二の丸から本丸へ
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二の丸南下曲輪から二の丸城壁を見ています。
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二の丸に入って、本丸東城壁
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南に廻って、本丸南虎口
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本丸東下曲輪から本丸を見ています。
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本丸東下曲輪
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本丸にある略図
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本丸から東下曲輪を見下ろしています。
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東から本丸を見ています。中央に祠
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本丸の西尾根の堀切
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西尾根の曲輪
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略図にある二の丸の東側にある横堀(水色で表示)、三の丸、東郭は残念ながら竹藪に埋もれていますのでここで終了します。
藤田氏②
江戸城を掌握した北条氏綱は武蔵攻略を着々と進め、天文六年(1537)には河越城を奪い武蔵をほぼ掌中におさめた。翌年には、小弓公方足利義明と里見義堯らの連合軍と下総国国府台で戦い、義明を討ち取る勝利をえた。これによって、北条氏綱の武名は関東一円に鳴り響いたのである。
北条氏の勢力が武蔵を覆うようになると、山内上杉憲政は北条氏との対立姿勢を明確にした。天文十四年、憲政は扇谷上杉朝定と連合し、古河公方晴氏を抱き込み、さらに駿河の今川義元と結んで河越城奪還を企図して出陣した。その勢は五万とも八万ともいわれる大軍であった。河越城の籠城兵は三千余という寡勢であったが、守将北条綱成はよく連合軍の攻撃を防戦した。この危機に対して氏康は甲斐の武田信玄の仲介によって今川義元と和睦すると、ただちに八千の精兵を率いて出陣した。しかし、連合軍との兵力は隔絶しており、一計を案じた氏康は弱気をみせるなど連合軍の油断を誘う策を施した。 翌十五年、ころあいよしとみた氏康は守将北条綱成と連絡を取ると、油断しきった連合軍に夜襲をかけた。なめきっていた氏康の攻撃に、連合軍はなすところなく大敗を喫し、扇谷上杉朝定は戦死、憲政、晴氏らはそれぞれの居城に逃げ帰った。この一戦は河越の合戦(夜戦)と呼ばれ、上杉・公方の大軍を撃破した北条氏康は関東の太守と呼ばれる存在に躍り出た。ここに、関東の政治地図は大きく塗り替えられたのである。
河越の合戦に藤田右衛門佐は上杉氏に属して出陣していたが、命からがら居城に逃げ帰ったようだ。以後、藤田氏は北条氏の脅威にさらされることになる。そして、定説によれば藤田右衛門佐康邦は大石定久とともに氏康に降り、氏康の子氏邦を娘(大福御前)の婿に迎え家督を譲った。隠居した康邦は、天神山城を出て用土城に移り、名も用土新左衛門に改めたという。
当時、藤田氏は天神山城を拠点として、その所領は大里・榛沢・男衾・秩父・那珂・児玉・賀美に及ぶ広範なものであった。藤田氏を継いだ氏邦は藤田重氏を名乗り、その後、天神山城から鉢形城に移り藤田氏領を支配した。氏邦の所領はのちに鉢形領と称され、氏邦は北方の上野方面にも進出し、その領国は北方に拡大していったのである。
武家家伝より
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二の丸南下曲輪から二の丸城壁を見ています。
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二の丸に入って、本丸東城壁
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南に廻って、本丸南虎口
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本丸東下曲輪から本丸を見ています。
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本丸東下曲輪
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本丸にある略図
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本丸から東下曲輪を見下ろしています。
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東から本丸を見ています。中央に祠
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本丸の西尾根の堀切
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西尾根の曲輪
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略図にある二の丸の東側にある横堀(水色で表示)、三の丸、東郭は残念ながら竹藪に埋もれていますのでここで終了します。
藤田氏②
江戸城を掌握した北条氏綱は武蔵攻略を着々と進め、天文六年(1537)には河越城を奪い武蔵をほぼ掌中におさめた。翌年には、小弓公方足利義明と里見義堯らの連合軍と下総国国府台で戦い、義明を討ち取る勝利をえた。これによって、北条氏綱の武名は関東一円に鳴り響いたのである。
北条氏の勢力が武蔵を覆うようになると、山内上杉憲政は北条氏との対立姿勢を明確にした。天文十四年、憲政は扇谷上杉朝定と連合し、古河公方晴氏を抱き込み、さらに駿河の今川義元と結んで河越城奪還を企図して出陣した。その勢は五万とも八万ともいわれる大軍であった。河越城の籠城兵は三千余という寡勢であったが、守将北条綱成はよく連合軍の攻撃を防戦した。この危機に対して氏康は甲斐の武田信玄の仲介によって今川義元と和睦すると、ただちに八千の精兵を率いて出陣した。しかし、連合軍との兵力は隔絶しており、一計を案じた氏康は弱気をみせるなど連合軍の油断を誘う策を施した。 翌十五年、ころあいよしとみた氏康は守将北条綱成と連絡を取ると、油断しきった連合軍に夜襲をかけた。なめきっていた氏康の攻撃に、連合軍はなすところなく大敗を喫し、扇谷上杉朝定は戦死、憲政、晴氏らはそれぞれの居城に逃げ帰った。この一戦は河越の合戦(夜戦)と呼ばれ、上杉・公方の大軍を撃破した北条氏康は関東の太守と呼ばれる存在に躍り出た。ここに、関東の政治地図は大きく塗り替えられたのである。
河越の合戦に藤田右衛門佐は上杉氏に属して出陣していたが、命からがら居城に逃げ帰ったようだ。以後、藤田氏は北条氏の脅威にさらされることになる。そして、定説によれば藤田右衛門佐康邦は大石定久とともに氏康に降り、氏康の子氏邦を娘(大福御前)の婿に迎え家督を譲った。隠居した康邦は、天神山城を出て用土城に移り、名も用土新左衛門に改めたという。
当時、藤田氏は天神山城を拠点として、その所領は大里・榛沢・男衾・秩父・那珂・児玉・賀美に及ぶ広範なものであった。藤田氏を継いだ氏邦は藤田重氏を名乗り、その後、天神山城から鉢形城に移り藤田氏領を支配した。氏邦の所領はのちに鉢形領と称され、氏邦は北方の上野方面にも進出し、その領国は北方に拡大していったのである。
武家家伝より