山城めぐり(兄弟ブログ biglob)

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天神山城③

2018-05-07 19:27:04 | 山城ー武州
東支城を見ていない方は、是非にご覧になることをお勧めします。曲輪と空堀を形成する外周とが計算尽くして接続されています。

東支城本丸南城壁

本丸の周囲を空堀が囲んでいます。

東支城本丸

本丸西空堀

支城西曲輪

支城西大堀切

支城第二西曲輪、奥の城壁を登って

支城西第三曲輪

第三曲輪を見返しています。

尾根を登ります。

見返すと、二段の空堀

二の丸下の腰曲輪

二の丸城壁を見上げています。東支城へは二の丸から下れば、容易に見てゆくことができます。目印に二の丸の東側にごみ入れの籠があります。

以上で天神山城は終了です。次回 高取山城 埼玉県越生町

藤田康邦の次男 藤田信吉について
生涯
藤田(小野)康邦(右衛門佐、泰邦)の次男といわれているが、康邦は天文24年(1555年)8月13日、つまり信吉が生まれる4年前に死去しており計算が合わない。このため、康邦の孫または甥ではないかと思われる。また、藤田泰邦の一族である用土業国(新三郎、新左衛門尉)の子息とする説もある[1]。
兄の用土重連が藤田氏邦(康邦の養子)に謀殺されたことによりその跡を継いだ信吉は、はじめ用土氏・小野氏を名乗っていたが、天正8年(1580年)8月、旧知の間柄であったという武田家臣・真田昌幸の調略を受入れ北条氏から離反し、武田氏に沼田城を引き渡した。その後、上州攻略で武功を挙げ、沼須城主となり、武田勝頼から5700貫の所領を拝領する。さらに藤田氏に復して勝頼から武田氏の通字「信」字を与えられ藤田能登守信吉と名乗り、海野信親の娘を娶った[2]。
天正10年(1582年)3月の武田氏滅亡後、他の上州国人と同様に織田氏の重臣・滝川一益に仕える。同年6月の本能寺の変の後、上杉方の長尾伊賀守に通じ、5千の兵で滝川益重麾下4千の兵の守る沼田城を攻めたて水曲輪の一つを乗っ取るも、一益が小幡、安中、和田、倉賀野、由良、長尾(館林)、内藤を従え2万の兵で北上した為、信吉は沼田城攻略を諦め、6月13日夜、泣く泣く越後に落ちていったという。ウィキペディアより

本能寺の変なくしても信長は失脚していた②

2018-05-07 19:07:15 | 日記
優秀な光秀への死に等しい処遇
 石谷家文書からは、信長が長宗我部一辺倒だった四国政策を、天正9年後半から徐々に変更したことが分かる。そこには、織田家臣団の派閥抗争があった。
 四国では長宗我部と三好が最終抗争を繰り広げ、長宗我部は光秀を使い信長の力を背景に三好を圧倒していた。だが三好側も、中国地方を信長から任されていた羽柴秀吉と手を結んでいた。秀吉も自らの生き残りのため、三好の水軍衆が必要だった。
 光秀と秀吉というライバルが、中四国で生き残りをかけた争い。秀吉がさまざまな策を駆使して力関係を逆転させ、四国でも秀吉-三好方の動きが早まり、光秀-長宗我部方がどんどん追い込まれた。
 抗争の勝敗が見えてくる中、大規模な国替えも進んだ。畿内周辺は秀吉派が占め、光秀は出雲・石見行きのようだった。優秀な光秀のことだから当地で名君になったかもしれないが、文学や芸術に秀で、京都を支配できる力を持つ彼が中央を去るのは、「死」に等しい処遇だったと思う。
 また、光秀は自らの生き残りだけでなく、「あるべき国家を守る」という使命を持っていたと思う。当時の信長の思想・行動に対して「朝廷を相対視し、従来の伝統的な国家を壊す」という危機感を抱いたため、「謀反人といわれようともこれを阻止しなければならない」と考え、動いたのではないだろうか。
天下統一を考えたのは信長だけ
 本能寺の変は、大きく3層構造をなしていたといえる。基層の部分は、「四国の覇者」をめぐる長宗我部と三好の争い。中層は、西国支配における織田家臣団の派閥抗争。上層部分は、伝統的な室町将軍と新しい国を作ろうとする信長のぶつかり合いだ。
 本能寺の変を理解する上で重要なのは、義昭が京都から追放されたからといって、すぐに室町幕府が滅亡して近世に変わるわけではない、ということ。信長の「安土幕府」と義昭の「鞆幕府」が国の方向性をめぐり、諸大名を巻き込みながら大きな内乱状態に突入していったとみるべきだ。
 最後に-。戦国大名が現れて各地で争覇戦を展開した時代、教科書は「やがて天下が統一された」と書くが、分権と集権はまったく逆のベクトル。大名らは自分の国を強くし、富ます努力をした。「天下統一」を考えたのは信長だけだ。
 信長が戦国大名の一人にとどまらずに天下統一を目指し、日本が集権的な国家に移っていったのは、世界でも早い。そうした意義について世界史的なレベルで問われなければならない。

産経WEST記事より