山城めぐり(兄弟ブログ biglob)

新潟、山梨、長野、群馬、栃木、埼玉県などの埋もれた城跡を探索しております。カテゴリ「城郭一覧」で簡単にアクセス。
 

天神山城②

2018-05-06 21:49:55 | 山城ー武州
東側の遺構を歩きます。

二の丸南先端部の横堀から北側斜面に下ってゆくと支尾根があり、支尾根を下りきって北へ登ると

大きな平地があります。

俯瞰図は「余湖くんのお城のページ」より、右手の支城ともいうべき縄張りの、ポツンと離れた平地が描かれていますが、ここを顕しています。

この平地は湿地帯のように、所々水たまりがあります。もしかしたら水辺の曲輪で、これを守るための腰曲輪が北に位置しています。

二段目の腰曲輪

腰曲輪を登ると南曲輪(仮に)

南曲輪を空堀が東から南に守っています。

空堀の外周から

南東の曲輪へ接続しています。

南東曲輪の南にも空堀が囲みます。

南東曲輪から西の曲輪へ廻ると土橋があり、これを登ると

東曲輪の西下、平地からすれば三段目の腰曲輪に接続しています。

俯瞰図で東支城の本丸というべき大きな曲輪の南下の曲輪を南曲輪としています。赤い線が空堀を顕し、一番下方にある曲輪を南東曲輪としています。土橋は細い線で描いてあり、南曲輪の西下の腰曲輪に接続して描かれています。それにしても、赤く描いてある空堀の外周は、それぞれ巧妙に接続していて、これほど巧みな縄張りは初めてです。

次回 東支城の本丸へ


天神山城主 藤田康邦
当初は山内上杉家に仕え、天神山城を守っていたが、天文15年(1546年)の河越城の戦いの後、北条氏康の攻撃を受けて降伏し、その家臣となった。このとき、氏康の四男・乙千代丸(氏邦)に娘・大福御前を娶らせ、藤田氏の家督を譲っている。そして自らは用土城に居城を移し、用土氏を称した。名を重利から康邦[1]に改めたのもこの頃とされる。
ただし、以上の事蹟については異説も多く存在し、生没年など康邦の実像は解明されていない部分も多い。
康邦の子には用土重連や藤田信吉[2]がいたが、彼らは北条氏にとっては邪魔な存在であり、重連は沼田城代に任じられたものの氏邦に毒殺され、信吉は武田勝頼に寝返っている。ウィキペディアより



本能寺の変なくしても信長は失脚していた①

2018-05-06 21:43:10 | 日記
三重大 藤田教授
 日本史上“最大のミステリー”の一つとされる「本能寺の変」。天正10(1582)年、天下統一を目前にした織田信長が家臣の明智光秀に京都・本能寺で討たれた事件は、光秀の動機や黒幕の存在などこれまで諸説紛々さまざまな推論や検証が飛び交ってきた。これに終止符を打つべく、関連著作を多数発表してきた藤田達生・三重大教授(日本史学)が3月、本能寺の変をテーマにした特別展(2~4月)を開催した松江市の松江歴史館で講演。「解明された本能寺の変」と題し、近年相次ぎ見つかった史料に触れながら鋭く真相に迫った。講演の主な内容を紹介する。
家臣団は仲違い、政権は不安定
 「『本能寺の変』なかりせば…」と言われるが、実はあってもなくても結果は同じだったと思う。信長が強烈な個性の持ち主だけに強大な政権だったと誤解しがちだが、案外弱いところがある。信長の専制的な性格が災いし、家臣団はしばしば仲違いやクーデターを起こして政権は不安定。本能寺の変の直前には臨界点に達しており、光秀が突出して大きな事件を起こしたのではなく、そういう土壌があったとみるべきだ。
 光秀は、200~300年に一人の名将だと私は思う。信長に重用されたのは武将としてだけでなく、外交官としての側面も大きかった。外交交渉で高い能力を発揮し、無血で四国を切り取っていった手腕が評価されたのだ。
終わった人”足利義昭の真骨頂
 本能寺の変の10日後に当たる天正10年6月12日の日付で、光秀が反信長勢力の豪族に送った「光秀最後の密書」といえる直筆の書状が昨年9月、見つかった。
 書状には「上意(将軍)よりご入洛のために…」とある。この時期に京都から離れて入洛を画策した将軍は、「鞆(とも)の浦」(広島県福山市)で“亡命政権”を作っていた足利義昭しかいない。義昭は天正元年、槇島(まきしま)城の戦いで信長に敗れ、今では“そこで終わった人”扱いだが、義昭の真骨頂はむしろそこからだ。
 平成26年にも大きな発見があった。林原美術館(岡山市)から出てきた「石谷(いしがい)家文書」。その中に、四国の戦国大名・長宗我部元親が、光秀のおいの斎藤利三に出した手紙があった。光秀の外交を担当していた利三への手紙だから、事実上光秀に出したものだ。
 それには、「四国の領有をめぐる信長の命令に、答を出さなければいけないが遅れて申し訳ない」などとある。当時、信長が四国の国分けを進めていて、四国を制していた元親にとって厳しい条件を提示された。
 この対立が、交渉に当たっていた光秀も追い込み、その中で本能寺の変を考えるいわゆる「四国説」が浮上。信長が隙を見せたから光秀が天下を狙ったという「単独謀反説」が長らく主流だったが、石谷家文書が見つかってこれを主張する研究者はいなくなった。
 義昭と光秀は、「永禄の政変」のあと、義昭が足利家復興のため各地を渡り歩いていた際に知り合った間柄。これらの文書から見えるのは、2人は本能寺の変以前から結びついており、光秀が義昭の命令を受けて実行したという状況だ。 つづく 産経WEST 記事より