山城めぐり(兄弟ブログ biglob)

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私財を投じての尼崎城の再建

2018-05-05 21:36:25 | 日記
私財10億円を投じて“幻の城”尼崎城を再建! 決断した地元名士の地元愛

尼崎城址の石碑。かつて本丸があった場所は、小学校となっている

 阪神電鉄尼崎駅から南東に歩いて約5分。川沿いにある公園で、着々と建設が進むのが「尼崎城」だ。

「尼崎城を建てて、市に寄付したい」

 2015年、ある人物の申し出をきっかけに、尼崎城再建計画は動き出した。尼崎城は、約400年前の江戸時代初期に築かれ、「大坂の西の守り」を担った名城だが、1873(明治6)年の廃城令を受けて天守や櫓(やぐら)、石垣などが取り壊され、全国的にも珍しく地上から完全に姿を消した“幻の城”でもある。

 そんな尼崎城復活に、市民らは「新たな街のシンボルに」と期待を寄せる。過去の公害問題などで負のイメージも漂う同市だが、尼崎城はイメージ刷新につながるのか、注目されている。

 尼崎城は1617(元和3)年、江戸幕府の命令で、近江の膳所藩から尼崎藩へと領地替えをした譜代大名、戸田氏鉄(うじかね)により、翌年から数年かけて築かれた。約300メートル四方、阪神甲子園球場の3.4倍に相当する広大な敷地に建てられた城は、3重の堀に4重の天守という「5万石の大名としては立派過ぎるお城だった」(市の担当者)という。

 戸田氏、青山氏、松平氏と代々譜代大名が藩主を務め、尼崎藩政の中心にあった尼崎城だが、明治維新後に廃城。建物は建材として街の整備に使われ、堀も埋められてしまったため、地上部分の遺構はほとんど残らなかった。

 尼崎はその後、工業都市として発展。その中で、尼崎城の存在は徐々に忘れ去られていった。一部の市民からは、城の再建を臨む声もあったが、費用面などから実現に至らなかった。

 そんな尼崎城の再建を申し出たのが、尼崎市で家電販売店の旧ミドリ電化(現エディオン)を創業した安保詮(あぼ・あきら)氏だ。「お世話になった尼崎に恩返しがしたい」という思いから、天守の復元を尼崎市に打診。建設費用は実に10億円以上。それをすべて安保氏が負担するという、願ってもない申し出だった。城の跡地は国史跡に指定されておらず、文化庁の規制がかからないという事情もあり、市が城址公園の整備を担うことで、建設計画はスムーズに進んだ。

 今回再建されるのは、4重の天守と2重の付けやぐら。17年12月から、かつての場所からは約300メートル西の公園で、左右反転させる形で建設中だ。

「駅からお城を見た時に、街を守っているように見えるような雰囲気を大切にしました」(市の担当者)
 AERA記事より


天神山城

2018-05-05 20:17:18 | 山城ー武州
イベント情報

名称
お城EXPO 2018
会期
12月22日(土) 23日(日) 24日(月/振休)
開城時間
10:00~18:00(最終日17:00まで) ※最終入城30分前まで
会場
パシフィコ横浜 会議センター

主催
お城EXPO実行委員会(公益財団法人日本城郭協会、株式会社ムラヤマ、株式会社東北新社、パシフィコ横浜)
問い合わせ
「お城EXPO 2018」事務局メールアドレス:oshiroexpo2018@murayama.co.jp
TEL:045-662-5380 (平日10:00~17:00)
※5/7(月)より(5/6まではメールにてお問い合わせください)


パシフィコ横浜地図

天神山城は埼玉県長瀞町岩田にあります。

天神山城地図

国道140号線で寄居町の波久礼駅の北100くらいの信号を左折し(花園ICから向かった場合)地方道82号線に入ります。


3kmくらい西へ進むと白鳥神社があり、この本殿西に登り道があります。

記載されているように北条氏邦が白鳥大明神を崇敬し、近くの根小屋城から、この天神山城へ本拠を移したとされています。

本丸にある建物、廃墟と化しています。

橋を渡って(深堀)長い二の丸

俯瞰図は「余湖くんのお城のページ」より

二の丸の南先端部に土塁

土塁の南は抉ったような堀

堀は北側も抉っています。

この妙な堀の先に、南曲輪(仮に)

南曲輪の裾には横堀

横堀から南曲輪城壁を見上げています。

再度、俯瞰図を見てもらえばわかりますが、二の丸から別城ともいえるほどの遺構が東支尾根にありますが次回とします。東斜面を下って見上げています。

歴史・沿革
天文年間に藤田重利(のちの藤田康邦)が築城したと伝えられている。1546年(天文15年)の河越夜戦以降に北武蔵に勢力を伸ばしてきた北条氏康に重利は1549年(天文18年)7月従属した。
1560年(永禄3年)に上杉謙信が関東侵攻を開始すると藤田氏は上杉方についた。しかし、同年9月に北条氏によって攻め落とされた。
1564年(永禄7年)頃に北条氏康の四男である氏邦が入城した。氏邦は1568年(永禄11年)10月から翌年9月の間に鉢形城に居城を移したが、その後も天神山城は使われ続け、1590年(天正18年)の小田原征伐の際に、鉢形落城と共に開城したといわれている。
1970年(昭和45年)、観光目的として本丸跡に模擬二重櫓(鉄筋コンクリート製)が建設されたが、採算あわず倒産し模擬天守も放置された。ウィキペディアより