訪問者の皆さま、来年はよい年でありますように。トランプが馬鹿な命令を出さないよう祈る限りで、これに盲従する安倍が早く失脚するよう願うものです。
大塚城北尾根を歩きます。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/53/de/12bbb198a263624c082b6133160f6af1.jpg)
北尾根第一曲輪(曲輪5としたものです。)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0b/a8/77a821b71dcd72f4296746d0f3fb1ade.jpg)
奥の土塁は二段になっています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6a/d5/005e2f8cd7ae0c8b839cf4c965026ba1.jpg)
土塁から北尾根を振り返っています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7e/45/136d89dd70d4b6a6d6462c3cf72bd4f8.jpg)
北尾根第二曲輪
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1f/d3/9e06db33df3428b1a794e3ff2ca9da74.jpg)
北尾根第一堀切
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/34/ad/e106a2bad9f1b46125ae85dee9b83fe7.jpg)
北尾根第三曲輪
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/75/d4/76320abdb9a18861ad83de6e3f30225b.jpg)
北尾根第四腰曲輪
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/08/5a/1741885542d426d51317ebcbccd8db15.jpg)
第四腰曲輪の先の鞍部
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/08/a8/b99d1fa1a93737b2e420934f3d6ebfa4.jpg)
北尾根第二堀切
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/61/e5/87db1b95fe2325c71b71d2bb415c40ab.jpg)
堀切を北から見返しています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/68/f8/626460e2993f773d6140cd17a11b2094.jpg)
北尾根第五曲輪
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2c/5f/00b6472d975aa556e402bd7d4f18ddf7.jpg)
この細尾根で終りかと思いましたが、念のためもう少し歩きました。やはりまだ続いていますが次会とします
佐野氏の大塚城・粟野城を攻めた皆川広照について
天文17年(1548年)下野国皆川城主皆川俊宗の次男として誕生する。
幼い頃に皆川城の鬼門を守る、皆川持明院で修行をしたといわれている。
当時、北関東は越後の上杉謙信、相模の後北条氏ら二大勢力の利権争いの渦中にあり、北関東に跋扈する小勢力は生き残りを図るために従属、離反を繰り返していた。皆川家も例外ではなく、永禄4年(1561年)、皆川俊宗は皆川家の支城である太平山城に立ち寄った上杉謙信を接待するために、広照を接待役に任命している。
俊宗は長男である皆川広勝よりも次男である広照に愛情を注いだ。広照は父・俊宗と共に永禄6年(1563年)の川連城攻略、永禄7年(1564年)の榎本城攻略に参陣。また、俊宗が元亀3年(1572年)正月、北条氏政、那須資胤と連携し、主家である宇都宮氏の居城宇都宮城を占領した際、宇都宮広綱の幽閉を広照に命じている。
皆川俊宗が天正元年(1573年)、北条氏政と戦い関宿で上杉方として討死する(上杉謙信と戦い北条方として討死した説もある)と、兄広勝が当主となった。
天正3年(1575年)、広照は北条方として佐野氏の家臣である平野久国の守る粟野城を家臣の斎藤秀隆に命じて攻め落とした。ウィキペディアより
大塚城北尾根を歩きます。
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北尾根第一曲輪(曲輪5としたものです。)
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奥の土塁は二段になっています。
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土塁から北尾根を振り返っています。
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北尾根第二曲輪
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北尾根第一堀切
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北尾根第三曲輪
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北尾根第四腰曲輪
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第四腰曲輪の先の鞍部
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北尾根第二堀切
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堀切を北から見返しています。
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北尾根第五曲輪
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この細尾根で終りかと思いましたが、念のためもう少し歩きました。やはりまだ続いていますが次会とします
佐野氏の大塚城・粟野城を攻めた皆川広照について
天文17年(1548年)下野国皆川城主皆川俊宗の次男として誕生する。
幼い頃に皆川城の鬼門を守る、皆川持明院で修行をしたといわれている。
当時、北関東は越後の上杉謙信、相模の後北条氏ら二大勢力の利権争いの渦中にあり、北関東に跋扈する小勢力は生き残りを図るために従属、離反を繰り返していた。皆川家も例外ではなく、永禄4年(1561年)、皆川俊宗は皆川家の支城である太平山城に立ち寄った上杉謙信を接待するために、広照を接待役に任命している。
俊宗は長男である皆川広勝よりも次男である広照に愛情を注いだ。広照は父・俊宗と共に永禄6年(1563年)の川連城攻略、永禄7年(1564年)の榎本城攻略に参陣。また、俊宗が元亀3年(1572年)正月、北条氏政、那須資胤と連携し、主家である宇都宮氏の居城宇都宮城を占領した際、宇都宮広綱の幽閉を広照に命じている。
皆川俊宗が天正元年(1573年)、北条氏政と戦い関宿で上杉方として討死する(上杉謙信と戦い北条方として討死した説もある)と、兄広勝が当主となった。
天正3年(1575年)、広照は北条方として佐野氏の家臣である平野久国の守る粟野城を家臣の斎藤秀隆に命じて攻め落とした。ウィキペディアより