山城めぐり(兄弟ブログ biglob)

新潟、山梨、長野、群馬、栃木、埼玉県などの埋もれた城跡を探索しております。カテゴリ「城郭一覧」で簡単にアクセス。
 

大塚城③

2017-12-31 19:46:23 | 山城ー野州
訪問者の皆さま、来年はよい年でありますように。トランプが馬鹿な命令を出さないよう祈る限りで、これに盲従する安倍が早く失脚するよう願うものです。

大塚城北尾根を歩きます。

北尾根第一曲輪(曲輪5としたものです。)

奥の土塁は二段になっています。

土塁から北尾根を振り返っています。

北尾根第二曲輪

北尾根第一堀切

北尾根第三曲輪

北尾根第四腰曲輪

第四腰曲輪の先の鞍部

北尾根第二堀切

堀切を北から見返しています。

北尾根第五曲輪

この細尾根で終りかと思いましたが、念のためもう少し歩きました。やはりまだ続いていますが次会とします

佐野氏の大塚城・粟野城を攻めた皆川広照について

天文17年(1548年)下野国皆川城主皆川俊宗の次男として誕生する。
幼い頃に皆川城の鬼門を守る、皆川持明院で修行をしたといわれている。
当時、北関東は越後の上杉謙信、相模の後北条氏ら二大勢力の利権争いの渦中にあり、北関東に跋扈する小勢力は生き残りを図るために従属、離反を繰り返していた。皆川家も例外ではなく、永禄4年(1561年)、皆川俊宗は皆川家の支城である太平山城に立ち寄った上杉謙信を接待するために、広照を接待役に任命している。
俊宗は長男である皆川広勝よりも次男である広照に愛情を注いだ。広照は父・俊宗と共に永禄6年(1563年)の川連城攻略、永禄7年(1564年)の榎本城攻略に参陣。また、俊宗が元亀3年(1572年)正月、北条氏政、那須資胤と連携し、主家である宇都宮氏の居城宇都宮城を占領した際、宇都宮広綱の幽閉を広照に命じている。
皆川俊宗が天正元年(1573年)、北条氏政と戦い関宿で上杉方として討死する(上杉謙信と戦い北条方として討死した説もある)と、兄広勝が当主となった。
天正3年(1575年)、広照は北条方として佐野氏の家臣である平野久国の守る粟野城を家臣の斎藤秀隆に命じて攻め落とした。ウィキペディアより



城に関する情報

2017-12-30 19:36:59 | 日記
毛利元就の平城遺構か 小倉城から素掘りの巨大堀跡 北九州の文化振興財団調査
2017年12月07日 06時00分

小倉城大手門前広場で見つかった素掘りの堀跡(北九州市芸術文化振興財団提供)
写真を見る

 北九州市が小倉城(同市小倉北区)の大手門前広場で行った発掘調査で、江戸時代の絵図にない巨大な素掘りの堀跡が見つかった。1602年に細川忠興が築城する前に戦国大名の毛利元就が築いたとされる平城の遺構の可能性もあり、調査した市芸術文化振興財団は「小倉城の歴史解明につながる発見」としている。
 広場は本丸の東側、兵の駐屯場所とされる「大手ノ勢溜(せいだま)り跡」に立地。堀は南北に延びており、全長約30メートル、深さ約3・1メートル、幅は最大10メートル以上。南側が狭くなっているという。天守閣を建設する際に出たとみられる土で埋められていた。
 小倉は古くから本州と九州を結ぶ交通の要衝とされ、忠興による築城前の小倉城に関しては、宗像大社の棟札に「永禄12(1569)年、毛利元就が(九州に進攻する際)小倉の港に平城を築いた」との記述がある。同財団は「城の西側でも似た堀跡が見つかっており、忠興の築城以前から、堅固な堀に囲まれた城があった可能性がある。堀から出土した瓦などを調べ、時代の特定を進める」としている。
 発掘調査は、市が広場に物販休憩施設を整備するのに伴い、10月から実施。市と同財団は10日午前10時から現地で説明会を開き、終了後は埋め戻す予定。
=2017/12/07付 西日本新聞朝刊=


県文化財「羽柴秀吉陣立書」 武将配置 解説書を作製 (中日新聞)
解説書を執筆した高岡徹さん(左)。背後の右手の2幅の掛け軸が陣立書=小矢部市埴生で

 小矢部市の埴生護国八幡宮は、所蔵する県指定文化財「天正十二年 羽柴秀吉陣立(じんだて)書」の解説書(B5判、十六ページ)を作った。羽柴秀吉と、織田信雄・徳川家康が激突した小牧・長久手の戦いの天正十二(一五八四)年九月の秀吉の軍勢の配置を示す書で、執筆したとやま歴史的環境づくり研究会代表の高岡徹さん(67)は「八幡宮は加賀の前田家にゆかりが深い。来歴を考えると、秀吉と前田家の深いつながりが浮かび上がる」と話している。
 陣立書は後年の表具により、左右一対の軸に仕立ててある。上部を最前線に布陣の順に武将と兵員数が記してあり、最下部には右幅に丹羽長秀、左幅には秀吉の名前と花押がある。高山右近、黒田官兵衛、古田織部、加藤清正、山内一豊など名だたる武将が記され、武将の総数は七十九人、それに記載の四集団を加え、総勢八万八千八百人余に上る。解説書では二幅の陣容を一枚にまとめ、各武将の経歴も付けた。
 高岡さんは、秀吉は前田家を陣営の一角を形成する有力武将と評価、重視し、現地の情勢を随時伝えようと努めていたと思われると指摘。「陣立書は東海地方の戦いが北陸にも密接に結び付いていたことを示し、重要だ」としている。解説書は同八幡宮で一部三百円で販売する。
  (山森保)

大塚城②

2017-12-30 18:06:30 | 山城ー野州
本丸から二の丸へ


本丸を北から見ています。

本丸北下の大堀切

大堀切を下って見ています。先に二の丸

本丸北城壁を見上げています。

二の丸

二の丸を北から見ています。

二の丸の北東に下る腰曲輪

腰曲輪に立って二の丸側をを見上げています。

二の丸北下の第二堀切、先に曲輪5(仮に)

堀切から西へ下る竪堀

二の丸北城壁を見上げています。

曲輪5(仮に)、ここから余湖さんの縄張り図から離れます。

北尾根の遺構はまだまだ続きます。

大塚城の東3kmに城山公園(粟野城)があります。この山城では皆川氏と佐野氏が激しく城の奪取攻防を繰り広げています。この際に大塚城も巻き込まれていたと思われます。

粟野城の攻防
粟野城址は、口粟野の通称「城山」と呼ばれるところにあり、頂上の横尾勝右エ門撰文の碑によると、足利又太郎忠綱がここに こもり、涛速(なにわ)城と称したとあります。また別の記録では、忠綱の一族郎党がここで全滅したと いうことです。
暦応(りゃくおう)元年(1338)、平野将監範久が修築 、居城したものの小山氏・宇都宮氏連合軍の侵略に悩まされ、その後に佐野氏に降伏し、佐野の支城となりました。
城代平野大膳久国の時には、皆川氏に攻略され、天正(てんしょう)16年(1588)12月、再び皆川広照の攻撃を受け、佐野方の援軍 を加えた防戦もむなしく落城しました。
このときの戦は、大変はげしく皆川方の大将斎藤秀隆や粟野城代平野久国のほか多くの武将が討死にしております。まして雑兵(ぞうひょう)の死者は数知れないといわれます。
皆川氏は、落合徳雲入道を粟野城代としましたが、天正18年(1590)、羽柴秀吉派遣の上杉・浅野軍の攻撃を受け、皆川本城と共に落城しました。
山頂に物見跡があり、その東南の一段下がった平地が本丸跡といわれます。城内には無数の土塁や堀切があり、大手口は横町方面に向い、二の門の内側に用水池があります。鹿沼市HPより

大塚城

2017-12-29 22:01:39 | 山城ー野州
大塚城は栃木県鹿沼市下粕尾にあります。

大塚城地図
地方道15号線の粕尾小を過ぎて西100mくらいに

美容室ミチがあります。この反対側の

細道を入ります。

根小屋のような雰囲気となり、西に登り口があります。ここはよく見ると虎口であり、この周囲は根小屋の可能性が高いと思います。

尾根に着くと曲輪

つづら道を登り、腰曲輪を越えてゆきます。

南から登っています。縄張り図は「余湖くんのお城のページ」より、

腰曲輪は薮で省きます。曲輪3、これを登って
本丸

西下の段曲輪に水道施設

次回 曲輪2から北尾根へ

元亀・天正の頃に、大塚信濃守綱利が、佐野氏の支城として築いた城であるという。実際、大塚家には現在も、佐野昌綱の充行状が残されているということで、佐野氏に属した、地元豪族大塚氏の居城であったものだろう。「余湖くんのお城のページ」記事より、





二俣城・鳥羽山城が国指定遺跡に

2017-12-28 12:25:08 | 日記
布袋岡城の追加記事が前頁にあります。

祝!国指定史跡誕生! 二俣城跡及び鳥羽山城跡(浜松市HPより)
 国の文化審議会は、浜松市天竜区にある二俣城跡及び鳥羽山城跡を国史跡に指定するよう文部科学大臣に答申いたしました。今後の官報告示をもって、浜松市で3件目の国指定史跡が誕生します。浜松市における国史跡の指定は、三岳城跡(北区引佐町、1944年指定)、蜆塚遺跡(中区蜆塚四丁目、1959年指定)に続くもので、58年ぶり。
概要
 二俣城跡及び鳥羽山城跡は、浜松市天竜区二俣町二俣に所在する戦国時代の山城です。両城とも、周囲を天竜川に面した天然の要害に築かれており、今川氏、徳川氏、武田氏、豊臣氏といった名だたる有力大名がその領有にかかわりました。両城の正確な築城時期は明らかではありませんが、二俣城については桶狭間の戦い(1560年)以降に本格的な造営が始まったとみられます。1572年~1575年には、二俣城をめぐり徳川氏と武田氏の攻防戦が繰り広げられ、その際、鳥羽山城には徳川方の本陣が置かれました。1579年には徳川家康の嫡子、松平信康が二俣城で自刃する事件も起こっています。1590年、徳川家康が関東に移封されると、豊臣家重臣の堀尾吉晴が両城を領有し、二つの城の主要部分に石垣が構築されました。この頃、二俣城には天守も築かれた可能性が高いとみられます。1600年、堀尾氏が転封すると間もなくして、二俣城と鳥羽山城はその役目を終えました。
 両城にみられる顕著な特徴は、中世的な土づくりの山城に、近世的な石垣が導入された初期の姿が良好に保存されていることといえます。二俣城には、深い堀や天守が備えられるなど要塞化が進められたことに対して、鳥羽山城には開放的な大手道や庭園が構築されるなど迎賓館的な性格が強められています。両城は、機能の違いが顕在化した「別城一郭」といわれる戦国時代の城郭の姿を具体的に伝えるものとして、高い価値が認められました。
二俣城跡
 元亀3年(1572)から天正3年(1575)の間、徳川家康と武田信玄・勝頼親子との攻防戦が繰り広げられた城として著名。天守台や石垣は、天正18年(1590)から慶長5年(1600)の間に城主であった堀尾氏によって築かれたものと推定されている。二俣城の主要な遺構は南北300m、東西250mの範囲にあり、堀で区画された施設の要所には石垣がみられる。2009年から2015年に実施した丘陵全体にわたる測量調査と発掘調査によって、二俣城の構造が明確になった。

鳥羽山城跡
鳥羽山城跡は、二俣城の南に広がる東西1000m、南北350mほどの独立丘陵上に立地する。二俣城跡とは南北500mほどの至近距離にある。二俣城をめぐる徳川氏と武田氏との攻防戦の際に、徳川方の本陣が築かれた。天正18年(1590)から慶長5年(1600)の間、二俣の地を領有した堀尾氏によって石垣を備えた城郭に改修された。枯山水庭園や破格の大きさの大手道など迎賓館的な性格が強い。二俣城とは「別城一郭」として、密接な関係がうかがえる。

アクセス

二俣城跡
天竜浜名湖鉄道「二俣本町」駅から徒歩約10分。
車は、国道152号経由。二俣城跡入口に6台分の駐車場あり。
公衆トイレあり。
鳥羽山城跡
天竜浜名湖鉄道「二俣本町」駅から徒歩約10分。
車は、国道152号経由。駐車場あり。
公衆トイレあり。