曲輪5・曲輪6へ
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/50/85/d84ee6de7c6adc423ed39850a3d467f8.jpg)
曲輪4から
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/49/0e/4f4869cd4f981865db1bf0d80e4f50af.jpg)
東下階段、横堀が東から南に巡らしています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7c/57/53dd363c0964c3ba428dd9c8e0fef03a.jpg)
横堀
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/55/86/91ab83c04fb25849c9557b43fe53f400.jpg)
下って曲輪4の城壁を見上げています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/75/d0/7d255b2fdc6e9a9ddd12ecc140065587.jpg)
東尾根を下ってゆき
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/48/2c/c371db84986901eb7553154d4d10ca8e.jpg)
今度は尾根を登ります。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/26/81/e44d9cfa2d44a2f7bccea7b16d0b0ee5.jpg)
虎口のように見えます
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4a/1e/659bd3cfe6445176bb37e72a46fcd8f0.jpg)
登って西尾根を見返しています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/56/4e/9c30f86c15076a3c43d81c817451a7fa.jpg)
曲輪5
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曲輪5の東に堀切
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/72/c2/b29422c87408fcbaa3d62b52abf688b8.jpg)
堀切の先は細尾根が伸びて
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/51/9c/3d2bed33cc51ebc9fe8dbedb7d13b8ab.jpg)
曲輪6(物見曲輪?)東尾根はここで終りです。
次回本丸へ
鎌倉公方 上杉持氏(上杉禅秀の乱の詳細がよくわかります。)
幼少期[編集]
応永16年(1409年)、7月の父・満兼の死去によって9月に鎌倉公方となる[2]。翌応永17年(1410年)8月[2]、叔父である足利満隆が持氏に対して謀反を企てているとの風説が立ち、持氏が関東管領であった上杉憲定の屋敷に逃げ込むという騒動が発生する(『鎌倉大草紙』など)が、憲定の仲介により持氏の異母弟の乙若丸を満隆の養子とすることで和睦・落着した[2](騒動は反憲定の勢力が満隆と結んだために発生したものであったため、その煽りを受けて憲定は翌年に関東管領を辞任している)。同年12月に元服[2]して4代将軍・足利義持より偏諱(「持」の字)を賜って持氏と名乗った[1](弟の乙若丸(改め持仲)も、同様に「持」の字を受けている)。
持氏は公方となったものの若年であり、新たに関東管領となった上杉氏憲(後の禅秀)の補佐を受けていた。北日本の奥羽地方は鎌倉府の管轄で持氏の2人の叔父である篠川公方足利満直・稲村公方足利満貞が治めていたが、応永20年(1413年)に伊達持宗が両者に逆らい反乱を起こしたため、持氏は奥州国人衆に召集を呼びかけ反乱を鎮圧した。
しかし持氏は禅秀を疎んじるようになり、禅秀は満隆・持仲と結んでいたため、両者の間の対立が次第に激しくなった。応永22年(1415年)に禅秀は関東管領を辞し、持氏は上杉憲基(憲定の子)を後任として就任させた。
応永23年(1416年)、遂に禅秀・満隆はクーデターを起こし、持氏・憲基は一時鎌倉を追われて駿河に追放された(上杉禅秀の乱)。しかしこの反乱は、翌年に幕命を受けた越後の上杉房方・駿河の今川範政らによって鎮圧され、禅秀・満隆・持仲は自害、持氏らは鎌倉に復帰した。
ところが、さらに翌年の応永25年(1418年)には関東管領の憲基が急死し、幼少であった憲実が後任に就任すると若年の鎌倉公方を更に幼い関東管領が補佐するという事態が発生する。そのため、本来は上位者である鎌倉公方の命令を伝えるために関東管領が作成する施行状を作成することが出来ず、持氏本人が憲実の代理で施行状を作成するという事態が応永31年(1424年)まで続いている[4]。ウィキペディアより
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曲輪4から
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東下階段、横堀が東から南に巡らしています。
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横堀
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下って曲輪4の城壁を見上げています。
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東尾根を下ってゆき
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今度は尾根を登ります。
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虎口のように見えます
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登って西尾根を見返しています。
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曲輪5
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曲輪5の東に堀切
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堀切の先は細尾根が伸びて
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曲輪6(物見曲輪?)東尾根はここで終りです。
次回本丸へ
鎌倉公方 上杉持氏(上杉禅秀の乱の詳細がよくわかります。)
幼少期[編集]
応永16年(1409年)、7月の父・満兼の死去によって9月に鎌倉公方となる[2]。翌応永17年(1410年)8月[2]、叔父である足利満隆が持氏に対して謀反を企てているとの風説が立ち、持氏が関東管領であった上杉憲定の屋敷に逃げ込むという騒動が発生する(『鎌倉大草紙』など)が、憲定の仲介により持氏の異母弟の乙若丸を満隆の養子とすることで和睦・落着した[2](騒動は反憲定の勢力が満隆と結んだために発生したものであったため、その煽りを受けて憲定は翌年に関東管領を辞任している)。同年12月に元服[2]して4代将軍・足利義持より偏諱(「持」の字)を賜って持氏と名乗った[1](弟の乙若丸(改め持仲)も、同様に「持」の字を受けている)。
持氏は公方となったものの若年であり、新たに関東管領となった上杉氏憲(後の禅秀)の補佐を受けていた。北日本の奥羽地方は鎌倉府の管轄で持氏の2人の叔父である篠川公方足利満直・稲村公方足利満貞が治めていたが、応永20年(1413年)に伊達持宗が両者に逆らい反乱を起こしたため、持氏は奥州国人衆に召集を呼びかけ反乱を鎮圧した。
しかし持氏は禅秀を疎んじるようになり、禅秀は満隆・持仲と結んでいたため、両者の間の対立が次第に激しくなった。応永22年(1415年)に禅秀は関東管領を辞し、持氏は上杉憲基(憲定の子)を後任として就任させた。
応永23年(1416年)、遂に禅秀・満隆はクーデターを起こし、持氏・憲基は一時鎌倉を追われて駿河に追放された(上杉禅秀の乱)。しかしこの反乱は、翌年に幕命を受けた越後の上杉房方・駿河の今川範政らによって鎮圧され、禅秀・満隆・持仲は自害、持氏らは鎌倉に復帰した。
ところが、さらに翌年の応永25年(1418年)には関東管領の憲基が急死し、幼少であった憲実が後任に就任すると若年の鎌倉公方を更に幼い関東管領が補佐するという事態が発生する。そのため、本来は上位者である鎌倉公方の命令を伝えるために関東管領が作成する施行状を作成することが出来ず、持氏本人が憲実の代理で施行状を作成するという事態が応永31年(1424年)まで続いている[4]。ウィキペディアより