本丸から太鼓曲輪へ
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本丸
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石田三成は徳川家康にとって敵将であったため、佐和山城は「破城」されたという。
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南東尾根を下り千貫曲輪に向かいます。
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南東第一曲輪
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第二曲輪
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第三曲輪
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第四曲輪
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千貫曲輪
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千貫井戸
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縄張り図は「近江の山城ベスト50」より
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/52/4a/99588933fa91cbd4c021336470e4f4d0.jpg)
薮でしたが太鼓丸、二の丸、三の丸を見逃してしまいました。
近畿の山城はこれで終ります。次回 信州上田市 小牧城
佐和山城②
佐和山城の戦い
慶長5年(1600年)9月15日の関ヶ原の戦いで三成を破った徳川家康は、小早川秀秋軍を先鋒として佐和山城を攻撃した。城の兵力の大半は関ヶ原の戦いに出陣しており、守備兵力は2800人であった。城主不在にもかかわらず城兵は健闘したが、やがて城内で長谷川守知など一部の兵が裏切り、敵を手引きしたため、同月18日、奮戦空しく落城し、父・正継や正澄、皎月院(三成の妻)など一族は皆、戦死あるいは自害して果てた。江戸時代の『石田軍記』では佐和山城は炎上したとされてきたが、本丸や西の丸に散乱する瓦には焼失した痕跡が認められず、また落城の翌年には井伊直政がすぐに入城しているので、これらのことから落城というよりは開城に近いのではないかとする指摘もある[7]。
家康に従軍した板坂卜斎は陥落した佐和山城に金銀が少しもなく、三成は殆んど蓄えを持っていなかったと記している(『慶長年中卜斎記』)[8]。
徳川時代、そして、廃城[編集]
石田氏滅亡の後、徳川四天王の一人である井伊直政がこの地に封ぜられ、入城した。井伊家が、このまま佐和山城を利用すると、領民は井伊家が石田家を継承したような錯覚を抱き、領民達の前領主への思慕を断ち切ることができないことから、新たに彦根城築城を計画した[9]。しかし、直政は築城に着手できないまま、関ヶ原合戦での戦傷がもとで慶長7年(1602年)に死去。計画は嫡子の直継が引き継ぐこととなり、大津城・佐和山城・小谷城・観音寺城などの築材を利用しつつ、天下普請によって彦根城を完成させている。佐和山城は慶長11年(1606年)、完成した彦根城天守に直継が移ったことにともない、廃城となった。なお、彦根城の城下町までを含めた全体の完成は元和8年(1622年)のことである。
佐和山城の建造物は彦根城へ移築されたもののほかは徹底的に城割されたため、城址には何も残っていない[10][11][12]。しかしそれでも、石垣の一部、土塁、堀、曲輪、千貫井戸跡[13]や西ノ丸にある焔硝櫓跡・塩櫓跡[14]などの施設が一部に現存しており、また、ときとして新たに遺構が発見される。[要出典] ウィキペディアより
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本丸
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石田三成は徳川家康にとって敵将であったため、佐和山城は「破城」されたという。
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南東尾根を下り千貫曲輪に向かいます。
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南東第一曲輪
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第二曲輪
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第三曲輪
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第四曲輪
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千貫曲輪
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千貫井戸
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縄張り図は「近江の山城ベスト50」より
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薮でしたが太鼓丸、二の丸、三の丸を見逃してしまいました。
近畿の山城はこれで終ります。次回 信州上田市 小牧城
佐和山城②
佐和山城の戦い
慶長5年(1600年)9月15日の関ヶ原の戦いで三成を破った徳川家康は、小早川秀秋軍を先鋒として佐和山城を攻撃した。城の兵力の大半は関ヶ原の戦いに出陣しており、守備兵力は2800人であった。城主不在にもかかわらず城兵は健闘したが、やがて城内で長谷川守知など一部の兵が裏切り、敵を手引きしたため、同月18日、奮戦空しく落城し、父・正継や正澄、皎月院(三成の妻)など一族は皆、戦死あるいは自害して果てた。江戸時代の『石田軍記』では佐和山城は炎上したとされてきたが、本丸や西の丸に散乱する瓦には焼失した痕跡が認められず、また落城の翌年には井伊直政がすぐに入城しているので、これらのことから落城というよりは開城に近いのではないかとする指摘もある[7]。
家康に従軍した板坂卜斎は陥落した佐和山城に金銀が少しもなく、三成は殆んど蓄えを持っていなかったと記している(『慶長年中卜斎記』)[8]。
徳川時代、そして、廃城[編集]
石田氏滅亡の後、徳川四天王の一人である井伊直政がこの地に封ぜられ、入城した。井伊家が、このまま佐和山城を利用すると、領民は井伊家が石田家を継承したような錯覚を抱き、領民達の前領主への思慕を断ち切ることができないことから、新たに彦根城築城を計画した[9]。しかし、直政は築城に着手できないまま、関ヶ原合戦での戦傷がもとで慶長7年(1602年)に死去。計画は嫡子の直継が引き継ぐこととなり、大津城・佐和山城・小谷城・観音寺城などの築材を利用しつつ、天下普請によって彦根城を完成させている。佐和山城は慶長11年(1606年)、完成した彦根城天守に直継が移ったことにともない、廃城となった。なお、彦根城の城下町までを含めた全体の完成は元和8年(1622年)のことである。
佐和山城の建造物は彦根城へ移築されたもののほかは徹底的に城割されたため、城址には何も残っていない[10][11][12]。しかしそれでも、石垣の一部、土塁、堀、曲輪、千貫井戸跡[13]や西ノ丸にある焔硝櫓跡・塩櫓跡[14]などの施設が一部に現存しており、また、ときとして新たに遺構が発見される。[要出典] ウィキペディアより