山城めぐり(兄弟ブログ biglob)

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後閑城②

2018-05-24 21:39:58 | 山城ー上州
本丸から東曲輪へ


本丸に向かい

西第一曲輪・第二曲輪・第三曲輪を見下ろしています。奥に見える山が上毛三山の一つ妙義山です。
本丸

南の安中市

本丸の北側

北側の北大堀切を見下ろしています。

本丸北の東屋から東に下ると東曲輪

東曲輪南側

本丸東城壁

東曲輪北側、奥から北堀切に

北大堀切

大堀切に沿って四段の曲輪

大堀切を作る、西曲輪群とを隔てる土塁

次回 北曲輪から東曲輪群へ

戦国時代における動向
甲斐国の武田氏は北信地域をめぐり越後上杉氏と抗争していたが(川中島の戦い)、永禄4年の第四次合戦を機に北信をめぐる抗争は収束し、武田氏は西上野侵攻を開始する。
越後上杉氏の勢力下にあった西上野では武田氏に抵抗する国衆と服属する国衆があるが、後閑氏は国峰小幡氏などともに武田氏に帰属することで旧領回復を成した国衆で、西上野国衆との取次は跡部勝資や原昌胤らが務めているが、後閑氏との取次は跡部勝資が務めている。
後閑信純は甲斐の名族上条氏の名を継ぐことになり、上条真純と名乗ったという。信純のあとは、後閑弥太郎(刑部少輔)と上条善次郎(宮内少輔)の二子が後閑姓と上条姓をそれぞれ継いでいる。また庶子の後閑下野守が総社に拠っている。
しかし天正10年(1582年)3月、武田氏は織田氏の侵攻によって滅亡し、西上野においては信長の部将滝川一益が関東管領として厩橋に入城してきた。これによって後閑氏は新たな主君を探すことになった。
上条氏を名乗っていた上条宮内少輔は、武田滅亡後に後閑姓に復し、刑部少輔とともに両後閑と呼ばれるようになったが、この両後閑の2人は後北条氏に属した。天正11年(1583年)後北条氏から両後閑氏宛ての、出陣の際における両後閑の配下の員数を定めた書状があり、両後閑氏が後北条氏の幕下にあったことを示している(「後閑文書」)。一方、「日本城郭体系」の後閑城の記述では、武田滅亡後に小田原方となった両後閑に対し、総社にあった後閑下野守は北条高広に従ったという。
天正12年(1584年)、北条高広が後北条氏に降ると、北条氏政は両後閑氏に厩橋在番を命じた。天正18年(1590年)、小田原征伐に際して両後閑氏は小田原に籠城し、総社にあった後閑又右衛門尉は大道寺政繁に従って松井田城へ入った。
小田原征伐後、両後閑たる刑部少輔と宮内少輔の姿は見えなくなり、領主としての後閑氏は没落した。しかし子孫は残っていたらしく、旧領後閑の地を治めた井伊家中に後閑善兵衛・新兵衛の名が見える。それぞれ刑部少輔と宮内少輔の子と推察され、刑部少輔系・宮内少輔系の2流に分かれた後閑氏はともに井伊家に仕えた(『安中市史』)武家家伝より