山城めぐり(兄弟ブログ biglob)

新潟、山梨、長野、群馬、栃木、埼玉県などの埋もれた城跡を探索しております。カテゴリ「城郭一覧」で簡単にアクセス。
 

仲山城

2018-05-13 21:55:16 | 山城ー武州
仲山城は埼玉県長瀞町矢那瀬にあります。

仲山城地図

私は気短に西光寺から北に見える三角山を南斜面から直登しましたが、地図にありますように、山の西側の諏訪神社付近にある道案内の通りに進めば、尾根道から容易に登れることが分かりました。

西光寺から北に見える城山

国道140号線から北に西光寺が見えます。滝ノ上集落の市道を進めば西光寺に着きます。この道を右折すれば西光寺、まっすぐ進めば(おすすめ)

長瀞市営団地

市営団地を過ぎて200mくらいに諏訪神社・仲山城址の案内

団地の道から右折



諏訪神社(阿仁和兵助橘基俣という豪族がこの地域を治めていて、諏訪神社を建立したという。その後、北条氏邦が拝殿や神楽殿を造営したという。


神社から東の道の石垣に案内

案内通りに進むと

峠に着き、ここから右上に登ります。遺構は次回に

山本勘介の子孫②

2018-05-13 21:27:33 | 日記
大越家に嫁いだ山本りよという人が横尾家に関係していることが墓石で知ることができました。このりよという娘を子孫とする人物が高崎藩士、山本十左衛門という武士がいるということが判明しました。

真下家文書のうち天文17年山本菅助宛武田晴信判物は東京大学史料編纂所所蔵「古文書雑纂」に収録されているが、注記に拠れば「雑纂」所載山本氏文書は明治25年12月に小倉秀貫が山本勘助子孫であるという旧上野国高崎藩士山本家所蔵の写を探訪したものであるという。高崎藩主は松平信綱5男信興を祖とする松平家で、家臣団関係資料である「高崎藩士家格・家筋並びに苗字断絶者一覧」には信興期からの家臣に「菅助」「十左衛門」を名乗る藩士が存在していることから、「雑纂」注記の高崎藩士山本家に比定されるものと考えられている。ウィキペディア「山本勘介の子孫」より

真下家文書
真下家所蔵文書のうち「山本菅助」を宛名とする文書は2008年5月に安中市学習の森ふるさと学習館による所蔵資料調査を機に発見され、同館学芸員の佐野亨介が山梨県立博物館学芸員の海老沼真治に照会し、同年9月15日に調査が実施された。内容は戦国期の5通の文書のうち、「山本菅助」を宛名とする武田氏発給文書が3通あり、1通を除いて『戦国遺文 武田氏編』『山梨県史』に採録されていない新出文書であることが確認された。

5通の文書は蓋に「信玄公御證文」と朱書きされた漆箱に収められ保管されている。文書は表紙に「信玄公 御證文」と墨書された便箋が付せられた巻子本で、年記が記されていない文書を含むが年代順に成巻され、一通ごとに内容を示す付箋が付せられている。料紙は武田氏が文書を発給した16世紀後半から17世紀初頭のもので、宛名の切断などの手は加えられていないと鑑定されている[5]。寸法も武田氏が発給した文書と同等のものとされる。文書の筆跡は一通ごとに異なるが、いずれの文書も文書内においては異筆は認められない。
ウィキペディア「真下家文書」


5通の文書
武田晴信判物

武田晴信
ウィキソースに真下家所蔵文書の原文があります。

武田氏が山本菅助に対し信濃国伊那郡における働きを称し、恩賞として黒駒(笛吹市御坂町)の関銭のうち100貫文を宛行うことを記した文書。折紙・袖判。寸法は縦30.3センチメートル、横46.5センチメートル。付箋には「信玄公御感状」と記される。年記は天文17年(1548年)4月吉日。内容や筆致には類似した文書が存在し、武田家右筆の手によるものと考えられている[9]。本文書は東京大学史料編纂所所蔵「古文書雑纂」を典拠に『戦武』『山史』にも写が掲載されている。

武田晴信書状

武田晴信(信玄)が山本菅助に対し軍事行動を意味する「揺(ゆらぎ)」の検討と武田家宿老「小山田」の見舞いを指示した書状。付箋に「信玄公御自筆」と記され、墨の濃淡が極端である点など筆跡から信玄自筆の書状であると判断されている。寸法は縦29.7センチメートル、横45.5センチメートル。

年代は当初、海老沼真治による「小山田」の人物比定を天文21年(1552年)に死去した出羽守信有とする見解から天文20年(1551年)とする推定がなされ[10]、2010年には秋山敬も「小山田」を小山田信有に比定した[11]。同年には平山優により、これを備中守虎満に比定する説が提唱され、文書の年代は永禄元年(1558年)推定に修正された[12]。また、武田家における「宿老」の存在を記した点も初見とされる[13]。

武田家朱印状

武田氏が北信濃・越後侵攻に際して二代山本菅助に対し不足した武具の支度を命じた文書。寸法は縦30.1センチメートル、横43.7センチメートル。折紙の袖部分に龍朱印が据えられ奉者が記されない様式で、武田家では永禄9年6月頃を境に龍朱印状の発給形態を日下に奉者名を記す奉書式朱印状に切り替えているが、当文書はそれより古い段階で、武田氏による軍事行動の最中に発給された臨時・補足的な形態の文書と考えられている。『甲陽軍鑑』に拠れば初代山本菅助は永禄4年(1561年)の川中島の戦いで戦死したとされ、宛名の「山本菅助」は沼津山本家文書の存在から、初代菅助の実子で天文22年(1553年)出生の二代菅助であると判断される[14]。

武田家朱印状

結城秀康
初代菅助の養子で二代菅助の死後に山本家を継いだ山本十左衛門尉に対し軍役が命じられた文書。年号を欠いているが、同一日付・同文の有年号文書が複数伝存していることから天正4年(1576年)のものと判断される[15]。

結城秀康書状

徳川家康
結城秀康が山本十左衛門尉の子で徳川直臣となっていた山本平一の訪問に対し礼を述べ、自らの病のため早く帰らせてしまったことを詫びた文書。堅紙。寸法は縦34.4センチメートル、横46.5センチメートル。付箋には「黄門様御書」と記される。年記は記されていないが、海老沼は結城秀康の病の時期から慶長7年(1602年)から慶長11年の間に推定し[16]、柴裕之により慶長9年(1604年)に比定された[17]。

徳川家朱印状

武田氏滅亡後の天正10年(1582年)9月5日に徳川家康が山本十左衛門尉の言上に基づき、甲州相野(山梨県北杜市か)・信州小野(長野県塩尻市・辰野町)などの所領を安堵した朱印状。形態は切紙であるが、朱印の写りが袖部分に残されていることや同日付同内容の文書の存在から、もとは折紙であったと考えられている[18]。

徳川家朱印状

天正11年正月14日に、徳川家康が山本十左衛門尉に対し、前年に安堵した所領を確定した朱印状。奉者は記される、家康の直状となっている。