うまくは言えないけど

日々思う事をとりとめもなく書いています

サイバラVS武蔵野市

2005年08月31日 | 本のはなし
「毎日かあさん」論争、表現の自由か教育的配慮か

西原理恵子さんと武蔵野市の間で「毎日かあさん」をめぐって対立しているようです。問題となったのは、授業参観の場面で、落ち着きのないわが子を含む児童5人を「クラスの五大バカ」と表現した事だそうです。

これが掲載された直後、担任の先生が西原さんを学校に呼び出して「迷惑している」とか「学校を描かないでほしい」と注文をつけたそうです。普通ならこれもおもしろおかしく描かれて終わりになるはずだったと思います。

ところが、そうはいかず、校長らに抗議すると、今度は校長らは「学校に落ち度はない」と主張してどちらも引かず段々事が大きくなって、ついには市との問題に発展してしまったようです。どちらが悪いとか言えませんが、担任の先生や校長、市の人は「毎日かあさん」をはじめとした西原さんの作品とあまり読んでないような気がします。

父母の一部に「学校とトラブルを起こすならPTA活動に参加しないでほしい」と言うような人もいるということです。問題の内容にかかわらず、学校とトラブルになるような人はPTA活動に参加しないでほしいと言う事でしょうか。それとも西原さんが悪いと思っているのか、どちらにしても周りの無理解にも問題があるように思います。

「毎日かあさん」は、昨年に文化庁メディア芸術祭賞、今年は手塚治虫文化賞を受けています。賞を取っているからいいというわけでありませんが、少なくとも教育現場に悪影響を与えるような内容ではないという証しになるのではないでしょうか。

ボクは「毎日かあさん」は2冊とも読んでいますが、西原さんらしい優しさとユーモアで描かれていて、非常に微笑ましかったです。子供に対する愛情や西原さんの教育論のようなものも共感できるものがありました。

もし、他の児童が深刻に傷ついているのならば考えなくてはいけませんが、その辺のところは西原さんも毎日新聞も十分配慮していると思います。もし傷つくとすれば、西原さんの子供が一番でしょう。つまらない事に目くじらばかり立てないで、「毎日かあさん」のような作品を笑って楽しめるような学校であってほしいと思います。

毎日かあさん2 お入学編

毎日新聞社

このアイテムの詳細を見る


毎日かあさん カニ母編

毎日新聞社

このアイテムの詳細を見る


はれた日は学校をやすんで

双葉社

このアイテムの詳細を見る

妖怪

2005年08月30日 | 日記
今日、朝のNHKで水木しげるさんの特集を見ました。

水木しげるさんの人生と水木しげるさんの考える幸せについてお話をされていました。ご本人を見るのは初めてでしたが、確かに83歳くらいの見た目ではありましたが、非常に元気は話し振りでした。奥さんも出演されていましたが、ほんとに仲が良さそうで微笑ましかったです。

若い頃はとんでもなくマイペースで、学校でもなんと軍隊でも寝坊ばかりしていたそうです。軍隊では当然寝坊などすれば体罰を受けるのですが、上官が叩き疲れてもこたえなかったそうです。ある日、米軍の奇襲にあって自分以外全滅し、無我夢中で逃げて、昼も夜もなくジャングルや川を越えて行ったそうです。

そして夜中に逃げている途中に急に前に進めなくなったそうです。どんなに進もうとしても前に進めないので、仕方なく朝までその場にいるとなんと前は断崖絶壁だったそうです。前に進めば落ちて命がなかったのです。水木さんは見えなかったけどぬりかべが助けてくれたと思ったそうです。ぬりかべかどうかは別として何か不思議な力が働いたのではないかとボクも思います。

その後、マラリアにかかったり、(今日初めてしりましたが)爆撃で左腕を失ったり、現地の住民にご飯を分けてもらったりしながら何とか日本に帰ってこられました。帰国後はしばらく貸本のマンガを書いて生計を立てて、あるときマンガ雑誌の連載を勝ち取り後はトントン拍子だったそうです。

かなり波瀾万丈な人生で聞いているだけでも面白いのですが、それをまたマンガでも書かれていて非常に面白かったです。そして色々な事を経験されただけあって話に深みがあるように感じました。ボクは「ゲゲゲの鬼太郎」のしか知りませんでしたが、実は妖怪マンガ以外にも、伝記マンガや風刺マンガもたくさん描かれているそうです。

紹介されていたのは伝記マンガは近藤勇やヒトラーなどでした。近藤勇のサブタイトルが夢をつかみそこねた男でした。風刺マンガもいくつか紹介されていましたが、面白そうでした。風刺マンガは手塚治虫さんに通じる感じがありました。そういう深みがあるからこそゲゲゲの鬼太郎も面白いのだと思いました。

水木さんはお金があるから幸せとは限らないと言っていました。種類が違うだけで貧乏も金持ちも同じように悩みがあると言い、冗談めかして、自分がそうだったからと話されていました。水木さんの考えるほんとの幸せは、働かなくても食べて行ける事だそうです。働くからどうして争いが起こるという話です。

戦時中に食べ物を分けてくれた現地の人たちがとても幸せそうに見えたそうです。働かなくても食べ物がどんどん実り、それを誰にでも(見知らぬ日本人にも)分けてくれるという人たちが、水木さんの考えに大きな影響を与えたようです。売れっ子漫画家になってとんでもなく忙しい毎日やそれに対する収入も経験した上での考えですから、やはり一理あると思います。

ボクは働く事があまり好きではないですが、働く事の面白さもあると思います。何かを成し遂げるというのは充実感や達成感もあると思います。もちろんそれが仕事でなくてもいいのですが、ほとんどの人は大人になると自分の力で生きて行かなくては行けませんから、働くでしょう。

水木さんの言うようにボクも何でもあるというのが幸せだとは思いません。色々なものが無い方がシンプルで幸せな場合もあるとは思います。紹介されていた水木さんの風刺マンガで小さい頃から勉強して一生懸命働いて貯金して死ぬ間際に自分は幸せになる準備はしたけど幸せにはなれなかったという話がありました。

ボクも生活のために働かなくてはいけませんが、働くための生活にはならないようにしたいと思います。願わくば仕事も生活費を稼ぐだけの仕事にならないようにしたいと思います。幸せは人それぞれだと思いますが、自分で幸せだと思えるように日々を過ごしたいなと思いました。水木しげるさんのマンガを読んでみたいです。

余命

2005年08月29日 | 日記
昨日の夜、「大阪ほんわかテレビ」を見ながらうたた寝をしてしまいました。しばらく寝ていて、テレビから聞こえる淡々としたナレーションが聞こえてきて、寝ぼけながら聞いていました。しばらく聞いていると、ガンで亡くなった作家(フリーライター)の奥山貴宏さんの話のようでした。

奥山貴宏さんははっきりとは知りませんでしたが、本屋さんで「31歳ガン漂流」などの本が平積みで並んでいるのを見た事があり、あの本の人の事なんだろうなとほんやり聞いていました。ある日突如ガンを宣告された若者の闘病日記とブログをまとめた本のようです。その中で「自分が死ぬ時期が分かるのが幸か不幸かわからないが」というような話をされていました。

そういえば、以前糸井重里さんのほぼ日でガンジーさんというガンの宣告を受け余命2ヶ月と診断されたおじいさんの日記を思い出しました。奥山さんのブログもそうだったのかもしれませんが、時々ガンの宣告を受けている人だと言う事を忘れさせられる感じで、面白い日記でした。

そして楽しみながらとびとびではありますが、ずっと読んでいたのですが、ある日終わりはやってきました。もちろん文章でしか知らない人ではありましたが、何とも言えないさみしい気持ちになりました。奥山さんのブログの読者の方もそんな気持ちだったのかもしれません。

番組では松浦亜弥さんがコメントのナレーションを感情を入れて上手にされていました。それもいいのかもしれませんが、もっと普通に淡々と読み上げてほしかったように思います。文章というのは読んだ人が自分で抑揚や感情を考えながら読めるのがいいところで、それを人に決められるのはボクは少し抵抗があります。たけしさんが映画で役者さんになるべく演技させないのがいいのと同じ感じでしょうか。

奥山さんとボクとは年齢が近い事もあり、人ごとではないようにも思いました。子供の頃や20歳くらいまでは自分が死ぬなんて事を考えた事がありませんでした。多分30歳や40歳になってもあまり考えた事が無い人もいるかもしれません。ボクも阪神大震災がなければ考えなかったかもしれません。

それも地震の時ではなく、それからしばらくして時々思い起こしたように考えるようになりました。それでも今日突然死ぬかもしれないとは考えないですが、昔よりは現実的に考えるようになりました。奥山さんが特別でもなんでもなく誰の身にも起こりえる話です。そして死に対してはとてつもない恐怖心があります。

死んだ後どうなるのかは誰にも分かりません。「七瀬ふたたび」のように全くの無になるのか、丹波さんのいうような死後の世界があるのか、全く違う何かがあるのか、結局は分かりません。そして分からないものは不安です。でも誰も死後は分からないけど、すべての人が死ぬのです。

それを分かって心に刻んだ上で、その時にまでに、奥山さんや将棋の村山聖さんのように何かに打ち込めるようになりたいと思います。名を残したいとは思いませんが、自分でツマラナイ人生だったとは思わないようにしたいです。そして自分がもし、死を宣告されてもカッコ良くできるようになりたいなと思いました。

無知

2005年08月27日 | 日記
この間、朝のNHKに明石徹之さんという、知的障害のある自閉症の人としては初めて公務員試験に合格した人が出演されていました。

残念ながら時間の都合で全部は見る事ができなかったのですが、明石さんが職場でいきいきと働いている姿が印象的でした。そしてそれを支える母親の明石洋子さんの芯の通った強さのある優しさのようなものを感じました。知的障害のある自閉症の子供を持つのは大変だろうなあと初めは漠然と見ていました。

母親の洋子さんが、自分で手作りの新聞を作り、自閉症の息子のことを地域の人たちに理解してもらおうと、配りつづけるなどの努力をされています。そして徹之さんも自分で働いて稼ぎ、そのお金で親の隣の部屋ですが一人で暮らしをして自立をされています。

しかし、よく考えてみるとボクは自閉症についてあまりにも何も知らない事に気づきました。正直なところ自閉症と引きこもりも混同してしまう程度でした。それで、この番組を見た事をきっかけにほんの少しではありますが、自閉症について調べてみました。

まず、先天性の脳機能障害で、完全に治ることがないこと。知的障害を伴う事が多く単に自閉症というと低機能自閉症をさす事が多い。日本では1000人に1?2人の割合で生じること。5人のうち4人の割合で男性であること。日本自閉症協会によると現在全国に推定36万人。知的障害を伴わない高機能自閉症など含めると120万人といわれていることなど。

そして、特徴として自閉症の人は、見たり聞いたりすることや感じることを普通の人と同じように理解することができないこと。自分の気持ちを伝えたり相手の気持ちをくみとることがとても苦手で、行動も自分勝手に見えることがあること。大多数の自閉症の人たちは、様々なレベルで精神遅滞を伴っていて、平均かそれ以上の知的能力を持つ人はわずかに2割にすぎないが、描画・音楽・計算・記憶力などで全体の能力と比べると不均衡に突出した能力を持っていることがあること。

また、自閉症の人との接し方で、注意を与えるときは紙などに書いて見せると効果があること。症状の表れ方に人によって大きな差があること。自閉症がもたらす行動上の問題も,とても重いものから軽いものまで様々あること。特別な訓練を受けた教師が教育すれば、自閉症の人は家庭や地域社会で暮らすためのスキルを習得することができ、普通の生活ができるようになることもあるなど。

今まで知らなかったから、もしかしたら偏見などあったかもしれません。でも、自閉症の人がどういう症状があるかが分かれば、対応もできることもあるかもしれません。そういう意味ではこの番組がきっかけで自閉症について考える事ができて良かったと思います。こういう事は学校などでも教えて、手作り新聞を作らなくても地域の人に理解してもらえて、地域社会に普通にとけ込んでいけるようにしていった方がいいように思います。

業界用語

2005年08月26日 | 日記
NHKで若者の言葉について話をしていました。

若者が最近業界用語を使うという話なんですが、例として「見切れる」や「ドンビキ」などを日常会話で使うという事でした。それに対してキャスターの人は複雑な気持ちだと言っていました。若い人の表現の幅が広がるのはいいのかもしれないし、でも業界用語を業界に関係ない若者が使う事への抵抗もあるという事でした。

テレビなのでどちらの意見も言ったのでしょうが、多分抵抗感の方が強いのではないでしょうか。番組内では理由について、テレビの出演者がわざとか偶然か分からないが番組内で言ったり、最近は裏方の人が出る事も多いので会話の中でつい使ってしまったりして、それを見た若者が真似るのではないかと言っていました。

それを聞いて、ダウンタウンの事だろうなと思いました。大阪時代から芸人さんが使う言葉をよくテレビでも使っていましたし、ボクもダウンタウンの真似をして使っていました。見ているテレビが偏っているので違うかもしれませんが、テレビでの大阪弁はさんまさんが、業界用語はダウンタウンが広めたのではないかと思っています(大阪弁もコテコテの大阪弁はダウンタウンだと思いますが)。

テンションが上がるとか引くなどは、ダウンタウンが広めた言葉だと思いますが、もう多分普通に使われているように思います。言葉というのはその時代で変わっていくものだと思いますので、若い人がテレビの言葉に影響されるのも当然だと思います。ボクも高校生くらいの時は使っていました。

ただ、みんなが業界用語やタレントさんが使う言葉を使っているのって何となく引っかかりを感じてしまいます。自分でもたまに言うつもりがないのに、流行語を言ってしまってから一人で恥ずかしくなったりもします。業界用語や流行語も時間が経ってほんとに根付けば慣れるのでしょうから、それまでの辛抱なんだとは思います。でも、やっぱり人が使っているのや、自分が使ってしまうのはなんだか恥ずかしいです。