山城めぐり(兄弟ブログ biglob)

新潟、山梨、長野、群馬、栃木、埼玉県などの埋もれた城跡を探索しております。カテゴリ「城郭一覧」で簡単にアクセス。
 

蟻城

2018-08-31 19:59:03 | 山城ー信州
蟻城は長野県佐久穂町(旧八千穂村)穂積にあります。

蟻城地図

国道141号線から筑摩病院入り口の信号を東に進み信号四ツ谷を右折し地方道2号線で3.6kmくらいで東電調整池に着きます。城址は池の東にあります。調整池の東集落に案内板と地図が掲載されています。

木曽義仲の四天王の一人、樋口氏と関係があると記されています。

この略図を良く頭に入れて登ってください。私は尾根に取り付いて西城から攻めて、峰を三つほどクリアーして南城に登りました。北城は前副寺跡から裏山に登り攻略してきました。このルートはかなりきついです。別のルートとしては寺のマークの北城から攻めて、林道を(舗装されていませんので、そのつもりで)進んで、NHKの施設から、北に登る山道を進めば南城です。西城は別ルートになります。


縄張り図は「信濃の山城と館」佐久編 宮坂武男氏著、三つの山城はそれなりに優れた縄張りをしています。

まず西城から紹介してゆきます。

調整池から西に進んで行くと、集落があって山が囲むように聳えています。右手の尾根から二つ目の峰が西城です。中央奥が南城です。

右側の尾根から(麓に三つ碑が並んでいます。)登り(右側は崩落していて危険です。)

尾根に着いてすぐに城壁が見えて

西第一曲輪があります。(宮坂氏は縄張り図に描いていません。)

尾根を東に進み西第二曲輪があります。

上から見下ろすと手が入っているのが分かります。また祠が祭られています。

尾根を東に進み畝状粗砕のような形状した土塁

上から見下ろしています。

西城堀切が見えてきましたが、本日はここまで






駒形城

2018-08-31 19:29:44 | 山城ー信州
駒形城は佐久市上塚原にある駒形神社が城址です。(佐久市は多くこのような砦が配されています。)

駒形城地図


岩尾城から地方道78号線の高瀬橋を北に進み、信号塩名田を右折し県道154号線を600mほど東に進めば駒形神社があります。

千曲川の支流を堀にしています。川は南・西・北と囲んでおり、地続きは東のみです。

城壁を登ると

駒形城本曲輪

本殿

由緒

北の沢

地続きの西の空堀と思われる道

佐久市の見ごたえある砦もあり、機会を見て紹介してゆきます。



岩尾城②

2018-08-30 21:16:53 | 山城ー信州
二の丸から本丸へ


三の丸から一段高く、三島神社の本殿が二の丸

二の丸の北側

道を下ると(後世の道か)

空堀があって、大手台曲輪の北側になります。

縄張り図は「余湖くんのお城のページ」より

本殿の脇に棒標

本殿右手から本丸への階段があります。

本丸

大井弾正入道の碑(岩尾大井氏の祖、大井行俊と思われます。)

西の丸(棒標は本丸とあります。標識はいい加減に配しています。)

大井行俊
生涯
応永34年(1427年)、長土呂館に生まれる。応仁元年(1467年)、室町幕府管領細川勝元と山名宗全が争い(応仁の乱)、行俊は細川氏方に応じる。文明5年(1473年)、小笠原長朝に属し、京都に赴き山名氏方と戦う。
文明9年(1477年)、8代将軍足利義政が令を発し佐久に帰った。文明10年(1478年)、岩尾城を築城し長土呂より移る。以後大井行吉まで5代に亘って居住することとなる。
永正2年(1505年)11月12日、岩尾城に卒す。79歳。


大井行満
大井 行満(おおい ゆきみつ)は、戦国時代の武将、信濃国佐久郡、岩尾大井氏、二代岩尾城主。大井行俊の嫡子。
生涯
享徳2年(1453年)、長土呂館に生まれる。文明年間に甲斐国の板垣氏の娘を娶る。文明18年(1486年)、家督を嗣ぎ弾正忠と称した。延徳元年(1489年)、武田信昌が佐久に侵入して岩尾城も焼き討ちにあったが、小諸城主大井光忠、香坂・志賀・平賀氏の勢力が結集し、村上氏の支援によって武田勢を退け、行満は帰城した。永正6年(1509年)、関東管領上杉顕定の斡旋により、伴野貞慶との和議を行った。明応年中(1492年-1500年)に出家し回国修行に出て、大永5年(1525年)岩尾城に帰り、西国・坂東・秩父百番観音巡札の供養塔を建てた。同年3月3日、岩尾城に卒す。73歳。遺言により牌を高野山蓮華定院に建てた。



大井 行真(おおい ゆきまさ)は、戦国時代の武将、信濃国佐久郡、岩尾大井氏、三代岩尾城主。大井行満の嫡子。文明16年(1484年)、岩尾城に生まれる。明応7年(1498年)、15歳で元服。天文3年(1534年)、紀州高野山に参詣して落髪し高山と号し、牌を高野山蓮華定院に建てた。天文6年(1537年)、岩尾村寺中に弟の僧松岩長伊を開山として高井山桃源院[1]を建立し、延命地蔵尊[2]を奉安した。この年、祖父行俊の三十三回忌、父行満の十三回忌を行った。天文8年(1539年)、岩尾城に卒す。56歳。

大井 行頼(おおい ゆきより)は、戦国時代の武将、信濃国岩尾城主。大井行真の子。通称・弾正忠、岩尾弾正とも。
信濃国守護代の大井氏の庶流・岩尾大井氏の出身。天文5年(1536年)武田信虎が信濃佐久郡海ノ口城の平賀玄信を攻めた時、玄信を援け相共に防戦した。天文8年(1539年)父が没したため、家督を相続する。
天文12年(1543年)武田信玄の侵攻にあい、真田幸隆の勧めに従って佐久郡の他の諸将と共に信玄に降る。その後、天文16年(1547年)佐久郡志賀城攻め、天文17年(1548年)上田原の戦いなど、信玄の信濃攻略の先鋒として戦った。天文20年(1551年)武田氏に出仕し(『高白斎記』)、子の行吉を証人として提出している。
永禄4年(1561年)川中島の戦いでは、行吉と共に戦った。元亀3年(1572年)7月7日、岩尾城で死去。享年64歳。


いずれもウィキペディアより。行頼の子、行吉がいますが長窪城(長野県長和町 後日、大井貞隆の居城で紹介します。)



岩尾城

2018-08-29 20:47:02 | 山城ー信州
岩尾城は長野県佐久市鳴瀬にあります。

岩尾城地図

国道141号線から西に県道103号線に入り、北岩尾の信号を右折して地方道78号線を進み500mくらいに高瀬橋が見えてきます、この橋の手前を左折しますと(案内板があり)、すぐ右手に鳴瀬老人憩いの家があり。ここで駐車させてもらうのですが、無断駐車禁止とあります。近所の家に断わってください。


高瀬橋手前の南の道

老人憩いの施設
この施設から東に150mくらいで右手に入る細い道があります。ここを進めば岩尾城址です。

東の畑から岩尾城址(三島神社が祭られています)、この畑地も曲輪であったようです。

参道に入る手前の道から、この三日月堀の棒標があります。

参道、奥に三の丸城壁

説明版、1487年大井行俊が築城したとある。

天正十一年、大井行吉の頃、家康の命によって佐久郡平定に動いた依田信蕃に攻められ、信蕃を討死させたものの落城してしまう。

三の丸(棒標が見当違いの場所に設置されていますが惑わされないように)

縄張り図は「余湖くんのお城のページ」より

次回 二の丸から本丸へ

岩尾城について①
文明10年(1478年)8月、清和源氏小笠原氏流大井氏の一族である長土呂大井氏の大井行俊が南北を千曲川、湯川に挟まれた断崖上にある要害の地、岩尾に築城した。この時、伊豆・箱根・三島神社を遷し鎮守とした。
文明18年(1486年)家督を継いだ二代目城主行満は、延徳元年(1489年)甲斐武田氏の信濃侵攻により岩尾城を焼き討ちされたが、これを退けた。行満は明応年中(1492年 - 1500年)に出家し回国修行に出て大永5年(1525年)に岩尾に帰り、城内二の丸に西国・坂東・秩父百番観音巡礼供養塔を建てた。行満の子、行真が家督を継ぎ岩尾に在城した。行真は天文8年(1539年)に没し、嫡子行頼が家督を相続した。
天文12年(1543年)9月、甲斐の武田晴信(信玄)は、長窪城の大井貞隆を攻め、岩尾城も攻略されて行頼は城を捨て逃れたが、その後武田氏に臣従して岩尾城に戻った。天文14年(1545年)岩尾城代には真田幸隆が任された。幸隆の子、真田昌輝、真田昌幸は岩尾城で生まれたとも言われる。天文20年(1551年)武田晴信自らが岩尾城の鍬立て(地鎮祭)を行い(『高白斎記』)、さらに天正6年(1578年)には武田勝頼が城の修復を命じているなど、岩尾城は佐久地方の重要な戦略拠点であり、難攻不落の堅城に作り上げられた。ウィキペディアより







雁峰城⑤

2018-08-28 20:02:06 | 山城ー信州
曲輪5から曲輪6 北西尾根へ


本丸下の北西尾根に向かい小さな土塁があります。

曲輪4

曲輪4に立って、本丸側の城壁を見返しています。

手前、曲輪5、奥の三角形の曲輪6

曲輪6に立って本丸方面を見ています。

俯瞰図は「信濃の山城と館」佐久編、北から見ている図です。真ん中の三角が曲輪6です。下方に段曲輪と曲輪を繋いだ縄張りとなっています。

一段目の段曲輪から

北西第一曲輪

二段目の段曲輪

北西尾根第二曲輪、この下に

北西尾根第三曲輪

三段目の段曲輪

北西尾根の第四曲輪、碑が平家〇〇とあり、字が読めません。小田切氏は滋野一族とされており、平家追討の時に旗揚げしたのかもしれません。

小田切氏が関連した山城は吉窪城・葛山城・戸屋城とあり順次登城してゆきます。次回 岩尾城(佐久市)