山城めぐり(兄弟ブログ biglob)

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千馬山城②

2018-05-03 19:27:47 | 山城ー武州
門跡から肩の部へ

門跡

土橋、この土橋の右手には

横堀が守っています。

また土橋が待っています。第一虎口の連続虎口と、この門跡からの連続土橋の堅牢な縄張りは見事と思います。

土橋を見返しています。

門跡から肩の部まで登ってきました。

肩の部(中段曲輪とか名をつけてもらいたい)

肩の部から南に尾根が伸びて

物見曲輪(仮に)

縄張り図のように肩の部から山道が続き

二の丸下まで来ましたが、以降は次回とします。

記事1の説明板にある千馬山城の築城は用土新左衛門(藤田)とあり、藤田氏について
藤田氏は武蔵七党の猪股党の出で、猪俣野兵衛尉時範の子政行が武蔵国榛沢郡藤田郷に拠って藤田を称したことに始まる。
 武蔵七党は、武蔵国に本拠をおいた同族的武士団の総称で、坂東八平氏と称される平氏の一門とともに坂東武者と称され、弓馬に通じて武蔵・相模二州の兵は、天下の兵に匹敵すると賞賛された。 七党の数え方は一定しないが、野与党・村山党・横山党・児玉党・西党・丹党・私市党などが挙げられる。猪股党は横山党と同族で、小野篁の後裔で武蔵守として下向土着した小野孝泰の孫時範が児玉郡猪俣に居住したことに始まる。
 猪俣党は児玉郡、大里郡、比企郡に広まり、猪俣氏をはじめ藤田・男衾・甘糟・荏原・岡部・横瀬の諸氏が分かれでた。


両上杉氏の乱のなかで伊勢宗端が勢力を大きく伸張し、山内上杉氏の所領がある越後では長尾為景が守護上杉房能を討って政権を掌握していた。永正六年、顕定は越後の支配を回復するため、武蔵・上野の兵を率いて越後に攻め入った。一旦、為景を逐い越後を支配下においたが、翌七年、為景の反撃に敗れて戦死した。
 顕定の死を知った北条早雲は、武蔵進出の好機として、扇谷上杉朝良の家臣上田政盛を寝返らせて権現山で挙兵させた。この事態に朝良は反目していた山内上杉憲房と手を結び、ただちに出撃すると権現山城を攻略した。上杉方の権現山攻めに際して、藤田虎寿丸(重頼)は忍城主成田親泰らとともに寄せ手に参陣し戦功をたてた。権現山の戦いに敗れたとはいえ北条早雲は挫けることなく、相模から武蔵への進出を企図し、扇谷上杉氏の重臣である三浦氏の攻略を続けた。一方、早雲の武蔵進出の野望を砕いた上杉氏であったが、以後、北条氏の攻勢に苦慮することになる。
 大永四年(1524)、北条氏綱の攻撃で扇谷上杉朝興は江戸城を失い、被官の毛呂・岡本氏らが氏綱に降った。山内上杉憲房は、毛呂氏の要害を攻撃したが、援軍に出てきた氏綱と憲房の家宰長尾憲長と藤田右衛門佐(康邦)の間で和睦が成立し、憲房は毛呂要害に入った。他方、天文初年ごろ(1531)、藤田一族と思われる藤田右金吾業繁が「郡主」を称し、藤田小三郎が「鉢形」にあったことが知られるが、それぞれ系図上の位置付けは不明である。これらのことから、藤田氏が上杉氏の家宰長尾氏と並ぶ勢力を持つ存在であったこと、藤田一族が武蔵北方に割拠していたことがうかがえる。
武家家伝より