山城めぐり(兄弟ブログ biglob)

新潟、山梨、長野、群馬、栃木、埼玉県などの埋もれた城跡を探索しております。カテゴリ「城郭一覧」で簡単にアクセス。
 

石生山城

2018-03-25 21:21:13 | 山城ー野州
石生山城は栃木県那珂川町大内にあります。明日はgooのメンテナンスのため更新できません。

石生山城地図

国道461号線で御前岩という観光地があり

この御前岩の北50mほどに、この看板があり、赤い橋を渡ってハイキング道へ

那珂川町観光案内が石生山の看板の横にあり、駐車スペース5台ほど

御前岩

橋を渡って右手に赤い鳥居をくくって山道を登ります。途中で林道は登り道と山裾の道に分かれます。私は登り道を行きましたが、山裾の道を進み沢になったら、そこを登ればよいそうです。

林道の登り道は尾根に着いて、東に進み山を下り、また山を登るとこの堀切がある尾根に着きます。

堀切3から北に下れば曲輪4

縄張り図は「余湖くんのお城のページ」より

堀切4

堀切3(各曲輪は薮です)

堀切2

本丸

本丸の東側を削平してお宮を祭っています。

本丸南側

栃木県の中世城郭では「那須勢力に対して築かれた佐竹氏の城ではないか」というように推定している。
 実際の所、佐竹氏の城であるのかどうか、現在の情報からだけでは判断がつかない。ただし、この地域には下郷要害城のように、佐竹氏に攻め落とされた城も存在しており、近くに佐竹氏が付け城を置いた可能性も否定できない。その付け城としては私は下郷要害古城を想定しているのだが、その辺も含めて再検討する価値はあるものと思われる。記事は「余湖くんのお城のページ」より

石生山城は本丸を南に位置し、堀切2・3・4と北を意識した縄張りであることは確かです。とすれば下郷要害城(北3km)を攻めるための佐竹氏の山城との可能性は高いと思います




下郷要害城③

2018-03-24 19:57:35 | 山城ー野州
本丸へ(ここでも新発見の曲輪を確認しました。)

二の丸に戻り、本丸城壁を見ています。

二の丸の東側の本丸南下曲輪から本丸城壁を見ています。

本丸南下曲輪を見下ろしています。

本丸

本丸北側に櫓台

本丸を北から見ています。

本丸東下の大堀切、この対面の上に新発見の曲輪(東曲輪とします)があります。

径40m円形に近い曲輪で、東奥に土塁を設けています。

疑いをはさむ余地をなくすため、土塁をアップで撮っています。

東から東曲輪を見ています。

念のためもう一度西から全体を見ています。

東曲輪から東に尾根が登っていて、物見があっても不思議ではない地形です。

頂部に行ってみると、ここにも林道が入り込み、物見があったかは確認できませんでした。

東曲輪の城壁を見て、山を下りました。

次回 石生山城

宇都宮正綱②
享徳の乱
享徳の乱以降関東においては古河公方足利成氏と関東管領上杉氏が対立しており、正綱は小山持政に従い、成氏方について転戦していた。
しかし、1470年頃になると成氏方は押されつつあり、厳しい状況になっていた。その際に重臣芳賀高益の献策により宇都宮氏は一時的に上杉方に寝返っている。
1476年、上杉方の長尾景春が反乱を起こした(長尾景春の乱)。
1477年正月には、翌年に行われる予定の宇都宮社社殿の式年遷宮に向けて日光山と宇都宮社の関係を説き描いた『日光山縁起』絵巻の転写などの準備をしていた[10]。
1477年、正綱は成氏に従い長尾景春の救援に向かったが、上野国の川曲の戦いで陣没した。更に従軍していた宇都宮一族の横田綱親・保業・清業父子、今泉盛泰も討死し、紀党の棟梁益子唯正・延正父子も討死する等甚大な被害を受けた[11]。享年31。ウィキペディアより





下郷要害城②

2018-03-23 19:55:58 | 山城ー野州
曲輪2から曲輪3へ


曲輪2から本丸城壁を見ています。

伐採用の林道を作ったために破壊されています。

余湖さんの縄張り図では曲輪2と曲輪3は段差があるのみでしたが、現状はこのようになっています。(那珂川町の文化財課に連絡いたします。)

曲輪3から曲輪2の段差を見ています。段差の下には林道

曲輪2の段差に作られた林道

曲輪3の南に伸びた部分

曲輪3から西尾根

西尾根の先端にある西曲輪(この曲輪から北尾根があったらしく曲輪6を見逃していました。)

西曲輪から南西尾根が下っていて

大山田下郷集落、国道461号線を北上すれば旧黒羽町(那須七騎の大関氏の支配下)

西尾根から南西尾根を見ています。

西尾根から曲輪3の南に伸びた尾根

曲輪3の南尾根下の腰曲輪

第二腰曲輪

武茂兼綱の父宇都宮正綱について
武茂氏・宇都宮氏の当主となる
宇都宮氏宗家の家督は兄の宇都宮明綱が継いでいたため、父等綱の実家である武茂氏の家督を継承し、武茂氏の当主となった[4]。
寛正4年(1463年)死去した兄・宇都宮明綱に子がなかったので、宇都宮氏本家の家督も継承し宇都宮氏、武茂氏両氏の当主となった[5]。
この頃の宇都宮氏の勢威は衰退しきっており滅亡の危機に晒されていたが、明綱・正綱兄弟は小山氏当主小山持政の甥であるため、持政からの後見を受けていた。しかし、その代償として都賀郡や南部の宇都宮領を小山氏に譲渡することになった。また、当時は小山氏は最盛期を迎えており、持政に宇都宮家中を介入されたりもしていた[6]。
戦国期宇都宮家中の原型を成立
正綱は塩谷氏、武茂氏といった主要な宇都宮一族を臣従化させ、宇都宮家中の原型を形成させた。 臣従のあかしとして宇都宮氏惣領の通字である「綱」の一字を実名に与えていることが特徴であり、こうして形成された宇都宮家中は室町時代の頃の盟約的な一族結合である「一家中」とは明確に異なっていた[7]。そのため宇都宮正綱の代から少しずつ戦国大名化していった。
塩谷氏は文正元年(1466年)時点だと塩谷周防守(塩谷氏惣領)、塩谷安芸入道といった人物が活躍していたが宇都宮氏とは敵対的であり、次代の塩谷民部少輔の代には正綱に臣従している。以降、宇都宮氏と塩谷氏の関係が大きく変わっているため塩谷民部少輔は塩谷周防守の子ではなく別の宇都宮氏流塩谷氏出身である可能性も指摘されている。正綱が塩谷民部少輔を取り立て、塩谷氏惣領の家督を継承させた[8]。『秋田塩谷系譜』に基づけば、塩谷民部少輔は塩谷隆綱である可能性があるが定かではない。
武茂氏は正綱自身が継いでいたが、後に嫡男の兼綱に武茂氏を継がせて武茂氏当主にさせている。また、宇都宮一族の壬生氏も壬生胤業の子に綱の一字を与え壬生綱重と名乗らせた[9]。但し、これらのことは次代の宇都宮成綱が行った可能性もある。
上三川氏、今泉氏、横田氏、多功氏といった宇都宮一族は以前から宇都宮氏惣領に従順だった。
正綱が原型としての宇都宮家中を成立させ、次代の『中興の祖』宇都宮成綱がそれを発展させて家臣団の再編が成し遂げられた。ウィキペディアより

下郷要害城

2018-03-22 22:45:23 | 山城ー野州
下郷要害城は栃木県那珂川町大山田下郷にあります。

下郷要害城地図


国道461号線で、大山田下郷地区に入り大山田郵便局があります。郵便局の前に空き地があり、ここに駐車させてもらいました。(郵便局員に断わっています。)郵便局から北へ100mほどで、四川豆板醬の会社があり、この右手の道を進みます。

城山遠景、右奥の山

武茂川を渡る緑の橋

橋から北に40mほどで、山道に入ります。

壕道を歩きますと、すぐに館跡ではと思われる平地があります。

山道を500m?くらいひたすら沢の左手を歩きます。(途中墓地に登る道がありますが、そこを登らず東の山道を進みます。)山道は尾根に突き当たり、堀切が見えてきます。

堀切の登る右手に曲輪があります。

堀切に登って、奥へ進めば主郭部、手前に進めば曲輪4

曲輪4

一段高く曲輪5

縄張り図は「余湖くんのお城のページ」より

堀切に戻り

曲輪2に入ります。

次回 曲輪3へ(杉木の伐採のための林道が作られて破壊されつつあります。)

武茂兼綱
宇都宮正綱の子として誕生。父・正綱は断絶していた武茂氏の名跡を継ぎ、武茂太郎と称して武茂氏を再興したが、寛正4年11月13日(1463年11月23日)、宇都宮明綱が没すると下野宇都宮氏を継いだために、再び武茂氏は断絶する。
その後、長兄・成綱の命によって兼綱は武茂氏の養子となり、武茂氏を再興する。この頃の武茂氏と宇都宮氏は成綱が宇都宮氏の家督を継いだ時に対立しており、関係が良くなかった。兼綱の武茂氏継承は正綱以降、断絶している武茂氏を再興させるだけでなく、関係が悪化していた一門を再び取り込むという意味で重要であった。また、これによって手薄だった北の守りを整えるという宇都宮氏当主・成綱の思惑も成功した。しかし、その後成綱に対して不満を抱いた兼綱が反乱を起こしていることが確認できる[3]。反乱の具体的な時期は不明であるが、初代古河公方・足利成氏が白河結城氏の一門である小峯氏に成綱と兼綱の和解の仲介を依頼した書状[4]や、成綱方について兼綱と戦った宇都宮氏家臣の簗右京亮に対する感状[5]が伝えられており、古河公方が武茂氏の反乱に対して宇都宮氏を擁護していたことが分かる[6]。
その後、勢力を着実に拡大させている常陸国の佐竹氏と争った。また、兼綱の代に武茂城は修復整備された。
明応8年(1499年)には、乾徳寺[7]の開基となり、武茂氏の菩提寺とした。ウィキペディアより







上郷隆崖城②

2018-03-21 19:53:32 | 山城ー野州
主郭部へ


堀切越しに曲輪4を見ています。

反対に曲輪3の城壁を見ています。

曲輪3

曲輪3の南下、曲輪6

曲輪6を南から見ています。

曲輪2-A

曲輪2-Aを見返しています。

曲輪2-B

本丸

本丸の西側に空堀

西尾根を進むと堀切A

縄張り図は「余湖くんのお城のページ」より、曲輪2をAとBとに分けましたが、このように本来別の曲輪としたほうが良いと思われます。
次回 那珂川町 下郷要害城

下郷要害城を築いた武茂氏について
宇都宮 泰宗(うつのみや やすむね)は、鎌倉時代中期から後期にかけての武将。
宇都宮氏6代(藤原宗円から数えると8代)・下野国守護の宇都宮貞綱の弟で、貞綱が元寇の際、執権北条時宗の命を受け、蒙古討伐軍総大将として九州に下った時に同行し、筑後国山門郡瀬高の大木城を拠点とした。瀬高には藤原氏北家閑院流の三条家から分かれた徳大寺家の荘園があり、泰宗は荘官としてその管理にも関わっていた。
泰宗の嫡男・武茂時綱(宇都宮時景)は常陸国武茂庄を継ぎ、時綱の曽孫持綱は下野の宇都宮氏宗家を継ぎ、武茂氏は持綱の外孫の芳賀正綱が継いだ。しかしその正綱も宇都宮明綱の死後、宇都宮宗家を継いだため(異説あり)正綱の三男の兼綱が武茂氏を継ぐ。ウィキペディアより