坂戸城は新潟県南魚沼市(旧六日町)坂戸にある坂戸山山頂にあります。
坂戸城地図
国道291号線に入り城址の案内板があり、、坂戸橋から登り口の駐車場まで案内されています。
駐車場にある登り道案内図、三つのルートがあり、今回は赤の道から山頂に登り、青の道で戻りました。
駐車場から北に入ってすぐに広大な家臣屋敷跡が一面に広がっています。
家臣屋敷跡から西に100mくらいで右への道があり、案内図の赤のルート途中から東に廻って青のルートに繋がる間に御居間屋敷跡があります。虎口
御居間屋敷跡
赤のルートに戻って50mほど西に館跡があります。この奥へ入れば大きな建物のあったであろう曲輪が幾つも並んでいます。
敷地の西側に上杉景勝・直江兼続の誕生の地と碑があります。
ここから山道に入ります。標高634m少々登りがいがあります。クマ出没も考えられますので注意を
中途にある簡略図、これにあるように、実城から北東尾根には大城、小城があり、見逃さないようにしてください。
旧六日町市街
六合目あたりで、この棒標があり右は桃木平から実城へ、今回行ったことのない主水郭の道へ行きました。
本日はここまで
中世越後の魚沼郡南部(南魚沼郡)には上田荘があり、鎌倉時代頃には清和源氏流新田氏一族の勢力下にあって、当時、荘の中心を扼する坂戸山に城郭が築かれていたものとも推定されるが、本格的な造営は南北朝時代にはいって以降のことと考えられている。
南北朝動乱において、北朝方に立った上杉氏は、越後国南部から南朝方に属した新田氏らを放逐し、上杉憲顕のときに越後の守護に任じられたが、その家臣長尾高景の一族の者が、文和年間(1352年-1355年)に上田荘を領し、上田長尾氏を称して、坂戸山を居城にしたと伝承される。こののち上田長尾氏は、守護代の長尾氏とならんで越後国に枢要な位置を占めた。その居城である坂戸城は、越後府中(現在の上越市直江津地区)と関東平野を結ぶ陸上交通の抑えとして、また、魚野川を利用した河川交通の要所として、さらに魚沼の穀倉地帯を擁する経済上の要地として、重要な役割を担うこととなった。
守護代長尾為景は、永正4年(1507年)、越後の国人衆を糾合して守護上杉房能を排斥し、永正7年(1510年)には関東管領上杉顕定をも長森原の戦いにおいて敗死させて越後一国に覇を唱えた。上田長尾氏は守護代長尾氏に対して一定の独立性を保持したものの、為景の死後、長尾景虎(上杉謙信)が越後国主となるにおよび、天文20年(1551年)には上田長尾氏の長尾政景が上杉謙信に坂戸城を包囲され、謙信に誓詞を提出して、その軍門に降ったとされる。なお、その後、政景は立身するものの、永禄7年(1564年)、付近の野尻池にて琵琶嶋城主宇佐美定満(下平吉長とも)との舟遊び中に定満とともに謎の死を遂げている。ウィキペディアより
坂戸城地図
国道291号線に入り城址の案内板があり、、坂戸橋から登り口の駐車場まで案内されています。
駐車場にある登り道案内図、三つのルートがあり、今回は赤の道から山頂に登り、青の道で戻りました。
駐車場から北に入ってすぐに広大な家臣屋敷跡が一面に広がっています。
家臣屋敷跡から西に100mくらいで右への道があり、案内図の赤のルート途中から東に廻って青のルートに繋がる間に御居間屋敷跡があります。虎口
御居間屋敷跡
赤のルートに戻って50mほど西に館跡があります。この奥へ入れば大きな建物のあったであろう曲輪が幾つも並んでいます。
敷地の西側に上杉景勝・直江兼続の誕生の地と碑があります。
ここから山道に入ります。標高634m少々登りがいがあります。クマ出没も考えられますので注意を
中途にある簡略図、これにあるように、実城から北東尾根には大城、小城があり、見逃さないようにしてください。
旧六日町市街
六合目あたりで、この棒標があり右は桃木平から実城へ、今回行ったことのない主水郭の道へ行きました。
本日はここまで
中世越後の魚沼郡南部(南魚沼郡)には上田荘があり、鎌倉時代頃には清和源氏流新田氏一族の勢力下にあって、当時、荘の中心を扼する坂戸山に城郭が築かれていたものとも推定されるが、本格的な造営は南北朝時代にはいって以降のことと考えられている。
南北朝動乱において、北朝方に立った上杉氏は、越後国南部から南朝方に属した新田氏らを放逐し、上杉憲顕のときに越後の守護に任じられたが、その家臣長尾高景の一族の者が、文和年間(1352年-1355年)に上田荘を領し、上田長尾氏を称して、坂戸山を居城にしたと伝承される。こののち上田長尾氏は、守護代の長尾氏とならんで越後国に枢要な位置を占めた。その居城である坂戸城は、越後府中(現在の上越市直江津地区)と関東平野を結ぶ陸上交通の抑えとして、また、魚野川を利用した河川交通の要所として、さらに魚沼の穀倉地帯を擁する経済上の要地として、重要な役割を担うこととなった。
守護代長尾為景は、永正4年(1507年)、越後の国人衆を糾合して守護上杉房能を排斥し、永正7年(1510年)には関東管領上杉顕定をも長森原の戦いにおいて敗死させて越後一国に覇を唱えた。上田長尾氏は守護代長尾氏に対して一定の独立性を保持したものの、為景の死後、長尾景虎(上杉謙信)が越後国主となるにおよび、天文20年(1551年)には上田長尾氏の長尾政景が上杉謙信に坂戸城を包囲され、謙信に誓詞を提出して、その軍門に降ったとされる。なお、その後、政景は立身するものの、永禄7年(1564年)、付近の野尻池にて琵琶嶋城主宇佐美定満(下平吉長とも)との舟遊び中に定満とともに謎の死を遂げている。ウィキペディアより