山城めぐり(兄弟ブログ biglob)

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小牧・長久手の戦い

2017-11-18 22:14:55 | 歴史資料
産経ニュース

「赤備え」再編し直政奮迅
 井伊虎松(後の直政)は、今川氏が滅亡し遠江国が徳川家康の支配下になった天正3(1575)年2月、井伊谷に戻った。御年(おんとし)15。井伊家再興を目指す直虎(次郎法師)らの働きにより家康に仕官して「万千代」と称した。
 この頃の家康は武田勝頼との戦いに明け暮れていた。天正9年3月の高天神城の攻防戦では、徳川四天王である本多忠勝や榊原康政らと並び「旗本先手の将」という“家康付き”の先陣隊長に万千代は登用されている。
 翌10年3月に武田氏は滅亡し、さらに織田信長が本能寺で討たれると、武田氏旧領を家康と小田原の北条氏との間で争奪戦となった。しかし、双方が争うのは得策でないため和睦交渉が始まり、その使者に抜擢(ばってき)されたのが22歳の万千代であった。この年、武田氏の旧臣ら117人を付属させ、武田軍の赤備えを再編して「井伊の赤備え」が誕生する。名も「直政」と改めた。
 信長亡き後は、天下取りに邁進(まいしん)する豊臣秀吉と織田信雄・家康の連合軍が、天正12年4月の小牧・長久手で激突。この戦いは「三河中入り策」といわれ、徳川軍にとって手薄となっていた岩崎城(日進市)が、秀吉軍の猛将・池田恒興や森長可らに攻め落とされた。後を追うように家康も出陣し、従った直政も赤備えを率いて先鋒(せんぽう)を務め、見事猛将2人を討ち取った。
 戦いはこれで終わったわけでなく、対立関係は2年半に及んだ。家康に救いを求めてきた信雄だったが、秀吉の攻めに疲弊し、勝手に講和を結んでしまった。三河深溝(ふこうず)の松平家忠が家康側近として仕えた約17年間を記した『家忠日記』によると、「秀吉の三河侵攻に備えて、岡崎城と周辺城郭を改造し女房衆の浜松へ疎開」とある。
 天正14年になると、秀吉は作戦を変え、家康を何とか臣従させることを考えた。そして人質に母の大政所を岡崎に送った。この警衛役にあたったのが直政で、その奉仕ぶりは秀吉も感謝したと伝わる。(静岡古城研究会会長 水野茂)

「南牧谷戦国史」

2017-03-11 10:39:02 | 歴史資料
「南牧谷戦国史」は郷土史家、市川太平氏の著書です。南牧村の山々を隈なく歩きつくして、数々の砦、狼煙台を発見されたそうです。また山城の歴史も丁寧に調べられて、今までの歴史資料にない、調査報告をされています。


羽沢生涯学習センター地図
この「南牧谷戦国史」は学習センターで購入しましたが、あまり在庫がないようで事前に問い合わせたほうが無駄足にならないためにも、そうした方が無難です。
「笹の平城」の項では
「大永年間、国峰城の最盛期を飾った小幡氏十四代顕高が、磐戸の高橋頼氏に命じて築かせた城で、以来高橋氏が城将を受け継ぐ。築城の目的は、南牧川本流と桧沢川の合流点を扼喉するための普請である。もって小幡領の西端の要害とすることであった。郭部は・・・略 一段上がった西尾根に、削平した小屋場が広がる。
 山城は、永禄四年、武田軍が上州攻めに手を付けて初戦を飾った古戦場である。国峰城争乱が糸口となった図書介謀反によって、城主憲重・信貞父子は、甲斐の武田氏を頼った。この時一条の節義を貫いた南牧衆は旧主憲重に従って武田軍にはしる。
 図書介の軍は青柳を将として、笹の平城を高橋氏から奪って、五百の兵をこの辺りに配り、武田軍を待ち伏せた。砥沢城に集結した南牧衆は、武田軍の先鋒隊となって、笹の平城を夜襲、山を知り尽くした高橋勢を先駆けにした周密な攻撃計画は遂に図書介軍を追い落とした。この合戦に近傍の百姓たちも加わり、大量の松明に火を点じて城攻めを援け、山を取り囲んで一気に揉みつぶしたのである。この勝利の物語を、いま盆の火祭りに残して、毎年八月十四日と十五日の夜、大日方の安養寺をめぐって勇壮な火祭りが行われる。
 笹の平城を引きあがった山頂に、丸宇の砦がある。これは塩沢城の見張り砦で眺望に優れ、大狼煙二基を備える。丸宇の砦を東へ一段二段下がると笹の砦がある。


笹の平城の西尾根にある小屋場

笹の平城の西にある峰

市川太平氏の云う小屋場の尾根

この尾根に一か所、台状のものがあり、狼煙台?

この西尾根から引きあがった山頂に丸宇の砦があるということなので、また機会を見て登るとつもりです。

石田三成の愛刀

2017-02-27 18:40:09 | 歴史資料
石田三成の愛刀

そんな三成の愛刀は、「石田正宗」。棟(むね)や鎬(しのぎ)、茎棟(なかごむね)の刀身部分に深い切り込み瑕(きず)が二つあるところから「石田切込正宗」ともいわれている。鎌倉末期から南北朝時代初めに、相模国鎌倉で活躍した天才刀工・正宗の作刀で、刀身は2尺2寸7分(68.8センチ)。正宗は日本刀剣史上もっとも著名な刀工のひとりで、「相州伝」と称される作風を確立し、多くの弟子を育成した。正宗の刀剣は現在も、国宝、重要文化財級のものが多く、美術品としても大変高い評価を受けている。
『享保名物帳』(本阿弥光忠が編纂し幕府に提出した名刀リスト)に、元は毛利若狭守が所持していたところ、宇喜多秀家が400貫で買い取り、秀家から三成に贈られたと記されている。
 三成は秀吉亡きあと「五奉行」のトップとして君臨するが、家康に匹敵する勢力を持っていた大老前田利家が病死すると、家康や他の奉行と対立。武断派の加藤清正、福島正則、黒田長政らの七将が、三成の大坂屋敷を襲撃する事件(石田三成襲撃事件)がおきる。伏見城内に逃れていた三成は、敵対する家康に保護を求めるという奇策をうち世間を驚かせた。関ケ原の戦いで敗れ、六条河原で処刑された末路はあまりにも有名だ。その事件後、帰城する三成を警護したのが家康の次男である結城秀康。三成は感謝の印として秀康に「石田正宗」を贈り、秀康死後は子孫の津山松平家に代々伝えられた。
 「秀康は三成と親交があり、秀康は三成のことを兄・信康と重ね合わせて見ていたようです。単に刀をもらった以上の感情があったはずです」と石田三成の15代目の子孫・石田秀雄さん。
「石田正宗」は実戦力と機能美、あるいは芸術性と強靭性が見事に融合している点が独創的だ。鎌倉期独特の多様な刃紋の美しさは刀剣美の極致、と言っていい。
「実は石田家には前田大名家から賜った刀が昭和20年8月まであったんです。しかし、空襲で焼失してしまいました。私は直接見たことはないのですが、名刀だったことは間違いありません」(同)
 新潟・妙高にあった石田家は東京・八王子に転居。その際に前田公からの刀をはじめ石田家伝来の文物を同時に移していたのだ。
 三成は武将ではあるが、刀剣を持って積極的に戦うタイプではなく、刀についてもあまり執着がなかったのではと石田さんは話す。
「前田大名家から賜った刀がなくなったのが残念ですが、平和を願った三成のことを考えると、刀が必要ない世の中をきっと望んでいたはずです」(同)(ライター・植草信和、本誌・鮎川哲也)

※週刊朝日  2017年2月3日号

伊達政宗

2017-02-26 11:17:33 | 歴史資料
「独眼竜」という風貌と知名度、秀吉を翻弄した知力と胆力、仙台藩62万石の礎を築いた統治能力と先見性、どれひとつとっても戦国武将の中で異彩を放っている伊達政宗。
 幼少時に天然痘にかかり右目の視力を失い、そのために母親に疎まれたと言われている。成人した政宗は獅子奮迅の戦いで、出羽国と陸奥国の覇者になった。
 天正18(1590)年、秀吉が小田原征伐を開始。秀吉から参戦要請の書状が政宗の元に何通も届いたが、同盟していた北条氏のために応じなかった。
 しかし小田原で秀吉の兵力を目の当たりにした政宗は、秀吉側につくことを決断する。
 その折の光景をドラマや講談では、「政宗は白装束を着て秀吉に謁見した」とされているが、史実はどうだったのだろうか。関ケ原の戦いで家康の東軍に与(くみ)した結果、仙台藩(伊達藩)は62万石の雄藩へと上りつめていく。その政宗の愛刀は鶴丸国永と鎬(しのぎ)藤四郎。前者は平安時代の刀工・国永の作。2尺5寸9分半(78.6センチ)、反り2.7センチ。細身で、反りの高い優美な立ち姿の、『享保名物帳』に記載される名物。後者の鎬藤四郎は、8寸8分(26.6センチ)の短刀で、慶長3(1598)年、秀吉の死後、遺物として政宗に贈られた。
 政宗から数えて18代目の伊達家当主伊達泰宗さんは鎬藤四郎について次のようなエピソードを明かしてくれた。
「鎬藤四郎は2代将軍秀忠饗応の時、幕府世話役である内藤外記が“上様に鎬藤四郎吉光の脇差を進物すべし”と伝えました。これに対し政宗公は“この脇差は太閤様の形見として拝領の物なり、いかに人去り世移り追従を思うとも御恩を翻すことなし、だからこそ公方様へも進物せず”と一喝し、きっぱり断りました」
 あと10年早く生まれていれば天下人になれた、といわれる政宗の反骨精神あふれるもの言いだ。
「戦国の世を生き抜いた政宗公にとって刀は戦の道具であり、裏返せば家を存続させるための象徴でもあります。泰平の世を生まんがために命を懸けた先人の魂たる刀を、まるで道具のように軽々しく扱う風潮を政宗公は許せなかったのでしょう」(伊達泰宗さん)
一方の鶴丸国永は明治天皇の仙台巡幸の際に、第14代藩主伊達宗基から明治天皇に献上され、現在は天皇家が所有している。鶴丸の号の由来は不明だが、失われた太刀拵(こしらえ)に「鶴」の文様があったからとも言われている。鶴に丸の文様は日本で古くから使われてきたもので、日本航空がロゴマークに採用しているのはご存じのとおりだ。
「政宗公が身近に置いた刀剣は少なかったようです。そして刀を人前に曝(さら)したり、見せびらかすようなこともありませんでした。刀剣について伊達家ではそのように認識しており、私も同じ思いです」(同)
 政宗は刀剣について多くを語らなかったが、家系と世の安寧を守る守護神と信じていたのだろう。(ライター・植草信和、本誌 鮎川哲也)
※週刊朝日  2017年2月17日号

女城主

2017-02-25 20:18:14 | 歴史資料
男でなければ活躍しなかったかのように思われる戦国時代だが、NHK大河ドラマ『おんな城主 直虎』のように、戦国の世をたくましく生きた女性はほかにもいる。そんな女傑たちを紹介しよう。

●立花ぎん千代(たちばなぎんちよ、「ぎん」は門がまえに言、1569~1602年)
 加藤清正を退却させたエリートおんな城主。立花ぎん千代は、7歳のときに父・立花道雪から立花城の城督、城領、諸道具の一切を譲り受けた。

「道雪が56歳と年を取ってからもうけた娘で、可愛がり過ぎたあまり家督を継がせた。容姿端麗で、剣術や学問などをしっかり学ぶ女性だったと伝えられています」(歴史作家で多摩大学客員教授の河合敦氏)

 13歳で婿として迎えた夫・宗茂が朝鮮出兵に出ている間、秀吉がぎん千代をわが物にしようと名護屋城(佐賀県唐津市)に呼び出したことがある。このときぎん千代が長刀を構え、鉢巻・襷(たすき)がけで現われたことに、秀吉は「戦時である。立派な心構え」と苦笑いしたという。

 西軍に参じた関ヶ原の戦いで夫が敗走した際は、城を明け渡すよう追ってきた東軍の猛将・加藤清正に反撃の構えを見せた。それを見て、清正が「みすみすわが兵を損ねることはあるまい」と引き返したと伝えられている。

●小松姫(こまつひめ、1573~1620年)
 鎧姿の肖像画が残る「本多忠勝の娘」。昨年の大河『真田丸』で吉田羊が演じた小松姫は、真田信之の妻で無敵の武将・本多忠勝の娘である。

「小松姫の最も有名なエピソードは、関ケ原の戦い直前に真田家が徳川方と豊臣方に分かれた際、夫とともに徳川側につき、沼田城に入ろうとする豊臣方の義父・昌幸、幸村親子の計画を阻止したことです」(河合氏)

 徳川四天王と讃えられた父・本多忠勝譲りの勝ち気な性格だったといわれており、鎧をまとった肖像画も残っている。●岩村御前(いわむらごぜん、生年不詳~1575年)
 甥・信長に磔にされた裏切りのおんな城主。岩村御前は、歴史小説などでは「おつやの方」とも呼ばれている。織田信長の叔母にあたるが、政略結婚で東美濃(現在の岐阜県恵那市)・岩村城の城主、遠山景任(かげとう)に嫁がされた。

 信長と武田信玄が対立すると、美濃・信濃国境に近い岩村城は信玄配下の秋山虎繁の軍勢に攻められる。景任は信長に援軍を要請するが無視され、城は死守したがこのときの負傷がもとで死亡。景任に跡継ぎがいなかったので、岩村御前は信長に一族を城主として送り込むよう要請したが、派遣されたのは信長の五男で当時15歳の御坊丸だったため、岩村御前が実質的城主となった。

 その後も虎繁との攻防が続いたが、信長からの援軍は来ず、降伏を余儀なくされる。ここでなんと、虎繁は岩村城に入り、岩村御前を妻に迎える。それほどの美貌の持ち主だった。

 ところが、天正3年(1575年)5月21日の長篠・設楽原(したらがはら)の戦いで武田勝頼が大敗すると力関係が逆転。今度は織田軍が岩村城を攻めて落城させた。虎繁と岩村御前は織田軍から「赦免する」といわれたが、それは2人をおびき出すための罠で、生け捕られた後に逆さ磔で処刑された。

「その際、岩村御前は『援軍を寄越さないから武田軍に降伏するしかなかった。叔母の私にこのような仕打ちをするのか』と壮絶な恨みの言葉を信長に向けて残しています」(河合氏)

 現在、岩村城があった岐阜県岩村町では、岩村御前の肖像をラベルにした日本酒「女城主」が名産品となっている。

※週刊ポスト2017年2月3日号