山城めぐり(兄弟ブログ biglob)

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山本勘介の子孫

2018-05-11 23:03:13 | 日記
かつて私の実家の墓石の中に山本勘介の娘りよという人の墓があると記事にしましたが、もう少し山本勘介の子孫について調べてみようと思います。


「山本菅助」とその子孫


真下家所蔵文書・沼津山本家文書によれば、初代山本菅助の子息には二代山本菅助がいる。幼名は兵蔵、諱は幸房とされる。二代菅助は『甲斐国志』巻之九十六では「山本勘助」の項目に続いて勘助子息の「山本某」を立項し、実名を不詳としつつ一本系図によれば名は「勘蔵信供」としている。「山本某」は天正3年(1575年)5月21日の長篠の戦いで戦死したとし、『沼津山本家文書』でも二代菅助は長篠合戦で戦死したと記している。また、『甲斐国志』巻之百九では「饗庭修理ノ亮」を立項し、饗庭利長(越前守)次男の十左衛門頼元が勘助の娘を妻とし改姓し、山本十左衛門尉を名乗ったとしている。
文書上においては『天正壬午起請文』において「信玄直参衆」に山本十左衛門尉の名が見られ、武田氏滅亡後に徳川家康に使えていることが確認されている[15]。
2009年に群馬県安中市で発見された真下家文書には「山本菅助」文書を含む5通の山本氏関係文書が存在しているが、その中には天正4年推定の「山本菅助」の後継的立場にあると考えられている山本十左衛門尉宛の軍役文書が含まれている。また、慶長7年(1602年)から慶長11年間推定の結城秀康書状は十左衛門尉の子平一宛で、徳川家康に仕えた菅助・十左衛門尉の子孫が越前松平家に仕えた可能性が考えられている。
また、真下家文書のうち天文17年山本菅助宛武田晴信判物は東京大学史料編纂所所蔵「古文書雑纂」に収録されているが、注記に拠れば「雑纂」所載山本氏文書は明治25年12月に小倉秀貫が山本勘助子孫であるという旧上野国高崎藩士山本家所蔵の写を探訪したものであるという。高崎藩主は松平信綱5男信興を祖とする松平家で、家臣団関係資料である「高崎藩士家格・家筋並びに苗字断絶者一覧」には信興期からの家臣に「菅助」「十左衛門」を名乗る藩士が存在していることから、「雑纂」注記の高崎藩士山本家に比定されるものと考えられている。
山本菅助子孫にあたる沼津山本家文書によれば、「山本菅助」子孫は徳川氏に仕えた後に再び浪人し甲斐にいたが、寛永10年(1633年)頃に山城国淀藩主永井尚政に再仕官し藩士となり、「菅助」の名乗りを復したという。その後は永井氏の丹波国宮津藩への転封に従い丹波へ移り、後に松平信興に仕え、信興の転封により常陸国土浦藩、下野国壬生藩、越後国村上藩などを経て最終的に上野国高崎藩士となっており、好事家の真下家により文書が収集されたものと考えられている。
沼津山本家文書によれば「山本菅助」子孫は初代「菅助」を『甲陽軍鑑』における山本勘助と同一視しており、再仕官したのちも甲州流軍学を学んだ軍学者として活躍している。




文政9年(1826) 享年68歳 高崎城内 山本勘介娘 りよ とあります。このりよという人は山本十左衛門の子孫にあたる人かもしれません。

娘りよの主人が大越家権大僧都勇延という人で、この僧侶が高崎城内に勤仕していたのか?

毛呂竜谷山城②

2018-05-11 22:30:17 | 山城ー武州
二の丸から本丸へ


二の丸

本丸に祭られた雷電神社

右脇にも神社があります。

本丸北側

本丸から西下の空堀と曲輪9

本丸西下の腰曲輪

曲輪5の西側

本丸から南側毛呂町

1524年上杉憲房が北条方の毛呂要害を攻めたとあり

上杉憲房の生涯
応仁元年(1467年)、上杉憲実の子で僧籍にあった周清の子として誕生。又従兄弟にあたる関東管領・上杉顕定の養子となるが、その立場は必ずしも安定しておらず、長尾景春の乱の最末期には長尾景春らによって山内上杉家当主に擁立されていた時期が存在していたことが知られている[3]。また、顕定には実子(庶子)が存在していたとする説もある[4]。そして、決定的であったのは永正4年(1507年)に古河公方・足利成氏の次男・顕実が顕定の養子になると、顕実は顕定の仮名である「四郎」の名のりが許されて、憲房は後継者から外されて庶流としての地位が確定してしまう。その一方で、顕定-顕実とは別に有力な一軍を率いる存在として各地を転戦することになった[3]。
顕定と共に越後国守護代・長尾為景を討つため出陣し、上野国白井城に駐屯していたが、顕定が長森原の戦いにおいて戦死すると撤退する。関東管領職は顕定の遺言により顕実が継いでいたが、憲房は顕実と争って勝利し、永正9年(1512年)に山内上杉家の家督を継ぎ、永正12年(1515年)の顕実の死によって関東管領職をも継いだ[5](永正の乱)。
しかし家臣・長尾景春の離反、扇谷上杉家の上杉朝興や相模国の北条氏綱、甲斐国の武田信虎などとの長年の抗争による不安定な情況の中で病に倒れ、大永5年(1525年)3月25日、59歳で死去した。
実子・憲政は幼少のため、先に養子として迎えていた憲寛[6]が跡を継いだが、憲房と顕実同様に憲政と憲寛の間でも争いが繰り広げられ、結局は憲寛を追放した憲政が家督を継いだ。ウィキペディアより