山城めぐり(兄弟ブログ biglob)

新潟、山梨、長野、群馬、栃木、埼玉県などの埋もれた城跡を探索しております。カテゴリ「城郭一覧」で簡単にアクセス。
 

長篠の戦い②

2015-11-30 22:42:02 | 歴史的事件の考察
鳶ヶ巣山砦の奇襲

設楽原に布陣した武田軍を見て、信長の作戦は、武田軍の背後、つまり長篠城方面で戦を起し、武田軍の主力を挑発しようとするものであった。目標にしたのは長篠城の付城の鳶ヶ巣山砦である。



そこを乗っ取って、長篠城兵と一手になり、敵の主力の背後を突かせようという作戦だった。この作戦の効果については、信長としても未知数だったと思う。首尾よく鳶ヶ巣山砦を占領しても、武田勝頼は軍を引き払って帰陣するかもしれない。すぐに追いかけたとしても、慣れない山地のこと、どれだけ追撃の効果が得られるものかわからない。
 『三河物語』では、この鳶ヶ巣山砦奇襲作戦は、徳川家康の老臣酒井忠次の献策だったとしている。『信長公記』には「信長御案を廻らされ、御味方一人も破損せざるように御思慮を加えられた」末の作戦だったとある。信長が忠次を呼んだのは、彼が三河吉田城主であり、東三河衆を率いる立場だったからであろう。(信長がこの作戦の献策者であったからこそ酒井忠次を呼んだのであるから、三河物語は事実を語っていると考えてよさそうです。
 鳶ヶ巣山砦の奇襲隊は、酒井忠次を指揮官として、家康の家臣の中から次の者たちが参加した。 松平真乗・本多康重・松平伊忠・松平家忠・牧野康成・松平康定・西郷清員。そのほかに案内者として、奥平貞能・菅沼貞盈・近藤秀用といった奥三河の者たちが付けられた。以上徳川軍は二千ばかりであったという。
 さらに織田軍からも馬廻りが同陣した。 金森長近・佐藤秀方・青山信七・加藤市左衛門。こちらも約二千というが、それよりも鉄砲五百挺が付けられたのが大きい。鉄砲五百を含む合計四千の軍勢。対する鳶ヶ巣山砦の人数は千、あるいは七百ぐらいが正しいだろうか。
 奇襲隊は戌の刻(午後八時ころ)出発、船着山の南を迂回してから、未明の内に、鳶ヶ巣山砦を目指して北上した。鳶ヶ巣山に着いたのは辰の刻(午前八時ころ)、すぐに鬨の声を上げ、鉄砲を打ち込んで攻めかかった。この攻撃は、敵が全く予期していなかったものだった。つまり奇襲の成功である。そのため戦闘は短時間で終わったようである。(信長の鳶ヶ巣山砦の占領作戦は成功し、設楽原での武田軍後方である長篠城を奇襲隊と一体となった織田軍をも、勝頼は問題視していなかったようです。勝頼は目の前の織田軍・徳川連合軍を叩くことしか頭になかったと思われます。) 「長篠の戦い 歴史群像シリーズ」より

古城③

2015-11-29 22:20:28 | 山城ー信州
曲輪5へ



本丸南下の空堀に戻り、空堀を歩いて東斜面へ降りてゆきます。

東斜面には段曲輪が数段構築されて、最下層に東曲輪があります。

東斜面下から本丸を見上げています。中段の通路から曲輪5へと通じています。

曲輪5の南虎口

曲輪5、幅30m長さ50m

曲輪5の東半分の中央にある石積、祭神のためのものか、炭焼きのものか判別できません。

曲輪5から見て、左が本丸、空堀、右が二の丸の城壁です。

曲輪5の北虎口、左手に竪堀

通路の東下に北曲輪

縄張り図再掲載、曲輪5を確認してください。

城に関しては史料がないそうですが、やはり南西の福平にある溝口氏の本城、福平城から古城は北東1.2kmにあり支城であることは推測できます。

次回 長野県 長野市 戸隠栃原にある追通城

古城②

2015-11-28 21:27:15 | 山城ー信州
本丸へ

二の丸南奥の二重堀、斜め横から見ています。

二の丸の二重堀を越えて南に進むと本丸。南奥は一段高くなっていて、東側はなだらかに下がっています。

本丸を南真正面に見ています。

本丸東側

前回記事の縄張り図の通り、本丸南下の大空堀

空堀を越えて、本丸南城壁を見ています。

本丸の南に位置する曲輪3から南側の土橋、堀切を見ています。

土橋を接近して見ています。

土橋の先に櫓台がって、道は西側斜面に下り里へ通じています。こちらが大手であるようです。

次回 本丸の東下にある曲輪5周辺。こじんまりした山城ながら、守りは堅固で縄張りは武田流を感じます。


古城

2015-11-27 21:37:37 | 山城ー信州
古城は長野県長野市戸隠宇和原にあります。

古城地図
長野市戸隠栃原のバス停今井から奈良尾集落に入り、奈良尾神社手前のカーブに入り口があります。

奈良尾バス停のところから右上に進みます。

奈良尾のバス停に向かう途中で見た城山

バス停奈良尾から200mくらいのカーブに登り口があります。

登城口、左上には曲輪?

畑かもしれませんが、監視小屋があったのかもしれません。

城内に入ると、右手に曲輪4、堀切、二の丸の城壁が見えてきます。

二の丸から曲輪4を見下ろしています。

二の丸

二の丸西下の腰曲輪

西第二腰曲輪

地形を見ると、こちらも城内として利用されていた感じを受けます。

二の丸、南奥の二重堀、この先に本丸がありますが、次回とします。


縄張り図は「信濃の山城と館」2巻 更埴・長野編 北は右


長篠の戦い

2015-11-26 23:48:09 | 歴史的事件の考察
長篠の戦いについて、私的な考察

長篠の戦いについて、自分の持っている疑問を挙げながら、歴史資料や歴史家の史論をもとに考えていきます。

●勝頼は兵力一万五千に対し徳川・織田連合軍は四万という兵力差があり、不利な戦いであるにもかかわらず、何故、設楽ヶ原に向かったのかという疑問です。


包囲していた長篠城から転身して勝頼は設楽ヶ原に布陣します。

「当代記」に織田・徳川軍の出現を前にして、勝頼を中心にして軍議が行われたという。その内容は「ここで是非とも一戦を遂げようと勝頼が言ったところ、馬場信春・内藤昌豊・山県昌景・穴山信君・武田信豊などの一族・重臣たちが一斉に反対した。曰く敵は四万、味方は一万、この度は軍を引き、信長が帰陣した後、秋にでもまた出陣して放火・刈田して荒らしまわれば、三河はわけなく屈服する。そうするのがよろしかろうと。ところが長坂釣閑が勝頼に合戦を勧めたため、結局戦うことになってしまった。『甲陽軍鑑』では、長坂釣閑・跡部勝資の二人は、武田を滅亡へと導いた悪臣に仕立てている。長篠の戦に関しては濡れ衣で、五月二十日付の長坂宛ての勝頼書状があり、長坂が従軍していなかったことが明らかだからである。(これについては異説があり近日紹介します。勝頼の側近中の側近が従軍していないなどのことがあろうかと、私は疑問に思っております。)
長篠の陣中でしたためた勝頼の手紙が三通ある。その一つが長坂釣閑への手紙で、二通目は家臣の三浦員久に宛てたもので、もう一通は、側室であろうか「こう」という女性に宛てている。前記の二通は同じ文面で「しからば長篠の地摂り詰め候のところ、信長・家康後詰めとして出張り候といえども、さしたる儀なく対陣に及び候。敵は手立ての術を失い、一段逼迫の体の条、無二にかの陣へ乗りかけ、信長・家康両敵ども、この度本意に達するべきの儀、案のうちに候。」と手紙に勝頼は述べている。兵力の差が三万もあるにもかかわらず、勝頼はむしろ楽観視していたことが伺えます。この自信はいったいなんであったのか。「歴史群像シリーズ 長篠の戦い」より参考としています。

次回 鳶ヶ巣山砦の奇襲の狙いは?