山城めぐり(兄弟ブログ biglob)

新潟、山梨、長野、群馬、栃木、埼玉県などの埋もれた城跡を探索しております。カテゴリ「城郭一覧」で簡単にアクセス。
 

鷹巣根城(刈谷原城)⑤

2017-08-31 19:52:56 | 山城ー信州

宮坂氏の縄張り図にない尾根をこれから紹介します。縄張り図の堪能な方、是非、縄張り図を描いていただきたいと思います。

本丸の南西曲輪、これを南西に下りる尾根と(宮坂氏は描いておられます。)、南に下る尾根があります。

南尾根に下りて南西曲輪を見上げています。

南尾根第一堀切

南尾根第二堀切

第三堀切

第四堀切

南尾根第一曲輪

南尾根虎口(土橋)、両側に

横堀が回してあります。

横堀の西側

南尾根横堀、中央虎口、ここの地点が南尾根の厳重な守りとしています。

南尾根は、まだ続きます。中央の本丸から大堀切エとある右側に宮坂氏は未踏査のようですが、南尾根はあります。






鷹巣根城(刈谷原城)④

2017-08-30 16:36:00 | 山城ー信州
南西尾根へ


分岐点から



北西尾根から南西尾根につなぐ壕

南西尾根第一曲輪

下方に帯曲輪

南西尾根を下って見上げています。

堀切を何故か斜めに切っています。

第二腰曲輪

第三腰曲輪、この辺は宮坂氏の縄張り図と違っています。最下層の曲輪で戻ります。

二の丸下から見上げています。 次回 旧四賀村 笹沢城 

筑北の情勢と服部氏(麻績氏)

服部清正が、武田晴信に筑北地方に侵攻され、麻績城を捨て、越後の長尾景虎に庇護を求めたのは、天文22年(1553)4月の事であった。それから29年の年月が流れ、上杉謙信はすでに病死し、養子の景勝の世となっていた。天正10年(1582)のことである。この年3月武田氏が滅び、6月織田信長も京都の本能寺に置いて自害した。この機に上杉景勝は信濃に侵入し、北信地方を勢力下に収めると共に当時越後に居た小笠原貞胤(長時の弟)に越後勢を添えて信濃府中の深志城へ城主として送り込んだ。7月2日に深志城にいた木曽義昌(織田家に従っていた)を追って同城に入った。そして、府中への道筋に当たる麻績城には、長年越後に居て上杉氏の下で忠勤を励んだ服部清正を、再び麻績城主にしたのである。
 天正11年(1583)信濃の情勢は、徳川の勢力が次第に浸透し冠着山周辺の諸豪族も自己防衛の立場から相次いで上杉氏に背いて徳川方に従うようになった。青柳氏も徳川方に属した小笠原貞慶に従ったのである。周辺の情勢から麻績氏も恩顧ある上杉氏に背いて小笠原氏に内応したのであろう。これを知った上杉景勝は大いに怒り、4月信濃に出動した。麻績城攻めには景勝自ら向かったものとみえ、4月27日これを攻略した。服部清正はこの時に捕えられ、川中島の志河において磔に処せられたという。麻績村史より

鷹巣根城(刈谷原城)③

2017-08-29 10:58:54 | 山城ー信州
前回記事の通り、武田信玄は第一次川中島の合戦で、刈谷原城と青柳城を拠点として兵を進めていたことが分かっています。

本丸から北西尾根へ

本丸に戻って

北西第一腰曲輪

第二腰曲輪

第二腰曲輪を見上げています。ここが北西尾根と南西尾根との分岐点になります。

土橋(自然地形ではなく尾根を両側から削り取って作っています。)

小曲輪、面白い施設、北西尾根の要塞でしょうか。

土橋の両側斜面には段曲輪が数段築かれています。

縄張り図は「信濃の山城と館4」本丸から左手に伸びている北西尾根

下ってきた北西尾根を見上げています。

分岐点に戻ってきました。次回 南西尾根へ

東筑摩郡への武田氏侵攻②
25日、麻績、青柳、大岡の占領地の分割を決め、5月1日晴信は深志城へ引き上げたのである。麻績は服部氏、青柳は青柳氏、大岡は香坂氏の地盤であり、青柳、香坂氏はすでに武田氏に従い、安定していたが、おそらく服部氏は武田氏に降伏することを潔しとせず、4月9日葛尾城を捨て、塩田城に立て籠もっていた村上義清を頼って、落延びたのであろう。ついで8月5日には、塩田城も落城したので、村上氏とともに上杉氏を頼って越後に奔った。名族麻績服部氏は滅び、晴信は麻績地方を青柳氏に与え麻績氏を称させたのである。麻績村史より



鷹巣根城(刈谷原城)②

2017-08-28 20:05:58 | 山城ー信州
本丸から北東尾根を下ります。(記事1の方角が誤っていましたので訂正しております。)


本丸

本丸北東下、第一腰曲輪

第二腰曲輪

第三腰曲輪

第四帯曲輪

第五腰曲輪

北東曲輪

北東曲輪の先端部、帯曲輪


縄張り図は「信濃の山城と館4」記事1は南尾根を登ってきました。北東尾根は右上に伸びている尾根です。

次回 西北尾根(途中で南西尾根に分岐しています。)

武田氏の東筑摩郡への侵攻
高白斎記によれば、4月3日には早くも会田氏の本拠である会田虚空蔵山城まで放火したとあるから、その落城もその後一両日を出なかったのであろう。この頃から屋代氏・塩崎氏など北支那のの有力な武将たちが、次々と晴信の配下に入ってきた。6日には武田軍の先鋒隊十二隊というから7,8千人の軍勢が、新たに加わった各地の武将と葛尾城の背後を突くべく出発した。大軍は48曲がり峠を下ったという。9日葛尾城はほとんど戦わずして落城した。村上義清は逃亡し高梨城(中野市)の高梨氏を頼った。高梨氏は越後の長尾景虎と深いつながりがある。青柳氏はこの頃降伏したとみえ、晴信は15日、刈谷原から青柳に駒を進めている。17日、武田典厩信繁は青柳城を修復した。石川、大須賀、高坂、室賀など更科郡の諸氏が出仕してきた。そして、越後軍が攻め寄せて来たとの報が入ったのであろう、22日には8隊兵を峠を越えて八幡(更埴)へ送った。越後軍はこのとき五千人の兵力であったという。このときはあまり戦わずして、武田軍は兵を引き上げている。晴信も24日、青柳の陣を払って刈谷原へ退いている。23日に葛尾城は村上義清に取り返された。しかし、葛尾城はもはや重要性を失っていたので、義清は小県郡の塩田城に入った。

鷹巣根城(刈谷原城)

2017-08-27 22:30:44 | 山城ー信州
鷹巣根城は長野県松本市刈谷原町にあります。

鷹巣根城地図
国道143号線で刈谷原宿に入って、刈谷原トンネルの旧豊科町側手前から林道があります。

国道143号線、刈谷原トンネル

トンネルから100mくらい後方の林道を進みます。600m先の二又を右手に進み溜池があります。ここに駐車して100mくらい歩いて支尾根を登ります。支尾根から左手奥の高い峰が鷹巣根城です。

南尾根を歩いてくると、土塁が見えてきます。

南第一曲輪

緩衝地帯を登り

堀切イ

堀切ウを見下ろしています。

本丸

標高896m比高190m


歴史 海野氏の一族、光氏が古くから築城していた。この光氏の周辺の城は塔ノ原城・会田・田沢とあり、狼煙で連絡を取っていた。その後、小笠原氏の家臣太田資忠という武将が城を守っていた。小笠原長時が越後に遁れた際も、この城で武田氏に頑強に抵抗していたそうです。