山城めぐり(兄弟ブログ biglob)

新潟、山梨、長野、群馬、栃木、埼玉県などの埋もれた城跡を探索しております。カテゴリ「城郭一覧」で簡単にアクセス。
 

北之症城②

2017-11-30 21:42:51 | 滋賀県の山城
本丸へ

岩を抜けて登り

本丸

長命寺港展望台から琵琶湖の景色

西から本丸を見ています。

西下腰曲輪

腰曲輪に立って本丸城壁を見ています。

本丸から東側を下り、東腰曲輪

東第二腰曲輪

本丸東斜面を見返しています。

二の丸(本丸東側下)

二の丸北側の土塁

二の丸北虎口(搦め手でしょうか)

百々神社に進むと北の丸砦があり、八幡山に進めば八幡山城へ行けます。今回は安土城に行くため八幡山には行きませんでした。

周辺案内図


北の丸城壁

北の丸

以上で終了し、次回 安土城

佐々木六角氏の戦国期
戦国時代に入ると六角定頼(高頼の次男)が登場する。定頼は足利将軍家の管領代となり、天文法華の乱の鎮圧にも関与した[7]。近江蒲生郡観音寺城を本拠として近江一帯に一大勢力を築き上げたのみならず伊賀や伊勢の一部までにも影響力をおよぼしたとされ、六角氏の最盛期を創出した。しかし定頼の死後、後を継いだ六角義賢の代においては、長年の同盟相手であった土岐氏に取って代わった斎藤氏や畿内で台頭した三好氏と度々争い、永禄3年(1560年)に野良田の戦いで浅井長政と戦って敗れるなど六角氏の勢力は陰りを見せはじめる。義賢の嫡男義治(義弼)は家督を継いだのち、永禄6年(1563年)に重臣の後藤賢豊父子を殺害したが、これをきっかけに家中で内紛(観音寺騒動)が起き、六角氏式目への署名を余儀なくされ、六角氏当主の権力は弱体化した。このように六角氏は六角義賢・義治父子の時代に大きく衰退し、永禄11年(1568年)、織田信長率いる上洛軍と戦って敗れ、居城である観音寺城を去ることになる(観音寺城の戦い)。[8]
その後、義賢と義治は甲賀郡の石部城に拠点を移し、信長に対してゲリラ的に抵抗したが、次第に歴史の表舞台から遠ざかることとなった。[9]。後に義治は豊臣秀次によって召し出されており、豊臣秀頼の家臣としても見えている。[10]
その後義治は豊臣秀次に近臣として仕え、秀次家が滅亡すると豊臣秀頼に仕えた。義治の婿養子・定治は義父のあとをつぎ豊臣秀頼の家臣となり大坂陣をむかえた。大坂城退散後蒲生家を経て加賀の前田家に仕え、江戸時代には加賀藩士の佐々木(六角)家として1,000石となり、子孫が加増され2,100石で幕末に至った。
義治の弟・義定(観音寺騒動の後に義治に当主の座を譲られたとされる[11]。ただしこれには反論もある[12])の子孫も江戸幕府の旗本となった。こちらも本苗の佐々木氏を名乗っている。しかし義定の曾孫・求馬定賢が若年で死去し絶家となった。[13]
義治の弟・高一は織田信雄の家臣となり、その子・正勝は生駒氏を称し、大和宇陀松山藩織田家の重臣となった。子孫は丹波柏原藩織田家に仕えた。ウィキペディアより

北之庄城

2017-11-29 20:47:58 | 滋賀県の山城
北之庄城は滋賀県近江八幡市北之庄町にあります。

北之庄城地図

北之庄町を南北に走る地方道26号線で、バス停豊年橋和船乗り場を西に歩き、北之庄神社を目指します。

北之庄神社

本殿

本殿の脇にある倉、この建物右手から登り道があります。西尾根を300mくらい歩きます。

城下町のような狭い道の集落にある龍興寺?から見た城山

尾根の途中、見晴らしの良い場所にあった説明版と縄張り図、近江守護、佐々木六角氏の付城と江戸の古文書に書かれているそうです。/font>

尾根300mくらい歩き、本当に山城があるのかと不安になりつつ、やっとこの大堀切になりました。

尾根に登り

北の丸は砦で、七つ池・百々神社を目指します。

土橋

尾根道から琵琶湖が西に見えます。

豊臣秀次の居城、八幡山城が南に見えます。

右手の案内、北之庄城跡・七つ池とあります。

北之庄城、主郭が見えてきましたが、次回とします。

佐々木六角氏の歴史
鎌倉時代、佐々木氏の当主佐々木信綱の死後、所領の多くは3男の泰綱が継承したが、寛元元年(1243年)、信綱長男の重綱の訴えを幕府が容れ、泰綱が嫡流であることは変わりはなかったが、泰綱は有した近江国の所領の一部を失った。近江国の所領は兄弟で四分され、重綱と次男の高信、末子の氏信はそれぞれ大原氏・高島氏・京極氏の祖となり、嫡流の泰綱の家系は六角氏と呼ばれる。
またこれらの家は鎌倉幕府に直接仕えたため、総領たる六角氏が他の3家を家臣団化できず、六角氏の近江統一の障害となった。[3]
鎌倉幕府の滅亡時は、当主・六角時信が六波羅探題に最後まで味方し、敗れ降伏している。
室町幕府が成立すると、同族である京極氏の京極高氏(佐々木道誉)が近江守護に任じられたが、後に六角氏頼が守護に任じられ、以降は幕府と対立した一時期を除いて近江一国の守護の地位を占めた。だが、京極氏は出雲や飛騨の守護に任ぜられ、近江国内でも守護不入(守護である六角氏の支配を受けない特権)が認められたため、室町時代に入ると六角氏と京極氏は敵対し、近江の覇権をめぐって争った。また、国内の同族の中には高島氏・朽木氏・大原氏など奉公衆として幕府の直臣化される者もおり、彼らは幕府からの直接の命令を奉じて守護の命令には従わなかった。さらに領内に比叡山が存在することもあって、室町時代を通じてその支配は安定せず、六角満綱・持綱父子は家臣の反乱により自害に追いやられ、持綱の弟で後を継いだ久頼は京極持清との対立の末に心労により自害して果てている[4]。
久頼の跡を継いだ六角高頼は応仁の乱では土岐氏とともに西軍に属し、持清と共に東軍についた従兄の政堯と戦い、長享元年(1487年)には9代将軍足利義尚、10代将軍足利義稙から討伐を受ける(長享・延徳の乱)。高頼はこの侵攻を2度に亘り跳ね除け、守護代である伊庭氏との対立にも勝利し、六角氏の戦国大名化をなしとげた。[5]
ただし通説の久頼の没年と高頼の生年が離れすぎて世代が合わないため、久頼-高頼間に1世代あるとして佐々木哲は古文書に見える六角政勝をその間に置くべきとする。ウィキペディアより








宇佐山城③

2017-11-28 19:34:37 | 滋賀県の山城
二の丸南下曲輪から東斜面を下ってから三の丸へ


二の丸南下曲輪

南下曲輪の東城壁の石垣

縄張り図は「近江の山城ベスト50を歩く」中井均氏著より

同上の石垣

東側を下り

東曲輪(仮に)

本丸に戻って

空堀と折れを持った土橋、これを登れば三の丸

三の丸

三の丸の北東を下って、腰曲輪

北東第二腰曲輪

三の丸北東城壁を見ています。

空堀に戻って、北側へ下ると

正面が三の丸城壁、左手は曲輪、おそらくここが大手であろうと思います。

次回 北之庄城(近江八幡市北之庄町)

森長可(ながよし)森可成の次男の生涯
家督相続
永禄元年(1558年)、森可成(三左衛門)の次男として生まれる。元亀元年(1570年)に父・可成が戦死し、長兄の可隆(伝兵衛)も同年に戦死していたため、僅か13歳で家督を継いで織田信長に仕え、信長より一字拝領し勝蔵 長可を名乗った。元亀3年(1572年)12月には羽柴秀吉・丹羽長秀・塙直政らとともに発給文書に連署しており、15歳にして既に他の重臣らと同じように活動している様子が窺える。
元亀4年(1573年)3月、第二次長島一向一揆攻めに織田信忠の部隊に参加して初陣。稲葉良通、関成政らと共に一揆勢に突撃をかけ、森家では各務元正などが功を挙げ信長よりその働きを称された[1]。同年の槇島城の戦いでは老巧の家臣を出し抜き先陣を切って宇治川を渡るも城内は既に殆どもぬけの殻であり高名とはならなかった。翌天正2年(1574年)には第三次長島一向一揆攻めで長島城の寄せ手に参加し関成政と共に打って出てきた一揆軍を敗走させた。また、信忠軍と一揆が川を挟んで対峙した際には船で渡河して切り込み、一揆勢27人を討ち果たすなど優れた武勇を見せた[1]。以後は信忠配下の与力武将として長篠の戦い、美濃岩村城攻め、越中国侵攻、摂津石山本願寺攻め、三木合戦などに参加し武功を挙げている。
 甲州征伐
天正10年(1582年)の甲州征伐においては団忠正と共に先鋒部隊の将として抜擢。忠正と長可は2月6日に木曽口より信濃国の武田領へと侵攻し、14日には松尾城の小笠原信嶺を降伏させ、飯田城の保科正直も潰走。15日には逃げる正直の部隊を追撃し数十騎を討ち取る活躍を見せる[3]。仁科盛信の守備する高遠城攻めでは信忠率いる本隊を待ち合流。月蔵山を上り本隊とは別行動で動き高遠城に押し寄せると森隊は三の丸の屋根に登り、板を引き剥がし城内へ鉄砲の一斉射を加え陥落させ、さらにそこから本丸方面の高遠城の守備兵を射撃し多くの敵を倒す。また、本丸の制圧においても自ら槍を取って戦い、手に傷を負うも構わず城兵を突き倒すなど奮闘する。しかしながら本隊到着前に団と共に二度の軍規違反を侵しており、この事は信長に書簡で注意を受けている。
そのまま忠正と共に上野国へ侵入し、小諸城の接収や小幡氏ら国人衆の人質の徴収に当たっている。これらの戦功から武田氏滅亡後、信長から恩賞として信濃川中島四郡(高井・水内・更級・埴科)と海津城20万石を与えられた[3]。また長可の旧領である金山は弟の成利(蘭丸)に与えられている。
信濃入領
天正10年(1582年)4月、海津城に入り領内の統治に取り掛かった長可であったが、信濃国の政情は未だ不安定であり更に、上杉氏の本領である越後国と接する長可の北信濃四郡は上杉氏と結んだ旧武田家臣なども存在していた。そういった中で4月5日に上杉景勝と結んだ旧武田家臣の芋川親正が地侍など8,000人を率いて蜂起。一揆勢は廃城となっていた大倉城を改修して本拠とし、稲葉貞通の守る飯山城を包囲するという事件が起こるが長可は一揆勢を撫で斬りにして[3][注釈 2]わずか2日でこれを鎮圧し、島津忠直など他の反抗的な勢力も領内から追放し支配を確立する。
残った信濃国衆も一応は臣従の姿勢を見せたが領内の統治が容易では無い事を痛感した長可は国衆の妻子を海津城に住まわせる事を義務付け、また一揆に参加したと見られる近隣の村の住民の一部も強制的に海津城下に住まわせた。また、領内への禁制発布、信濃国衆との会談や所領安堵の判断など政務を精力的にこなし統治の確立に努めた[4]。ウィキペディアより



宇佐山城②

2017-11-27 15:44:19 | 滋賀県の山城
本丸から二の丸へ


本丸東斜面を迂回して

本丸東下の通路

本丸東虎口

本丸には我が物顔で、NHKと大津放送局が占拠しています。400年の歴史的遺産も平気で破壊している。しかも全国で本丸にこうした建物を幾つも造っていることに何の反省もない。

西北に放送機材を運ぶための装置

本丸南側土塁、二の丸からの防壁

二の丸(中井均氏「近江の山城 ベスト50を歩く」の縄張り図では二の丸とされています。)

二の丸から本丸側の城壁を見ています。鉄条網で囲っているのは井戸でもあるのでしょうか?

二の丸南下曲輪

南下曲輪

二の丸城壁を見返しています。

次回 南下曲輪から東斜面へ下り、そして三の丸へ

森可成の生涯

大永3年(1523年)、森可行の子として尾張国葉栗郡蓮台(現岐阜県羽島郡笠松町)に生まれる。美濃国の守護大名である土岐氏に仕え、斎藤道三により土岐氏が滅ぼされた後の天文23年(1554年)には尾張国で織田信長に仕えた(一説には斎藤氏家臣の長井道利に仕えた後の仕官とも)。
信長の家督相続と尾張国統一に尽力し、弘治元年(1555年)の信長による清洲城攻めでは織田信友(広信)を討つ功績を挙げた。弘治2年(1556年)に美濃国で政変が起こると、信長の舅にあたる道三を援助し、信長とその弟・織田信行の家督争いである稲生の戦いにも参陣した。永禄元年(1558年)の浮野の戦い、永禄3年(1560年)の今川義元との桶狭間の戦いなどにも参加した。
美濃攻略においても武功をあげ、斎藤勢のみならず、信濃から東美濃に侵攻してきた武田勢とも戦った。永禄8年(1565年)には美濃金山城を与えられ、信長上洛の際には柴田勝家と共に先鋒を務め(勝竜寺城の戦いなど)、上洛後には近江宇佐山城を与えられた。元亀元年(1570年)に6月に起こった姉川の戦いにも参戦。勢いにのって突撃してきた磯野員昌隊の進撃を阻止するなど活躍する。
同年9月、宇佐山城に在った可成は浅井長政・朝倉義景の連合軍出撃の知らせを受けて進軍を妨害する為に宇佐山城より出撃して坂本に陣取り街道を封鎖。9月16日に緒戦においては連合軍3万を1千の軍勢で撃退する(『信長公記』)。しかし石山本願寺法主・顕如の要請を受けた延暦寺の僧兵も連合軍に加わり、9月20日にさらに数の膨らんだ連合軍の侵攻で先鋒の朝倉景鏡を押し返すなど健闘を見せるが、浅井対馬、玄蕃の2千に側面から攻撃を仕掛けられ、さらに朝倉中務、山崎吉家、阿波賀三郎の隊に加え浅井長政本隊もこれに加わったため信長の弟・織田信治、近江の国人・青地茂綱と共に討死した(宇佐山城の戦い)。 ウィキペディアより

宇佐山城

2017-11-26 10:59:23 | 滋賀県の山城
宇佐山城は滋賀県大津市南滋賀町にある宇佐八幡宮をめざします。

宇佐山城地図

宇佐山城は織田信長が森可成に築城させたと伝えられています。

近江神宮の案内板を左手30mに

宇佐八幡宮の案内があります。

参道口、薮となっている参道右手の尾根は曲輪が階段状に連なっています。おそらく屋敷群ではないかと思います。

奥の院から下りてきて左手にある曲輪、この曲輪群が麓まで続いています。

京阪電鉄、南滋賀駅の北側の道から見た遠景

階段を登れば奥の院、右に曲がれば宇佐山城へ

トタンの折れた案内がある登り道

奥の因へ参って登山の安全を祈って出発です。

治歴元年1065 源頼義がここに居館を建て、宇佐八幡を勧進したという。

登り口に入って大きな曲輪、どうやらこの曲輪を基点に下方へ曲輪が連なっているようです。

山道を30分ほど登ると(小学生の案内板が所々にあります。)

空堀

本丸東下、石垣の痕跡

本丸北下の石垣

次回 本丸・二の丸へ

宇佐山城の戦い
摂津で勃発した野田城・福島城の戦いで織田軍主力が投入されている中、浅井・朝倉連合軍は信長の背後を突くべく行動を開始。城主・森可成は近江にいた野府城主・織田信治、青地茂綱らと共に交通の要所である坂本を先に占領して街道を封鎖して連合軍の進軍妨害を試みた。
浅井・朝倉連合軍は3万兵が坂本口に進軍、9月16日に森可成軍1千兵は宇佐山城を下り坂本の町はずれで合戦となる。緒戦では浅井・朝倉連合軍3万を相手に森軍1000は少々の首を取り勝利をおさめた。しかし、石山本願寺法主顕如の要請を受けた延暦寺の僧兵も連合軍に加わり、翌9月20日にさらに数の膨らんだ連合軍が再度侵攻を仕掛けた。森可成軍は先鋒の朝倉景鏡を押し返すなど健闘を見せるが、浅井対馬・玄蕃の2千が側面から攻撃を仕掛け、また朝倉中務、山崎吉家、阿波賀三郎の隊に加え浅井長政本隊もこれに加わったためついに崩壊した。可成、織田信治、青地茂綱の3人は討ち死にした。
連合軍は同日宇佐山城の攻城に取り掛かったが、城兵の強固な抵抗にあい落城は免れた。代わりに大津の馬場、松本を放火し、翌21日は山科まで焼き払った。22日には摂津の信長にも知らせが届き、近江の情勢を知った信長はこの浅井・朝倉連合軍との対決を優先。23日に摂津から織田軍主力を撤退させた。その間、宇佐山城は坂本で連合軍の猛攻を受けていたが可成の家老である各務元正らが城兵を指揮して頑強に抵抗。24日に信長が大津から坂本に兵を進め救援に現れるまでついに落城しなかった。[1]24日の戦いで浅井・朝倉連合軍に死者1千名以上が出たという。この時信長は宇佐山城に入城したと思われ、翌25日追いつめられた浅井・朝倉連合軍は、壺笠山城や比叡山などに封じ込まれる格好となった。ウィキペディアより