創発企業経営

15年目の会社の経営、事業報告

渋沢栄一 (2)

2012年09月27日 | 経営
写真は深谷市にある「誠之堂」です。
この美しい煉瓦つくりの建物は渋沢栄一の喜寿を祝して、第一銀行の行員の出資により建築されたそうです。
 
渋沢が 500 もの企業設立に係ることができたのは、現代とは時代も背景も異なるのは事実ですが、当時は現代とは異なる困難さがありました。
明治の初め、日本には企業というものがありませんでした。 この状況を渋沢栄一は次のように語っています。
 
日本の農工商の実態についていえば、商はわずかに味噌の小売りに従い、農と云えば大根を作って沢庵漬けの材料を供しているだけだ。 工といったところで、老いた女性が糸車を使って、機織りをしているにすぎない。
 
 
渋沢栄一が明治政府の役人を退職し、最初にしたことは銀行の設立でした。 明治29年に日本初の銀行である、第一国立銀行の初代頭取になり、ここを拠点に活動を開始します。
 
銀行は Bank の翻訳ですが、諸説あるにせよ、銀行という訳語は渋沢栄一が作ったという説があります。 中国でも韓国でも銀行は銀行です。 訳語が日本から伝わったか否かはともかく、東洋における近代的な銀行の先駆けであったようです。
 
Bank は、土手や堆の意味ですが、まさにお金を貯めることにより大きな力を得ようとしたのでした。 これを渋沢は次のように表現しています。
 
「銀行とは大河のようなもので、 役に立つことは限りがない。
しかし、 まだ銀行に集まってこない間は、 お金は溝にたまつている水や、 ポタポ夕と垂れる滴のようなものだ。
これでは人の役に立ち、 国を富ませる働きは現さない。
水に流れるカがあっても、 土手や岡に妨げられていては、 少しも進むことができない。
 
ところが、 銀行を作り、上手にその流路を開くと、 蔵や懐ろにあったお金が集まり、多額の資金となる。
そのおかげで貿易は繁盛し、 産物も増え、 工業も発達し、学問も進歩し、道路も改良されて、人智が開かれ、 国が富み .... 」
 
 
当時、銀行の役割がいかに重要であったかが判ります。 しかし、お金を蓄える目的は、高度成長期後の低成長、デフレ期に安定を求めたサラリーマン意識にはそぐわないこともわかります。 蓄えたお金が上手に流路を開いて、使われて社会を発展させるという意識と結びついていないと意味がないことがわかります。
 
「蓄えたお金を何に使うか」という判断は、洞察力が必要な人間として高度な次元の判断が必要であることもわかります。 自我(エゴ)のために努力する近視眼的な人には見通せない世界です。

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