長享日記については、「山城めぐり」ウェブリブログでの氏族の追跡の中で「長享日記の真偽」として詳しく書いていますので参照してください。
海尻城地図
国道141号線で南牧村に入って、信号海尻城址があり、これを右折して医王院の駐車場に停めさせてもらいます。
国道沿いにある碑
医王院 家紋は武田菱です。長享二年、村上顕国によって武田氏が信濃へ侵攻の動きを見せており、帰国せよという命令を受けて、横尾吉信は信州横尾の地に戻り、村上氏に属して武田氏と戦い、その様子を長享二年から天文十六年までの軍記として書かれていますが、この当時の古文書が寺に残されてあるか、住職奥様にお聞きしたところ、ないとのことでした。
境内から城址の道があります。
登り道から城山を見上げています。
主郭から南支尾根が伸びており、大きな堀切で先端部は分断されています。
支尾根先端部の三の丸、祠はこの海尻城で幾たびかの合戦があり、その犠牲者の慰霊のためと思われます。奥の城壁は二の丸
三の丸を見返しています。
三の丸から東側の景色を見ています。眼下に医王院
南支尾根二の丸、その下に三の丸
二の丸から北に登って本丸
次回 海尻城址の紹介とともに長享日記の記述を再検討していこうと思っています。
海尻城地図
国道141号線で南牧村に入って、信号海尻城址があり、これを右折して医王院の駐車場に停めさせてもらいます。
国道沿いにある碑
医王院 家紋は武田菱です。長享二年、村上顕国によって武田氏が信濃へ侵攻の動きを見せており、帰国せよという命令を受けて、横尾吉信は信州横尾の地に戻り、村上氏に属して武田氏と戦い、その様子を長享二年から天文十六年までの軍記として書かれていますが、この当時の古文書が寺に残されてあるか、住職奥様にお聞きしたところ、ないとのことでした。
境内から城址の道があります。
登り道から城山を見上げています。
主郭から南支尾根が伸びており、大きな堀切で先端部は分断されています。
支尾根先端部の三の丸、祠はこの海尻城で幾たびかの合戦があり、その犠牲者の慰霊のためと思われます。奥の城壁は二の丸
三の丸を見返しています。
三の丸から東側の景色を見ています。眼下に医王院
南支尾根二の丸、その下に三の丸
二の丸から北に登って本丸
次回 海尻城址の紹介とともに長享日記の記述を再検討していこうと思っています。