山城めぐり(兄弟ブログ biglob)

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伴野城

2017-02-28 21:11:23 | 山城ー信州
伴野城は長野県佐久市野沢にあります。

伴野城地図
県道144号線で金台寺の西の市道に入り城山公園に向かいます。

城址の南に位置する大伴神社

大伴神社

社傳によれば、景行天皇40年の鎭座と言ひ傳へられてゐる。大宝年間(701-4)諸國に牧場(官牧)が設定され、千曲川・鹿曲川に境した700m乃至800mの高原台地に牧草に適した草が繁茂し、その広さ3000余町歩、これが朝廷直轄の牧場となり、所謂望月牧である。これを維持、管理する牧監(もくげん)が即ち早くこの地に土着して一大豪族となつた大伴氏を祖とする望月氏が朝庭より任命され、長倉牧・塩野牧の長官をも望月氏が兼任した。牧場を維持管理しだ主体の所在地が望月に在り、牧監望月氏の根拠地も望月にあり、望月氏また氏神として大伴神社を奉齋してゐた。地理的に京道の通過地にあり、大和朝廷に功勢大なるものがあつた大伴氏の子孫望月氏の在地の関係上、山間の小神社が他の神社を超越して式内社に列格し御牧七郷の総社と称へられた理由もここにあつたものと思はれる。『馬政史』(農林省発行、明治32年、30頁)「大件神社注進状」なるものに左の記載がある。略述すれば「當社の祭神が馬に乗つてこの地に來られ鎭座して、乗つて來られた優秀な馬を種馬として駒の改良繁殖をはかり、この地に多数の馬が飼育されるやうになつた。」さういつた歴史のある処へ官牧が設定され、のちに信濃國最大の望月牧となつた。紀貫之の歌にも「逢坂の関の清水に影見えていまや曳くらむもちつきの駒」(『古今和歌六帖』)とよまれてゐる。
式内社調査報告  ブログ「延喜式神社の調査」より引用

望月氏が大伴氏の末裔であるというのは初めて知ることです。事実は?


文字が小さく読めるでしょうか、伴野氏の城館としています。

土塁の切れ目で判断しますと、東に虎口があったようです。

西側、碑の近くの西虎口は確実にあったようです。

西の土塁上から城内を見ています。

西虎口

北側の土塁と現在も残る堀

大伴神社の西脇の階段を登ると

櫓台があったと説明板にあります。

次回 長野市若穂川田にある古城

安倍という人間の本性をみたり

2017-02-28 20:41:48 | 日記
安倍晋三の悲願は祖父岸信介が行おうとした憲法改正にあるという。岸信介は絞首刑を逃れたA級戦犯である。岸は満州へ渡り、関東軍を使い日中戦争を導いた官僚であったという。この男のおかげで、日本国民は300万人という戦死者を出し、アジア諸国を合わせれば1000万人を超えるという。安倍は「美しい国」の建設を謳い、押し付けられた「憲法」でなく、自主憲法の実現をと訴えている。なんのことはない、憲法九条を廃棄して戦争の出来る国家「美しい国」を目指しているに過ぎない。岸が犯した70年前の戦争犯罪を、またもや孫である安倍晋三が繰り返そうとしている。関東軍が中国、台湾、朝鮮、ベトナム、ラオス、タイ、インドネシア、カンボジア、これらの国を赤く地図で染めて「大東亜共栄圏」と名乗り侵略戦争を遂行してきた。しかし、終戦後なにが残ったのか、今現在もアメリカに占領されているのが現実である。歴史に学ばず、愚かな悪夢をまた望んでいる。夢を見るのは勝手であるが、巻き込まれる国民はたまったものではない。

森友学園の事件は 安倍の奢りから出た事件である。愚かな人間の所業を直視して、こんな人間に政権をいつまでも持たせてはいけないと国民は目を覚まさなくてはいけない。

学校法人「森友学園」への大阪府豊中市内の国有地売却を巡る問題と安倍晋三首相、昭恵夫人の関係が、国会で問題となっている。学園が取得した国有地の売却額が同じ規模の近隣国有地の10分の1であること、学園が開設予定の小学校の名誉校長に昭恵夫人が就任していたこと、学園が「安倍晋三記念小学校」の名前で寄付金を集めていたことなどが次々と明らかになり、野党は「総理の威光を背に色々なことを進めてきたのではないか」と追及の構えを見せている。
森友学園への国有地売却問題は次第に安倍首相を追い込んでいる
 安倍首相は、24日の衆院予算委員会で、昭恵氏が名誉校長を妻が辞任したことや、自らの名を使った学園の寄付金集めに抗議したことを説明した。しかし、疑惑を払拭できていない。その1週間前の17日には、昭恵氏の名誉校長就任について「妻から森友学園の先生の教育に対する熱意は素晴らしいと聞いている」と説明していた。首相の答弁は一変しており、野党から皮肉られている。
 むしろ、安倍政権が同学園の寄付集めや小学校認可を後押ししているかのような印象を強める事実が、次々と出てきている。昭恵氏が講演会で「こちらの教育方針は大変、主人も素晴らしいと思っている。(卒園後)公立小学校の教育を受けると、せっかく芯ができたものが揺らいでしまう」と語っていた映像が出てきた。また、稲田朋美防衛相が同学園理事長の籠池泰典氏に「長年にわたり自衛隊の部隊との交流等を通じて防衛基盤の育成と自衛隊員の士気高揚に貢献された」として昨年10月、防衛相感謝状を贈っていたことも、明らかになった。
 更に、同学園の教育や運営の異様な実態が明らかになってきた。同学園理事長の籠池氏は、憲法改正を後押しする「日本会議」のメンバーである(第144回)。同学園系列の幼稚園は、明治天皇の名で教育理念などを規定した「教育勅語」を暗唱させる教育方針で知られてきた。そして、新たに設立される小学校は「日本で初めてで唯一の神道の小学校」を謳っている。
 もちろん、日本全国に宗教関連の学校は多数ある。例えば、甲子園で活躍する知名度の高い人気校もある。宗教関連の学校の存在は日本社会に認知されており、神道に基づく教育を行う学校があること自体は、さほど問題視することではないだろう。この幼稚園の問題は、外国人に対する差別的な言動で保護者らとトラブルを起こしていたことだ。同園に対する誹謗中傷があったとして「投稿者は、巧妙に潜り込んだ韓国・中華人民共和国人等の元不良保護者であることがわかりました」という声明文をウェブページに掲載していたというのだ。
 安倍首相は当初、「(国有地の売却に)私や妻が関係していたということになれば、首相も国会議員も辞める」と述べ、国会答弁では余裕を見せていた。しかし、様々な事実が明らかになり、次第に追い込まれてきた。「私だって職を賭して答弁しているんですよ。まじめに聞いてください」と発言するなど、苛立ちを見せるようになっている。 ダイアモンドオンライン より




石田三成の愛刀

2017-02-27 18:40:09 | 歴史資料
石田三成の愛刀

そんな三成の愛刀は、「石田正宗」。棟(むね)や鎬(しのぎ)、茎棟(なかごむね)の刀身部分に深い切り込み瑕(きず)が二つあるところから「石田切込正宗」ともいわれている。鎌倉末期から南北朝時代初めに、相模国鎌倉で活躍した天才刀工・正宗の作刀で、刀身は2尺2寸7分(68.8センチ)。正宗は日本刀剣史上もっとも著名な刀工のひとりで、「相州伝」と称される作風を確立し、多くの弟子を育成した。正宗の刀剣は現在も、国宝、重要文化財級のものが多く、美術品としても大変高い評価を受けている。
『享保名物帳』(本阿弥光忠が編纂し幕府に提出した名刀リスト)に、元は毛利若狭守が所持していたところ、宇喜多秀家が400貫で買い取り、秀家から三成に贈られたと記されている。
 三成は秀吉亡きあと「五奉行」のトップとして君臨するが、家康に匹敵する勢力を持っていた大老前田利家が病死すると、家康や他の奉行と対立。武断派の加藤清正、福島正則、黒田長政らの七将が、三成の大坂屋敷を襲撃する事件(石田三成襲撃事件)がおきる。伏見城内に逃れていた三成は、敵対する家康に保護を求めるという奇策をうち世間を驚かせた。関ケ原の戦いで敗れ、六条河原で処刑された末路はあまりにも有名だ。その事件後、帰城する三成を警護したのが家康の次男である結城秀康。三成は感謝の印として秀康に「石田正宗」を贈り、秀康死後は子孫の津山松平家に代々伝えられた。
 「秀康は三成と親交があり、秀康は三成のことを兄・信康と重ね合わせて見ていたようです。単に刀をもらった以上の感情があったはずです」と石田三成の15代目の子孫・石田秀雄さん。
「石田正宗」は実戦力と機能美、あるいは芸術性と強靭性が見事に融合している点が独創的だ。鎌倉期独特の多様な刃紋の美しさは刀剣美の極致、と言っていい。
「実は石田家には前田大名家から賜った刀が昭和20年8月まであったんです。しかし、空襲で焼失してしまいました。私は直接見たことはないのですが、名刀だったことは間違いありません」(同)
 新潟・妙高にあった石田家は東京・八王子に転居。その際に前田公からの刀をはじめ石田家伝来の文物を同時に移していたのだ。
 三成は武将ではあるが、刀剣を持って積極的に戦うタイプではなく、刀についてもあまり執着がなかったのではと石田さんは話す。
「前田大名家から賜った刀がなくなったのが残念ですが、平和を願った三成のことを考えると、刀が必要ない世の中をきっと望んでいたはずです」(同)(ライター・植草信和、本誌・鮎川哲也)

※週刊朝日  2017年2月3日号

勝見城③

2017-02-27 14:09:32 | 山城ー信州
本丸へ


二の丸から東尾根を登っています。この窪みは井戸?

二の丸と本丸との間を歩いています。井戸らしき上に土塁、小曲輪

また窪みがあって、この上が本丸です。

本丸城壁

登ってきた尾根を見下ろしています。土塁は兵を伏せての障壁と考えます。

大日方集落

本丸

東から本丸を見ています。

本丸東下曲輪

本丸からは南支尾根が下っていて

南支尾根先端腰曲輪

本丸東下曲輪を東から見ています。

東下曲輪から北東支尾根

北東支尾根に立って本丸北城壁を見ています。

以上で勝見城は終了です。次回 伴野城(大伴氏末裔の説もあり、高崎の根小屋城の守将であったと思われます。)

伊達政宗

2017-02-26 11:17:33 | 歴史資料
「独眼竜」という風貌と知名度、秀吉を翻弄した知力と胆力、仙台藩62万石の礎を築いた統治能力と先見性、どれひとつとっても戦国武将の中で異彩を放っている伊達政宗。
 幼少時に天然痘にかかり右目の視力を失い、そのために母親に疎まれたと言われている。成人した政宗は獅子奮迅の戦いで、出羽国と陸奥国の覇者になった。
 天正18(1590)年、秀吉が小田原征伐を開始。秀吉から参戦要請の書状が政宗の元に何通も届いたが、同盟していた北条氏のために応じなかった。
 しかし小田原で秀吉の兵力を目の当たりにした政宗は、秀吉側につくことを決断する。
 その折の光景をドラマや講談では、「政宗は白装束を着て秀吉に謁見した」とされているが、史実はどうだったのだろうか。関ケ原の戦いで家康の東軍に与(くみ)した結果、仙台藩(伊達藩)は62万石の雄藩へと上りつめていく。その政宗の愛刀は鶴丸国永と鎬(しのぎ)藤四郎。前者は平安時代の刀工・国永の作。2尺5寸9分半(78.6センチ)、反り2.7センチ。細身で、反りの高い優美な立ち姿の、『享保名物帳』に記載される名物。後者の鎬藤四郎は、8寸8分(26.6センチ)の短刀で、慶長3(1598)年、秀吉の死後、遺物として政宗に贈られた。
 政宗から数えて18代目の伊達家当主伊達泰宗さんは鎬藤四郎について次のようなエピソードを明かしてくれた。
「鎬藤四郎は2代将軍秀忠饗応の時、幕府世話役である内藤外記が“上様に鎬藤四郎吉光の脇差を進物すべし”と伝えました。これに対し政宗公は“この脇差は太閤様の形見として拝領の物なり、いかに人去り世移り追従を思うとも御恩を翻すことなし、だからこそ公方様へも進物せず”と一喝し、きっぱり断りました」
 あと10年早く生まれていれば天下人になれた、といわれる政宗の反骨精神あふれるもの言いだ。
「戦国の世を生き抜いた政宗公にとって刀は戦の道具であり、裏返せば家を存続させるための象徴でもあります。泰平の世を生まんがために命を懸けた先人の魂たる刀を、まるで道具のように軽々しく扱う風潮を政宗公は許せなかったのでしょう」(伊達泰宗さん)
一方の鶴丸国永は明治天皇の仙台巡幸の際に、第14代藩主伊達宗基から明治天皇に献上され、現在は天皇家が所有している。鶴丸の号の由来は不明だが、失われた太刀拵(こしらえ)に「鶴」の文様があったからとも言われている。鶴に丸の文様は日本で古くから使われてきたもので、日本航空がロゴマークに採用しているのはご存じのとおりだ。
「政宗公が身近に置いた刀剣は少なかったようです。そして刀を人前に曝(さら)したり、見せびらかすようなこともありませんでした。刀剣について伊達家ではそのように認識しており、私も同じ思いです」(同)
 政宗は刀剣について多くを語らなかったが、家系と世の安寧を守る守護神と信じていたのだろう。(ライター・植草信和、本誌 鮎川哲也)
※週刊朝日  2017年2月17日号