山城めぐり(兄弟ブログ biglob)

新潟、山梨、長野、群馬、栃木、埼玉県などの埋もれた城跡を探索しております。カテゴリ「城郭一覧」で簡単にアクセス。
 

後閑城

2018-05-23 20:44:19 | 山城ー上州
後閑城は新田景純が城主であった時期もあり、久しぶりに登ってきました。後閑城は群馬県安中市下後閑にあります。

後閑城地図

後閑小の南前を走る県道216号線で案内が出ています。

後閑小を過ぎて、この案内の通り右折

600mくらいで西登り口の棒標があります。

林道を上りつめると駐車場があり、西第三曲輪です。

駐車場には略図があります。

西コースの道を登ってゆきます。奥に見える城壁が本丸

西第二曲輪

西第三曲輪を見下ろしています。

西コースをさらに登り

西第一曲輪

西第一曲輪から北尾根に進み

大堀切

大堀切の土塁上から北を見ると北曲輪

北曲輪の西下に略図の通り四段の曲輪が階段状に並んでいます。

次回 北曲輪から東曲輪群へ

後閑氏の出自
後閑氏は新田義貞の弟義重に起こるという。義重は新田四郎と号し、義貞が挙兵したとき新田郷にとどまった。 建武の新政がなたのちに起こった「中先代の乱」に際して北条時行が率いる信濃軍が上野を経て鎌倉へ攻め込もうとした とき、新田四郎はこれを利根川に防戦しようとしたが衆寡敵せず一敗地にまみれた。その後、中先代の乱は 足利尊氏によって制圧され、新田四郎は功績を認められて甘楽郡に土地を与えられた。義重は新領地となった丹生山に 居を移し、子孫が相継いで戦国時代に至ったという。
 ちなみに後閑氏の出自に関して  『上野志』には「新田義貞の末弟である義重が、北条時行による中先代の乱(建武二年=1335)の戦功により、 丹生城を賜り、以後、主水正景純までの八代が居城したとされ、景純は北条内匠頭政時の居城である後閑城を攻略し、 永禄三年(1560)に甲斐武田氏に服属した」とある。また、『上州故城塁記』には、「新田四郎義重は新田義貞の 末弟であり、中先代の乱の際に北条時行と上州で戦ったと「太平記」に記されており、その後足利直義は義重の戦功に 報い甘楽郡を与えた。のち代々相続して丹生山に居住し、義重七代の孫である主水景純は後閑城に転居した」とある。
 一方、「新田系図」には、岩松氏の後裔が後閑を称したという記述もある。いずれにしろ、後閑氏は清和源氏新田氏流を称し新田義重七代の後裔にあたるという新田景純の登場までの事蹟は明らかではない。 武家家伝より



加計問題の新文書

2018-05-23 20:10:47 | 日記
愛媛県から新たな文書が国会に提出されました。

加計問題、今度の「新文書」がヤバすぎるワケ 首相は理事長との面談を否定しきれるのか

東洋経済オンライン / 2018年5月23日 10時0分

愛媛県が5月21日午後、加計学園問題について新たな文書を公表した。

参議院予算委員会理事会が与野党合意に基づく国政調査権行使による問い合わせに応じたもの。この文書のインパクトは極めて大きく、事態は底なし沼のような様相を呈し始めている。

愛媛県が提出した文書は2015年4月2日に東京に出張した同県地域政策課長と主幹の2名分の旅行命令簿と復命書、精算請求書のほか、面会者の名刺や発言メモ、そして同年2月と3月の愛媛県、今治市、加計学園関係者との会合に関するメモである。

■2月25日に加計理事長と安倍首相が面談、との記録

これによれば、加計学園は安倍晋三首相と加計孝太郎理事長との面談を模索したが、安倍首相が多忙でかなわず、代わりに加藤勝信官房副長官(当時、現在は厚労相)と2月に面会したという。加藤氏は2月14日夕方に岡山の事務所で加計学園の渡邊良人事務局長と面会した事実を認めたものの、「安倍首相には報告していない」と答えている。

しかしながら加藤氏と渡邊事務局長が面会した後から、話は急展開したようだ。愛媛県が提出したメモによると、3月3日の会合で加計学園から2月25日に加計理事長が安倍首相と15分程度面談したことが愛媛県に報告され、国際水準の獣医学部新設を説明する加計理事長に安倍首相が「そういう新しい獣医学部の考えはいいね」とコメントしたと記されている。

要するにこれらのメモからは、安倍首相は2015年2月25日に加計理事長から獣医学部新設について陳情を受け、これに同意したと読むことができるのだ。

だが安倍首相は加計学園の獣医学部新設の意図について、「(加計学園が今治市の国家戦略特区の事業者に決定した)2017年1月20日の国家戦略特区諮問会議まで知らなかった」と繰り返し述べてきた。

新たな愛媛県文書が公表された翌日朝も、記者団に「獣医学部新設について加計氏から話されたことも、私から聞いたこともない」と強調。2月25日の面会については「官邸の記録を調べたが、(面会の有無は)確認できなかった」と否定した。

なお同日の定例会見で菅義偉官房長官は「(加計氏の)入邸記録は残っていない」と説明した。確かに当時の各紙の首相動静などでも、入邸記録に加計氏の名前はない。

■本当に面談をしていないのか?

しかし記録がないからといって、加計氏が2015年2月25日に安倍首相と会っていないとの証明にはならない。官邸への来訪者は入口でチェックを受け、大手新聞社の番記者がその名前を記録する。名前が不明な場合は、官邸に聞いて把握する。

 ただし必ずその名前が紙面に載るとは限らず、記者が「重要ではない訪問者」と判断する場合は略される。また大手通信社は深夜まで首相の動向をチェックするが、首相が帰宅してもう来客などがないと判断すると撤退する。すなわちすべての訪問を把握しているわけではないのだ。

例えば2013年5月5日の動静には、安倍首相は夕方から昭恵夫人や萩生田光一総裁特別補佐(当時)らと山梨県鳴沢村の別荘で過ごしたことが記されている。この時にBBQを楽しんだ写真が萩生田氏のブログにアップされ、安倍首相の隣には加計氏の姿も写っているが、この日の各紙の動静には加計氏の名前はなかった。

2月25日の安倍・加計面談については、新たな愛媛県文書で記載されているのは1カ所にとどまらない。

4月2日に愛媛県と今治市と加計学園が柳瀬唯夫首相秘書官(当時)と面談する前の打ち合わせ(別紙)でも、加計学園の渡邊事務局長が「安倍総理と同学園理事長が会食した際に、下村(博文)文科大臣が加計学園は課題への回答もなくけしからんといっているとの発言があったことに対し、理事長から柳瀬秘書官にちゃんと説明していくように言われている」と述べたという記録がある。

見解がここまで割れてしまっているわけだが、真実はどうなのか。それを確認するには、愛媛県や今治市、そして加計学園から話を聞くほかはないだろう。立憲民主党など野党5党と1会派は22日午前に院内で幹事長・書記局長会談を行い、柳瀬元総理秘書官と加計理事長の証人喚問および愛媛県の中村時広知事の参考人招致を求めることを決定した。

これに意欲を示すのは中村知事だ。愛媛県が提出した文書について「改ざんする必要がない。ありのままに報告書類として出されたものが提出された」と述べ、安倍首相と真正面からの対決もいとわない姿勢を見せる。



愛媛県知事には敬意を表します。これほどの悪辣、嘘つき政権は日本の憲政史上かつてない。こんな友達優遇、私的都合によって国会を運営し、嘘がばれそうになれば行政文書を改竄させ、これによって自殺者が出ても責任すら感じさせない。外交の安倍と嘯いて、支持率が下がればトランプに拉致問題を米朝会議で取り上げてもらうよう懇願してきた。これで、あたかも拉致被害者に対し全力を尽くしているポーズをとる。しかし、自国の国民が拉致されて、他国の大統領にお願いして解決するだろうか。ほんとうに安倍は口先だけで、拉致問題に取り組もうとはしない。金正恩は韓国の文大統領に「なぜ、日本政権は我が国に来ないのか?」と告げたと報道されている。安倍の本音は韓国と北朝鮮とが平和の方向に向かっては都合が悪いのである。なぜか憲法9条を廃棄したいがために、北朝鮮が挑発を繰り返し、核開発を進めてくれれば、「国難」として、日本国民を憲法9条廃棄の世論に誘導できるからである。北朝鮮との対話のための対話は無意味である。圧力をかけ続けなければいけないと安倍は言ったが、アメリカが話し合いの余地を見せ、日本は蚊帳の外に置かれている。圧力をかけ続ければ、拉致問題は永遠に解決しない。韓国とアメリカとの平和外交への道筋が(最近の情勢は北朝鮮がゆさぶりをかけているが。)できつつある。アメリカの武力行使を期待するかのような安倍外交がいかに日本国民を危険なところに追いやっているか。こんな安倍政治をまだ30%の国民が支持している。元文化省事務官前川氏は「愚かな国民が愚かな政権を維持させている」と語った。本を読まず、新聞を読まない若者よいいかげん目覚めてくれ。憲法9条が廃棄されれば、必ず将来戦争に自分の子供たちが巻き込まれる。