丹生城は群馬県富岡市上丹生にあります。
丹生城地図
国道254号線の信号一宮から南に一つ先の信号を右折し、県道199号線を西に進みます。丹生小の二又の道をまっすぐ地方道48号線を北に進み、丹生貯水池の看板の交差点を左折し、金乗寺を目指します。寺を過ぎて高速道高架の橋があり、その左手が丹生城入り口です。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3e/49/9869fdf8338807704e249ae223802005.jpg)
金乗寺山門
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/15/ee/d3be76f22c2575f9efbdb6716d28c989.jpg)
寺の手前の脇道に俯瞰図があります。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4c/05/7fe090133baa8ca9661713c394649c2e.jpg)
脇道(林道)を登ってゆきますと、上信越道高架に着きます。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/17/57/ec53c05d79783d7559539704c8c96a9a.jpg)
橋の左手に城址入り口があります。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/38/75/35a09a725b00c74c1bb499bcba0e8b77.jpg)
入ってすぐに土橋
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/76/87/961c35883a6ba89775336aa53c8add80.jpg)
土橋を守る曲輪
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/00/55/818f55d4b3bd48e9989c983e5f85cb7a.jpg)
道を進むと右手に竪堀
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0a/4c/c6b907fda2eb9ebf68d081dbc106b1e9.jpg)
竪堀ク、この上には曲輪④ですが薮です。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/31/9b/924ad9a8be62a5e3d0237faec3b7c284.jpg)
竪堀、三つの竪堀は西斜面で合わさっています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/27/19/a89c82cf2282e3f58ba79ea9d87b3174.jpg)
三つの竪堀を過ぎると奥に本丸、手前が二の丸(寺の俯瞰図の二の丸は異なります。)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6e/41/022c3648c5c10fe3ffade7ab22a58435.jpg)
本丸下にある図も、本丸の西には西曲輪としていますが、私は二の丸と思います。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0d/e6/a0e3391982e5268481a43cac1c4573c5.jpg)
縄張り図は「境目の山城と館 上野編」宮坂武男氏著、④・③の竪堀を眺めて、本丸北下曲輪に来ています。
次回 南側の曲輪⑬、曲輪⑪周辺を歩きます。
『上野志』『上野故城塁記』には「新田義貞の末弟四郎義重は、北条時行の乱の功により、足利直義から甘楽郡を与えられて、丹生城に住し、弾正重兼、佐衛門義景、主税行崇、主水正景純の8代がここに居住し、永禄3年に武田信玄に属した」といった内容のことが記載されているという。
ただし、『日本城郭体系』によると、新田氏といっても新田義貞の嫡流ではなく、岩松氏の一族がこの地に入部して新田氏を名乗るようになったものではないかという。つまり、応永23年(1416)に、関東公方足利持氏から丹生郡を与えられた岩松伊予守がここに拠ったのが、丹生城の始まりではないかというのである。どちらの説が正しいのか現時点ではよく分からない。
いずれにしても、室町初期の段階の城としては、よくできすぎている感じがするが、何代もの間に改修されて、現在の姿になってといってよいのだと思う。
新田景純は、弘治元年(1555)、後閑城を攻略し、永禄2年(1559)には武田信玄に属するようになったが、翌年、上杉謙信の関東進出が始まると、難を避け、武田氏に従って、甲州へ移っていったという。
しかし永禄4年、謙信が去ると、武田信玄は再び上州に進出してきて国峰城を攻略し、小幡信実に与えた。一方の新田景純は、甲州で死去してしまうが、景純の子の信純は、後の永禄9年、武田氏の箕輪城攻めに従軍して功績を挙げ、後閑城を与えられたという。「余湖くんのお城のページ」丹生城記事より
丹生城地図
国道254号線の信号一宮から南に一つ先の信号を右折し、県道199号線を西に進みます。丹生小の二又の道をまっすぐ地方道48号線を北に進み、丹生貯水池の看板の交差点を左折し、金乗寺を目指します。寺を過ぎて高速道高架の橋があり、その左手が丹生城入り口です。
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金乗寺山門
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寺の手前の脇道に俯瞰図があります。
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脇道(林道)を登ってゆきますと、上信越道高架に着きます。
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橋の左手に城址入り口があります。
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入ってすぐに土橋
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土橋を守る曲輪
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道を進むと右手に竪堀
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竪堀ク、この上には曲輪④ですが薮です。
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竪堀、三つの竪堀は西斜面で合わさっています。
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三つの竪堀を過ぎると奥に本丸、手前が二の丸(寺の俯瞰図の二の丸は異なります。)
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本丸下にある図も、本丸の西には西曲輪としていますが、私は二の丸と思います。
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縄張り図は「境目の山城と館 上野編」宮坂武男氏著、④・③の竪堀を眺めて、本丸北下曲輪に来ています。
次回 南側の曲輪⑬、曲輪⑪周辺を歩きます。
『上野志』『上野故城塁記』には「新田義貞の末弟四郎義重は、北条時行の乱の功により、足利直義から甘楽郡を与えられて、丹生城に住し、弾正重兼、佐衛門義景、主税行崇、主水正景純の8代がここに居住し、永禄3年に武田信玄に属した」といった内容のことが記載されているという。
ただし、『日本城郭体系』によると、新田氏といっても新田義貞の嫡流ではなく、岩松氏の一族がこの地に入部して新田氏を名乗るようになったものではないかという。つまり、応永23年(1416)に、関東公方足利持氏から丹生郡を与えられた岩松伊予守がここに拠ったのが、丹生城の始まりではないかというのである。どちらの説が正しいのか現時点ではよく分からない。
いずれにしても、室町初期の段階の城としては、よくできすぎている感じがするが、何代もの間に改修されて、現在の姿になってといってよいのだと思う。
新田景純は、弘治元年(1555)、後閑城を攻略し、永禄2年(1559)には武田信玄に属するようになったが、翌年、上杉謙信の関東進出が始まると、難を避け、武田氏に従って、甲州へ移っていったという。
しかし永禄4年、謙信が去ると、武田信玄は再び上州に進出してきて国峰城を攻略し、小幡信実に与えた。一方の新田景純は、甲州で死去してしまうが、景純の子の信純は、後の永禄9年、武田氏の箕輪城攻めに従軍して功績を挙げ、後閑城を与えられたという。「余湖くんのお城のページ」丹生城記事より