碓氷峠の戦い(吉井町史より)
長野業政の諫言にもかかわらず、管領上杉軍は小田井原に兵を向けて結局武田軍に敗れ敗走するはめになった。
武田軍は翌日には碓氷峠に向かい残敵の掃討戦を行う必要があった。「関東八州古戦録」に、時に上杉勢の五千余騎は峠より北に備え、坂を打越進みけるが、敵の押来るを見て隊伍を立て直さんと犇めくところへ甲兵鬨の声をあげて矢を射る。上州方も同じく鬨を合わせて打ってかかれば、武田勢急に踵を返して退く。上杉勢はこれ逃さじと追い打ち懸けた。板垣思うままに引き寄せ、手勢二百余騎を一度に取って返し喚声を上げて突っ込んだ。その中に広瀬左衛門景房十七歳、仁科伝右衛門形幸十九歳、真っ先に槍を入れ、広瀬は敵将藤田丹後守を討取り、仁科は師岡隼人正に槍をつけてさんざんに突きまくった。板垣勢に追われて峠へ引き上げて新たに陣を立て直そうとするところを板垣勢に遮二無二突き立てられたので、こらえかねて崩れ去った。この時、一騎武州の深谷内匠助、小桜縅の若武者が坂の半ばで踏みとどまり、大長刀打ち振り、追い来たる甲兵十余人を薙ぎ伏せて悠々と引き上げていった。板垣はなおも追撃させようとしたが、上杉勢は峠へ引取り、後陣の新手を加えて一つになり備えを固めて持ち返したので、板垣はそれ以上の追撃を諦め引き返し、午の刻(真昼の十二時ころ)に勝鬨をあげる。討取った首は千二百十九あったという。
碓氷峠地図(この当時の碓氷峠は軽井沢熊野権現から松井田峠を登り、子持山の麓経由で刎石山を通り、愛宕山城址左手を通り、現在の国道18号線へ通じています。片道7kmの旧中山道です。そして子持山の麓から軽井沢寄りに古戦場跡の看板がありました。)
県別マップル長野県には旧碓氷峠が掲載されています。
晴信はまだ病から回復していなかったが、後の備えが十分でないので、たとえ板垣が伐り勝ったとはいえ、この後上杉勢がどうでるか不安もあって、病を押して出陣した。十月五日辰の刻(午前八時ころ)には馬場民部少輔信房、内藤修理亮昌豊、浅利式部少輔信種、原加賀守国房、諸角豊後守昌清、山本勘助晴幸、小幡山城守虎盛、原美濃守虎胤、安岡三右衛門、曽根七郎右衛門、以下総勢四千五百余騎で甲府を発ち翌六日昼には信州佐久郡軽井沢に着陣した。上杉勢は手合わせの合戦に板垣勢に手痛い目に遭って無念に思っていたのか再び軍を立て直して峠に陣を敷いた。丁度この時、信州に在陣していた武田家の臣飯部兵部少輔虎昌、小山田備中守昌辰、真田弾正忠幸隆などが急を聞いて駆けつけてきたので、晴信はこれらの新手を最前線に配して板垣勢を後陣へ回した。
その日の未の刻(午後二時ころ)峠を登り攻撃を開始した上杉勢も必死に戦い、初戦の恥を雪がんと、さんざんに射立ててきた。武田勢はそれをものともせず攻めつけた。次第に上杉勢は後退し始める。すわ勝ったりと甲兵は、一つになって追い立て追い立て進んだので、上杉勢はまたも崩れ、散りじりばらばらになって麓に向かって雪崩落ちた。この時手練れの白倉五右衛門が、板垣信方を射落とさんと小高い丘に一人踏みとどまって思うままひきつけ弓を引いた。まさに正中を射たと思った矢が信方の馬の胸に刺さった。信方は馬からどっと落ち、これを見た上杉の武者七八騎が駆け寄り取り囲んで槍を突けた。信方太刀にて切払わんとしたが、多勢に取り囲まれ既に危ないと思われたとき、真田幸隆が馳せ来たりて敵二人を伐り伏せ、三人を手負いにして、猶も切結んでいたところへ武田の兵、六、七十騎が駆け付けた。上杉勢も百騎ばかりが押し返してきて乱闘になったが勝負がつかず引き分けとなった。
つづく
長野業政の諫言にもかかわらず、管領上杉軍は小田井原に兵を向けて結局武田軍に敗れ敗走するはめになった。
武田軍は翌日には碓氷峠に向かい残敵の掃討戦を行う必要があった。「関東八州古戦録」に、時に上杉勢の五千余騎は峠より北に備え、坂を打越進みけるが、敵の押来るを見て隊伍を立て直さんと犇めくところへ甲兵鬨の声をあげて矢を射る。上州方も同じく鬨を合わせて打ってかかれば、武田勢急に踵を返して退く。上杉勢はこれ逃さじと追い打ち懸けた。板垣思うままに引き寄せ、手勢二百余騎を一度に取って返し喚声を上げて突っ込んだ。その中に広瀬左衛門景房十七歳、仁科伝右衛門形幸十九歳、真っ先に槍を入れ、広瀬は敵将藤田丹後守を討取り、仁科は師岡隼人正に槍をつけてさんざんに突きまくった。板垣勢に追われて峠へ引き上げて新たに陣を立て直そうとするところを板垣勢に遮二無二突き立てられたので、こらえかねて崩れ去った。この時、一騎武州の深谷内匠助、小桜縅の若武者が坂の半ばで踏みとどまり、大長刀打ち振り、追い来たる甲兵十余人を薙ぎ伏せて悠々と引き上げていった。板垣はなおも追撃させようとしたが、上杉勢は峠へ引取り、後陣の新手を加えて一つになり備えを固めて持ち返したので、板垣はそれ以上の追撃を諦め引き返し、午の刻(真昼の十二時ころ)に勝鬨をあげる。討取った首は千二百十九あったという。
碓氷峠地図(この当時の碓氷峠は軽井沢熊野権現から松井田峠を登り、子持山の麓経由で刎石山を通り、愛宕山城址左手を通り、現在の国道18号線へ通じています。片道7kmの旧中山道です。そして子持山の麓から軽井沢寄りに古戦場跡の看板がありました。)
県別マップル長野県には旧碓氷峠が掲載されています。
晴信はまだ病から回復していなかったが、後の備えが十分でないので、たとえ板垣が伐り勝ったとはいえ、この後上杉勢がどうでるか不安もあって、病を押して出陣した。十月五日辰の刻(午前八時ころ)には馬場民部少輔信房、内藤修理亮昌豊、浅利式部少輔信種、原加賀守国房、諸角豊後守昌清、山本勘助晴幸、小幡山城守虎盛、原美濃守虎胤、安岡三右衛門、曽根七郎右衛門、以下総勢四千五百余騎で甲府を発ち翌六日昼には信州佐久郡軽井沢に着陣した。上杉勢は手合わせの合戦に板垣勢に手痛い目に遭って無念に思っていたのか再び軍を立て直して峠に陣を敷いた。丁度この時、信州に在陣していた武田家の臣飯部兵部少輔虎昌、小山田備中守昌辰、真田弾正忠幸隆などが急を聞いて駆けつけてきたので、晴信はこれらの新手を最前線に配して板垣勢を後陣へ回した。
その日の未の刻(午後二時ころ)峠を登り攻撃を開始した上杉勢も必死に戦い、初戦の恥を雪がんと、さんざんに射立ててきた。武田勢はそれをものともせず攻めつけた。次第に上杉勢は後退し始める。すわ勝ったりと甲兵は、一つになって追い立て追い立て進んだので、上杉勢はまたも崩れ、散りじりばらばらになって麓に向かって雪崩落ちた。この時手練れの白倉五右衛門が、板垣信方を射落とさんと小高い丘に一人踏みとどまって思うままひきつけ弓を引いた。まさに正中を射たと思った矢が信方の馬の胸に刺さった。信方は馬からどっと落ち、これを見た上杉の武者七八騎が駆け寄り取り囲んで槍を突けた。信方太刀にて切払わんとしたが、多勢に取り囲まれ既に危ないと思われたとき、真田幸隆が馳せ来たりて敵二人を伐り伏せ、三人を手負いにして、猶も切結んでいたところへ武田の兵、六、七十騎が駆け付けた。上杉勢も百騎ばかりが押し返してきて乱闘になったが勝負がつかず引き分けとなった。
つづく