山城めぐり(兄弟ブログ biglob)

新潟、山梨、長野、群馬、栃木、埼玉県などの埋もれた城跡を探索しております。カテゴリ「城郭一覧」で簡単にアクセス。
 

丹生城③

2018-05-21 19:16:48 | 山城ー上州
本丸から東尾根へ


本丸北側に戻ってきました。

本丸、草が覆ています。

本丸を下って、東へ廻ります。草深く足元に注意(蛇を踏まないように)

曲輪7

縄張り図は「境目の山城と館 上野編」曲輪7・8は要の曲輪で三方に支尾根が伸びています。もしこの周辺を見ておられないなら、晩秋にでも是非出かけてください。ただしクマはいます。

曲輪8

曲輪8の東、主尾根とある第一腰曲輪と空堀

土橋と第二曲輪

第三曲輪

南東尾根とあり、堀切

曲輪9

曲輪9の先、南東曲輪

次回 曲輪7からの北支尾根から大手尾根へ

新田景純と後閑氏
後閑氏歴代城主の変遷
後閑氏の名のもとになった後閑城は、後閑氏が築城したものではなかった。嘉吉元年(1441年)から文安4年(1447年)にかけて、信濃御嶽城主の依田忠政が築いたといわれている。後閑城主の依田氏は忠政の子政知を経て光慶のとき、箕輪城主長野業政の女を室としてその片腕となり、天文7年(1538年)に板鼻鷹巣城に移ったという。その後に後閑城に入ったのが北条政時であった。ただしこの間の詳しい城の歴史は不明である。
新田景純は主水正ともいい、当初は丹生城を領していたが、碓氷郡後閑の領主である北条政時を滅ぼし後閑を領するようになった。永禄10年(1567年)に後閑城に入城して後閑を称するようになったと伝える(『上州故城塁記』)。後閑を称したのは次代の信純からともいう(『群馬県人名事典』)。
後閑に移った景純は箕輪城主長野業政に属するようになり、永禄6年(1563年)、景純の子新田(岩松)信純のとき、武田信玄の侵略を受けて敗れその幕下に降る。
ところで、新田(後閑)信純が武田氏に走ったのは永禄2年(1559年)のことといい、『安中志』には、永禄3年より新田信純が後閑城に居城するとみえている。永禄3年(1560年)は、越後の長尾景虎(のちの上杉謙信)が管領上杉憲政を奉じて関東に出兵した年で、そのとき、景虎の陣に馳せ参じた関東諸将の幕紋を記録したのが『関東幕注文』である。そのなかには、後閑氏が属していた箕輪城主長野氏ら上野諸将の幕紋が記されているが、新田後閑氏の幕紋はみえない。このことは、新田後閑氏がすでに武田氏の陣営に走っていたとされる。
一方、依田政知が開いた長源寺の寄進状から、新田氏(後閑氏)が甘楽郡丹生城から居を後閑城に移したのは弘治元年(1555年)、景純の代のことだとする説もある。荒廃していた長源寺を後閑城主の新田信純が弘治元年に再興し、翌弘治2年(1556年)に、寺領若干を寄進したとされる。いずれにしろ新田氏(岩松氏)が16世紀の中ごろに後閑に移り、後閑氏に改姓したとする。また、信純に関して『上野志』では伊勢守信継とし、『上州治乱記』では長門守宗繁となっており、後閑氏の歴史に関しては不明な部分が多い。ウィキペディアより












信長の侵攻の前に伊賀忍者・甲賀忍者が連携を図る文書の発見

2018-05-21 19:13:30 | 日記
伊賀市は、「忍者の里」の伊賀衆と甲賀衆が織田信長に侵攻される直前に密接な関係にあったことを示す戦国時代の文書を、6月中旬にも初公開する。専門家は「民衆の高い自治能力を示すとともに“リアル忍者”に迫る貴重な史料。実物を見る価値は大いにある」と話す。
 文書は、9通からなる「伊(い)賀(がの)国(くに)上(かみ)柘(つ)植(げ)村(むら)并(ならびに)近(おう)江(みの)国(くに)和(わ)田(た)・五(ご)反(たん)田(だ)村(むら)山(さん)論(ろん)関係文書」の中の「甲賀郡奉行惣・伊賀奉行惣連署起請文(きしょうもん)」。天正元(1573)年に地侍集団の「伊賀惣(そう)国(こく)一(いっ)揆(き)」と「甲賀郡中(ちゅう)惣(そう)」が、燃料や飼料となる柴や草を採取する境界域の入会地(いりあいち)の利用に関する取り決めが記されている。
 一方、信長が伊勢国の平定に着手した永禄12(1569)年の制定と推定される伊賀惣国一揆の掟書(おきてがき)には、軍事的に協力することが記されている。敵軍が伊賀国に侵入した場合は鐘を鳴らし、17~50歳の住民は参集することや、伊賀国と甲賀郡との境界で近日中に野外集会を開くといった内容だ。
 今回の起請文はその4年後のもので、三重大学の藤田達生教授(日本史学)は「大名権力による存亡の危機の中で伊賀と甲賀が一致団結し、軍事だけでなく日常生活に関わる自治が機能していたことを示す無二の史料。自治能力の高さは他国で出稼ぎをする雇い兵を生み、忍者が活躍する背景にもなった」と指摘する。
 しかし、起請文が作成された翌年の1574年に甲賀郡中惣は信長に攻略され、1581年の第2次天正伊賀の乱で伊賀惣国一揆は信長の徹底的な焦土作戦で壊滅した。
文書は、郷土史料収集家でもある岡本栄市長が平成28年12月、京都の古書店から送られてきた目録に同文書があるのを発見。市が65万円で購入、市文化財に指定した。所蔵する上野図書館(上野丸之内)で一般公開する。