車泊で「ご当地マンホール」

北は山形から南は大分まで、10年間の車泊旅はマンホールに名所・旧跡・寺社・狛犬・・思い出の旅、ご一緒しませんか。

旧津田玄蕃邸玄関・金城霊澤 in 石川県金沢市兼六町

2017年08月10日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・石川県

金沢市兼六町、兼六園内にある「旧津田玄蕃邸」。兼六園内と書きましたが実は兼六園の外にあり、外観や庭園に関しては自由に見学ができます。

時間的に余裕がない事もあり今回は兼六園の散策はパス。県指定文化財の「旧津田玄蕃邸玄関」と、金沢の名の由来となった「金城霊澤(きんじょうれいたく)」の見学だけに絞りました。

「もと金沢市内大手町にあった禄高1万石の加賀藩家老津田玄蕃邸の遺構で、宝暦の金沢大火後に建てられたものと伝える。入母屋造、大破風、妻入の母屋正面に突出する玄関は、殿舎車寄形式の唐破風造で、正面に飛貫を用い荒い菱格子欄間を入れ、天井は格天井とする堂々としたもので、現在県内に残る1万石以上の高禄武家邸宅の玄関遺構としては唯一のものである。」公式HPより

「この建物は、明治3年(1870)に加賀藩が津田邸に医学館を創立して以来、石川県金沢病院、金沢医学校、第四高等中学校医学部、金沢医学専門学校附属病院の一部として使用され、明治45年以後は「乃木会堂」として維持された。大正12年3月に現在地に移築された後は「兼六会館」となり県が多目的に使用し、現在は兼六園事務所となっている。」公式HPより

玄関破風から睨みをきかせる龍。龍は水を呼ぶ霊獣とされ、火難除けの守り神として寺社などの拝殿彫刻によく使われています。が、武家屋敷の玄関に置かれているのは珍しい気がします。

旧津田玄蕃邸の庭に保存展示されていた「辰巳用水の石管」「寛永九年(1632)に約11キロメートル上流の犀川から取水し、ここから城内へ本管により通水された。その後天保十五年(1844)にこの石管に取り換えられた。石管の継ぎ手は松脂、桧皮などを用いて漏水を防止していた。」現地案内より

濃い緑に護られるようにひっそりと存在する「金城霊澤」

「その昔、芋掘藤五郎という男がこの湧き水でイモを洗ったところ、沢山の砂金が出てきたという伝説が残っています。そこから「金洗いの沢」と呼ばれるようになり、「金沢」という地名の由来となった場所と伝えられています。」金沢物語より

金城霊澤の横に立つ東屋は、文政5年(1822)に加賀藩12代目藩主が整備したものを、昭和39年に復元。東屋の下からは今も清らかな金城の霊水が湧いているそうです。

東屋の天井には、水を護る霊獣としては最強の「白龍の鏝絵」。

幕末の三筆の一人『市河米庵(べいあん)』の筆による「金城霊澤」の扁額。

「金城霊澤」の畔に鎮座される「金澤神社」。御祭神は『菅原道真・白蛇竜神・琴平大神・白阿紫稲荷大名神・前田斉広公・前田斉泰公』

由緒「寛政6年(1794)十一代藩主前田治脩が、金城霊澤のほとりに菅原道真を祀ったことに始まる。創建当時は、藩校明倫堂の鎮守として、その後は竹沢御殿の鎮守となる。明治7年(1874)兼六園公開とともに竹沢天神から金澤神社に改称。」

こうして誰でも参拝できるようになったのは、兼六園が一般公開された明治七年(1874)からの事。今回は鳥居の前からの参拝だけでしたが、今思えば拝殿前まで行っておけばよかったと・・後悔が残ります。

境内の入口近くに建立されていた加賀金沢藩士「大屋愷(よし)あつ翁之碑」。慶応元年(1965)藩校壮猶館の翻訳方となり、翌年には砲台築造方として活躍。維新後には金沢県の教育係として学校教育の方針を作成するなど、初等教育に力をそそいだ人物です。

二頭の猪が巨大な玉を支える意匠、これらが何を表しているのか不明。

訪問日:2011年10月13日

 


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