内外政策評論 TheOpinion on Global & Domestic Issues

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Policy Essayist

シリーズ ブッダ誕生の聖地を読む (その1)  

2012-11-27 | Weblog

シリーズ ブッダ誕生の聖地を読む (その1)  
 大晦日の零時に近づくと日本各地のお寺で除夜の鐘が鳴り、それぞれに煩悩を払って新年を迎える。日本には奈良や京都はもとより、2011年6月にUNESCOの世界文化遺産として登録された岩手県平泉町の中尊寺など、多くの仏教建築、文化財が世界遺産となっており、神社などと並んで日本文化の一部となっており、日常生活にも浸透している。国勢調査においても、信仰の程度は別として仏教の系統が9,600万人、総人口の約74%にものぼる。
 ところが仏教の基礎を築いたブッダ(通称お釈迦様)の誕生地やシャキア王国の王子として育った城都カピラバスツなど、その歴史的、社会的な背景については一般には余り知られていない。確かにこれまでブッダの誕生地は「北インド」と習った人が多く、未だに多くの教科書にはそのように記載されている。更に城都カピラバスツ(通称カピラ城)については、今日でもネパール説とインド説があり、国際的にも決着していない。2,500年以上前の伝承上、宗教上の人物であるので、今更どちらでもよいような話ではあるが、日本文化や慣習、思想に関係が深いので、宗教、信仰とは別に、知識としてブッダ誕生の歴史的、社会的な背景やルーツを知ることは日本の文化や思想をよりよく知る上で必要なのであろう。
 それ以上に、日本が国際社会に主体的に発信して行くためには、文化的、思想的な芯や基本的な価値観を明らかにしなくては国際社会の信頼を得られないどころか、耳を傾けてむらえない。
 1、飛鳥時代の朝廷に受け入れられた仏教
 ブッダ教が日本に伝来した由来については、「日本書紀」に飛鳥時代の西暦552年、百済の聖明王よりブッダの金銅像と経論他が欽明天皇に献上されたことが記されており、これが仏教公伝とされている。しかし元興寺建立の経緯などが記されている「元興寺伽藍縁起」の記述から西暦538年には既に仏教が伝えられたと見ることが出来る。経論などは中国で漢語訳された経典などがもたらされたことから、仏教、仏陀など漢字表記となっており、中国との関係が色濃く出る結果となっている。
 百済王の使節が倭の国(日本)の天皇への献上品としてブッダ像や経典などを持参したとすれば、日本に珍重される物と判断してのことであろうから、ブッダ教が日本に、少なくても朝廷周辺においてある程度知られていたと見るべきであろう。上記の歴史書には、日本最古の本格的な寺院とされている元興寺の前身である法興寺が蘇我馬子により飛鳥に建立されたとされている。当時朝廷は、蘇我氏を中心とする西部グループと物部氏を中心とする伝統派グループが血を血で洗う勢力争いをしていたと言われているが、蘇我馬子が平安を祈り百済から伝えられたブッダ教を敬ったと伝えられている。
 その後蘇我氏グループが物部氏グループを倒し、朝廷に平穏が戻ったが、推古天皇が仏教を普及するようにとの勅令を出し、聖徳太も17条憲法(西暦604年)で僧侶を敬うようにとの趣旨を明らかにして以来、仏教は朝廷に受け入れられることになった。
それは、アショカ王が紀元前2世紀半ばにインドのほぼ全域を統一しマウリア王朝の全盛期を築いたが、カリンガの戦いで大量の殺戮を行ったことへの償いか、死後地獄に送られあらゆる苦しみを課されることを恐れたのか、深くブッダ教に帰依した姿に重なるところがある。紀元前5世紀にインドの16大国の一つであるコーサラ国のビルダカ王がシャキア王国を殲滅したが、ビルダカ王は凱旋後、火事に遭い、苦しみの中で地獄に落ち、その地獄であらゆる苦しみを課されたと伝承されており、これがブッダ教の不殺生、非暴力の教え、戒めの背景の一つとなっている。統治の上では、国家の平安、安定への朝廷の願いが込められていたと言えようが、抗争を集結させ、統治を永続させるため仏教を精神的な拠り所にする狙いがあったと見られる。
 そして武家勢力の伸張に伴い、仏教は武家、庶民へと普及し、江戸時代には檀家制度や寺子屋などを通じ統治機構の末端の役割を果たす仏教制度として定着して行くと共に、日本の思想、文化へ幅広い影響を与えて行った。その後明治政府となり、天皇制が復活し神道が重視されることとなり、全国で廃仏毀釈が行われ寺院数は減少した。しかしもともと仏教は朝廷により受け入れられ、日本仏教として各層に広く普及、発展して来たものであるので、日本の思想、文化の中に浸透し今に伝えられているている。
 ところが仏教の創始者であるブッダ誕生の歴史的、社会的背景などについては、学校教育などにおいても、仏教系の学校は別として、ほとんど教えられていない。
 生誕地のルンビニについては1997年にUNESCOの世界遺産として認定され国際的に確立しているが、城都カピラバスツ、通称カピラ城の位置については確立していない。それ自体は2,500余年前の場所でしかないが、その謎を解いて行くと(詳細は筆者著書「お釈迦様のルーツの謎」参照)、ブッダ誕生の歴史的、社会的な背景が浮かび上がって来ると共に、ブッダ思想や文化に関心のある方々にとっては、カピラ城周辺はブッダのルーツを巡る聖地ともなる。

 2、ブッダの生誕地ルンビニ  (その2で掲載)
 3、2つのカピラバスツ城の謎 (その3で掲載)
 (1)ネパールのテイラウラコット村にあるカピラバスツ城址
 (2)インドのピプラワとガンワリアのカピラバスツ
 4、ブッダ誕生の聖地から読めること(その4で掲載)
 (1)根底にバラモンの思想と先代ブッダの存在―浮かび上がる古代ブッダ文化の存在
 (2)王子の地位を捨て悟りの道を決断した基本思想
 (3)ボードガヤで悟りを開き、「ブッダ」として80歳まで教えを説く
 (4)不殺生、非暴力の思想
 (5)ヨーロッパ、アジアを大陸横断的に見た思想の流れ
                                        (2012.11.08)(Copy Rights Reserved


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