山城めぐり(兄弟ブログ biglob)

新潟、山梨、長野、群馬、栃木、埼玉県などの埋もれた城跡を探索しております。カテゴリ「城郭一覧」で簡単にアクセス。
 

丸子城③

2018-11-15 20:27:54 | 山城ー信州
本丸から南尾根へ


丸子町ではここを本丸としています。宮坂氏は手前を二の丸、奥を本丸としています。

神川辺りでの第一次上田合戦においては真田昌幸は徳川軍を退けたあと、徳川軍は丸子城を攻めたとあります。

宮坂氏の言う本丸

こんな高所に井戸

本丸東側景色(右手の三角山が鳥羽山で鳥羽城があります。)

宮坂氏の言う、二の丸を見下ろしています。

二の丸北から本丸を見ています。

丸子町の考える本丸周辺図

本丸を下り

物見台から南東の景色

南西尾根の先端

物見曲輪

二の丸から北東に長い竪堀の先に曲輪群、次回の予定

第一次上田合戦②
徳川軍は甲斐から諏訪道を北国街道に進み、上田盆地の信濃国分寺付近に兵を展開。これに対して真田方は約1200人であったと言われ、昌幸は上田城に、長男の信幸は支城の戸石城に篭城した。また支城の矢沢城には、昌幸の従兄弟矢沢頼康が上杉の援兵と共に篭城した。
閏8月2日に上田城に攻め寄せた徳川方は、二の丸まで進むがここで反撃を受け撃退される。更に後退の際に城方の追撃を受け、戸石城の信幸も横合いから攻めるに及びついに壊乱し、追撃戦には矢沢勢も加わり神川で多数の将兵が溺死した。この真田方の地の利を活かした戦法により、徳川軍は1300人もの戦死者を出したと言われる[注釈 1]。一方、真田軍は40人ほどの犠牲ですんだ。
翌日、徳川方は近隣の小豪族で真田氏に味方した丸子氏(後、真田氏に臣従)の篭る丸子城を攻めるが、これも要害と頑強な抵抗に阻まれ攻略できず、以後20日間程対陣を続ける。この間に上杉勢援軍との小競り合いや更なる増援の報に接し、家康は援軍(井伊直政(一部部隊は当初より参陣)、大須賀康高、松平康重の5000)を出すと共に一時撤退を下令、これを受け徳川軍は28日に上田より撤退した。その後も、大久保忠世ら諸将は小諸城に留まり真田勢と小競り合いを繰り返すも、11月には譜代の重臣石川数正が豊臣家に出奔する事態に至り、完全に撤退することになる。
合戦の記録は真田家の『真田軍記』ほか、徳川方の『三河物語』にも記されている。この戦いで昌幸は優れた智謀であると評されることとなる。また、この合戦によって徳川家康の真田氏に対する評価は高まり、結果として本多忠勝の娘である小松姫を真田信之へ嫁がせて懐柔するきっかけともなった。
真田氏はその後豊臣政権に臣従しており、上田合戦に至るまでの諸勢力との外交や数ヶ郡を支配する勢力拡大は、真田氏が小領主から大名化していく過程であると指摘される。
上田市立博物館には、神川合戦の合戦図が所蔵されている。
なお、この上田合戦に連動して天正13年(1585年)9月から天正14年(1586年)5月まで間、沼田城にも北条氏が数回に渡って攻撃を仕掛けていたが、昌幸の叔父にあたる城代矢沢頼綱(矢沢頼康の父)が撃退に成功している。 ウィキペディアより

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丸子城②

2018-11-14 23:23:54 | 山城ー信州
二の丸へ


櫓台から南尾根を進むと

飯森城本曲輪(仮に)

丸子町ではこの曲輪を二の曲輪としていますが、宮坂氏の縄張り図のように(前回記事)二の曲輪ではないと思います。

飯森城本曲輪を南から見ています。

南尾根を進み虎口

尾根を登って

南尾根第一曲輪

さらに登り

第二曲輪

二の丸北側下大堀切、これを右手に下れば、長い竪堀から曲輪群が待っています。(後日紹介)

二の丸に着きました。次回本丸



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奴隷状態の外国人労働者

2018-11-14 23:05:30 | 日記
「私は物じゃない」

「働きたいのに(指にケガをしたから)帰れと言われました。働きたいのに、なんで私、帰るんですか」

 黄さんは'15年12月に来日、岐阜県にある段ボール製造工場で働いていた。'16年7月、作業中に手を機械に挟まれて指3本を切断してしまう。

 2か月入院する重傷だったが、治療を終えた黄さんに告げられたのは、まさかの解雇通告だった。

「(解雇の書類に)サインしろ、と何度も迫られました。私が(指を失って)使いものにならないからでしょう。私は物じゃないですよ。人間です」

「家族にたくさん仕送りができると思ったのに」

 パワハラに耐えかねて自殺を図った実習生もいる。

「ニホンが大嫌いになりました」

 涙を流しながら語るのは中国人の史健華さん(35)。昨年8月に飛び降り自殺を図り、一命はとりとめたものの腰など3か所を骨折。今もリハビリに通っている。

「私は一生懸命働きました。でも差別やいじめがあり“中国人だから”と馬鹿にされパワハラで身も心も壊した。豊かな日本に行けば家族にたくさん仕送りができると思ったのに」

 史さんは夫と子どもを祖国に残して'15年1月に来日。静岡県富士市の製紙工場で働いた。朝8時から深夜12時まで働いて手取りはわずか月10万円。午後6時以降の残業代は時給300円だった。静岡県の最低賃金は同858円。確信犯的な低賃金労働だった。

「聞いていたお給料と全然違いました」

 渡航前は、1か月の手取りは20万円と聞いていた。中国の送り出し機関に約60万円の借金をしており、切羽詰まった状況に追い込まれた。

「このまま中国に帰ることもできない、何かを訴えたくても日本語でうまく表現できない」

 絶望感にとらわれた史さんは昨年8月、仕事中、発作的に会社のビルから飛び降り自殺を図った。

“安上がりな被ばく労働者”として扱われ

「専門技術を学びに来ました。除染作業をするなんて聞いていませんでした」

 つたない日本語で懸命に訴えるベトナム人男性のグエンさん(仮名・26)。

 福島県郡山市で建設作業員として働くはずだった彼がやらされたのは除染作業だった。作業に必要な特別教育は一切受けていない。日給は5600円で日本人作業員(平均日給1万6000円以上)の3分の1だ。1年以上にわたり安上がりな被ばく労働者として扱われ、雨天などの休業時は1日分の日給である5600円が引かれた。

 グエンさんは、

「除染作業とわかっていたら日本に来ていません。専門技術を学ばせてください」

 と訴えた。

 黄さんや史さんらは現在岐阜県にある『外国人労働救済支援センター』で支援を受けているが、ほとんどの技能実習生は支援先や制度もわからないまま失踪をとげている。

「本来は労働契約で労働条件、賃金が決まるはずなのに、全然違うところ(技能実習生が知らないところ)で決まっている。ブローカー(悪質な労働者仲介業者)によって契約ががんじがらめになっている。今後どのようにブローカーを排除していくのか」

 と、前出の鳥井氏。外国人労働者受け入れ拡大の課題は山積みで、来年4月からの施行なんてとんでもない話。

 会合後、国民民主党の山井和則衆院議員に話を聞くと、

「政府は目先のことだけしか考えていない。もっと丁寧で慎重な議論が必要です」

 と早急な法改正に待ったをかける。

「外国人労働者の受け入れは14業種だけと政府は言いますが、今回の法案では、人手不足ならば上限人数なく全業種の受け入れも可能です。そんなことをしたら外国人と日本人で仕事を奪い合い、賃金が下がりかねない。外国人を受け入れる以上、日本を好きになってもらいたいですよね。

 今の悪い労働条件のままでは技能実習の外国人はもちろん、日本人だってハッピーじゃない状況。人間らしい働き方ができる環境をきちんと整えて上限人数を設けて外国人を受け入れるべきです」(山井議員)

 さらに、安倍首相の拙速な姿勢を批判した。

「移民国家スイスでは『我々は労働者を求めたが、やってきたのは人間だった』という作家の言葉があります。まさにその通りで、人間としての尊厳がきちんと守られること、これが約束できないのならば私は反対です」


安い賃金労働者が欲しい財界の要請によって、来年4月から入国管理法を改正しようとしている。外国人労働者の人権を守ろうとしない仲介ブローカーや賃金未払、最低賃金を守らない悪質企業などを野放しにして「儲けさえすればよいという理念なき企業の横行」、まるで昭和初期の日本労働者の過酷な労働実態の再現という信じがたい現象が起きている
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小牧山城の発掘調査

2018-11-14 22:56:35 | 日記

発掘:信長の屋敷跡か 小牧山城で礎石見つかる

毎日新聞 / 2018年11月14日 20時0分


 織田信長が築城したとされる愛知県小牧市の小牧山城の発掘調査で、同市教育委員会は14日、山頂の天守(主郭)近くに屋敷建物があったことを示す礎石が見つかったと発表した。信長か身内の居宅だった可能性がある。天守近くに居宅があるのは近世城郭の特徴の一つで、市教委は「小牧山城が(岐阜城や安土城に先立つ)近世城郭のルーツとの見方が一層強まった」としている。

 礎石は天守の南東側斜面下の平たん地で8個見つかり、周囲には玉石敷もあった。礎石は建物2棟の柱を支えていたとみられ、1.5~1.7メートル間隔でほぼ1列に並んでいた。建物2棟の大きさは不明。玉石敷は長さ約5メートル、幅約80センチで、同じ場所から天目茶わんや青磁の小わんなどの破片数点も出土した。

 これまでの発掘調査では、天守周辺の平たん地がどのように使われたか不明だった。今回の調査で屋敷が建ち、しかも格式の高い茶室などの建物向けとみられる玉石敷や高級な陶器片が確認されたことで、信長一族の居宅があった可能性が高いという。

 天守近くに居宅などの城主の生活空間が設けられたのは、これまで1567年に信長が岐阜城を攻略して設けたのが初めてとされていた。小牧山城は信長が岐阜に侵攻する4年前に築城されたことから、同城の方が早かったことになる。

 小牧山城では2011年の発掘調査で天守を囲む石垣が見つかっており、当時、最古の石垣は1576年築城の安土城とされていた定説を覆した。今回の発見について、滋賀県立大の中井均教授(日本考古学)は「戦国時代の山城は防御空間だったが、信長は岐阜城に居住空間を構えた記録がある。だが今回の発見で小牧山城にさかのぼることが明らかになった。さらに玉石敷は特別な建物を示しており、信長の身内の屋敷地だった可能性が高い」とコメントした。【花井武人】

ことば「小牧山城」

 尾張を統一した信長が1563年、美濃の斎藤氏を攻める拠点として築いたとされる。岐阜城に移るまで約4年間居城とした。その後廃城となったが、1584年の小牧・長久手の戦いでは徳川家康が改修して本陣とした。美濃攻めのためのとりでにすぎないと長年考えられていたが、小牧市が2004年に史跡整備の一環として発掘調査を始め、実態の解明が進んでいる。
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丸子城

2018-11-13 21:12:29 | 山城ー信州
丸子城には三度ほど登っておりますが、宮坂武男氏の縄張り図では、二の丸から北斜面に下る竪堀の先に曲輪群があり、これは未踏査であったので、今回見てきました。

丸子城地図

国道152号線で丸子役場を過ぎて右折して丸子橋を渡って、すぐに左折すると丸子公園になります。安良居神社境内の右手に登り口があります。、

丸子公園に第一次上田合戦の案内があります。

安良居神社本殿

本殿の右手に登り口



物見台

北方に見える、右手の峰に依田城(詰め城と思われます。)

物見台を下り

尾根をまた登ってゆくと

峰が見えて

飯森城北曲輪(仮に)

飯森城櫓台

丸子市街

宮坂氏の縄張り図、左手隅を飯森城としています。(縄張り図は「信濃の山城と館」上田・小県編)

飯森城から本丸まで(未踏査は二の丸から北へ下る長い竪堀の先に辰口本居館への遺構)

第一次上田合戦①
この戦いに限り、神川合戦、上田・神川の合戦とも呼ばれる。

天正10年(1582年)3月、織田信長が行った甲州征伐により武田氏は滅亡。甲斐から信濃、上野に及んだ武田遺領は織田家家臣に分与され、武田旧臣の信濃国人衆らは織田政権に臣従した。同年6月に京都で織田信長が横死(本能寺の変)し、織田家と友好関係だった北条家が、北条氏直率いる5万6,000の兵で織田領上野に侵攻し、織田政権の関東管領と目される滝川一益率いる2万を神流川の戦いで撃破し、滝川一益は本拠地の伊勢まで敗走する。これに前後して甲斐の河尻秀隆が一揆により戦死、北信濃の森長可も旧領の美濃に撤退し、南信濃の毛利秀頼も尾張へと撤退すると、織田領である信濃、甲斐、上野が一気に空白状態となり、越後の上杉景勝や相模の北条氏直、三河の徳川家康など近隣勢力が侵攻し、旧織田領を巡る天正壬午の乱が起こる。
甲斐を制圧した徳川家康が南信濃へ、上杉氏は北信濃へ、そして北条氏は上野国から碓氷峠を越えて東信濃へと侵攻した。このとき東信濃から西上野に勢力を保っていた真田昌幸は北条方に属していたが、徳川方の依田氏の工作により離反する。
10月には徳川・北条の間で和睦が成立するが、その和睦条件として徳川傘下となっていた真田氏の上野沼田領と北条氏が制圧した信濃佐久郡を交換することとした。翌天正11年(1583年)から昌幸は上田城の築城に着手しており、沼田領や吾妻領を巡り北条氏と争っていた。
天正13年(1585年)には家康が甲斐へ着陣して昌幸に沼田領の北条氏への引き渡しを求めるが、昌幸は徳川氏から与えられた領地ではないことを理由にして拒否し、さらに敵対関係にあった上杉氏と通じた。同年7月、浜松に帰還した家康は昌幸の造反を知ると八月に真田討伐を起こし、家臣の鳥居元忠、大久保忠世、平岩親吉ら約7000の兵を真田氏の本拠・上田城に派遣する。 ウィキペディアより




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