本丸へ
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/64/f9/d826b4de2875baddee0683950db00b63.jpg)
遊歩道を戻って来て、本丸東尾根の下まで来ました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/33/22/11bb2a018dc6d5a91eeb9225a122c174.jpg)
本丸に向かい西尾根を進みます。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0b/d1/1e0159c4894fbc6f060b0a8853d3152a.jpg)
本丸
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5e/99/a3ae33220fa0dfe1cad172f2ac8fd33c.jpg)
本丸南側、本丸の南下にも長い曲輪がありますが薮です。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3e/de/eef8f3cf5c0a2d53b93d190e661f5c96.jpg)
本丸西下桝方虎口
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1d/e1/dd6f50924ede13a44b13e6e77bcef12c.jpg)
本丸西城壁を見上げています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/32/22/5eaf0983d9718cd509ab1ea566518722.jpg)
本丸の西にある土塁
以上で寺尾中城は終わりです。次回 丹生城
永享の乱
永享10年(1438年)6月、持氏の嫡子賢王丸が元服を迎えて名を改める際、本来ならば将軍に一字を拝領する慣例であったが、それを行わず「義久」と名付けた。憲実はこの元服式に出席せず[5]、憲実と持氏の対立は決定的となった。8月、憲実は鎌倉を去り、領国の上野国へ下った。これを憲実の反逆と見た持氏は一色直兼に命じて討伐軍を差し向け、自らも武蔵国府中高安寺に出陣する。
将軍・義教は憲実の救援のため、篠川公方足利満直(上杉禅秀の乱後持氏と対立)や駿河守護今川範忠の出兵を命じた。さらに禅秀の子上杉持房・教朝らを含む幕府軍を派遣する。同時に持氏追討の治罰綸旨の発給を求め、持氏は朝敵となった。9月27日には持氏軍は敗れて相模の海老名まで引いたが、鎌倉を守護していた三浦時高等武将の裏切りが相次いだために兵は逃亡し、持氏は孤立無援となった。
持氏は鎌倉に引く途中で憲実の家宰・長尾忠政(芳傳、長尾忠綱の子)と出会い、憲実に義教との折衝を依頼する。その後鎌倉称名寺で出家し、永安寺に幽閉された。憲実は持氏の助命と義久の公方就任を懇願したが[6]、義教は許さず、憲実に持氏の追討を命じた。永享11年(1439年)2月10日、憲実の兵が永安寺を攻撃、持氏は自害して果てた(永享の乱)。義久と稲村公方足利満貞も自害した。
持氏の自害により鎌倉公方は一旦滅亡することになるが、彼の遺児である春王丸・安王丸を担いだ結城氏朝・持朝父子が蜂起し、関東の混乱は続いた(結城合戦)。この反乱も幕府に鎮圧され結城氏朝父子は自害、春王丸・安王丸は幕府に捕らえられ処刑されたが、後に春王丸らの兄弟で生き残っていた成氏が鎌倉に帰還、鎌倉公方に就任するも上杉氏と対立、享徳の乱を引き起こし北関東へ逃れ古河公方を称することになる。ウィキペディアより
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遊歩道を戻って来て、本丸東尾根の下まで来ました。
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本丸に向かい西尾根を進みます。
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本丸
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本丸南側、本丸の南下にも長い曲輪がありますが薮です。
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本丸西下桝方虎口
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本丸西城壁を見上げています。
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本丸の西にある土塁
以上で寺尾中城は終わりです。次回 丹生城
永享の乱
永享10年(1438年)6月、持氏の嫡子賢王丸が元服を迎えて名を改める際、本来ならば将軍に一字を拝領する慣例であったが、それを行わず「義久」と名付けた。憲実はこの元服式に出席せず[5]、憲実と持氏の対立は決定的となった。8月、憲実は鎌倉を去り、領国の上野国へ下った。これを憲実の反逆と見た持氏は一色直兼に命じて討伐軍を差し向け、自らも武蔵国府中高安寺に出陣する。
将軍・義教は憲実の救援のため、篠川公方足利満直(上杉禅秀の乱後持氏と対立)や駿河守護今川範忠の出兵を命じた。さらに禅秀の子上杉持房・教朝らを含む幕府軍を派遣する。同時に持氏追討の治罰綸旨の発給を求め、持氏は朝敵となった。9月27日には持氏軍は敗れて相模の海老名まで引いたが、鎌倉を守護していた三浦時高等武将の裏切りが相次いだために兵は逃亡し、持氏は孤立無援となった。
持氏は鎌倉に引く途中で憲実の家宰・長尾忠政(芳傳、長尾忠綱の子)と出会い、憲実に義教との折衝を依頼する。その後鎌倉称名寺で出家し、永安寺に幽閉された。憲実は持氏の助命と義久の公方就任を懇願したが[6]、義教は許さず、憲実に持氏の追討を命じた。永享11年(1439年)2月10日、憲実の兵が永安寺を攻撃、持氏は自害して果てた(永享の乱)。義久と稲村公方足利満貞も自害した。
持氏の自害により鎌倉公方は一旦滅亡することになるが、彼の遺児である春王丸・安王丸を担いだ結城氏朝・持朝父子が蜂起し、関東の混乱は続いた(結城合戦)。この反乱も幕府に鎮圧され結城氏朝父子は自害、春王丸・安王丸は幕府に捕らえられ処刑されたが、後に春王丸らの兄弟で生き残っていた成氏が鎌倉に帰還、鎌倉公方に就任するも上杉氏と対立、享徳の乱を引き起こし北関東へ逃れ古河公方を称することになる。ウィキペディアより