焼津市大覚寺に門を構える「大覚寺全珠院(だいかくじぜんじゅいん)・焼津千手((やいづせんじゅ))大観音」。
御朱印の受付場所には、「大切なお帳面に直接お書きできるのは修行を行った住職か副住職のみ」と但し書きがあり、不在の際は「朱印紙」でのお渡しとなる旨の記載がありましたが、有難いことに美しい御朱印を直接頂けました(某有名寺社で、「判子押しときました~。ああ、押しといて」「代わりに書いといたでぇ~。構わん構わん」と、御朱印を待っている本人の前で平気でこんな会話をされた経験がある身には、この但し書きは真摯なお気持ちが感じられて有難さが心に染みました。)
入り口から続く境内はとにかく明るく広い・・・これまでの寺院という観念が覆りそうなくらい広々として、まるで公園のような佇まい。
「開創と歴史」朱色に白文字という由来板も珍しく、何となく場違いだったかと思いつ・・・。
【神話のヤマトタケル東征の舞台ともなった焼津。嘉祥三(850)年、嵯峨天皇御領、入江荘を開き、伝弘法大師作薬師如来を本尊として真言宗大覚寺が開創されました。現在の「焼津市大覚寺」の地名としてこの地に残っています。たび重なる天災地変を受け大覚寺の法灯は永延二(998)年、荘園郷主大覚寺屋敷「本家 槇田家」の菩提寺として天台宗善修庵にひきつがれ、弘治三(1553)年曹洞宗全珠院に改められ、今日までの法灯を伝えています。】
という事で、決して昨今、巷に出没する怪しげな宗教施設でないことは確か。こんなことを思うなんて罰当たりとお叱りを受けそうですが、本当は誰もそんな事思いたくはない。でも・・悔しい事にそんな場所が増えてしまった事は事実なのです。
清潔な石畳の参道を進むと、今時と伝統的が融合したような鮮やかな朱の観音殿が見えてきます。
かっての本尊は「伝弘法大師作・薬師如来」でしたが、2003年に千手観音が本尊となりました。 由来書によれば【それは槇田家三十二代目夫人の未来千年の幸福を祈って千年続く仏像をつくりたいとの発願からはじまりました。 著名な大仏師、渡邊勢山氏が、樹齢三百年~四百年の木曽ヒノキを使って造仏。水中乾燥法などの古来の技法や、漆塗りで材の強度を増し、さらに手打ちの金箔で漆を保護しているため、千年の歳月に十分耐え得るものです。 複雑な構造をもつ千手観音像には大仏造立の例がほとんどなく、従来は、鎌倉時代の仏師・湛慶の作で知られる京都三十三間堂の丈六千手観音が最大のものでした。 したがって、この像高4.2メートル、仏頭1.8メートルの仕上がりは、じつに750年ぶりに出現した大仏様式で日本一大きな千手観音です。】
眩しいばかりのお姿は、見るものを圧倒させる力があり、私のような者でもしばし言葉を失います。見るものの心しだいで、それは慈悲にも励ましにも叱咤にも姿を変えて語りかけてくるような・・・悠久の年月を経てきた御像は人の祈りや願いを一身に受け止めて尊くも美しい。そしてまた、精魂込めて生み出された御像も、何百年と受け継がれるであろう人々の祈りを受けて尊く気高い存在へと昇華していくのです。
絵馬には太平洋の荒波をバックに美しく聳える富士山と、千手観音のお姿が描かれています。
参拝日:2016年12月11日
たくさんの寺社を巡るので、御朱印は生涯の記念になると思いました。
最期の時には半分ずつに分けて、旅立ちのお供にさせて頂くつもり(^^;)
そういうのも悪くないかなと思う今日この頃です。
こちらは、七福神を担当するお寺ではないようですね。
それにしても、立派な千手観音さんですね。
絵馬も収集されているんですか?
これだけ寺社を巡られていると、御朱印帳は何冊も有りそうですね。