東支城を見ていない方は、是非にご覧になることをお勧めします。曲輪と空堀を形成する外周とが計算尽くして接続されています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2d/27/64d67d5870d0fe12734bbe94ca8cb3fb.jpg)
東支城本丸南城壁
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3c/1e/4ad8ebe4a2f821d655a25924a97a166d.jpg)
本丸の周囲を空堀が囲んでいます。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/59/0e/06fcdd88d6ba677a32a3ce8f97c34f0c.jpg)
東支城本丸
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5c/4d/14c88ff9b6b1513ac1c104bd54b4702e.jpg)
本丸西空堀
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/02/e4/0de616d38cf79b25ac964cabf97f42ff.jpg)
支城西曲輪
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/75/37/bc345349ad026a6bbc72fdc467840192.jpg)
支城西大堀切
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/44/c1/9a2fd9e8832b2b362bcec40d6e76268f.jpg)
支城第二西曲輪、奥の城壁を登って
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2e/f5/518c78fa0ae8a0acbbde5c3e9865730d.jpg)
支城西第三曲輪
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/24/e2/41671d2763ec011d373c356480e1ad4f.jpg)
第三曲輪を見返しています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7f/e9/0cacde32d0be05d1caa493a3cc72decb.jpg)
尾根を登ります。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7b/09/83beea44cb2f095c0b9b7f39c62e3880.jpg)
見返すと、二段の空堀
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/18/f5/d386b4bfc9f597ecd7ea9506b9a352b1.jpg)
二の丸下の腰曲輪
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5c/28/416e7c7ce042245955033da374f9d5dc.jpg)
二の丸城壁を見上げています。東支城へは二の丸から下れば、容易に見てゆくことができます。目印に二の丸の東側にごみ入れの籠があります。
以上で天神山城は終了です。次回 高取山城 埼玉県越生町
藤田康邦の次男 藤田信吉について
生涯
藤田(小野)康邦(右衛門佐、泰邦)の次男といわれているが、康邦は天文24年(1555年)8月13日、つまり信吉が生まれる4年前に死去しており計算が合わない。このため、康邦の孫または甥ではないかと思われる。また、藤田泰邦の一族である用土業国(新三郎、新左衛門尉)の子息とする説もある[1]。
兄の用土重連が藤田氏邦(康邦の養子)に謀殺されたことによりその跡を継いだ信吉は、はじめ用土氏・小野氏を名乗っていたが、天正8年(1580年)8月、旧知の間柄であったという武田家臣・真田昌幸の調略を受入れ北条氏から離反し、武田氏に沼田城を引き渡した。その後、上州攻略で武功を挙げ、沼須城主となり、武田勝頼から5700貫の所領を拝領する。さらに藤田氏に復して勝頼から武田氏の通字「信」字を与えられ藤田能登守信吉と名乗り、海野信親の娘を娶った[2]。
天正10年(1582年)3月の武田氏滅亡後、他の上州国人と同様に織田氏の重臣・滝川一益に仕える。同年6月の本能寺の変の後、上杉方の長尾伊賀守に通じ、5千の兵で滝川益重麾下4千の兵の守る沼田城を攻めたて水曲輪の一つを乗っ取るも、一益が小幡、安中、和田、倉賀野、由良、長尾(館林)、内藤を従え2万の兵で北上した為、信吉は沼田城攻略を諦め、6月13日夜、泣く泣く越後に落ちていったという。ウィキペディアより
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東支城本丸南城壁
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本丸の周囲を空堀が囲んでいます。
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東支城本丸
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本丸西空堀
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支城西曲輪
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支城西大堀切
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支城第二西曲輪、奥の城壁を登って
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支城西第三曲輪
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第三曲輪を見返しています。
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尾根を登ります。
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見返すと、二段の空堀
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二の丸下の腰曲輪
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二の丸城壁を見上げています。東支城へは二の丸から下れば、容易に見てゆくことができます。目印に二の丸の東側にごみ入れの籠があります。
以上で天神山城は終了です。次回 高取山城 埼玉県越生町
藤田康邦の次男 藤田信吉について
生涯
藤田(小野)康邦(右衛門佐、泰邦)の次男といわれているが、康邦は天文24年(1555年)8月13日、つまり信吉が生まれる4年前に死去しており計算が合わない。このため、康邦の孫または甥ではないかと思われる。また、藤田泰邦の一族である用土業国(新三郎、新左衛門尉)の子息とする説もある[1]。
兄の用土重連が藤田氏邦(康邦の養子)に謀殺されたことによりその跡を継いだ信吉は、はじめ用土氏・小野氏を名乗っていたが、天正8年(1580年)8月、旧知の間柄であったという武田家臣・真田昌幸の調略を受入れ北条氏から離反し、武田氏に沼田城を引き渡した。その後、上州攻略で武功を挙げ、沼須城主となり、武田勝頼から5700貫の所領を拝領する。さらに藤田氏に復して勝頼から武田氏の通字「信」字を与えられ藤田能登守信吉と名乗り、海野信親の娘を娶った[2]。
天正10年(1582年)3月の武田氏滅亡後、他の上州国人と同様に織田氏の重臣・滝川一益に仕える。同年6月の本能寺の変の後、上杉方の長尾伊賀守に通じ、5千の兵で滝川益重麾下4千の兵の守る沼田城を攻めたて水曲輪の一つを乗っ取るも、一益が小幡、安中、和田、倉賀野、由良、長尾(館林)、内藤を従え2万の兵で北上した為、信吉は沼田城攻略を諦め、6月13日夜、泣く泣く越後に落ちていったという。ウィキペディアより