の季節を迎える。

その前にもう一度、散り始める金色の針が敷き詰める絨毯を踏みしめ、

大好きな道を歩いてみようと思っている。

もの悲しい晩秋の季節が好きなのかも知れない。

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「終活」を意識

2019-12-18 | エッセイ

 

 

 

             遠い春を待つ 庭のハクモクレン、桐

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最近、「終活」という言葉を意識するようになった。

大病の度に向き合った死ではなく、思うことは、残された日々をどう過ごしたらよいかだ。

それは、時の流れがあまりに速く感じられる焦りでもある。

シーズン中は里山をめぐり癒される日々だったが、小さな虫たちが姿を消し少し寂しい気持ちでいる。

短い秋を楽しんだが、今は、晴れた磐梯を仰いだり、葉を落とした小さな庭のいのちを愛でるのみ、もう暮れの気忙しさを感じながら静かに過ごしている。

本棚を目で追い、手に取り頁をめくった。

ふと、夢中で遊んだ小さいころ、青春を謳歌したこころ、目標を求め続けた多忙なころがめぐった。

楽しかったこと、悲しいかったこと、悩み苦しんだ日々が次々に浮かび、

もう少しの間のちっぽけな人生を整理したい「終活」の思いにかられている。

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気まぐれオキザリス ときどき開くが、開花条件は?


もう一度、かつての感動を読む

2019-11-12 | エッセイ

 

                    

寝床で眠くなるまで読書する。いつかそれが習慣になってから久しい。

最近は、以前にこころ動かされた本を再読すること多い。

”読書百編義自ら見る”というが、難解文の理解のためではなく、かつての豊かなこころを取り戻したいからだ。

本棚から、懐かしい本を適宜選ぶことも一つの楽しみでもある。

でも、読み始めても秋の夜長の読書とはならず、歳のせいかすぐに眠くなる。

そして、早く寝る分早起きとなり、トイレに起きると届いたばかりの新聞を拡げている。

世の中の動きを眺めた後、夜の続きの読書となるのが常だ。

近ごろは、本を離しても小さい字は見えにくく不自由を感じているが、今はやりの拡大メガネがありがたい。

ほとんどうろ覚えの記憶の中にも、再読により新しい豊かな発見を楽しんでいる。


半年ぶりの入院に思う

2019-11-07 | エッセイ

  2019.10.21~22 半年ぶりの入院だった。

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ベットに横たわり手術の時間を待つ不安はこの上ない。

何度も現代医療に助けられながら走り続けてきたポンコツ車だが、部品交換、整備をしっかりすれば未だ走れると祈った。

午前中に諸検査を終えて夕方の手術。全身麻酔なので痛くも痒くもない。ただ、いつも麻酔が覚めてからが辛すぎる。

庭に風の音を聞きぼんやり見回すと、病室のカーテンが揺れ、ベットの脇に妻と看護婦が声をかけていた。

しばらく忘れていた点滴の辛さを繰り返しながらも、翌日夕方には退院できた。

幾度も繰り返した退院だが、いつも帰宅が嬉しくてならない。それは、新しい出発だからだろう。

新しい出発は反省から始めたい。

少し旅をしたい。上山、山寺、出羽三山・・・山形が良いか、それとも良寛の新潟か。

もう一度生き方を見つめたいと思っている。 

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飯豊山初冠雪

  


虫に教えられる 人間の愚かさ

2019-10-29 | エッセイ

10/2の拙ブログ 「深まる秋 愛おしい虫たち」をエッセイにまとめた。

(blog.goo.ne.jp/tosimatu_1946/e/dedf21d80341b6f6535c757258a64857)


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秋の深まりを感じながら里山を歩いた。ススキが輝き、栗のイガが熟し割れてきた。

上空には、うろこ雲にアキアカネが舞っている。

方々で始まったコンバインの刈り取り風景をしばし見学した。

休耕田を席巻する、背丈以上に伸びたセイタカアワダチソウには驚いた。

その一角にミゾソバが群生し、正にチョウやハチの花園となっていた。

近年見かけるようになった南国のチョウ・ツマグロヒョウモン雌の新鮮な美しい姿に魅せられた。

ウラナミシジミが花から花へと蜜を求め、赤紫色のツリフネソウにはクマバチが、また色褪せたイチモンジセセリも忙しそうに飛び交っていた。

立ち止まって精一杯生きる小さな虫たちを見つめた。

争いのない花園のチョウたちに、人間は実に愚かな生きものかをあらためて教えられた。

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安らかで穏やかな平和

2019-08-19 | エッセイ

                                                                           

 「麦わら帽子は もう消えた」で始まる歌「夏休み」があった。

炎天下に、麦わら帽子をかぶって田の一本道を歩いていた小学生のころを懐かしく鮮明に思い出す。

オオムラサキやゴマダラチョウが集い、クワガタ、カブトが無心に樹液を吸うクヌギ林を目指していた。

そんな、小さな虫を求める純真な少年の日々を忘れない。それは安らぎそのものだった。

戦後間もなく、まだ世の中全体が貧しい生活を送っていたころだ。

思えば、国際的な対立や経済優先の物欲主義の風潮、さらには疎くなった近所付き合いなど、今の時代は決して平和とは言えない。

戦争がないことや便利であることだけが平和ではない。

かつて、蚊帳を吊って、家族が川の字に寝ていた夏の夜を思い出す。

クーラーなどないが、猛暑をしのぐ、穏やかな安らぎのある日々があった。