山城めぐり(兄弟ブログ biglob)

新潟、山梨、長野、群馬、栃木、埼玉県などの埋もれた城跡を探索しております。カテゴリ「城郭一覧」で簡単にアクセス。
 

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ブログ新規開設について

2019-02-25 19:58:03 | 日記
このGOOブログに、いまだ多くの訪問者があり感謝です。このブログは3Gと写真投稿に制限があり、現在は
山城めぐり(FC2)として新しく開設しております。菅原城では西尾根を新発見しました。

大堀切、ここは深くてこの先にはないだろうと、多くの方がここで引き返しています。

しかし、大堀切の先に曲輪が二段あり

西尾根を下れば、北側に土塁を構築した大きな曲輪があります。

俯瞰図は「余湖くんのお城のページ」より、新しく発見した尾根は曲輪9から西です。


また山田城では曲輪3の西側の曲輪10(仮に)から西尾根が伸びていて、これも宮坂武男氏が未発見の尾根です。新たに頑張っておりますので、こちらもご訪問ください。



曲輪3の西に位置する大きな曲輪、この西側先端にも遺構があります。

曲輪先端には帯曲輪

尾根の途中にある、物見と思われる曲輪

この新しく見付けた尾根は曲輪3の富士のように描かれた先の尾根です。

まことに申し訳ありませんが、新規開設したYAHOOブログは2019年12月15日にサービス終了とのことで、またもや引っ越しせざるを得ません。なお菅原城・山田城は「山城めぐり YAHOO」で検索していただければ記事は読めます。
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荒山城②

2019-01-15 20:44:59 | 山城ー信州
写真投稿が3Gとなり、やむなく引っ越しします。

山城めぐり(YAHOO)


二の丸へ


本丸西土塁から二の丸を見下ろしています。

本丸と二の丸との堀切

二の丸に立って、本丸西城壁を見ています。

二の丸

二の丸、南側は切岸

二の丸の西に三の丸、旧大沢小学校跡に資料館として残っています。

縄張り図は「信濃の山城と館」佐久編、宮坂氏は三の丸で終りとしていますが

三の丸の西に道路を挟んで、遺構と思われる丘陵が続きます。

南に腰曲輪が付いて

南曲輪(仮に)の段差の上に

主曲輪らしき平地があります。この後方にも土塁に仕切られた曲輪(?)が薮ですが三段とあります。

以上で荒山城は終わりです。次回 福田城 (佐久穂町)

次回から引越しいたしましてYAHOOブログから紹介してゆきます。今後ともよろしくお願いします。
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追悼 市原悦子さん②

2019-01-15 20:41:13 | 日記
市原悦子が安倍政権に「『国民の命と財産を守る』と言っても空々しい」

 とはいえ、こんな体験は子どもたちの世代にさせてはならない。その思いから彼女は戦争の記憶を後世に語り継ぐことをライフワークとする。それが戦争童話の朗読だ。
 野坂昭如「凧になったお母さん」「年老いた雌狼と女の子の話」や、あまんきみこ「ちいちゃんのかげおくり」など、戦争によって弱い者、とくに子どもたちが犠牲になっていく物語を読む朗読会を定期的に行い、その活動はいまや30年以上継続したものになった。そんな戦争童話の朗読について、エッセイ集『ひとりごと』(春秋社)のなかでこのように振り返っている。
〈私の朗読は、死とか戦争とか暗い話が多いといわれるけれど、私自身の現在は、戦争を抜きにしては語れない。いつも言っているけれど、戦後の食糧難の時代に、いまの私がつくられたといってもいいほどに、あのころの生活が私の原点です〉
 だから、先の戦争で得たはずの反省を無きものにし、再びこの国を戦争ができる国にしようと企む安倍政権の野望は到底許すことのできるものではなかった。2014年の朝日新聞のインタビューでは、怒りをにじませながらこのように語っている。
「集団的自衛権を使うことが認められましたね。「自衛」とか「戦争の抑止力」とか信じられない。原発事故への対応もあやふやなまま、国は原発を輸出しようとしている。被爆者、水俣病患者を国は救済しましたか。「国民の命と財産を守る」と言っても空々しい。
 先の戦争で犠牲になった300万人の方々がどんな思いで死んでいったか。戦争によって人の心に何が起こったか。それを知れば、私たちがこの先どうすべきか見えてくると思います」
 市原が戦争童話の朗読をライフワークとしたり、メディア上で政権の方針に対して怒りをぶつけたりするのはなぜか。彼女はそれこそが女優の仕事であると確信しているからだ。『白髪のうた』ではこのように綴られている。戦争を失くすこと、世界の問題と関わることが女優の仕事だと市原悦子は語った

〈貧困の中で栄養失調で死んでいく子どもたちや、戦争で自分の子どもを失った母親たちが嘆き悲しむ姿を見ると、胸がしめつけられる。ああいう人たちがいる間は幸せになれないよね。いたたまれないですよ。
 戦争がなければあの顔を見なくて済むでしょう。だから、黙ってないで、戦争をなくすこと、世界の問題と関わることも、女優の大事な仕事よ。「私の子どもは戦争にやりません!」って。
 理不尽なことで人は傷つく。歩道で自転車にぶつかるとか、地震に遭うとか、放射能で故郷を捨てさせられるとか……責任をどこへ持っていっていいかわからない、ひどい事故がたくさんある。一番気になるのはそのことですよ。私たち女優がもっとこういう理不尽なことに対して、モノを言えば少しは力になると思うの〉
 まさしくその通りだろう。彼女にはこれからも自らの貴重な体験を語り継いでいってほしいし、市原の掲げる〈女優の大事な仕事〉を引き継ぐ若い世代の役者がもっと現れてくれることを願ってやまない。新田 樹
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追悼 市原悦子さん

2019-01-14 22:20:29 | 日記
追悼!市原悦子が生前語った安倍政権への怒り、反戦の思い…「戦争をなくすことも女優の大事な仕事」19.01.13 リテラ



『白髪のうた』春秋社

 女優の市原悦子が12日、都内の病院で亡くなったことがわかった。82歳だった。市原といえば『まんが日本昔ばなし』の声優や、『家政婦は見た!』(テレビ朝日)などの作品が有名なことは言うまでもないが、30年以上にわたってライフワークとして力を入れていたことがある。
 戦争の記憶を後世に語り継ぐこと、戦争童話の朗読だ。市原の戦争をなくしたいという思いは、安倍政権にも向けられた。
 2014年には、集団的自衛権容認や原発政策など安倍政権の政策を厳しく批判したことがある。
「集団的自衛権を使うことが認められましたね。「自衛」とか「戦争の抑止力」とか信じられない」
「先の戦争で犠牲になった300万人の方々がどんな思いで死んでいったか。戦争によって人の心に何が起こったか。それを知れば、私たちがこの先どうすべきか見えてくると思います」
 市原が戦争童話の朗読をライフワークとしたり、メディア上で政権の方針に対して怒りをぶつけたりしたのはなぜか。
市原はエッセイ集『白髪のうた』(春秋社)のなかで、その思いをこう綴っている。
「戦争をなくすこと、世界の問題と関わることも、女優の大事な仕事」
 本サイトでは、2017年8月、市原の戦争体験、戦争反対の思い、安倍政権への怒りについて記事にしたことがある。以下に再録するので、あらためて市原の反戦の思いをご一読いただきたい。
(編集部)
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 戦後72年を迎えたこの夏。先日お伝えした仲代達矢や桂歌丸をはじめ、先の戦争を知る世代が減るのと呼応するように戦争の恐ろしさを国民がだんだんと忘れ始めている社会状況を危惧し、自らの戦争体験を語り残そうとする芸能人や文化人は多い。
 そんななか、『家政婦は見た!』(テレビ朝日)シリーズでおなじみの市原悦子も自身の戦争体験を語り話題となっている。
 それは、先月末に出版されたエッセイ集『白髪のうた』(春秋社)に記されている。1936年生まれの彼女は、空襲で危うく命を落としかける体験をしたという。
〈終戦の前の年、千葉市栄町(現在の千葉市中央区栄町)にあった生家のそばに爆弾が落ちたんです。家には庭に面して広い廊下がありました。

 家族でお昼ご飯を食べていたとき、「ダダダダーン」と爆音がして、ご飯のうえにうわっとほこりが積もったの。「何ごとだ!?」と居間を出たら、廊下がこなごなになったガラスの川でした。爆風でガラスが全部吹き飛んで、廊下に割れ散っていたんです。ほこりの積もったご飯とガラスの川、それが目に焼き付いています〉
 もしもこの爆弾が直撃していたら、確実に無事ではすまなかっただろう。事実、彼女の兄は爆弾が落ちた場所を見に行っているのだが、そこには空襲で犠牲になった人の遺体があったという。
〈夕方、兄が友達と、爆弾は家のそばの小学校に落ちたことを確かめてきました。爆風で近所の人が吹き飛ばされて、ばらばらになった。兄たちは、校舎の壁面に飛び散りへばりついた、その人の肉片を見たそうです。近所の人たちが「東京に落とす爆弾を試しに千葉に落としたんだ」と騒いでいました〉
 この空襲をきっかけに、市原の家族は同じ千葉県の四街道へ疎開する。空襲の恐怖からは逃れることができたものの、今度市原らを苦しめたのは飢えだった。慢性的な食料不足に苦しみ、素人ながら近所の農家に教わりながらトマトやきゅうりを栽培するも、それでも飢えは解消されない。最終的には口に入れられるものならなんでも、ザリガニすら食べるような生活を送ることになる。
 市原はその暮らしがつらいものであったと同時に、人間としての自分の礎をつくった体験でもあったと語る。『白髪のうた』ではこのように綴られている。
〈ひもじいことの辛さ、ものを大事にし、感謝する。自分のすることに責任感を持つ、すべての人間の原点になる情感を、そこで学んだ気がします。
 あの頃、今の自分ができたと思います。たくましいというか、案外へこたれないというか。自分のことは自分でする。自分にも周りの人にも世の中にも、あんまりガタガタしない。欲がなく、目の前にある仕事を丁寧にやるだけで満足する。その日食べられて、大事な友達が数人いて、楽しく身体を動かしていればいい、ちょうど「都合のいい」女が、その頃にでき上がりました〉①つづく
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荒山城

2019-01-14 20:58:13 | 山城ー信州
この荒山城を最後にYAHOOブログに引っ越します

荒山城は佐久市本新町にあります。

荒山城地図

国道141号線の信号本新町を西へ入り、大沢体育館周辺が荒山城です。(周辺は道が狭いため、体育館の駐車場を借りるように)

北から城址を見ています。

東の縁から登ると、本丸の城壁が現れます。この手前の腰曲輪を西に進みます。

上段が本丸城壁、北側に腰曲輪が付きます。

腰曲輪から西奥を見ています。戦艦を見ているようです。

歩いてきた腰曲輪を見下ろしています。

本丸

本丸南側は一段低くなっています。

本丸西側土塁

土塁の上から本丸を見渡しています。

縄張り図は「信濃の山城と館」佐久編、本丸は曲輪1とされています。

次回 曲輪2へ

荒山城は前山城の支城とされ、城主は伴野光信であったという。
大井・伴野両氏は大合戦をして、大井政朝は伴野方の生け捕りとなり、大井氏の執事相木氏は討死をとげた。この戦いに勝利を得たのは、前山城主の光利・光信父子と思われ、甲斐の武田信昌は先年の大井氏の甲斐侵入に対する報復として伴野氏に味方している。

伴野 光信(ともの みつのぶ)は、戦国時代の武将。甲斐武田氏家臣。貞慶を諱とする説もある[1]。
信濃前山城主[1]。
伴野氏は小笠原氏の嫡家で、同じ小笠原氏族の守護代・大井氏と紛争を繰り返した[1]。永正6年(1509年)には室町幕府による争いの調停を受ける[1]。大永7年(1527年)に大井氏との紛争に敗れ、信虎に頼る[1]。


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