山城めぐり(兄弟ブログ biglob)

新潟、山梨、長野、群馬、栃木、埼玉県などの埋もれた城跡を探索しております。カテゴリ「城郭一覧」で簡単にアクセス。
 

氏族の追跡(長享日記の舞台、海尻城)

2015-04-30 21:37:57 | 氏族の追跡
長享日記については、「山城めぐり」ウェブリブログでの氏族の追跡の中で「長享日記の真偽」として詳しく書いていますので参照してください。

海尻城地図

国道141号線で南牧村に入って、信号海尻城址があり、これを右折して医王院の駐車場に停めさせてもらいます。

国道沿いにある碑

医王院 家紋は武田菱です。長享二年、村上顕国によって武田氏が信濃へ侵攻の動きを見せており、帰国せよという命令を受けて、横尾吉信は信州横尾の地に戻り、村上氏に属して武田氏と戦い、その様子を長享二年から天文十六年までの軍記として書かれていますが、この当時の古文書が寺に残されてあるか、住職奥様にお聞きしたところ、ないとのことでした。

境内から城址の道があります。

登り道から城山を見上げています。

主郭から南支尾根が伸びており、大きな堀切で先端部は分断されています。

支尾根先端部の三の丸、祠はこの海尻城で幾たびかの合戦があり、その犠牲者の慰霊のためと思われます。奥の城壁は二の丸

三の丸を見返しています。

三の丸から東側の景色を見ています。眼下に医王院

南支尾根二の丸、その下に三の丸

二の丸から北に登って本丸

次回 海尻城址の紹介とともに長享日記の記述を再検討していこうと思っています。



台の城山(栗木田城)②

2015-04-29 21:09:11 | 山城ー信州
本丸へ


三の丸から二の丸を見ていおり、間に堀切があります。

三の丸から東尾根を見下ろしています。中央の斜めに土塁?

東尾根を下から見上げると、土塁のようでもあります。

三の丸を見返し、二の丸との間を土橋で結んでいます。

二の丸

本丸の城壁

本丸

本丸の西尾根にある腰曲輪

本丸の南下にある堀切

文明14年(1482)高遠継宗の代官保科貞親父子は継宗の意に背いたため、継宗の怒りに触れた。事態を憂慮した諏訪の大祝継満や千野法秀が高遠へ出向いて仲裁をしたが聞き入れられず合戦となった。保科方には大祝継満・千野法秀・藤沢氏が加勢し、高遠継宗方には笠原氏・三枝氏が合力して笠原に於いて合戦が行われた。結果は高遠方が敗れ、台の城山(栗木田城)は保科氏が守り通したという。この後武田氏がこの地を支配した時は向山蔵人がこの城を守ったという。確かに現在もこの地に二十数件の向山姓の家が居住されているそうです。 『山城探訪』宮坂氏著より

台の城山(栗木田城)

2015-04-28 18:27:16 | 山城ー信州
台の城山は伊那市高遠町台にあります。

前回記事の藤沢城の北尾根を補足してあります。

台の城山地図
国道152号線を南下してゆき、バス停荒町を過ぎて、廣勝寺入り口の案内があります。それを右折して市道を進み廣勝寺へ案内する突き当りを反対の左手に進みますと八幡神社があります。ここに駐車しました。


八幡神社

八幡神社から南西に見た城山

八幡神社から川を渡って、民家の道を進み城山の東側麓に回ります。墓地の左側から登る道があり害獣柵を開けて、直登すれば北尾根に着きます


北尾根、

迂闊に歩けば見逃してしまう北尾根第一曲輪

北尾根第二曲輪、宮坂氏の縄張り図では載っていません。

尾根は東尾根に変わり主郭の城壁が見えてきました。

手前から三の丸・二の丸(神社)・本丸と連郭式です。

次回 詳しく見てゆきます

藤沢城②

2015-04-27 23:02:42 | 山城ー信州
本丸へ


本丸の手前の瘤に見えるのは曲輪と土橋を組み合わせています。

腰曲輪から土橋を渡って二の丸に登る縄張りです。

小規模ながら中々の縄張りと思います。本丸城壁

北東に見下ろす杖突街道。城の築城目的は一つに街道の監視があります。また木戸銭なども徴収していたのかもしれません。そして軍の移動も街道が近ければ便利です。よって街道沿いに築城されるものが多いと言えます。

二の丸は草深く残念

二の丸を見下ろしています。

本丸

説明板、絵図は1582年のものだそうで、武田氏の保科正直の館であったようですが、それ以前に藤沢盛景の一族がこの地の山城の麓に館を持っていたことは当然考えられます。

本丸の西奥にある祠

本丸を西から見ています。搦め手、東虎口が確認できます。

本丸東にある堀切、瘤状に作られ障壁でもあるようです。

東の堀切越しに本丸を振返って見ています。

尾根は下り

第二の瘤状堀切

東尾根の最下層の腰曲輪

次回 台の城山(栗木田城)

藤沢城

2015-04-26 21:36:06 | 山城ー信州
藤沢城は高遠町藤沢御堂垣外にあります。

藤沢城地図

武田信玄は天文十一年諏訪への侵攻を始める。その時の諏訪の情勢は、諏訪の領主であり諏訪上社の大祝として勢力を持っていた諏訪頼重は、諏訪下社の大祝家である金刺氏と争い、また同じ諏訪一族の伊那郡高遠の高遠頼継が金刺氏と結んで、諏訪頼重と対立していた。この好機に乗じて信濃への侵攻を決意して、金刺氏および高遠頼継と結んで諏訪頼重を攻め諏訪氏の本城、上原城を陥落させて和議という形をとりながらも、信玄は甲府の東光寺にて頼重を切腹させてしまう。この結果、論功行賞により信玄は高遠頼継に諏訪郡の宮川を境として西を与えたが、諏訪郡をすべて支配したかった高遠頼継は諏訪上社の禰宜、矢島満清や伊那郡福与城の藤沢頼親等と結び、その年の九月に上原城を急襲し反旗を翻した。

この高遠頼継の反旗を翻した挙兵に、信玄は杖突峠を越えて出陣し、同盟者でもある藤沢氏も攻略してゆくことになります。

杖突峠を越えて国道152号線を南下してゆきますと、藤沢地区に入り県道490号線と分かれるところの西の山に城址があります。

国道沿いに案内板が出ています。

西に城山が見えています。

尾根には15分ほどで着き、東に進めば堀切があります。

東尾根を登りますが、よく見ると浅い堀切、その先に土塁状のものが二段と連なっています。防護柵でも築いてあったのでしょうか。

土塁上に小曲輪があって、その先に本丸城壁が見えてきます。


西曲輪(仮に)があり、中段に二の丸、その上に本丸という構造です。一番山城攻めでわくわくするところです。

次回 本丸へ