この荒山城を最後にYAHOOブログに引っ越します。
荒山城は佐久市本新町にあります。
荒山城地図
国道141号線の信号本新町を西へ入り、大沢体育館周辺が荒山城です。(周辺は道が狭いため、体育館の駐車場を借りるように)
北から城址を見ています。
東の縁から登ると、本丸の城壁が現れます。この手前の腰曲輪を西に進みます。
上段が本丸城壁、北側に腰曲輪が付きます。
腰曲輪から西奥を見ています。戦艦を見ているようです。
歩いてきた腰曲輪を見下ろしています。
本丸
本丸南側は一段低くなっています。
本丸西側土塁
土塁の上から本丸を見渡しています。
縄張り図は「信濃の山城と館」佐久編、本丸は曲輪1とされています。
次回 曲輪2へ
荒山城は前山城の支城とされ、城主は伴野光信であったという。
大井・伴野両氏は大合戦をして、大井政朝は伴野方の生け捕りとなり、大井氏の執事相木氏は討死をとげた。この戦いに勝利を得たのは、前山城主の光利・光信父子と思われ、甲斐の武田信昌は先年の大井氏の甲斐侵入に対する報復として伴野氏に味方している。
伴野 光信(ともの みつのぶ)は、戦国時代の武将。甲斐武田氏家臣。貞慶を諱とする説もある[1]。
信濃前山城主[1]。
伴野氏は小笠原氏の嫡家で、同じ小笠原氏族の守護代・大井氏と紛争を繰り返した[1]。永正6年(1509年)には室町幕府による争いの調停を受ける[1]。大永7年(1527年)に大井氏との紛争に敗れ、信虎に頼る[1]。
荒山城は佐久市本新町にあります。
荒山城地図
国道141号線の信号本新町を西へ入り、大沢体育館周辺が荒山城です。(周辺は道が狭いため、体育館の駐車場を借りるように)
北から城址を見ています。
東の縁から登ると、本丸の城壁が現れます。この手前の腰曲輪を西に進みます。
上段が本丸城壁、北側に腰曲輪が付きます。
腰曲輪から西奥を見ています。戦艦を見ているようです。
歩いてきた腰曲輪を見下ろしています。
本丸
本丸南側は一段低くなっています。
本丸西側土塁
土塁の上から本丸を見渡しています。
縄張り図は「信濃の山城と館」佐久編、本丸は曲輪1とされています。
次回 曲輪2へ
荒山城は前山城の支城とされ、城主は伴野光信であったという。
大井・伴野両氏は大合戦をして、大井政朝は伴野方の生け捕りとなり、大井氏の執事相木氏は討死をとげた。この戦いに勝利を得たのは、前山城主の光利・光信父子と思われ、甲斐の武田信昌は先年の大井氏の甲斐侵入に対する報復として伴野氏に味方している。
伴野 光信(ともの みつのぶ)は、戦国時代の武将。甲斐武田氏家臣。貞慶を諱とする説もある[1]。
信濃前山城主[1]。
伴野氏は小笠原氏の嫡家で、同じ小笠原氏族の守護代・大井氏と紛争を繰り返した[1]。永正6年(1509年)には室町幕府による争いの調停を受ける[1]。大永7年(1527年)に大井氏との紛争に敗れ、信虎に頼る[1]。