山城めぐり(兄弟ブログ biglob)

新潟、山梨、長野、群馬、栃木、埼玉県などの埋もれた城跡を探索しております。カテゴリ「城郭一覧」で簡単にアクセス。
 

氏族の追跡(西上州 高田氏)④

2015-10-31 22:13:53 | 氏族の追跡
碓氷峠の戦い(吉井町史より)

長野業政の諫言にもかかわらず、管領上杉軍は小田井原に兵を向けて結局武田軍に敗れ敗走するはめになった。

武田軍は翌日には碓氷峠に向かい残敵の掃討戦を行う必要があった。「関東八州古戦録」に、時に上杉勢の五千余騎は峠より北に備え、坂を打越進みけるが、敵の押来るを見て隊伍を立て直さんと犇めくところへ甲兵鬨の声をあげて矢を射る。上州方も同じく鬨を合わせて打ってかかれば、武田勢急に踵を返して退く。上杉勢はこれ逃さじと追い打ち懸けた。板垣思うままに引き寄せ、手勢二百余騎を一度に取って返し喚声を上げて突っ込んだ。その中に広瀬左衛門景房十七歳、仁科伝右衛門形幸十九歳、真っ先に槍を入れ、広瀬は敵将藤田丹後守を討取り、仁科は師岡隼人正に槍をつけてさんざんに突きまくった。板垣勢に追われて峠へ引き上げて新たに陣を立て直そうとするところを板垣勢に遮二無二突き立てられたので、こらえかねて崩れ去った。この時、一騎武州の深谷内匠助、小桜縅の若武者が坂の半ばで踏みとどまり、大長刀打ち振り、追い来たる甲兵十余人を薙ぎ伏せて悠々と引き上げていった。板垣はなおも追撃させようとしたが、上杉勢は峠へ引取り、後陣の新手を加えて一つになり備えを固めて持ち返したので、板垣はそれ以上の追撃を諦め引き返し、午の刻(真昼の十二時ころ)に勝鬨をあげる。討取った首は千二百十九あったという。

碓氷峠地図(この当時の碓氷峠は軽井沢熊野権現から松井田峠を登り、子持山の麓経由で刎石山を通り、愛宕山城址左手を通り、現在の国道18号線へ通じています。片道7kmの旧中山道です。そして子持山の麓から軽井沢寄りに古戦場跡の看板がありました。)


県別マップル長野県には旧碓氷峠が掲載されています。

晴信はまだ病から回復していなかったが、後の備えが十分でないので、たとえ板垣が伐り勝ったとはいえ、この後上杉勢がどうでるか不安もあって、病を押して出陣した。十月五日辰の刻(午前八時ころ)には馬場民部少輔信房、内藤修理亮昌豊、浅利式部少輔信種、原加賀守国房、諸角豊後守昌清、山本勘助晴幸、小幡山城守虎盛、原美濃守虎胤、安岡三右衛門、曽根七郎右衛門、以下総勢四千五百余騎で甲府を発ち翌六日昼には信州佐久郡軽井沢に着陣した。上杉勢は手合わせの合戦に板垣勢に手痛い目に遭って無念に思っていたのか再び軍を立て直して峠に陣を敷いた。丁度この時、信州に在陣していた武田家の臣飯部兵部少輔虎昌、小山田備中守昌辰、真田弾正忠幸隆などが急を聞いて駆けつけてきたので、晴信はこれらの新手を最前線に配して板垣勢を後陣へ回した。
 その日の未の刻(午後二時ころ)峠を登り攻撃を開始した上杉勢も必死に戦い、初戦の恥を雪がんと、さんざんに射立ててきた。武田勢はそれをものともせず攻めつけた。次第に上杉勢は後退し始める。すわ勝ったりと甲兵は、一つになって追い立て追い立て進んだので、上杉勢はまたも崩れ、散りじりばらばらになって麓に向かって雪崩落ちた。この時手練れの白倉五右衛門が、板垣信方を射落とさんと小高い丘に一人踏みとどまって思うままひきつけ弓を引いた。まさに正中を射たと思った矢が信方の馬の胸に刺さった。信方は馬からどっと落ち、これを見た上杉の武者七八騎が駆け寄り取り囲んで槍を突けた。信方太刀にて切払わんとしたが、多勢に取り囲まれ既に危ないと思われたとき、真田幸隆が馳せ来たりて敵二人を伐り伏せ、三人を手負いにして、猶も切結んでいたところへ武田の兵、六、七十騎が駆け付けた。上杉勢も百騎ばかりが押し返してきて乱闘になったが勝負がつかず引き分けとなった。

つづく

竹場城④

2015-10-30 18:35:27 | 山城ー信州
本丸から南尾根へ


南尾根堀切イ

曲輪6

堀切ア

曲輪7

説明のつかない斜面、右側は土塁のようでもあり、左は抉れていて曲輪のようでもある場所。一応曲輪10(仮に)

曲輪10の下に堀切と土橋があり、上の写真は曲輪として判断してよいと思います。宮坂氏は縄張り図に入れていません。

東筑摩郡誌には竹場砦跡、「青柳頼長の要害にして、その臣竹場源之亟定友これを守りしが、本城と同時に陥落せり。」とある。この落城は天正15年9月青柳伊勢守頼長が小笠原貞慶により松本城内で誘殺され青柳城が落城した時のことを言っている。小笠原勢に急襲され、主のいなくなった青柳城は混乱の内に落城し、至近の竹場城も落城したのであろう。「信濃の山城と館」4巻 城郭一覧は東筑摩郡の項に青柳城があります。

次回 矢倉城 麻績村

竹場城③

2015-10-29 11:33:58 | 山城ー信州
三の丸・二の丸・本丸へ

これを登れば曲輪4です。

無粋にもNHKの放送塔が建っていますが曲輪4

堀切オ

堀切オを南から見返しています。先が降りてきた曲輪4

三の丸

二の丸、この切岸を登れば本丸

一番肝心な本丸が残念ながら薮でした。

二の丸を見下ろしています。

本丸から西尾根に向かいます。堀切ウ

50mほどの細尾根を登ると、曲輪9(前回の縄張り図参照)

曲輪9から西北尾根を下れば物見?この手前から道が下っています。搦め手か

西南に見える山合い

曲輪9を西に下れば大きな石灰岩?

曲輪9の城壁を西下から見ています。

次回 本丸から東南尾根へ

竹場城②

2015-10-28 22:51:24 | 山城ー信州
本丸に向かいます。

第二北曲輪(仮に)から南尾根に登ってゆくと、土橋(堀切)によってこの先が守られています。

尾根を登ると(この空間は上から障害物のない斜面に現れた登って来る敵に対しを攻撃し易いためのものと解釈しています。)

斜面の上に第三北曲輪(仮に)縄張り図と異なるため

瘤によって二重堀切

南尾根の分岐点(曲輪A)

分岐点から第三北曲輪を見下ろしています。

分岐点の曲輪Aから南東尾根へと向かいます。

南東尾根第一堀切

第一堀切を振り返って見ています。歩いてきた堀切の先は南東曲輪とします。

南東尾根第二堀切

二つ目の分岐点B(ここが宮坂氏の縄張り図で曲輪4としているところのようです。従って縄張り図の曲輪8は私の言う分岐点曲輪Aのところでした。それから北への尾根は宮坂氏は歩かれてないようです。)

次回 曲輪3・2・本丸へ 

整理しますと、分岐点曲輪Bとしたところは縄張り図の曲輪4です。ここから先の南尾根は縄張り図通りとなります。

竹場城

2015-10-27 20:43:09 | 山城ー信州
竹場城は長野県筑北村竹場にあります。

竹場城地図

国道403号線から地方道55号線に入り麻績川を渡って、竹場地区に入ります。

55号線竹場地区から見た城山

竹場地区の民家がある坂道を登り

山への道と成り、突き当たって、左手の林道を150mほど歩きます。

林道を歩き詰めると、開けて神社の所へ出ます。

鳥居から入って、能舞台のような建物の右手側から登り道があります。

自分は親切に教えていただいた神社まで歩かずに途中から直登して、第一北曲輪(仮に)へと登ってしまいました。

第一北曲輪の南にある切岸

第一北曲輪の南尾根下にある堀切

縄張り図は「信濃の山城と館」4巻 北は右手です。

細尾根を歩き

第二北曲輪

第二北曲輪の東下の腰曲輪

一段目の腰曲輪から南下に二段目の腰曲輪

本日はここまで