山城めぐり(兄弟ブログ biglob)

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後閑城④

2018-05-26 22:09:14 | 山城ー上州
二の丸から南曲輪へ

櫓台から左手に入ると

二の丸

図で右上の三角の曲輪の下に東屋がある曲輪が二の丸です。

空堀の先に

大きな三角の二の丸東曲輪

東曲輪先端部

二の丸から西へ歩き、南曲輪へ

南曲輪

南曲輪の西側下にある野草園、ここも曲輪が階段状にあったと思います。野草園の南下にも薮ですが曲輪があります。

野草園から南曲輪を見上げています。

二の丸・南曲輪と廻り、後閑城は終了です。

次回 磯部城

新田氏の一族岩松氏の興亡
足利持氏の遺児で古河公方の足利成氏が幕府と対立して上杉憲忠を謀殺し享徳の乱が起こったため、幕府が関東方面の抑えとすべく足利義教の子足利政知を堀越公方として伊豆国に送り込むと、礼部家の家純はこれに味方し、古河公方についていた京兆家の岩松持国と嫡男・次郎も政知に従おうとして、家純を当主と認めて彼との所領の分割協議に応じることにした。だが、寛正2年(1461年)になって持国・次郎親子が古河公方方への復帰を図ったとして家純によって討たれて滅亡した。一方、これより先に持国の次子・成兼は父への反発から古河公方を支持する家臣とともに成氏の下に入って岩松氏の当主と認められたが、文明元年(1469年)に新田を追われ没落、岩松氏は岩松家純の手で統一されることになった[11]。
家純は岩松氏の分裂を解消すると新田氏の故地である新田金山城を本拠とした。ところが、長尾景春の乱が起こる頃に嫡男・明純と対立し、家純が古河公方方に移ると、これに明純が反発して再び岩松氏は分裂した。しかし家純には明純以外に子が無かったため、重臣横瀬氏が奮闘し明純の子の岩松尚純を後継者とし、岩松氏の分裂は解消された。一連の経緯については、家純に仕えた僧侶・松陰の『松陰私語』に詳しく書かれている。
戦国時代[編集]
明応3年(1494年)、絶対的な権威を持った家純が死去すると、岩松氏では内部対立が起こった。家純以来の重臣横瀬氏と、当主尚純の父で引退していた明純の対立である。明純が横瀬氏から権力奪還を図ろうとしたもので、明純は尚純を抱き込み横瀬氏の守る新田金山城を攻めた。しかし堅城の金山城は落城せず、足利成氏による調停が入り、尚純の子・夜叉王丸(昌純)を当主とすることで決着した。明純・尚純の企ては失敗し、横瀬氏は幼君を抱くものの主家を排除し実権を握ることに成功したのである。この一件を「屋裏の錯乱」と呼ぶ。
夜叉王丸は成人し昌純となったが傀儡であり、巻き返しを図るも実権を握る横瀬泰繁により殺害されるに至った。昌純の跡を継いだ弟の新田岩松氏純は自害に追い込まれている。この結果、岩松氏は横瀬氏に実権を奪われて没落した。なお横瀬氏は新田義宗の三男とする新田貞氏の子孫と称している[16]。また横瀬氏から由良氏に改称している。
由良氏は上杉謙信や武田氏・後北条氏の勢力争いの中で活動していたが、上杉・武田が上州から撤退すると後北条氏と対立、北条の手で金山城を追われ北条に服属した。その後豊臣秀吉によって天下が統一されると、由良氏は下総に移ったため、岩松氏は解放された。その後、桐生にいた氏純の子の守純は、関東に入った徳川家康に接見する。家康は守純に新田系図の譲渡を求めた。新田一族の世良田・得川氏の子孫と称していた徳川氏は新田系図を確認したかったのであろう。しかし守純が家康の要求を断ったため、直臣となるも禄高は新田郡市野井村感応寺曲輪のわずか20石しか与えられなかった。ウィキペディアより