北城へ
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/35/eb/607b3a1d9143e4a99fcd6a6c9b8506c7.jpg)
西北尾根を歩くと、城壁が現れます。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1d/b7/df8d4236b533d25dae56b96306fdf290.jpg)
これを左手から登ると
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/36/e6/fb0e3901701968467f84940fc3ca4a48.jpg)
鞍部となって、これを登れば北城本丸となります。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/07/cc/6e52abc5c0ee1fd024fe044180df51d6.jpg)
坂下登り口に着き(東虎口)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/37/23/baef8c760fd8c8304eba17e3e80e3750.jpg)
本丸
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0c/df/1c2bc0786598ae56b372cbb9ce3d005d.jpg)
横山城は初め京極氏が築いたと伝わっています。その後六角氏と浅井氏とで横山城の争奪がされて、元亀元年(1570)姉川の合戦以降、織田氏と浅井氏とで、この城を舞台に争われたという。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3b/6f/b36ccaf372b8d27f143492109a3e2209.jpg)
本丸を西から見ています。瓢箪は秀吉を意味しているようです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/46/31/9dd32d3f84d3c78c68db67fb913f2fa6.jpg)
臥竜公園へ(北虎口)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0d/1c/65c1e1ec0ea0fe04a9679fa0b26d6317.jpg)
本丸北曲輪
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/03/fa/8a18c03763d5115b71105d700fa0014c.jpg)
北城本丸は三つの虎口があります。この南虎口から日吉神社へ通じていますが次回とします。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/30/9f/e688804511b5cd8d88d52c204a61336e.jpg)
東北に見える伊吹山
姉川合戦②。
ここで徳川家康が織田軍に合流し、家康もまた竜ヶ鼻に布陣。一方、浅井方にも朝倉景健率いる8,000の援軍が到着。朝倉勢は小谷城の東にある大依山に布陣。これに浅井長政の兵5,000が加わり、浅井・朝倉連合軍は合計13,000となった。
6月27日、浅井・朝倉方は陣払いして兵を引いたが[注 2]、翌28日未明に姉川を前にして、軍を二手に分けて野村・三田村にそれぞれ布陣した。これに対し、徳川勢が一番合戦として西の三田村勢へと向かい、東の野村勢には信長の馬廻、および西美濃三人衆(稲葉良通、氏家卜全、安藤守就)が向かった。
午前6時頃に戦闘が始まる。浅井方も姉川に向かってきて「火花を散らし戦ひければ、敵味方の分野は、伊勢をの海士の潜きして息つぎあへぬ風情なり(信長記)[5]」という激戦になったが[注 3]、浅井・朝倉連合軍の陣形が伸びきっているのを見た家康は榊原康政に命じて側面から攻めさせた。まずは朝倉軍が敗走し、続いて浅井軍が敗走した。結果的に織田・徳川側が1,100余りを討ち取って勝利した。合戦場付近の「血原」や「血川」という地名は往時の激戦振りを窺わせる。
信長は小谷城から50町ほどの距離まで追撃をかけ、ふもとの家々に放火したが、小谷城を一気に落とすことは難しいと考えて横山城下へ後退した。まもなく横山城は降伏し、信長は木下秀吉を城番として横山城に入れた。
奇襲説[編集]
姉川の戦いは朝倉・浅井軍の奇襲であったという説を高澤等は唱えている[6]。6月27日早朝に浅井・朝倉軍は一旦大依山から姿を消した。この時の状況を『信長公記』では「六月廿七日の暁、陣払ひ仕り、罷り退き候と存じ候のところ廿八日未明に三十町ばかりかゝり来なり」と陣払いして退却したと思った浅井・朝倉軍が突然として距離三十町のところに現れた様子を記している。織田軍は敵勢が陣払いしたと勘違いして再び軍勢を横山城の包囲体制に戻し、織田軍は本陣の背を突かれる形となり両軍陣形を整えず即座に戦いに突入したとする[注 4]。また姉川の戦いは両軍日時を取り決めた合戦だったとしている。 ウィキペディアより
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西北尾根を歩くと、城壁が現れます。
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これを左手から登ると
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鞍部となって、これを登れば北城本丸となります。
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坂下登り口に着き(東虎口)
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本丸
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横山城は初め京極氏が築いたと伝わっています。その後六角氏と浅井氏とで横山城の争奪がされて、元亀元年(1570)姉川の合戦以降、織田氏と浅井氏とで、この城を舞台に争われたという。
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本丸を西から見ています。瓢箪は秀吉を意味しているようです。
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臥竜公園へ(北虎口)
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本丸北曲輪
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北城本丸は三つの虎口があります。この南虎口から日吉神社へ通じていますが次回とします。
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東北に見える伊吹山
姉川合戦②。
ここで徳川家康が織田軍に合流し、家康もまた竜ヶ鼻に布陣。一方、浅井方にも朝倉景健率いる8,000の援軍が到着。朝倉勢は小谷城の東にある大依山に布陣。これに浅井長政の兵5,000が加わり、浅井・朝倉連合軍は合計13,000となった。
6月27日、浅井・朝倉方は陣払いして兵を引いたが[注 2]、翌28日未明に姉川を前にして、軍を二手に分けて野村・三田村にそれぞれ布陣した。これに対し、徳川勢が一番合戦として西の三田村勢へと向かい、東の野村勢には信長の馬廻、および西美濃三人衆(稲葉良通、氏家卜全、安藤守就)が向かった。
午前6時頃に戦闘が始まる。浅井方も姉川に向かってきて「火花を散らし戦ひければ、敵味方の分野は、伊勢をの海士の潜きして息つぎあへぬ風情なり(信長記)[5]」という激戦になったが[注 3]、浅井・朝倉連合軍の陣形が伸びきっているのを見た家康は榊原康政に命じて側面から攻めさせた。まずは朝倉軍が敗走し、続いて浅井軍が敗走した。結果的に織田・徳川側が1,100余りを討ち取って勝利した。合戦場付近の「血原」や「血川」という地名は往時の激戦振りを窺わせる。
信長は小谷城から50町ほどの距離まで追撃をかけ、ふもとの家々に放火したが、小谷城を一気に落とすことは難しいと考えて横山城下へ後退した。まもなく横山城は降伏し、信長は木下秀吉を城番として横山城に入れた。
奇襲説[編集]
姉川の戦いは朝倉・浅井軍の奇襲であったという説を高澤等は唱えている[6]。6月27日早朝に浅井・朝倉軍は一旦大依山から姿を消した。この時の状況を『信長公記』では「六月廿七日の暁、陣払ひ仕り、罷り退き候と存じ候のところ廿八日未明に三十町ばかりかゝり来なり」と陣払いして退却したと思った浅井・朝倉軍が突然として距離三十町のところに現れた様子を記している。織田軍は敵勢が陣払いしたと勘違いして再び軍勢を横山城の包囲体制に戻し、織田軍は本陣の背を突かれる形となり両軍陣形を整えず即座に戦いに突入したとする[注 4]。また姉川の戦いは両軍日時を取り決めた合戦だったとしている。 ウィキペディアより