山城めぐり(兄弟ブログ biglob)

新潟、山梨、長野、群馬、栃木、埼玉県などの埋もれた城跡を探索しております。カテゴリ「城郭一覧」で簡単にアクセス。
 

佐和山城②

2018-12-06 22:03:38 | 山城ー近畿地方
本丸から太鼓曲輪へ

本丸

石田三成は徳川家康にとって敵将であったため、佐和山城は「破城」されたという。

南東尾根を下り千貫曲輪に向かいます。

南東第一曲輪

第二曲輪

第三曲輪

第四曲輪

千貫曲輪

千貫井戸

縄張り図は「近江の山城ベスト50」より

薮でしたが太鼓丸、二の丸、三の丸を見逃してしまいました。

近畿の山城はこれで終ります。次回 信州上田市 小牧城

佐和山城②
佐和山城の戦い
慶長5年(1600年)9月15日の関ヶ原の戦いで三成を破った徳川家康は、小早川秀秋軍を先鋒として佐和山城を攻撃した。城の兵力の大半は関ヶ原の戦いに出陣しており、守備兵力は2800人であった。城主不在にもかかわらず城兵は健闘したが、やがて城内で長谷川守知など一部の兵が裏切り、敵を手引きしたため、同月18日、奮戦空しく落城し、父・正継や正澄、皎月院(三成の妻)など一族は皆、戦死あるいは自害して果てた。江戸時代の『石田軍記』では佐和山城は炎上したとされてきたが、本丸や西の丸に散乱する瓦には焼失した痕跡が認められず、また落城の翌年には井伊直政がすぐに入城しているので、これらのことから落城というよりは開城に近いのではないかとする指摘もある[7]。
家康に従軍した板坂卜斎は陥落した佐和山城に金銀が少しもなく、三成は殆んど蓄えを持っていなかったと記している(『慶長年中卜斎記』)[8]。
徳川時代、そして、廃城[編集]
石田氏滅亡の後、徳川四天王の一人である井伊直政がこの地に封ぜられ、入城した。井伊家が、このまま佐和山城を利用すると、領民は井伊家が石田家を継承したような錯覚を抱き、領民達の前領主への思慕を断ち切ることができないことから、新たに彦根城築城を計画した[9]。しかし、直政は築城に着手できないまま、関ヶ原合戦での戦傷がもとで慶長7年(1602年)に死去。計画は嫡子の直継が引き継ぐこととなり、大津城・佐和山城・小谷城・観音寺城などの築材を利用しつつ、天下普請によって彦根城を完成させている。佐和山城は慶長11年(1606年)、完成した彦根城天守に直継が移ったことにともない、廃城となった。なお、彦根城の城下町までを含めた全体の完成は元和8年(1622年)のことである。
佐和山城の建造物は彦根城へ移築されたもののほかは徹底的に城割されたため、城址には何も残っていない[10][11][12]。しかしそれでも、石垣の一部、土塁、堀、曲輪、千貫井戸跡[13]や西ノ丸にある焔硝櫓跡・塩櫓跡[14]などの施設が一部に現存しており、また、ときとして新たに遺構が発見される。[要出典] ウィキペディアより



佐和山城

2018-12-05 21:16:23 | 山城ー近畿地方
佐和山城は滋賀県彦根市佐和山町にあります。

佐和山城地図

東海道本線の彦根駅から東に見える山で、駅から北に200mくらいで県道329号線に突き当たり、左手に佐和山城の案内板が出ています。私はこの案内のとうりに歩きましたが、駅から北に1kmくらいにある龍澤寺から登ったほうが分かりやすいと思います。


案内とうりと書きましたが、途中、西の丸の北側竪堀を見つけ登りました。

思わぬ石垣を見つけましたが、後世の石垣かもしれません。

西の丸北西支尾根2とある下段曲輪と上段曲輪

たまたま上った尾根が、西の丸北西尾根でした。

現在地とある上段曲輪(北西支尾根ではなく、北尾根です。)

北へ下り中段曲輪

さらに北へ下ると下段曲輪(塩硝曲輪)

上段曲輪に戻り、本丸へ向かいます。(北虎口)

湾曲の登り道に空堀をつけて土橋

尾根を登り、小曲輪

桝方虎口

本丸

彦根市を見渡しています。

次回 南東尾根から太鼓曲輪へ

佐和山城の歴史
歴史①
佐々木・六角・浅井・織田の時代[編集]
佐和山城の歴史は、鎌倉時代、近江守護職・佐々木荘地頭であった佐々木定綱の六男・佐保時綱が築いた砦が始まりとされ、建久年間(1190- 1198年)の文書にその名が見える。
六角政頼・久頼・高頼・氏綱・定頼の代の期間、六角氏が犬上郡を支配し、応仁の乱の後、家臣の小川左近大夫・小川伯耆守を城主として置いた。
しかし戦国時代の後半に入ると、北近江における六角氏勢力は衰退し、それにともなっては新興勢力である浅井氏が伸張した。佐和山城もその支配に入って、城は磯野員吉に引き渡され、小谷城の支城の1つとなった。
元亀年間には時の城主・磯野員昌が織田信長らと8ヶ月におよぶ戦闘を繰り広げた。しかし、1571年(元亀2年)2月に員昌は降伏し、代わって織田氏家臣の丹羽長秀が入城。浅井氏旧領と朝倉氏の旧領南部、すなわち、北近江六郡と若狭国の支配拠点とした。
羽柴・豊臣の時代[編集]
天正10年(1582年)6月の本能寺の変の後に行われた清洲会議では、明智光秀討伐に功があった堀秀政に与えられ、秀政は翌年に入城した。これ以降は事実上、豊臣政権下の城となってゆく。堀秀政の留守中は弟の多賀秀種が城代を務めた。天正13年(1585年)には、転封となった堀家に替わって堀尾吉晴が入城。さらに石田三成が入城したとされる。入城時期については天正18年(1590年)7月説[3]と、文禄4年(1595年)7月説があったが、伊藤真昭の研究により、天正19年(1591年)4月であることが確定した(ただし、伊藤は天正19年の入城は城代・蔵入地代官としての入城で、三成が正式に佐和山城主に任じられて北近江4郡を与えられたのは文禄4年7月であったことも立証している)[4]。 三成は、当時荒廃していたという佐和山城に大改修を行って山頂に五層(三層説あり)の天守が高くそびえたつほどの近世城郭を築き、当時の落首に「三成に過ぎたるものが二つあり 島の左近と佐和山の城」[5]と言わしめた。ただし、三成は奉行の任を全うするために伏見城に滞在することが多く、実際に城を任されていたのは父の正継であった。城内の作りは極めて質素で、城の居間なども大抵は板張りで、壁はあら壁のままであった。庭園の樹木もありきたりで、手水鉢も粗末な石で、城内の様子を見た当時の人々もすこぶる案外に感じたと記されている(『甲子夜話』)。ウィキペディアより








水口岡山城③

2018-12-04 21:15:27 | 山城ー近畿地方
二の丸から三の丸へ

二の丸虎口から

二の丸、幅50m長さ60m

二の丸を東から見ています。

空堀を間に東隣に三の丸虎口

三の丸も大きく、幅50m長さ70m

三の丸を東から見ています。

三の丸の東下に東下曲輪(仮に)

東下曲輪から三の丸城壁を見上げています。

西の丸に復元された城壁に

説明版があり、水口岡山城は天正13年(1585)中村一氏が築城し、豊臣政権の甲賀支配の拠点であり、東国制覇の重要な拠点でもあった城です。

次回 石田三成の居城 佐和山城

中村一氏について
経歴
出自については諸説ある(後述)。早くから織田氏の家臣であった羽柴秀吉(豊臣秀吉)に仕えた。天正元年(1573年)頃に秀吉より近江長浜のうち200石を拝領する。
秀吉の命を受け、石山合戦や天正10年(1582年)の山崎の戦いでの鉄砲隊指揮などで武功をたてる。天正11年(1583年)、賤ヶ岳の戦いに参戦した。同年、蜂屋頼隆の後任として和泉国岸和田城主となり3万石を拝領し[1]、和泉国衆を傘下に、大坂の防衛および来たるべき紀州攻めに備える役割を与えられた。和泉国はいまだ秀吉政権に服属しておらず、紀州の根来衆や本願寺残党勢力により各地を支配され、緊張状態が続いていた[2][3][4]。
天正12年(1584年)、正月一日早々から紀州勢により岸和田城への襲撃が行われ、その後も大坂を狙った攻撃が相次ぐが、一氏らはそれらを撃退した。3月22日から大坂および岸和田城下に紀州勢の猛攻を受けるも(同月21日に徳川家康を相手とした小牧・長久手の戦いのために秀吉軍主力が尾張へ向けて出陣した間隙をぬったものであり[5]、秀吉は一旦大坂に引き返すなどの苦戦を強いられている)、一氏は劣勢ながら岸和田城を守り切り、翌天正13年(1585年)の反転攻勢においても主導的役割を果たした(秀吉の紀州征伐、千石堀城の項目を参照)。
天正13年(1585年)近江国水口岡山城主になり6万石を拝領、従五位下式部少輔に叙任された。天正18年(1590年)の小田原征伐においては羽柴秀次隊の先鋒を務め、ほぼ単独で松田康長の守る山中城の主要部分を攻略。この功により戦後、関東に移封となった家康の抑えとして駿河府中14万石を拝領する。また、文禄4年(1595年)駿河直領(蔵入地)の代官として駿河一国を任され、慶長3年(1598年)三中老の一人に任命された。しかし三中老は後世に作られた実在しない制度とする指摘もある[6]。
慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いでは東軍に属すが、合戦前の7月17日(8月25日)に病死。戒名は大竜院殿一源心公大禅定門。墓は静岡市の臨済寺にある。ウィキペディアより




水口岡山城②

2018-12-03 21:38:58 | 山城ー近畿地方


お城EXPO1日目、12月22日(土)13:30〜14:30は、今年も春風亭昇太師匠とトークショーをさせていただきます。絶対に楽しいですよ。ぜひお越しください。パシフィコ横浜、厳選プログラム会場にて。有料。(サイト城びと) http://www.shiroexpo.jp/point.html


本丸から二の丸へ


150mもある本丸

本丸半ばから西側へ

秀吉の家臣、中村一氏に治めさせたと伝えられています。

本丸にある縄張り図

神社が祭られています。岡観音

本丸西奥に天守跡

本丸から西へ下ると、二の丸・三の丸への通路、この反対に回ると

本丸南下にある石垣

石垣から東に歩くと食い違い虎口

二の丸への通路を通って

二の丸虎口

水口岡山城について
概要
現在の水口城(近江鉄道水口駅より西に1kmにあります。)東の古城山にあり、古城、岡山城とも呼ばれる。この山は古くは「大岡山」あるいは「岡山」といい、山上には「岡観音」と呼ばれた大岡寺(現在は麓に移転)があったと伝えられている。
羽柴秀吉の命により中村一氏が天正13年(1585年)、甲賀郡の支配の拠点として築き、入城した。その時、平安時代の昔から、都から伊勢国へと通じる街道の要所として栄えていた宿場町水口の原型をつくった。その後、天正18年(1590年)に増田長盛が、文禄4年(1595年)には長束正家と五奉行を務めた2人が相次いで入城している。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは長束正家は西軍に属し、南宮山麓に布陣していたが戦闘には参加できず敗走。水口岡山城に籠城したが追ってきた池田長吉、亀井茲矩らに攻められて降伏、開城し、長束正家、直吉兄弟は切腹させられた。城はその後池田長吉の預かりとなったが、廃城となった。城の石垣は後に水口城の築城にあたり、部材として転用された。城そのものは廃城時もしくは水口城築城時に破却されたが、城跡は御用林とされ、結果的に保全された。
平成25年(2013年)より甲賀市教育委員会によって発掘調査が行われ、石垣跡や枡形跡が発見され、破城の跡が確認された。ウィキペディアより


水口城地図 
水口岡山城は水口城に対し古城と呼ばれています





水口岡山城

2018-12-02 18:20:50 | 山城ー近畿地方
滋賀県甲賀市水口町にあります。

水口岡山城地図

現地では古城山とされていて、南麓に大岡寺があり、県道507号線を寺から西に100mほど歩いて、山に入る林道を進めば案内があります。

西の丸西下曲輪(この先西に大手、曲輪が幾つかありましたが雑木林でした。)

西の丸西虎口

西の丸

西の丸、西側桝方虎口

南に向かって城壁を一部復元しています。

発掘調査

北から見ています。

東に谷を挟んで本丸があります。

本丸にある高田氏の縄張り図

西の丸側を見下ろしています。

本丸西端の天守とする土壇(櫓と見るほうが正しいのでは?)

本丸は東に150mほどの大きさです。

次回 本丸から二の丸へ

佐々木六角氏
鎌倉時代
鎌倉時代、佐々木氏当主・佐々木信綱の死後、所領の多くは三男・泰綱が継承したが、寛元元年(1243年)、信綱の長男・重綱の訴えを幕府が入れ、泰綱が嫡流であることは変わりはなかったが、泰綱は有した近江の所領の一部を失った。近江の所領は兄弟で四分され、重綱と次男・高信、末子・氏信はそれぞれ大原氏・高島氏・京極氏の祖となり、嫡流の泰綱の家系は六角氏と呼ばれる。
またこれらの家は鎌倉幕府に直接仕えたため、総領たる六角氏が他の3家を家臣団化できず、六角氏の近江統一の障害となった[注釈 1]。
鎌倉幕府の滅亡時は、当主・六角時信が六波羅探題に最後まで味方し、敗れ降伏している。
室町幕府の成立と京極氏の台頭[編集]
室町幕府が成立すると、庶流である京極氏の京極高氏(佐々木道誉)が出雲守護、飛騨守護などに加えて近江守護に任じられたが、後に六角氏頼が近江守護に任じられ、以降は幕府と対立した一時期を除いて近江一国の守護の地位を占めた。だが、京極氏は出雲や飛騨の守護に代々任ぜられ、近江国内でも守護使不入(守護である六角氏の支配を受けない特権)を認められ、3代将軍足利義満の頃には四職となり幕府の要職につき六角氏と対立した。また、国内の同族の中には高島氏・朽木氏・大原氏など奉公衆として幕府の直臣化される者もおり、彼らは幕府からの直接の命令を奉じて守護の命令には従わなかった。さらに領内には比叡山もあり室町時代を通じて六角氏の支配は安定せず、六角満綱・六角持綱父子は家臣の反乱により自害に追いやられ、持綱の弟で後を継いだ六角久頼は京極持清との対立の末に心労により康正2年(1456年)に自害して果てている。 ウィキペディアより