二の丸から北側遺構
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三の丸
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三の丸の北側に物見台曲輪の城壁を横堀が囲んでいます。
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三の丸の北西に進むと二の丸虎口
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/26/c4/cf56618d4b9288221699f2a17581c764.jpg)
二の丸に入り
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二の丸南虎口を見下ろしています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/48/c7/0e71d7ee9c6428be853c10369686f706.jpg)
二の丸、奥に見える高土居は本丸城壁です。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/14/6b/4d89f161456e232ab1dbf7d826251b2d.jpg)
二の丸の東側にある物見曲輪、これは二の丸の東側を守る土塁では?
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2f/c9/6e0ebad25132e0b2911fe7e2e210e0dc.jpg)
物見台
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物見台から二の丸を見渡しています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/73/4e/85d33b7856ad32ac99ac37dd5d0b7468.jpg)
物見台の麓にある横堀と三の丸を見下ろしています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/46/60/2a5d23e2e5ca10d132154f4956826f4a.jpg)
二の丸の北側を下り、北曲輪が受けています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/61/d0/655568c72c1a1800ae74ea66ac2a6c75.jpg)
北第二曲輪、この先に柳瀬川
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俯瞰図は「余湖くんのお城のページ」より
次回 東側遺構から本丸へ
訂正 説明版では佐々木信綱ではなく盛綱でした。
近江国佐々木庄を地盤とする宇多源氏佐々木氏の棟梁である佐々木秀義の三男として生まれる。平治元年(1159年)の平治の乱で父が従った源義朝の敗北により、一門と共に関東へと落ち延び、渋谷重国の庇護を受ける。仁安元年(1166年)、元服して名を盛綱に改める[1]と、16歳で伊豆に流された義朝の遺児・源頼朝の身辺に仕える事となった。
治承4年(1180年)8月6日、平氏打倒を決意した頼朝の私室に一人呼ばれ、挙兵の計画を告げられる。この時に頼朝は「未だ口外せざるといえも、偏に汝を恃むに依って話す」と述べた。頼朝は他の家人である工藤茂光、土肥実平、岡崎義実、天野遠景、加藤景廉にも同様の言葉を述べていたが、それでも盛綱は当初から頼朝の信頼が厚かった事が分かる。
8月17日の挙兵の日、兄達が平兼隆の後見で勇士とされた堤信遠を討った後、景廉と共に兼隆の邸宅へと赴きその首を獲った。20日、頼朝に従い相模国へと赴くが石橋山の戦いで敗れる。盛綱兄弟は石橋山で平氏側であった渋谷重国の館に逃れ、重国は喜んで盛綱らを迎え倉庫に隠しもてなした。安房へ逃れていた頼朝が再び兵を集め鎌倉に入ると、盛綱兄弟は再び頼朝の下に参じ、10月20日の富士川の戦いで平氏を破り、23日に相模国国府で行われた挙兵後初の論功行賞では、旧領の佐々木庄を安堵された。11月4日、常陸国府での佐竹秀義との戦いにも加わる。
寿永元年(1182年)6月7日、由比ヶ浜での酒宴で、酒に酔い倒れた加藤景廉の介抱を行う。10月17日、頼朝の嫡子である源頼家が産所から邸宅に入る際の輿を担いでいる。
元暦元年(1184年)12月、盛綱は平氏追討の為備前国児島に在り、7日には平行盛が率いる五百余騎が篭もる城を攻め落とす。この合戦は藤戸の戦いと呼ばれ、『平家物語』にも描かれており、島に篭もる行盛に対し、漁師から馬でも渡れる浅瀬を聞き出した盛綱が、藤戸の海峡の波を馬で乗り越え先陣を切って攻め入ったとされる。なお地元ではその漁師を口封じの為に殺したと伝わる。それを題材として、謡曲「藤戸」が作られた。①
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三の丸
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三の丸の北側に物見台曲輪の城壁を横堀が囲んでいます。
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三の丸の北西に進むと二の丸虎口
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二の丸に入り
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二の丸南虎口を見下ろしています。
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二の丸、奥に見える高土居は本丸城壁です。
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二の丸の東側にある物見曲輪、これは二の丸の東側を守る土塁では?
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物見台
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物見台から二の丸を見渡しています。
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物見台の麓にある横堀と三の丸を見下ろしています。
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二の丸の北側を下り、北曲輪が受けています。
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北第二曲輪、この先に柳瀬川
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俯瞰図は「余湖くんのお城のページ」より
次回 東側遺構から本丸へ
訂正 説明版では佐々木信綱ではなく盛綱でした。
近江国佐々木庄を地盤とする宇多源氏佐々木氏の棟梁である佐々木秀義の三男として生まれる。平治元年(1159年)の平治の乱で父が従った源義朝の敗北により、一門と共に関東へと落ち延び、渋谷重国の庇護を受ける。仁安元年(1166年)、元服して名を盛綱に改める[1]と、16歳で伊豆に流された義朝の遺児・源頼朝の身辺に仕える事となった。
治承4年(1180年)8月6日、平氏打倒を決意した頼朝の私室に一人呼ばれ、挙兵の計画を告げられる。この時に頼朝は「未だ口外せざるといえも、偏に汝を恃むに依って話す」と述べた。頼朝は他の家人である工藤茂光、土肥実平、岡崎義実、天野遠景、加藤景廉にも同様の言葉を述べていたが、それでも盛綱は当初から頼朝の信頼が厚かった事が分かる。
8月17日の挙兵の日、兄達が平兼隆の後見で勇士とされた堤信遠を討った後、景廉と共に兼隆の邸宅へと赴きその首を獲った。20日、頼朝に従い相模国へと赴くが石橋山の戦いで敗れる。盛綱兄弟は石橋山で平氏側であった渋谷重国の館に逃れ、重国は喜んで盛綱らを迎え倉庫に隠しもてなした。安房へ逃れていた頼朝が再び兵を集め鎌倉に入ると、盛綱兄弟は再び頼朝の下に参じ、10月20日の富士川の戦いで平氏を破り、23日に相模国国府で行われた挙兵後初の論功行賞では、旧領の佐々木庄を安堵された。11月4日、常陸国府での佐竹秀義との戦いにも加わる。
寿永元年(1182年)6月7日、由比ヶ浜での酒宴で、酒に酔い倒れた加藤景廉の介抱を行う。10月17日、頼朝の嫡子である源頼家が産所から邸宅に入る際の輿を担いでいる。
元暦元年(1184年)12月、盛綱は平氏追討の為備前国児島に在り、7日には平行盛が率いる五百余騎が篭もる城を攻め落とす。この合戦は藤戸の戦いと呼ばれ、『平家物語』にも描かれており、島に篭もる行盛に対し、漁師から馬でも渡れる浅瀬を聞き出した盛綱が、藤戸の海峡の波を馬で乗り越え先陣を切って攻め入ったとされる。なお地元ではその漁師を口封じの為に殺したと伝わる。それを題材として、謡曲「藤戸」が作られた。①