東側の遺構を歩きます。
二の丸南先端部の横堀から北側斜面に下ってゆくと支尾根があり、支尾根を下りきって北へ登ると
大きな平地があります。
俯瞰図は「余湖くんのお城のページ」より、右手の支城ともいうべき縄張りの、ポツンと離れた平地が描かれていますが、ここを顕しています。
この平地は湿地帯のように、所々水たまりがあります。もしかしたら水辺の曲輪で、これを守るための腰曲輪が北に位置しています。
二段目の腰曲輪
腰曲輪を登ると南曲輪(仮に)
南曲輪を空堀が東から南に守っています。
空堀の外周から
南東の曲輪へ接続しています。
南東曲輪の南にも空堀が囲みます。
南東曲輪から西の曲輪へ廻ると土橋があり、これを登ると
東曲輪の西下、平地からすれば三段目の腰曲輪に接続しています。
俯瞰図で東支城の本丸というべき大きな曲輪の南下の曲輪を南曲輪としています。赤い線が空堀を顕し、一番下方にある曲輪を南東曲輪としています。土橋は細い線で描いてあり、南曲輪の西下の腰曲輪に接続して描かれています。それにしても、赤く描いてある空堀の外周は、それぞれ巧妙に接続していて、これほど巧みな縄張りは初めてです。
次回 東支城の本丸へ
天神山城主 藤田康邦
当初は山内上杉家に仕え、天神山城を守っていたが、天文15年(1546年)の河越城の戦いの後、北条氏康の攻撃を受けて降伏し、その家臣となった。このとき、氏康の四男・乙千代丸(氏邦)に娘・大福御前を娶らせ、藤田氏の家督を譲っている。そして自らは用土城に居城を移し、用土氏を称した。名を重利から康邦[1]に改めたのもこの頃とされる。
ただし、以上の事蹟については異説も多く存在し、生没年など康邦の実像は解明されていない部分も多い。
康邦の子には用土重連や藤田信吉[2]がいたが、彼らは北条氏にとっては邪魔な存在であり、重連は沼田城代に任じられたものの氏邦に毒殺され、信吉は武田勝頼に寝返っている。ウィキペディアより
二の丸南先端部の横堀から北側斜面に下ってゆくと支尾根があり、支尾根を下りきって北へ登ると
大きな平地があります。
俯瞰図は「余湖くんのお城のページ」より、右手の支城ともいうべき縄張りの、ポツンと離れた平地が描かれていますが、ここを顕しています。
この平地は湿地帯のように、所々水たまりがあります。もしかしたら水辺の曲輪で、これを守るための腰曲輪が北に位置しています。
二段目の腰曲輪
腰曲輪を登ると南曲輪(仮に)
南曲輪を空堀が東から南に守っています。
空堀の外周から
南東の曲輪へ接続しています。
南東曲輪の南にも空堀が囲みます。
南東曲輪から西の曲輪へ廻ると土橋があり、これを登ると
東曲輪の西下、平地からすれば三段目の腰曲輪に接続しています。
俯瞰図で東支城の本丸というべき大きな曲輪の南下の曲輪を南曲輪としています。赤い線が空堀を顕し、一番下方にある曲輪を南東曲輪としています。土橋は細い線で描いてあり、南曲輪の西下の腰曲輪に接続して描かれています。それにしても、赤く描いてある空堀の外周は、それぞれ巧妙に接続していて、これほど巧みな縄張りは初めてです。
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天神山城主 藤田康邦
当初は山内上杉家に仕え、天神山城を守っていたが、天文15年(1546年)の河越城の戦いの後、北条氏康の攻撃を受けて降伏し、その家臣となった。このとき、氏康の四男・乙千代丸(氏邦)に娘・大福御前を娶らせ、藤田氏の家督を譲っている。そして自らは用土城に居城を移し、用土氏を称した。名を重利から康邦[1]に改めたのもこの頃とされる。
ただし、以上の事蹟については異説も多く存在し、生没年など康邦の実像は解明されていない部分も多い。
康邦の子には用土重連や藤田信吉[2]がいたが、彼らは北条氏にとっては邪魔な存在であり、重連は沼田城代に任じられたものの氏邦に毒殺され、信吉は武田勝頼に寝返っている。ウィキペディアより