山城めぐり(兄弟ブログ biglob)

新潟、山梨、長野、群馬、栃木、埼玉県などの埋もれた城跡を探索しております。カテゴリ「城郭一覧」で簡単にアクセス。
 

横山城③

2018-11-30 20:32:40 | 山城ー近畿地方
北城へ


西北尾根を歩くと、城壁が現れます。

これを左手から登ると

鞍部となって、これを登れば北城本丸となります。

坂下登り口に着き(東虎口)

本丸

横山城は初め京極氏が築いたと伝わっています。その後六角氏と浅井氏とで横山城の争奪がされて、元亀元年(1570)姉川の合戦以降、織田氏と浅井氏とで、この城を舞台に争われたという。

本丸を西から見ています。瓢箪は秀吉を意味しているようです。

臥竜公園へ(北虎口)

本丸北曲輪

北城本丸は三つの虎口があります。この南虎口から日吉神社へ通じていますが次回とします。

東北に見える伊吹山

姉川合戦②。 

ここで徳川家康が織田軍に合流し、家康もまた竜ヶ鼻に布陣。一方、浅井方にも朝倉景健率いる8,000の援軍が到着。朝倉勢は小谷城の東にある大依山に布陣。これに浅井長政の兵5,000が加わり、浅井・朝倉連合軍は合計13,000となった。
6月27日、浅井・朝倉方は陣払いして兵を引いたが[注 2]、翌28日未明に姉川を前にして、軍を二手に分けて野村・三田村にそれぞれ布陣した。これに対し、徳川勢が一番合戦として西の三田村勢へと向かい、東の野村勢には信長の馬廻、および西美濃三人衆(稲葉良通、氏家卜全、安藤守就)が向かった。
午前6時頃に戦闘が始まる。浅井方も姉川に向かってきて「火花を散らし戦ひければ、敵味方の分野は、伊勢をの海士の潜きして息つぎあへぬ風情なり(信長記)[5]」という激戦になったが[注 3]、浅井・朝倉連合軍の陣形が伸びきっているのを見た家康は榊原康政に命じて側面から攻めさせた。まずは朝倉軍が敗走し、続いて浅井軍が敗走した。結果的に織田・徳川側が1,100余りを討ち取って勝利した。合戦場付近の「血原」や「血川」という地名は往時の激戦振りを窺わせる。
信長は小谷城から50町ほどの距離まで追撃をかけ、ふもとの家々に放火したが、小谷城を一気に落とすことは難しいと考えて横山城下へ後退した。まもなく横山城は降伏し、信長は木下秀吉を城番として横山城に入れた。
奇襲説[編集]
姉川の戦いは朝倉・浅井軍の奇襲であったという説を高澤等は唱えている[6]。6月27日早朝に浅井・朝倉軍は一旦大依山から姿を消した。この時の状況を『信長公記』では「六月廿七日の暁、陣払ひ仕り、罷り退き候と存じ候のところ廿八日未明に三十町ばかりかゝり来なり」と陣払いして退却したと思った浅井・朝倉軍が突然として距離三十町のところに現れた様子を記している。織田軍は敵勢が陣払いしたと勘違いして再び軍勢を横山城の包囲体制に戻し、織田軍は本陣の背を突かれる形となり両軍陣形を整えず即座に戦いに突入したとする[注 4]。また姉川の戦いは両軍日時を取り決めた合戦だったとしている。 ウィキペディアより





横山城②

2018-11-29 23:21:50 | 山城ー近畿地方
南城周辺から北城へ


南虎口から南下腰曲輪へ通じています。

南第二腰曲輪

南第三腰曲輪

本丸北西下曲輪に戻って、北へ廻ると

北東尾根深い堀切

北東尾根第一腰曲輪

第二腰曲輪

第三腰曲輪

また北西下曲輪に戻り

南城本丸城壁を見上げています。

本丸北西下曲輪から北西尾根に下ってゆきます。土橋に見えます。

北西虎口

北西曲輪、この先を進めば北城となりますが次回とします。

南城は下、上に向かって北城へ(縄張り図は「近江の山城ベスト50」より

姉川の合戦から浅井氏攻略の為の前線基地、横山城
合戦までの経緯
尾張(愛知県西部)出身の戦国大名である織田信長は、駿河の今川義元を討ち取り、斎藤龍興から美濃を奪取したのち、上洛を目的として近江に侵攻した。侵攻に先立ち、北近江を治める浅井長政には、妹であるお市の方を娶らせて織田氏との縁戚関係を結んでいた。信長は、浅井氏からも援軍を得て、共通の敵である南近江の有力大名である六角義賢父子を破り(観音寺城の戦い)、足利義昭を奉じての上洛を果たした。
その後、信長からの上洛参集要求などを拒んで対立した越前の朝倉義景に対し、元亀元年(1570年)4月に信長が越前への侵攻を開始すると、朝倉氏との縁(同盟関係、主従関係とも)も深かった長政は信長から離反し、織田軍の背後を襲った。
優位から一転、挟撃される危険に陥った信長は撤退を開始。信長の家臣たちは「金ヶ崎の退き口」を経て退却した。
 開戦
織田軍の撤退後、朝倉義景は自身は敦賀に滞陣し、戦後処理や浅井長政との連絡に努め[4]、5月11日に一族の朝倉景鏡を総大将とする大軍を近江に進発させる。朝倉軍は浅井軍とともに南近江まで進出し、六角義賢と連携し信長の挟撃を図ったが、この連携はうまくいかず、信長は千草越えにより5月21日に岐阜への帰国に成功し、六角軍は6月4日、野洲河原の戦いで柴田勝家、佐久間信盛に敗れてしまう。このため、浅井・朝倉軍は美濃の垂井・赤坂周辺を放火するとともに、国境に位置する長比・苅安尾といった城砦に修築を施し[注 1]兵を入れて織田軍の来襲に備えた。朝倉軍は6月15日に越前へ帰陣するが、前後して長比城に配置された堀秀村・樋口直房が調略により信長に降り長比・苅安尾両城は陥落する。これを受けて6月19日、信長は岐阜を出立しその日のうちに長比城に入った。
6月21日、信長は虎御前山に布陣すると、森可成、坂井政尚、斎藤利治、柴田勝家、佐久間信盛、蜂屋頼隆、木下秀吉、丹羽長秀らに命じて、小谷城の城下町を広範囲に渡って焼き払わせた。翌6月22日、信長は殿軍として簗田広正、中条家忠、佐々成政らに鉄砲隊500、弓兵30を率いらせ、いったん後退した。
6月24日、信長は小谷城とは姉川を隔てて南にある横山城を包囲し、信長自身は竜ヶ鼻に布陣した。つづく ウィキペディアより





横山城

2018-11-28 20:58:38 | 山城ー近畿地方
横山城は滋賀県長浜市石田にあります。

横山城地図

地図を左手にスクロールいたしますと、日吉神社があります。本殿の東側裏手から登り口があります。もう一つは県道509号線から鳥脇に向かう市道があり、それを200mほどに観音寺道という登り道があります。地図では横山城は本丸付近を指しているようですが、実際は広大で三つの尾根にまたがっています。

私はタクシーの案内によって観音寺道から登りました。

山道を20分ほど登ると

峠地蔵に着きます。

横山城祉の案内があります。

尾根道を進み

左手、琵琶湖を望みながら歩きます。

虎口が見えてきました。

これを登れば南城本丸(横山城を案内板は南城、北城としています。)

南城本丸



秀吉は浅井氏の猛攻を、ここに籠城したのでしょうか、あるいは北城の本丸であったのでしょうか?

本丸北側



西虎口

次回 南城本丸周辺から北城へ

横山城の歴史

横山城は近江北部の浅井郡と坂田郡とを分ける姉川の南岸の山の峰続きに永禄4年(1561年)、浅井長政が対六角氏用の防衛拠点として築城させた。城主には一門の浅井井演を任命した。
その後浅井氏は勢力を伸張して坂田郡から犬上郡まで勢力を広げるが、元亀元年(1570年)、織田信長と交戦状態になり、再び横山城の重要性が高まった。横山城は美濃の関ヶ原(岐阜県関ケ原町)から浅井氏の本拠地である小谷城(滋賀県湖北町)の西側を通る北陸脇往還街道のすぐ脇に立地するうえに、小谷城から6-7kmほどの距離しかないため、信長は重要な前線基地として横山城の攻略を目指した。同6月28日、姉川の戦いで浅井・朝倉連合軍を破った信長はすぐさま横山城の攻略に着手、時の城主三田村国定、野村直隆、大野木秀俊らは降伏し、落城した。
信長は城番として木下秀吉を任命。秀吉はここを拠点として浅井氏攻略を行った。
天正元年(1573年)9月に浅井氏が滅亡すると、秀吉は浅井郡・坂田郡の支配権を与えられ、本拠地として長浜城を築城。これに前後して横山城は廃城となったと考えられている。ウィキペディアより



虎御前山砦⑥

2018-11-27 22:06:44 | 山城ー近畿地方
柴田勝家陣から木下陣本曲輪へ


木下陣から南東に歩くと

柴田陣



柴田陣は古墳の上に作られています。

木下陣の西側城壁に戻ってきました。

本曲輪に登ると

本曲輪



確かに木下陣は小谷城に近い位置になります。しかし、柴田勝家は浅井長政と敵対していた時期は筆頭家老であるのだから、紹介した古墳の上にある柴田陣はいかにもみすぼらしく、柴田陣は他の武将ではないかと疑念を持ちました。



木下陣の北側下の大曲輪

その大曲輪の北にある横堀

縄張り図は「近江の山城ベスト50」中井均著より

次回 木下秀吉が三年間、浅井氏の攻撃から守りぬいた横山城

柴田勝家について
織田信秀時代
下社城址に立つ柴田勝家誕生地の碑(愛知県名古屋市名東区陸前町の明徳寺)
大永2年(1522年)、『張州府誌』によると尾張国愛知郡上社村(現:愛知県名古屋市名東区)で生まれる[注釈 3]。生年には大永6年(1526年)説や大永7年(1527年)説もあり、明確ではない。出自は不明で柴田勝義の子といわれるが、確実な資料はない。おそらく土豪階層の家の出身であると思われる[3]。
若いころから織田信秀の家臣として仕え、尾張国愛知郡下社村を領したという。地位はわからないが織田信長の家督継承の頃には織田家の重鎮であった。天文20年(1551年)に信秀が死去すると、子の織田信行(信勝)に家老として仕えた。
織田信勝時代
天文21年(1552年)の尾張下四郡を支配する守護代で清洲城主の織田信友との戦いでは、中条家忠とともに敵方の家老・坂井甚介を討ち取り、翌年には清洲城攻めで大将格で出陣し、30騎を討ち取る武功を立てた(萱津の戦い)。
信行を信秀の後継者にしようと林秀貞と共に画策し、織田信長の排除を試みたが、弘治2年(1556年)8月に信長との戦いに敗れて、降伏した(稲生の戦い)。この時は信長・信行生母の土田御前の強い願いで赦免され、信行、勝家、津々木蔵人は、墨衣で清州城に上り土田御前と礼を述べた。以後は信長を認め、稲生の敗戦後、信行が新参の津々木蔵人を重用したこともあって、見限った。弘治3年(1557年)に信行が謀反の計画を企んだときには信長に事前に密告し、信長は仮病を装い信行は11月2日に清州城に見舞いにおびき出され河尻秀隆らに殺害された[4]。信行の遺児の津田信澄は、信長の命令により勝家が養育することになった。ウィキペディアより





虎御前山砦⑤

2018-11-26 22:47:35 | 山城ー近畿地方
織田信長陣から木下秀吉陣へ


信長陣に足を踏み入れ

二の曲輪を見返しています。

信長本陣は、やはり広いです。



三方が切り立った斜面であり、最高所であることから信長陣とされています。

北から信長陣を見ています。

本陣北曲輪

北曲輪に立って本陣城壁を見ています。

北曲輪の先は50mほどの馬場

木下陣の虎口

通路が伸びて

木下陣第二虎口

木下陣北側帯曲輪(奥に見える城壁が木下陣本曲輪)

東側武者走り、東下への道

かざり堀を経由して

これを進めば柴田勝家陣となります。

次回 柴田陣から木下本曲輪へ

堀秀政の生涯
信長の側近
天文22年(1553年)、堀秀重の長男として美濃国で生まれる。幼い頃は一向宗の僧となっていた伯父・堀掃部太夫の元で従兄弟・奥田直政(後の堀直政)と共に育てられたという。
最初、大津長昌、次いで木下秀吉に仕え、永禄8年(1565年)に13歳の若さで織田信長の小姓・側近として取り立てられた(顔が美形だったためとも言われる)。16歳で、室町幕府15代将軍・足利義昭の仮住まいの本圀寺の普請奉行を担うなど、各種の奉行職を務め、側近としての地位を確立する。信長の側近には秀政のほかに、菅屋長頼・福富秀勝・大津長昌・矢部家定・長谷川秀一・万見重元らがいる。
秀政は次第に奉行職だけでなく戦場でも活躍するようになる。織田軍の主要な合戦である天正3年(1575年)の越前一向一揆討伐に参加。天正5年(1577年)の紀伊雑賀討伐戦では信長本陣から離れ、佐久間信盛・羽柴秀吉らとともに一隊を率いる。翌年の有岡城の戦いでは、万見・菅屋らと鉄砲隊を率いる。天正7年(1579年)の安土宗論のとき菅屋・長谷川らと奉行を務める。翌・天正8年(1580年)、バテレン屋敷の造営奉行を菅屋・長谷川らと務める。同年、信長の蜂須賀正勝宛の書状に副状を出す、などがある。
天正9年(1581年)の第二次天正伊賀の乱において信楽口からの部隊を率い、比自山城の戦いなどを戦い抜いている。同年、近江国坂田郡に2万5,000石を与えられた。天正10年(1582年)の甲州征伐では信長に従って甲信に入るが、既に織田信忠が武田氏を滅ぼした後だったため戦闘には参加しなかった。本能寺の変の直前には、明智光秀が徳川家康の接待役を外されたあと、丹羽長秀と共にこれを務めており、この接待を終えた後、備中の秀吉の下へ向かっている。ウィキペディアより