後閑城は新田景純が城主であった時期もあり、久しぶりに登ってきました。後閑城は群馬県安中市下後閑にあります。
後閑城地図
後閑小の南前を走る県道216号線で案内が出ています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/26/8a/60e97ddb01340ad29cdafc3761afc4d2.jpg)
後閑小を過ぎて、この案内の通り右折
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/71/04/cdbd1ad0d07cd51e448344f67c8d2c7e.jpg)
600mくらいで西登り口の棒標があります。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/28/18/6a0b8aa91cfc47d0288c39d4a2ae8dd2.jpg)
林道を上りつめると駐車場があり、西第三曲輪です。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/71/6f/e1fe3c4a00a4afbded991e47a712beaf.jpg)
駐車場には略図があります。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3a/e9/c197306feb86f9f8c1508f32ace51f94.jpg)
西コースの道を登ってゆきます。奥に見える城壁が本丸
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/72/8a/2e3e694972a5bc70d7d801d3d6244400.jpg)
西第二曲輪
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6c/3f/9ceae94b337c024532675b5ad0403e08.jpg)
西第三曲輪を見下ろしています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/68/dd/11910856973aaaf5c21aaec26bf97729.jpg)
西コースをさらに登り
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/24/ff/cbbdc10a0a0ffbbc6f642497f22325b2.jpg)
西第一曲輪
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2b/03/891adda7845aaf90a22d707a36fee230.jpg)
西第一曲輪から北尾根に進み
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/49/90/605efbab463d251772b3d1fb8a9d411f.jpg)
大堀切
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/41/97/cd9a5df6a244c242576cb724e9d13404.jpg)
大堀切の土塁上から北を見ると北曲輪
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0c/1f/f2828a6605631f227ae04984b97613f4.jpg)
北曲輪の西下に略図の通り四段の曲輪が階段状に並んでいます。
次回 北曲輪から東曲輪群へ
後閑氏の出自
後閑氏は新田義貞の弟義重に起こるという。義重は新田四郎と号し、義貞が挙兵したとき新田郷にとどまった。 建武の新政がなたのちに起こった「中先代の乱」に際して北条時行が率いる信濃軍が上野を経て鎌倉へ攻め込もうとした とき、新田四郎はこれを利根川に防戦しようとしたが衆寡敵せず一敗地にまみれた。その後、中先代の乱は 足利尊氏によって制圧され、新田四郎は功績を認められて甘楽郡に土地を与えられた。義重は新領地となった丹生山に 居を移し、子孫が相継いで戦国時代に至ったという。
ちなみに後閑氏の出自に関して 『上野志』には「新田義貞の末弟である義重が、北条時行による中先代の乱(建武二年=1335)の戦功により、 丹生城を賜り、以後、主水正景純までの八代が居城したとされ、景純は北条内匠頭政時の居城である後閑城を攻略し、 永禄三年(1560)に甲斐武田氏に服属した」とある。また、『上州故城塁記』には、「新田四郎義重は新田義貞の 末弟であり、中先代の乱の際に北条時行と上州で戦ったと「太平記」に記されており、その後足利直義は義重の戦功に 報い甘楽郡を与えた。のち代々相続して丹生山に居住し、義重七代の孫である主水景純は後閑城に転居した」とある。
一方、「新田系図」には、岩松氏の後裔が後閑を称したという記述もある。いずれにしろ、後閑氏は清和源氏新田氏流を称し新田義重七代の後裔にあたるという新田景純の登場までの事蹟は明らかではない。 武家家伝より
後閑城地図
後閑小の南前を走る県道216号線で案内が出ています。
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後閑小を過ぎて、この案内の通り右折
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600mくらいで西登り口の棒標があります。
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林道を上りつめると駐車場があり、西第三曲輪です。
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駐車場には略図があります。
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西コースの道を登ってゆきます。奥に見える城壁が本丸
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/72/8a/2e3e694972a5bc70d7d801d3d6244400.jpg)
西第二曲輪
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西第三曲輪を見下ろしています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/68/dd/11910856973aaaf5c21aaec26bf97729.jpg)
西コースをさらに登り
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西第一曲輪
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西第一曲輪から北尾根に進み
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大堀切
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大堀切の土塁上から北を見ると北曲輪
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北曲輪の西下に略図の通り四段の曲輪が階段状に並んでいます。
次回 北曲輪から東曲輪群へ
後閑氏の出自
後閑氏は新田義貞の弟義重に起こるという。義重は新田四郎と号し、義貞が挙兵したとき新田郷にとどまった。 建武の新政がなたのちに起こった「中先代の乱」に際して北条時行が率いる信濃軍が上野を経て鎌倉へ攻め込もうとした とき、新田四郎はこれを利根川に防戦しようとしたが衆寡敵せず一敗地にまみれた。その後、中先代の乱は 足利尊氏によって制圧され、新田四郎は功績を認められて甘楽郡に土地を与えられた。義重は新領地となった丹生山に 居を移し、子孫が相継いで戦国時代に至ったという。
ちなみに後閑氏の出自に関して 『上野志』には「新田義貞の末弟である義重が、北条時行による中先代の乱(建武二年=1335)の戦功により、 丹生城を賜り、以後、主水正景純までの八代が居城したとされ、景純は北条内匠頭政時の居城である後閑城を攻略し、 永禄三年(1560)に甲斐武田氏に服属した」とある。また、『上州故城塁記』には、「新田四郎義重は新田義貞の 末弟であり、中先代の乱の際に北条時行と上州で戦ったと「太平記」に記されており、その後足利直義は義重の戦功に 報い甘楽郡を与えた。のち代々相続して丹生山に居住し、義重七代の孫である主水景純は後閑城に転居した」とある。
一方、「新田系図」には、岩松氏の後裔が後閑を称したという記述もある。いずれにしろ、後閑氏は清和源氏新田氏流を称し新田義重七代の後裔にあたるという新田景純の登場までの事蹟は明らかではない。 武家家伝より