山城めぐり(兄弟ブログ biglob)

新潟、山梨、長野、群馬、栃木、埼玉県などの埋もれた城跡を探索しております。カテゴリ「城郭一覧」で簡単にアクセス。
 

織田信長公居館跡

2017-10-02 12:03:51 | 岐阜の山城
館跡を歩きます。

パンフにありますように現在居館跡地を発掘調査しております。

三重塔の南側を発掘しています。

大手

大手道は巨石列通路

千畳敷の発掘







居館跡地から大手を見下ろしています。

大手門

麓から天守閣を望んでいます。

斎藤道三の来歴

史料に見る道三の来歴
下克上によって戦国大名に成り上がったとされる斎藤道三の人物像は、江戸寛永年間成立と見られる史書『美濃国諸旧記』などにより形成され、坂口安吾・海音寺潮五郎・司馬遼太郎らの歴史小説で有名になっていた。しかし、1960年代に始まった『岐阜県史』編纂の過程で大きく人物像は転換した。編纂において「春日倬一郎氏所蔵文書」(後に「春日力氏所蔵文書」)の中から永禄3年(1560年)7月付けの「六角承禎書写」が発見された。この文書は近江守護六角義賢(承禎)が家臣である平井氏・蒲生氏らに宛てたもので、前欠であるが次の内容を持つ。
斎藤治部(義龍)祖父の新左衛門尉は、京都妙覚寺の僧侶であった。
新左衛門尉は西村と名乗り、美濃へ来て長井弥二郎に仕えた。
新左衛門尉は次第に頭角を現し、長井の名字を称するようになった。
義龍父の左近大夫(道三)の代になると、惣領を討ち殺し、諸職を奪い取って、斎藤の名字を名乗った。
道三と義龍は義絶し、義龍は父の首を取った。
同文書の発見により、従来、道三一代のものと見られていたいわゆる「国盗り物語」は、新左衛門尉と道三の親子二代にわたるものである可能性が高くなった。父の新左衛門尉と見られる名が古文書からも検出されており、大永6年(1526年)6月付け「東大寺定使下向注文」(『筒井寛聖氏所蔵文書』所収)および大永8年2月19日付「幕府奉行人奉書案」(『秋田藩採集古文書』所収)に「長井新左衛門尉」の名が見えている。一方、道三の史料上の初出は天文2年(1533年)6月付け文書に見える「藤原規秀」であり、同年11月26日付の長井景弘・長井規秀連署状にもその名が見えるが、真偽の程は不詳である。ウィキペディアより

岐阜城②

2017-10-01 14:06:37 | 岐阜の山城
本丸周辺から一の門へ


天守閣内にある絵図

テラスから見た長良川

天守閣の北側の石垣

北に歩き

岩盤を刳り抜き、雨水を溜めたとあります。

歴史説明板🉂

北に歩き、二の門跡へ




二の門跡から二又に道があり、



木下藤吉郎が瓢箪を掲げたと伝えられています。

道は合流して一の門



門の脇にある縄張り図



説明版にある山上の石垣があるとして

一の門から南側下の道を天守に向かって歩くと現れます。

次回 館跡へ




岐阜城

2017-09-30 19:04:43 | 岐阜の山城
岐阜城は岐阜県岐阜市槻谷にある金華山頂にあります。


ホテルでもらったパンフ、今回は護国神社の右手にある(神社は左手中央)金華山トンネルの左(水手道)から登りました。2kmもあり。苦労して登った割には、尾根に着くまでの遺構はありませんでした。おすすめは右手の百曲り登山道で、途中、曲輪が沢山あったと記憶しています。

金華山トンネルの北側にある水手道

馬の背登山道の分岐点





尾根に着き、南先端部

岐阜市街

北に進むと500mくらいで、この曲輪があります。

石垣でできた北虎口

それを登ると、祠があり城内です。

この通路を北に向かって

天守閣となります。

天守、北虎口

西下に曲輪

説明版(三)

次回 本丸周辺から、麓にある館跡へ

岐阜城の沿革

鎌倉・室町時代

1201年(建仁元年) - 二階堂行政が稲葉山に砦を築いたのが始まりとされる。続いて行政の娘婿・佐藤朝光、その子伊賀光宗、光宗の弟・稲葉光資が砦の主となり支配。二階堂行藤の死後、廃城となる。
15世紀中頃 - 美濃守護代・斎藤利永が、この城を修復して居城とする。
戦国時代[編集]
1525年(大永5年) - 斎藤氏家臣の長井長弘と長井新左衛門尉が謀反を起こして稲葉山城を攻撃。長井氏の支配下となる。
1533年(天文2年) - 新左衛門尉が没すると、その子、長井新九郎規秀(斎藤利政、後の斎藤道三)が後を継ぎ、城主となる。
1539年(天文8年) - 守護代になっていた斎藤利政が、稲葉山山頂に城作りを始める。
1541年(天文10年) - 利政が守護の土岐頼芸を追放。
1547年(天文16年) - 織田信秀、頼芸派の家臣と稲葉山城下まで攻め入るも大敗(加納口の戦い)。
1554年(天文23年) - 利政、城と家督を嫡子の斎藤義龍に譲り剃髪、道三と号する。
1556年(弘治2年)4月 - 義龍、長良川の戦いにより道三を討ち取る。
1561年(永禄4年)5月 - 義龍の急死により、斎藤龍興が13歳で家督を継ぎ、城主となる。
同年6月 - 十四条の戦いに勝利した織田信長が稲葉山城を攻めるも敗退。
1564年(永禄7年)2月 - 斎藤氏の家臣であった竹中重治と安藤守就が造反して挙兵。稲葉山城を攻める。龍興らは城を捨て鵜飼山城へ逃げ、竹中らが城を半年間占拠する。
1567年(永禄10年)9月 - かねてから美濃攻略を狙っていた織田信長が西美濃三人衆の内応により稲葉山城下に進攻(稲葉山城の戦い)。龍興は城を捨てて長良川を舟で下り、伊勢長島へ逃亡した。
同年 - 信長は、本拠地を小牧山城から稲葉山に移転し、古代中国で周王朝の文王が岐山によって天下を平定したのに因んで城と町の名を「岐阜」と改めた。この頃から信長は「天下布武」の朱印を用いるようになり、本格的に天下統一を目指すようになった。ウィキペディアより


司馬遼太郎の小説では京都の油商人であった斎藤道三が、土岐氏に取り入り重臣となって稲葉城主(岐阜城の前身)の道を開いたとありますが、実際は父、長井新左衛門尉が城を奪い、子の長井新九郎規秀(道三)が後を継いだと伝えられています。やはり、油商人ではいくら才覚があっても重臣にはなれなかったと思います


政治を読む(日本会議の狙い)

2017-03-02 21:34:33 | 岐阜の山城
森友学園の教育方針と安倍の後ろのいる日本会議

「日本会議」と安倍政権の親密な関係
このメルマガの記事でも何度も書いてきたし、最近では周知になっていることだが、現在の安倍政権を支えている中心的な政治勢力は、293名の国会議員と1000名の地方議員が参加する「日本会議」である。
【関連】安倍政権の背後にある「日本会議」の知られざる実態と自民党=高島康司
「日本会議」は「日本を守る会」と「日本を守る国民会議」という2つの右翼系政治団体が1997年に合体してできた組織だ。神道系、仏教系、キリスト教系の宗教団体も加盟している。
組織の実質的な運営は、「生長の家」の創始者で天皇制国家の復活を掲げる谷口雅春氏の信奉者が結集する「日本青年協議会」が担っている。その総責任者の椛島有三氏が実質的な運営者だ。この会は1966年の「建国記念の日法制化」や1979年の「元号法制化」を実現させた長い草の根の政治活動歴がある。
日本会議が目指すもの
「日本会議」の公式サイトでは、「日本会議が目指すもの」として次のような目標を掲げている。
美しい伝統の国柄を明日の日本へ
新しい時代にふさわしい新憲法を
国の名誉と国民の命を守る政治を
日本の感性をはぐくむ教育の創造を
国の安全を高め世界への平和貢献を
共生共栄の心でむすぶ世界との友好を
一見するとほとんど当たり障りがない目標だが、「日本会議」の実質的な目標は、憲法改正による戦前に近い天皇制国家の復活である。結局「日本会議」とは、戦前回帰のナショナリズムを志向する団体であることは間違いない。
そして、このような組織の支配を受け入れるようになったのが、現在の自民党の特徴である。「自民党をぶっ壊す」をスローガンにして誕生した小泉政権は、構造改革の実行で自民党の選挙基盤を崩壊させてしまった。
その結果、「日本会議」が自民党の有力な支持基盤として登場した。現在の安倍首相は「天命を担った」存在として目されており、安倍政権の存続期間中になんとしてでも憲法改正を断行する意志を鮮明にしている。
こうしたことは、戦後日本の右翼の歴史とともに、第342回配信のメルマガ記事にも書いた。またその一部は、「マネーボイス」にも掲載されている。詳しく知りたい方はあわせて読んでほしい。


森友学園の幹部に日本会議の大物が理事に入っているそうです。籠池の運営する幼稚園では毎日朝、教育勅語を唱えさせられ、発表会では軍歌を謳わせている。運動会では安倍首相ガンバレと叫び、「安保法制の成立はよかったです」などと覚えさせられている。籠池の考える子供たちが将来、どんな人間にしてゆこうか、これから知れる。天皇制復活などと、馬鹿げたことを、かつてなら一笑に付していた。しかし、293名の国会議員が日本会議の会員であるとなれば、笑い事ではない。トランプと安倍は先日、抱き合って交流を深め、会談を行ったが、この中で「北朝鮮への先制攻撃も一つの選択にあると」告げられていたそうである。もし、アメリカが北朝鮮の核の脅威を未然に防ぐことから、先制攻撃を仕掛けるようなことがあれば、日本にある米軍基地は、必ず攻撃目標となってしまうであろう。こんな世界情勢と天皇の下で国軍を作ろうとする安倍政権は、非常に危険思想もって動いている。子供たちに人を殺す武器を持たせないためにも、今、大人は何をすべきか真剣に考える時と思います。

小里城③

2017-01-28 09:48:05 | 岐阜の山城
詰め丸の本丸へ

この岩場の上に本丸があります。

二の丸からここに登って来て

二の丸を見下ろしています。

本丸に入り天守台の石垣が見えます。

縄張り図

天守閣北虎口

天守閣前にある説明板

雑然とある石も通路として並べてあったようです。東側は足の踏み場もないほど石がごろごろしています。

南側帯曲輪、ここを西に廻っていけば天守閣の石垣をぐるりと見てゆけます。

縄張り図は「余湖くんのホームページ」より

小里光明について
元亀元年(1572年)12月、兄の小里光次は織田信長に従って武田家の秋山虎繁と戦い、舅の明知城主遠山景行らともども上村合戦で討死したため、光明が家督を継ぐ。
天正2年(1574年)に美濃国内の武田氏の岩村城を攻める拠点として小里城を改修し、池田恒興が城の御番手となった。なお翌年岩村城が落城するとこの工事は中止された。
本能寺の変ののち、美濃国主となった織田信孝に仕えた。信孝は羽柴秀吉と不和となり、多くの東美濃の国人達が降るなか、羽柴方の金山城主森長可と対峙し、翌年に信孝が自害するまで仕えたが、森長可により小里城を落とされ、同地を離れ義兄弟の三河国足助の鈴木信義を頼り、和田姓を名乗って徳川家康に仕え三河国小原に住す。
天文12年、長久手の戦いで嫡男光直が負傷しのちにこれがもとで没している。
天正19年(1591年)に旗本・和田光明として相模国東郡岡田郷(現・神奈川県高座郡寒川町)に領地を宛がわれている。
慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いの時、光明の子・光親は小里城に入り、遠山利景・方景父子らとともに明知城を攻めてこれを陥落させ、岩村城を開城させた。
この功によって光親は同年土岐郡の一部と恵那郡の大川村と水上村の旧領3,580石を再び与えられた。
しかし光親の子・光重は嗣子がないまま元和9年(1623年)に亡くなったため、小里氏は断絶した。ウィキペディアより


次回 素晴らしく整備された上州国峰城