磯部城は群馬県安中市東上磯部にあります。
磯部城地図
地方道48号線からアクセスする場合には磯部小から西に300m、児童公園の東脇から市道を進み信越化学の会社の東側にある山が磯部城址です。県道217号線からは五賀のバス停から西の二又を右手に進み1.5kmくらいの右手の山です。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/47/8a/fb9459c983f6b58a925a186b33ef5851.jpg)
城址入口、奥に駐車場有
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/12/84/35c4f111412ef778bc3a44134ca549ab.jpg)
駐車場にある縄張り図と説明板、磯部は佐々木信綱が所領を持っていたところですが、城址は戦国期のものです。山崎一氏は武田信玄によるものかと推測されていますが、横堀の付け方からすれば後北条氏の可能性もあります。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5a/b9/b0cc353c316597ddb2ea69476bc29d4e.jpg)
登り口に入って南口に廻ります。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/31/28/277f8aa63a307bea9ee71323be24b779.jpg)
大きな竪堀、通路でもあり、下方から南周りに犬走があります。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/67/58/e0696732204a51b06ea5d47883655129.jpg)
馬出の下にある大きな竪堀
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/53/38/f6a7f496e424d840f72b75661192e5ab.jpg)
竪堀を見上げています
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/76/50/9a0f2ca0a771aad9cd4c722f584a6316.jpg)
犬走から南に廻り
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/34/4f/706ebf69917c139ecf2db781193b763e.jpg)
本丸南下の腰曲輪を東に歩いてゆきます。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/05/71/ca7a16499ff00fe8fb8fe5d4033a93b0.jpg)
腰曲輪、縄張り図では広く描かれていませんが実際は幅広く感じました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0f/20/387a94873308bfcee75b2aac67927679.jpg)
つつじの小径とある腰曲輪を東に行くと馬出となります。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/34/f8/21b8c1e6fd5f942b23ab74ca4676c48c.jpg)
双馬出とあります。奥の腰曲輪から接続されています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/63/a9/12014eab42b86936f197e42f8c706cc9.jpg)
馬出から南に三の丸
日本大百科全書(ニッポニカ)の解説
佐々木信綱
ささきのぶつな
(1180―1242)
鎌倉前期の武将。定綱(さだつな)の四子。母は新田義重(にったよししげ)の女(むすめ)。通称四郎。1200年(正治2)幕命を受け近江柏原(おうみかしわばら)荘(滋賀県米原(まいばら)市)の住人柏原為永(ためなが)を討伐、1205年(元久2)には幕府軍に従い京都守護平賀朝雅(ひらがともまさ)を攻め、左近将監(さこんのしょうげん)に任ぜられた。1221年(承久3)に承久(じょうきゅう)の乱が起こると、一族の多くが京方についたにもかかわらず、日ごろ鎌倉に居住していた信綱は北条泰時(やすとき)に従い攻め上がり宇治川の合戦で戦功をあげた。乱後、京方に加わった兄広綱(ひろつな)にかわり近江守護に任ぜられ、1227年(安貞1)佐々木氏の本荘(ほんしょう)である佐々木荘(滋賀県近江八幡(はちまん)市)、堅田(かたた)荘(同大津市)などの地頭職(じとうしき)を与えられた。1234年(文暦1)評定衆(ひょうじょうしゅう)に加わり2年間在職。辞職後にわかに上洛(じょうらく)して出家し虚仮阿(きょかあ)と号し遁世(とんせい)した。[太田順三]
母新田義重の娘の関係から、上州磯部を所領に持ったのかもしれません。
磯部城地図
地方道48号線からアクセスする場合には磯部小から西に300m、児童公園の東脇から市道を進み信越化学の会社の東側にある山が磯部城址です。県道217号線からは五賀のバス停から西の二又を右手に進み1.5kmくらいの右手の山です。
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城址入口、奥に駐車場有
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駐車場にある縄張り図と説明板、磯部は佐々木信綱が所領を持っていたところですが、城址は戦国期のものです。山崎一氏は武田信玄によるものかと推測されていますが、横堀の付け方からすれば後北条氏の可能性もあります。
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登り口に入って南口に廻ります。
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大きな竪堀、通路でもあり、下方から南周りに犬走があります。
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馬出の下にある大きな竪堀
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/53/38/f6a7f496e424d840f72b75661192e5ab.jpg)
竪堀を見上げています
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/76/50/9a0f2ca0a771aad9cd4c722f584a6316.jpg)
犬走から南に廻り
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/34/4f/706ebf69917c139ecf2db781193b763e.jpg)
本丸南下の腰曲輪を東に歩いてゆきます。
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腰曲輪、縄張り図では広く描かれていませんが実際は幅広く感じました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0f/20/387a94873308bfcee75b2aac67927679.jpg)
つつじの小径とある腰曲輪を東に行くと馬出となります。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/34/f8/21b8c1e6fd5f942b23ab74ca4676c48c.jpg)
双馬出とあります。奥の腰曲輪から接続されています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/63/a9/12014eab42b86936f197e42f8c706cc9.jpg)
馬出から南に三の丸
日本大百科全書(ニッポニカ)の解説
佐々木信綱
ささきのぶつな
(1180―1242)
鎌倉前期の武将。定綱(さだつな)の四子。母は新田義重(にったよししげ)の女(むすめ)。通称四郎。1200年(正治2)幕命を受け近江柏原(おうみかしわばら)荘(滋賀県米原(まいばら)市)の住人柏原為永(ためなが)を討伐、1205年(元久2)には幕府軍に従い京都守護平賀朝雅(ひらがともまさ)を攻め、左近将監(さこんのしょうげん)に任ぜられた。1221年(承久3)に承久(じょうきゅう)の乱が起こると、一族の多くが京方についたにもかかわらず、日ごろ鎌倉に居住していた信綱は北条泰時(やすとき)に従い攻め上がり宇治川の合戦で戦功をあげた。乱後、京方に加わった兄広綱(ひろつな)にかわり近江守護に任ぜられ、1227年(安貞1)佐々木氏の本荘(ほんしょう)である佐々木荘(滋賀県近江八幡(はちまん)市)、堅田(かたた)荘(同大津市)などの地頭職(じとうしき)を与えられた。1234年(文暦1)評定衆(ひょうじょうしゅう)に加わり2年間在職。辞職後にわかに上洛(じょうらく)して出家し虚仮阿(きょかあ)と号し遁世(とんせい)した。[太田順三]
母新田義重の娘の関係から、上州磯部を所領に持ったのかもしれません。