山城めぐり(兄弟ブログ biglob)

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金尾山城

2018-05-12 17:02:49 | 山城ー武州
金尾山城は埼玉県寄居町金尾にあります。

金尾山城地図

国道140号線で波久礼駅南の寄居橋を渡り、地方道82号線を西に向かい1.5kmくらいに金尾山公園があり、ここが城址です

金尾山公園登り口、反対側に大きな駐車場

登城した日はつつじ祭りが行われていました。余湖さんの俯瞰図が城山の紹介で展示されていました。

山道を東ルート(女坂)から上り、東屋に着きます。

本丸が望めます。

二の丸、寄居町を眼下に

二の丸にある愛宕神社、奥には櫓台

説明版によれば鉢形城の西を守る支城で、城主は金尾弥兵衛で、天文元年(1532)藤田左衛門佐重利が築城したと伝えられている。なお説明版では、愛宕神社のある曲輪は二の丸としています。

二の丸東側

階段を登り

本丸

俯瞰図は「余湖くんのお城のページ」より

藤田氏
藤田氏は武蔵七党の猪股党の出で、政行が同国榛沢郡藤田郷に拠って藤田を称した。行康は源平合戦の一の谷生田森の戦いで討ち死。その子能国・孫能兼は承久ので活躍した。このとき能国が院宣を読み上げ、文博士といわれた。一族は幕府の問注所寄人であった。
 南北朝期武蔵守護代であった大石氏と、藤田氏は姻戚関係があり、武蔵平一揆の乱で能員は勲功を挙げた。永亨のころ、宗員は藤田郷内の聖天堂を興隆している。その妻紀香は岩田氏の出身で、所領を鎌倉円覚寺に寄進。
 長亨の乱で山内・扇谷両上杉氏が同国須賀原・高見原で戦ったとき藤田三郎は長尾景春にくみして戦った。永正のころ、藤田虎寿丸が神奈川権現山合戦に山内上杉憲房に加わっている。その憲房と北武蔵に進出した北条氏綱が対陣したとき、藤田右衛門佐は憲房の使者をつとめた。
 天文初年藤田右金吾業繁は「郡主」を称し、藤田小三郎は「鉢形」にあった。同十五年、川越合戦で北条氏康に敗れた上杉憲政は、上野平井に逃れ、藤田右衛門佐は大石定久と氏康に降った。
 史料に拠れば右衛門佐は康邦とある。氏康の子氏邦はその女を妻とし、藤田氏を継ぎ、秩父郡天神山城から鉢形城に移り、鉢形領を支配した。後北条氏の上野進出では先鋒となり、沼田城代に猪股邦憲を置いた。家督を譲った康邦は用土村に移って藤田を用土に改姓したという。
 猪股邦憲が、真田氏の名胡桃城を奪い、怒った豊臣秀吉は天正十八年(1590)小田原攻めの兵を起こし、鉢形城も前田利家に攻められた。氏邦は同城を明け渡し、利家に従い加賀金沢に赴き、同地で没した。
 ところで、別の説によると、氏康の子氏邦を養子としたのは、畠山重忠の末裔藤田重利という。つまり平姓藤田氏である。重利の実子重連と信吉ははやくから、子氏邦と隙を生じ、重連は氏邦に毒殺された。そこで信吉は武田勝頼に同心し、氏邦を上野沼田城に攻めて殺し、勝頼より本領を安堵され、能登守と称した。信吉はのち豊臣秀吉に仕え、さらに徳川家康に服して、下野那須郡一万五千石に封ぜられ、名を重信と改めた。しかし子がなく家は断絶した。  武家家伝より