内外政策評論 TheOpinion on Global & Domestic Issues

このブログは、広い視野から内外諸問題を分析し、提言を試みます。
Policy Essayist

シリーズ ブッダ誕生の聖地を読む (その3ー1 )  

2012-11-30 | Weblog

シリーズ ブッダ誕生の聖地を読む (その3ー1 )  
 大晦日の零時に近づくと日本各地のお寺で除夜の鐘が鳴り、それぞれに煩悩を払って新年を迎える。日本には奈良や京都はもとより、2011年6月にUNESCOの世界文化遺産として登録された岩手県平泉町の中尊寺など、多くの仏教建築、文化財が世界遺産となっており、神社などと並んで日本文化の一部となっており、日常生活にも浸透している。国勢調査においても、信仰の程度は別として仏教の系統が9,600万人、総人口の約74%にものぼる。
 ところが仏教の基礎を築いたブッダ(通称お釈迦様)の誕生地やシャキア王国の王子として育った城都カピラバスツなど、その歴史的、社会的な背景については一般には余り知られていない。確かにこれまでブッダの誕生地は「北インド」と習った人が多く、未だに多くの教科書にはそのように記載されている。更に城都カピラバスツ(通称カピラ城)については、今日でもネパール説とインド説があり、国際的にも決着していない。2,500年以上前の伝承上、宗教上の人物であるので、今更どちらでもよいような話ではあるが、日本文化や慣習、思想に関係が深いので、宗教、信仰とは別に、知識としてブッダ誕生の歴史的、社会的な背景やルーツを知ることは日本の文化や思想をよりよく知る上で必要なのであろう。
 それ以上に、日本が国際社会に主体的に発信して行くためには、文化的、思想的な芯や基本的な価値観を明らかにしなくては国際社会の信頼を得られないどころか、耳を傾けてむらえない。
 1、飛鳥時代の朝廷に受け入れられた仏教 (その1に掲載)
 2、ブッダの生誕地ルンビニ           (その2に掲載)

 3、2つのカピラバスツ城の謎

 ところが城都カピラバスツの所在地については、ネパール説とインド説があり、いまだに未決着であり、またシャキア王国が何故滅亡したのかなどを含め謎が多い。経典など仏教研究は進んでいるが、日本はもとより世界でも、ブッダが青年期まで過ごした王宮の所在地など、そのルーツや歴史的な背景については正しく理解されていないことが多い。ブッダ教徒が多数を占めるスリランカのある僧侶が、城都カピラバスツの所在地については、2つの仏典にそれぞれ別の場所が記されているので、カピラバスツは2箇所にあったのではないかと話している。仏典は宗教、信仰の基礎であるので、信者にとってはそういうことなのであろう。しかし2つの仏典は、同時に非常に重要なことを伝えている。仏典にはそれぞれ異なる場所が記されているが、それぞれ一つの場所が記されているということであり、カピラバスツは2箇所にあったとは記されてはいないことだ。また西暦5世紀及び7世紀に中国僧の法顕と玄奘がこれらの地を訪問し、それぞれ仏国記(通称法顕伝)及び大唐西域記を残しているが、それぞれ1箇所のカピラバスツを訪問しており、カピラバスツは2箇所にあったとは一切記されていない。それでは城都カピラバスツは何処にあったのか。それを明らかにするのが、歴史や科学の役割なのであろう。

(1)ネパールのテイラウラコット村にあるカピラバスツ城址

 ブッダの生誕地ルンビニから西に25キロほどのところにテイラウラコット村があり、そこにカピラバスツ城址とされる遺跡がある。煉瓦造りの西門やそこから南北に伸びる城壁や内部の土台などが見られ、また場外にある質素な博物館には出土品の陶器や貨幣と見られるト-クンなどが展示されている。

19世紀末から20世紀初頭に掛けて欧州の考古学者等が発掘をしたことが記録に残っているが、強い日差しや風雨などによる損傷や持ち去られることを恐れ、ほとんどが埋め戻されている。

 法顕は仏国記の「カピラバスツ城」の項で、「城の東50里に王園がある。王園の名は論民(ルンビニのこと)と言う。」と記述している。中国の里を換算すると、「城の東25キロのところに王園がある」ことになるので、ルンビニを基点とすると25キロ西にカピラバスツ城があることになり、位置関係が合致する。

 ところが厄介なことに、それから200年ほど後に同じような道程を辿りこの地域を訪れた玄奘は、大唐西域記の「カピラバスツ国」の項で異なる記述をしている。そもそも玄奘は、カピラバスツを「城」はなく、「国」として捉えており、境界さえ分らないと記しているので、どうも別の場所のようだ。玄奘の足跡を詳細に分析した西欧の学者がいるが、ルンビニではなく別の処に辿り着く結果となっている。しかし法顕、玄奘ともブッダが青年期まで過ごしたカピラバスツは複数あったとの記載は一切無く、1つなのである。

 カピラバスツ城址のあるテイラウラコット村の半径7キロの周辺には、城壁の外に父王スッドウダナの墳墓と言われている大小2つの仏塔(ツイン・ストウーパ)やブッダが悟りを開いた後帰郷し父王スッドウダナと再会した場所(クダン)、そしてシャキヤ族がコーサラ国のヴィルダカ王に殲滅されたサガルハワなど、素朴ではあるが歴史的には興味ある遺跡がある。更に、アショカ王はルンビニの他、現在のゴータマ・ブッダ以前に存在した先代ブッダの生誕地やゆかりの地を訪問し、ルンビニと同様の砂岩の石柱をこの地に建立している。その石柱の一つに、パーリ語で「即位14年に際しコナカマナ・ブッダ(先代)のストウーパを拡大したが、即位20年に際しこの石柱を建立させた」旨記されている。アショカ王は、先代ブッダ(過去仏)の存在を知っていたとみられるが、このような遺跡が残っているということは、先代ブッダは伝承上の存在ではなく、実在した人物(賢者・聖者)であり、現在のブッダが誕生した以前に一定の文化水準の社会がこの地域に存在したことになる。この古代ブッダ文化地帯とも言えるこの地域の更なる発掘と遺跡の保存が課題と言えよう。 

 この地域を歩かれた方もおられようが、遺跡の名称は分るものの、それぞれの遺跡がどのような意味合いを持っているかなどはなかなか分らない。しかし各遺跡の意味合いを知った上で回ると感慨も深くなると共に、城都カピラバスツの場所と繋がって行く。
 (2)インドのピプラワとガンワリアのカピラバスツ
 4、ブッダ誕生の聖地から読めること(その4で掲載)
 (1)根底にバラモンの思想と先代ブッダの存在―浮かび上がる古代ブッダ文化の存在
 (2)王子の地位を捨て悟りの道を決断した基本思想
 (3)ボードガヤで悟りを開き、「ブッダ」として80歳まで教えを説く
 (4)不殺生、非暴力の思想
 (5)ヨーロッパ、アジアを大陸横断的に見た思想の流れ
                                        (2012.11.08)(Copy Rights Reserved.)

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シリーズ ブッダ誕生の聖地を読む (その3ー1 )  

2012-11-30 | Weblog

シリーズ ブッダ誕生の聖地を読む (その3ー1 )  
 大晦日の零時に近づくと日本各地のお寺で除夜の鐘が鳴り、それぞれに煩悩を払って新年を迎える。日本には奈良や京都はもとより、2011年6月にUNESCOの世界文化遺産として登録された岩手県平泉町の中尊寺など、多くの仏教建築、文化財が世界遺産となっており、神社などと並んで日本文化の一部となっており、日常生活にも浸透している。国勢調査においても、信仰の程度は別として仏教の系統が9,600万人、総人口の約74%にものぼる。
 ところが仏教の基礎を築いたブッダ(通称お釈迦様)の誕生地やシャキア王国の王子として育った城都カピラバスツなど、その歴史的、社会的な背景については一般には余り知られていない。確かにこれまでブッダの誕生地は「北インド」と習った人が多く、未だに多くの教科書にはそのように記載されている。更に城都カピラバスツ(通称カピラ城)については、今日でもネパール説とインド説があり、国際的にも決着していない。2,500年以上前の伝承上、宗教上の人物であるので、今更どちらでもよいような話ではあるが、日本文化や慣習、思想に関係が深いので、宗教、信仰とは別に、知識としてブッダ誕生の歴史的、社会的な背景やルーツを知ることは日本の文化や思想をよりよく知る上で必要なのであろう。
 それ以上に、日本が国際社会に主体的に発信して行くためには、文化的、思想的な芯や基本的な価値観を明らかにしなくては国際社会の信頼を得られないどころか、耳を傾けてむらえない。
 1、飛鳥時代の朝廷に受け入れられた仏教 (その1に掲載)
 2、ブッダの生誕地ルンビニ           (その2に掲載)

 3、2つのカピラバスツ城の謎

 ところが城都カピラバスツの所在地については、ネパール説とインド説があり、いまだに未決着であり、またシャキア王国が何故滅亡したのかなどを含め謎が多い。経典など仏教研究は進んでいるが、日本はもとより世界でも、ブッダが青年期まで過ごした王宮の所在地など、そのルーツや歴史的な背景については正しく理解されていないことが多い。ブッダ教徒が多数を占めるスリランカのある僧侶が、城都カピラバスツの所在地については、2つの仏典にそれぞれ別の場所が記されているので、カピラバスツは2箇所にあったのではないかと話している。仏典は宗教、信仰の基礎であるので、信者にとってはそういうことなのであろう。しかし2つの仏典は、同時に非常に重要なことを伝えている。仏典にはそれぞれ異なる場所が記されているが、それぞれ一つの場所が記されているということであり、カピラバスツは2箇所にあったとは記されてはいないことだ。また西暦5世紀及び7世紀に中国僧の法顕と玄奘がこれらの地を訪問し、それぞれ仏国記(通称法顕伝)及び大唐西域記を残しているが、それぞれ1箇所のカピラバスツを訪問しており、カピラバスツは2箇所にあったとは一切記されていない。それでは城都カピラバスツは何処にあったのか。それを明らかにするのが、歴史や科学の役割なのであろう。

(1)ネパールのテイラウラコット村にあるカピラバスツ城址

 ブッダの生誕地ルンビニから西に25キロほどのところにテイラウラコット村があり、そこにカピラバスツ城址とされる遺跡がある。煉瓦造りの西門やそこから南北に伸びる城壁や内部の土台などが見られ、また場外にある質素な博物館には出土品の陶器や貨幣と見られるト-クンなどが展示されている。

19世紀末から20世紀初頭に掛けて欧州の考古学者等が発掘をしたことが記録に残っているが、強い日差しや風雨などによる損傷や持ち去られることを恐れ、ほとんどが埋め戻されている。

 法顕は仏国記の「カピラバスツ城」の項で、「城の東50里に王園がある。王園の名は論民(ルンビニのこと)と言う。」と記述している。中国の里を換算すると、「城の東25キロのところに王園がある」ことになるので、ルンビニを基点とすると25キロ西にカピラバスツ城があることになり、位置関係が合致する。

 ところが厄介なことに、それから200年ほど後に同じような道程を辿りこの地域を訪れた玄奘は、大唐西域記の「カピラバスツ国」の項で異なる記述をしている。そもそも玄奘は、カピラバスツを「城」はなく、「国」として捉えており、境界さえ分らないと記しているので、どうも別の場所のようだ。玄奘の足跡を詳細に分析した西欧の学者がいるが、ルンビニではなく別の処に辿り着く結果となっている。しかし法顕、玄奘ともブッダが青年期まで過ごしたカピラバスツは複数あったとの記載は一切無く、1つなのである。

 カピラバスツ城址のあるテイラウラコット村の半径7キロの周辺には、城壁の外に父王スッドウダナの墳墓と言われている大小2つの仏塔(ツイン・ストウーパ)やブッダが悟りを開いた後帰郷し父王スッドウダナと再会した場所(クダン)、そしてシャキヤ族がコーサラ国のヴィルダカ王に殲滅されたサガルハワなど、素朴ではあるが歴史的には興味ある遺跡がある。更に、アショカ王はルンビニの他、現在のゴータマ・ブッダ以前に存在した先代ブッダの生誕地やゆかりの地を訪問し、ルンビニと同様の砂岩の石柱をこの地に建立している。その石柱の一つに、パーリ語で「即位14年に際しコナカマナ・ブッダ(先代)のストウーパを拡大したが、即位20年に際しこの石柱を建立させた」旨記されている。アショカ王は、先代ブッダ(過去仏)の存在を知っていたとみられるが、このような遺跡が残っているということは、先代ブッダは伝承上の存在ではなく、実在した人物(賢者・聖者)であり、現在のブッダが誕生した以前に一定の文化水準の社会がこの地域に存在したことになる。この古代ブッダ文化地帯とも言えるこの地域の更なる発掘と遺跡の保存が課題と言えよう。 

 この地域を歩かれた方もおられようが、遺跡の名称は分るものの、それぞれの遺跡がどのような意味合いを持っているかなどはなかなか分らない。しかし各遺跡の意味合いを知った上で回ると感慨も深くなると共に、城都カピラバスツの場所と繋がって行く。
 (2)インドのピプラワとガンワリアのカピラバスツ
 4、ブッダ誕生の聖地から読めること(その4で掲載)
 (1)根底にバラモンの思想と先代ブッダの存在―浮かび上がる古代ブッダ文化の存在
 (2)王子の地位を捨て悟りの道を決断した基本思想
 (3)ボードガヤで悟りを開き、「ブッダ」として80歳まで教えを説く
 (4)不殺生、非暴力の思想
 (5)ヨーロッパ、アジアを大陸横断的に見た思想の流れ
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 大晦日の零時に近づくと日本各地のお寺で除夜の鐘が鳴り、それぞれに煩悩を払って新年を迎える。日本には奈良や京都はもとより、2011年6月にUNESCOの世界文化遺産として登録された岩手県平泉町の中尊寺など、多くの仏教建築、文化財が世界遺産となっており、神社などと並んで日本文化の一部となっており、日常生活にも浸透している。国勢調査においても、信仰の程度は別として仏教の系統が9,600万人、総人口の約74%にものぼる。
 ところが仏教の基礎を築いたブッダ(通称お釈迦様)の誕生地やシャキア王国の王子として育った城都カピラバスツなど、その歴史的、社会的な背景については一般には余り知られていない。確かにこれまでブッダの誕生地は「北インド」と習った人が多く、未だに多くの教科書にはそのように記載されている。更に城都カピラバスツ(通称カピラ城)については、今日でもネパール説とインド説があり、国際的にも決着していない。2,500年以上前の伝承上、宗教上の人物であるので、今更どちらでもよいような話ではあるが、日本文化や慣習、思想に関係が深いので、宗教、信仰とは別に、知識としてブッダ誕生の歴史的、社会的な背景やルーツを知ることは日本の文化や思想をよりよく知る上で必要なのであろう。
 それ以上に、日本が国際社会に主体的に発信して行くためには、文化的、思想的な芯や基本的な価値観を明らかにしなくては国際社会の信頼を得られないどころか、耳を傾けてむらえない。
 1、飛鳥時代の朝廷に受け入れられた仏教 (その1に掲載)
 2、ブッダの生誕地ルンビニ           (その2に掲載)

 3、2つのカピラバスツ城の謎

 ところが城都カピラバスツの所在地については、ネパール説とインド説があり、いまだに未決着であり、またシャキア王国が何故滅亡したのかなどを含め謎が多い。経典など仏教研究は進んでいるが、日本はもとより世界でも、ブッダが青年期まで過ごした王宮の所在地など、そのルーツや歴史的な背景については正しく理解されていないことが多い。ブッダ教徒が多数を占めるスリランカのある僧侶が、城都カピラバスツの所在地については、2つの仏典にそれぞれ別の場所が記されているので、カピラバスツは2箇所にあったのではないかと話している。仏典は宗教、信仰の基礎であるので、信者にとってはそういうことなのであろう。しかし2つの仏典は、同時に非常に重要なことを伝えている。仏典にはそれぞれ異なる場所が記されているが、それぞれ一つの場所が記されているということであり、カピラバスツは2箇所にあったとは記されてはいないことだ。また西暦5世紀及び7世紀に中国僧の法顕と玄奘がこれらの地を訪問し、それぞれ仏国記(通称法顕伝)及び大唐西域記を残しているが、それぞれ1箇所のカピラバスツを訪問しており、カピラバスツは2箇所にあったとは一切記されていない。それでは城都カピラバスツは何処にあったのか。それを明らかにするのが、歴史や科学の役割なのであろう。

(1)ネパールのテイラウラコット村にあるカピラバスツ城址

 ブッダの生誕地ルンビニから西に25キロほどのところにテイラウラコット村があり、そこにカピラバスツ城址とされる遺跡がある。煉瓦造りの西門やそこから南北に伸びる城壁や内部の土台などが見られ、また場外にある質素な博物館には出土品の陶器や貨幣と見られるト-クンなどが展示されている。

19世紀末から20世紀初頭に掛けて欧州の考古学者等が発掘をしたことが記録に残っているが、強い日差しや風雨などによる損傷や持ち去られることを恐れ、ほとんどが埋め戻されている。

 法顕は仏国記の「カピラバスツ城」の項で、「城の東50里に王園がある。王園の名は論民(ルンビニのこと)と言う。」と記述している。中国の里を換算すると、「城の東25キロのところに王園がある」ことになるので、ルンビニを基点とすると25キロ西にカピラバスツ城があることになり、位置関係が合致する。

 ところが厄介なことに、それから200年ほど後に同じような道程を辿りこの地域を訪れた玄奘は、大唐西域記の「カピラバスツ国」の項で異なる記述をしている。そもそも玄奘は、カピラバスツを「城」はなく、「国」として捉えており、境界さえ分らないと記しているので、どうも別の場所のようだ。玄奘の足跡を詳細に分析した西欧の学者がいるが、ルンビニではなく別の処に辿り着く結果となっている。しかし法顕、玄奘ともブッダが青年期まで過ごしたカピラバスツは複数あったとの記載は一切無く、1つなのである。

 カピラバスツ城址のあるテイラウラコット村の半径7キロの周辺には、城壁の外に父王スッドウダナの墳墓と言われている大小2つの仏塔(ツイン・ストウーパ)やブッダが悟りを開いた後帰郷し父王スッドウダナと再会した場所(クダン)、そしてシャキヤ族がコーサラ国のヴィルダカ王に殲滅されたサガルハワなど、素朴ではあるが歴史的には興味ある遺跡がある。更に、アショカ王はルンビニの他、現在のゴータマ・ブッダ以前に存在した先代ブッダの生誕地やゆかりの地を訪問し、ルンビニと同様の砂岩の石柱をこの地に建立している。その石柱の一つに、パーリ語で「即位14年に際しコナカマナ・ブッダ(先代)のストウーパを拡大したが、即位20年に際しこの石柱を建立させた」旨記されている。アショカ王は、先代ブッダ(過去仏)の存在を知っていたとみられるが、このような遺跡が残っているということは、先代ブッダは伝承上の存在ではなく、実在した人物(賢者・聖者)であり、現在のブッダが誕生した以前に一定の文化水準の社会がこの地域に存在したことになる。この古代ブッダ文化地帯とも言えるこの地域の更なる発掘と遺跡の保存が課題と言えよう。 

 この地域を歩かれた方もおられようが、遺跡の名称は分るものの、それぞれの遺跡がどのような意味合いを持っているかなどはなかなか分らない。しかし各遺跡の意味合いを知った上で回ると感慨も深くなると共に、城都カピラバスツの場所と繋がって行く。
 (2)インドのピプラワとガンワリアのカピラバスツ
 4、ブッダ誕生の聖地から読めること(その4で掲載)
 (1)根底にバラモンの思想と先代ブッダの存在―浮かび上がる古代ブッダ文化の存在
 (2)王子の地位を捨て悟りの道を決断した基本思想
 (3)ボードガヤで悟りを開き、「ブッダ」として80歳まで教えを説く
 (4)不殺生、非暴力の思想
 (5)ヨーロッパ、アジアを大陸横断的に見た思想の流れ
                                        (2012.11.08)(Copy Rights Reserved.)

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 大晦日の零時に近づくと日本各地のお寺で除夜の鐘が鳴り、それぞれに煩悩を払って新年を迎える。日本には奈良や京都はもとより、2011年6月にUNESCOの世界文化遺産として登録された岩手県平泉町の中尊寺など、多くの仏教建築、文化財が世界遺産となっており、神社などと並んで日本文化の一部となっており、日常生活にも浸透している。国勢調査においても、信仰の程度は別として仏教の系統が9,600万人、総人口の約74%にものぼる。
 ところが仏教の基礎を築いたブッダ(通称お釈迦様)の誕生地やシャキア王国の王子として育った城都カピラバスツなど、その歴史的、社会的な背景については一般には余り知られていない。確かにこれまでブッダの誕生地は「北インド」と習った人が多く、未だに多くの教科書にはそのように記載されている。更に城都カピラバスツ(通称カピラ城)については、今日でもネパール説とインド説があり、国際的にも決着していない。2,500年以上前の伝承上、宗教上の人物であるので、今更どちらでもよいような話ではあるが、日本文化や慣習、思想に関係が深いので、宗教、信仰とは別に、知識としてブッダ誕生の歴史的、社会的な背景やルーツを知ることは日本の文化や思想をよりよく知る上で必要なのであろう。
 それ以上に、日本が国際社会に主体的に発信して行くためには、文化的、思想的な芯や基本的な価値観を明らかにしなくては国際社会の信頼を得られないどころか、耳を傾けてむらえない。
 1、飛鳥時代の朝廷に受け入れられた仏教 (その1に掲載)
 2、ブッダの生誕地ルンビニ           (その2に掲載)

 3、2つのカピラバスツ城の謎

 ところが城都カピラバスツの所在地については、ネパール説とインド説があり、いまだに未決着であり、またシャキア王国が何故滅亡したのかなどを含め謎が多い。経典など仏教研究は進んでいるが、日本はもとより世界でも、ブッダが青年期まで過ごした王宮の所在地など、そのルーツや歴史的な背景については正しく理解されていないことが多い。ブッダ教徒が多数を占めるスリランカのある僧侶が、城都カピラバスツの所在地については、2つの仏典にそれぞれ別の場所が記されているので、カピラバスツは2箇所にあったのではないかと話している。仏典は宗教、信仰の基礎であるので、信者にとってはそういうことなのであろう。しかし2つの仏典は、同時に非常に重要なことを伝えている。仏典にはそれぞれ異なる場所が記されているが、それぞれ一つの場所が記されているということであり、カピラバスツは2箇所にあったとは記されてはいないことだ。また西暦5世紀及び7世紀に中国僧の法顕と玄奘がこれらの地を訪問し、それぞれ仏国記(通称法顕伝)及び大唐西域記を残しているが、それぞれ1箇所のカピラバスツを訪問しており、カピラバスツは2箇所にあったとは一切記されていない。それでは城都カピラバスツは何処にあったのか。それを明らかにするのが、歴史や科学の役割なのであろう。

(1)ネパールのテイラウラコット村にあるカピラバスツ城址

 ブッダの生誕地ルンビニから西に25キロほどのところにテイラウラコット村があり、そこにカピラバスツ城址とされる遺跡がある。煉瓦造りの西門やそこから南北に伸びる城壁や内部の土台などが見られ、また場外にある質素な博物館には出土品の陶器や貨幣と見られるト-クンなどが展示されている。

19世紀末から20世紀初頭に掛けて欧州の考古学者等が発掘をしたことが記録に残っているが、強い日差しや風雨などによる損傷や持ち去られることを恐れ、ほとんどが埋め戻されている。

 法顕は仏国記の「カピラバスツ城」の項で、「城の東50里に王園がある。王園の名は論民(ルンビニのこと)と言う。」と記述している。中国の里を換算すると、「城の東25キロのところに王園がある」ことになるので、ルンビニを基点とすると25キロ西にカピラバスツ城があることになり、位置関係が合致する。

 ところが厄介なことに、それから200年ほど後に同じような道程を辿りこの地域を訪れた玄奘は、大唐西域記の「カピラバスツ国」の項で異なる記述をしている。そもそも玄奘は、カピラバスツを「城」はなく、「国」として捉えており、境界さえ分らないと記しているので、どうも別の場所のようだ。玄奘の足跡を詳細に分析した西欧の学者がいるが、ルンビニではなく別の処に辿り着く結果となっている。しかし法顕、玄奘ともブッダが青年期まで過ごしたカピラバスツは複数あったとの記載は一切無く、1つなのである。

 カピラバスツ城址のあるテイラウラコット村の半径7キロの周辺には、城壁の外に父王スッドウダナの墳墓と言われている大小2つの仏塔(ツイン・ストウーパ)やブッダが悟りを開いた後帰郷し父王スッドウダナと再会した場所(クダン)、そしてシャキヤ族がコーサラ国のヴィルダカ王に殲滅されたサガルハワなど、素朴ではあるが歴史的には興味ある遺跡がある。更に、アショカ王はルンビニの他、現在のゴータマ・ブッダ以前に存在した先代ブッダの生誕地やゆかりの地を訪問し、ルンビニと同様の砂岩の石柱をこの地に建立している。その石柱の一つに、パーリ語で「即位14年に際しコナカマナ・ブッダ(先代)のストウーパを拡大したが、即位20年に際しこの石柱を建立させた」旨記されている。アショカ王は、先代ブッダ(過去仏)の存在を知っていたとみられるが、このような遺跡が残っているということは、先代ブッダは伝承上の存在ではなく、実在した人物(賢者・聖者)であり、現在のブッダが誕生した以前に一定の文化水準の社会がこの地域に存在したことになる。この古代ブッダ文化地帯とも言えるこの地域の更なる発掘と遺跡の保存が課題と言えよう。 

 この地域を歩かれた方もおられようが、遺跡の名称は分るものの、それぞれの遺跡がどのような意味合いを持っているかなどはなかなか分らない。しかし各遺跡の意味合いを知った上で回ると感慨も深くなると共に、城都カピラバスツの場所と繋がって行く。
 (2)インドのピプラワとガンワリアのカピラバスツ
 4、ブッダ誕生の聖地から読めること(その4で掲載)
 (1)根底にバラモンの思想と先代ブッダの存在―浮かび上がる古代ブッダ文化の存在
 (2)王子の地位を捨て悟りの道を決断した基本思想
 (3)ボードガヤで悟りを開き、「ブッダ」として80歳まで教えを説く
 (4)不殺生、非暴力の思想
 (5)ヨーロッパ、アジアを大陸横断的に見た思想の流れ
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シリーズ ブッダ誕生の聖地を読む (その2 )  

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 大晦日の零時に近づくと日本各地のお寺で除夜の鐘が鳴り、それぞれに煩悩を払って新年を迎える。日本には奈良や京都はもとより、2011年6月にUNESCOの世界文化遺産として登録された岩手県平泉町の中尊寺など、多くの仏教建築、文化財が世界遺産となっており、神社などと並んで日本文化の一部となっており、日常生活にも浸透している。国勢調査においても、信仰の程度は別として仏教の系統が9,600万人、総人口の約74%にものぼる。
 ところが仏教の基礎を築いたブッダ(通称お釈迦様)の誕生地やシャキア王国の王子として育った城都カピラバスツなど、その歴史的、社会的な背景については一般には余り知られていない。確かにこれまでブッダの誕生地は「北インド」と習った人が多く、未だに多くの教科書にはそのように記載されている。更に城都カピラバスツ(通称カピラ城)については、今日でもネパール説とインド説があり、国際的にも決着していない。2,500年以上前の伝承上、宗教上の人物であるので、今更どちらでもよいような話ではあるが、日本文化や慣習、思想に関係が深いので、宗教、信仰とは別に、知識としてブッダ誕生の歴史的、社会的な背景やルーツを知ることは日本の文化や思想をよりよく知る上で必要なのであろう。
 それ以上に、日本が国際社会に主体的に発信して行くためには、文化的、思想的な芯や基本的な価値観を明らかにしなくては国際社会の信頼を得られないどころか、耳を傾けてむらえない。
 1、飛鳥時代の朝廷に受け入れられた仏教 (その1に掲載)
 2、ブッダの生誕地ルンビニ  (その2で掲載)

 ブッダは、紀元前6世紀から5世紀にかけて現在のネパール南部ルンビニで誕生し、29歳までシャキア(釈迦)族の部族王国の王子としてカピラバスツ城で育ち、29才で悟りの道を求めて城を後にした。王子の名はシッダールタ・ゴータマ、そしてその部族名(シャキア)からお釈迦様の名で親しまれている。シッダールタ王子は後に悟りを開き、ブッダ(悟りを開いた者の意)となり、ブッダ教(仏教)の創始者になった。

 ルンビニは、1997年にUNESCOの世界文化遺産に登録されており、ブッダの生誕地としては国際的に認知されていると言ってよいだろう。ルンビニには、マヤデヴィ寺院、沐浴したとされる池やシッダールタ王子誕生を描写した石像などがある。

 しかし歴史的に重要なのは、アショカ王が建立した石柱であり、そこに刻まれている碑文(パーリ語)により、19世紀末のブッダの生誕地論争に終止符が打たれた経緯がある。アショカ王(在位 紀元前269年より232年頃)は、ほぼインド全域を統一しマガダ国マウリア王朝の全盛期を築いたが、カリンガの闘いでの大虐殺への報いを恐れ、不戦と不殺生を誓い、ブッダ教に帰依したと言われている。同時にルンビニは、シッダールタ王子が育ったカピラバスツ城の位置を特定する上でも重要な基点となる。

 なお、日本の教科書での記述振りは1990年代末以降若干改善されて来ているものの、「ブッダの誕生地は(ネパールの)ルンビニ」等と記されている教科書は相対的に少なく、未だに「北インド」と書かれているものが多いようであるので、改定が課題となっている。


 3、2つのカピラバスツ城の謎 (その3で掲載)
 (1)ネパールのテイラウラコット村にあるカピラバスツ城址
 (2)インドのピプラワとガンワリアのカピラバスツ
 4、ブッダ誕生の聖地から読めること(その4で掲載)
 (1)根底にバラモンの思想と先代ブッダの存在―浮かび上がる古代ブッダ文化の存在
 (2)王子の地位を捨て悟りの道を決断した基本思想
 (3)ボードガヤで悟りを開き、「ブッダ」として80歳まで教えを説く
 (4)不殺生、非暴力の思想
 (5)ヨーロッパ、アジアを大陸横断的に見た思想の流れ
                                        (2012.11.08)(Copy Rights Reserved.)

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シリーズ ブッダ誕生の聖地を読む (その2 )  

2012-11-30 | Weblog

シリーズ ブッダ誕生の聖地を読む (その2 )  
 大晦日の零時に近づくと日本各地のお寺で除夜の鐘が鳴り、それぞれに煩悩を払って新年を迎える。日本には奈良や京都はもとより、2011年6月にUNESCOの世界文化遺産として登録された岩手県平泉町の中尊寺など、多くの仏教建築、文化財が世界遺産となっており、神社などと並んで日本文化の一部となっており、日常生活にも浸透している。国勢調査においても、信仰の程度は別として仏教の系統が9,600万人、総人口の約74%にものぼる。
 ところが仏教の基礎を築いたブッダ(通称お釈迦様)の誕生地やシャキア王国の王子として育った城都カピラバスツなど、その歴史的、社会的な背景については一般には余り知られていない。確かにこれまでブッダの誕生地は「北インド」と習った人が多く、未だに多くの教科書にはそのように記載されている。更に城都カピラバスツ(通称カピラ城)については、今日でもネパール説とインド説があり、国際的にも決着していない。2,500年以上前の伝承上、宗教上の人物であるので、今更どちらでもよいような話ではあるが、日本文化や慣習、思想に関係が深いので、宗教、信仰とは別に、知識としてブッダ誕生の歴史的、社会的な背景やルーツを知ることは日本の文化や思想をよりよく知る上で必要なのであろう。
 それ以上に、日本が国際社会に主体的に発信して行くためには、文化的、思想的な芯や基本的な価値観を明らかにしなくては国際社会の信頼を得られないどころか、耳を傾けてむらえない。
 1、飛鳥時代の朝廷に受け入れられた仏教 (その1に掲載)
 2、ブッダの生誕地ルンビニ  (その2で掲載)

 ブッダは、紀元前6世紀から5世紀にかけて現在のネパール南部ルンビニで誕生し、29歳までシャキア(釈迦)族の部族王国の王子としてカピラバスツ城で育ち、29才で悟りの道を求めて城を後にした。王子の名はシッダールタ・ゴータマ、そしてその部族名(シャキア)からお釈迦様の名で親しまれている。シッダールタ王子は後に悟りを開き、ブッダ(悟りを開いた者の意)となり、ブッダ教(仏教)の創始者になった。

 ルンビニは、1997年にUNESCOの世界文化遺産に登録されており、ブッダの生誕地としては国際的に認知されていると言ってよいだろう。ルンビニには、マヤデヴィ寺院、沐浴したとされる池やシッダールタ王子誕生を描写した石像などがある。

 しかし歴史的に重要なのは、アショカ王が建立した石柱であり、そこに刻まれている碑文(パーリ語)により、19世紀末のブッダの生誕地論争に終止符が打たれた経緯がある。アショカ王(在位 紀元前269年より232年頃)は、ほぼインド全域を統一しマガダ国マウリア王朝の全盛期を築いたが、カリンガの闘いでの大虐殺への報いを恐れ、不戦と不殺生を誓い、ブッダ教に帰依したと言われている。同時にルンビニは、シッダールタ王子が育ったカピラバスツ城の位置を特定する上でも重要な基点となる。

 なお、日本の教科書での記述振りは1990年代末以降若干改善されて来ているものの、「ブッダの誕生地は(ネパールの)ルンビニ」等と記されている教科書は相対的に少なく、未だに「北インド」と書かれているものが多いようであるので、改定が課題となっている。


 3、2つのカピラバスツ城の謎 (その3で掲載)
 (1)ネパールのテイラウラコット村にあるカピラバスツ城址
 (2)インドのピプラワとガンワリアのカピラバスツ
 4、ブッダ誕生の聖地から読めること(その4で掲載)
 (1)根底にバラモンの思想と先代ブッダの存在―浮かび上がる古代ブッダ文化の存在
 (2)王子の地位を捨て悟りの道を決断した基本思想
 (3)ボードガヤで悟りを開き、「ブッダ」として80歳まで教えを説く
 (4)不殺生、非暴力の思想
 (5)ヨーロッパ、アジアを大陸横断的に見た思想の流れ
                                        (2012.11.08)(Copy Rights Reserved.)

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シリーズ ブッダ誕生の聖地を読む (その1)  

2012-11-30 | Weblog

シリーズ ブッダ誕生の聖地を読む (その1)  
 大晦日の零時に近づくと日本各地のお寺で除夜の鐘が鳴り、それぞれに煩悩を払って新年を迎える。日本には奈良や京都はもとより、2011年6月にUNESCOの世界文化遺産として登録された岩手県平泉町の中尊寺など、多くの仏教建築、文化財が世界遺産となっており、神社などと並んで日本文化の一部となっており、日常生活にも浸透している。国勢調査においても、信仰の程度は別として仏教の系統が9,600万人、総人口の約74%にものぼる。
 ところが仏教の基礎を築いたブッダ(通称お釈迦様)の誕生地やシャキア王国の王子として育った城都カピラバスツなど、その歴史的、社会的な背景については一般には余り知られていない。確かにこれまでブッダの誕生地は「北インド」と習った人が多く、未だに多くの教科書にはそのように記載されている。更に城都カピラバスツ(通称カピラ城)については、今日でもネパール説とインド説があり、国際的にも決着していない。2,500年以上前の伝承上、宗教上の人物であるので、今更どちらでもよいような話ではあるが、日本文化や慣習、思想に関係が深いので、宗教、信仰とは別に、知識としてブッダ誕生の歴史的、社会的な背景やルーツを知ることは日本の文化や思想をよりよく知る上で必要なのであろう。
 それ以上に、日本が国際社会に主体的に発信して行くためには、文化的、思想的な芯や基本的な価値観を明らかにしなくては国際社会の信頼を得られないどころか、耳を傾けてむらえない。
 1、飛鳥時代の朝廷に受け入れられた仏教
 ブッダ教が日本に伝来した由来については、「日本書紀」に飛鳥時代の西暦552年、百済の聖明王よりブッダの金銅像と経論他が欽明天皇に献上されたことが記されており、これが仏教公伝とされている。しかし元興寺建立の経緯などが記されている「元興寺伽藍縁起」の記述から西暦538年には既に仏教が伝えられたと見ることが出来る。経論などは中国で漢語訳された経典などがもたらされたことから、仏教、仏陀など漢字表記となっており、中国との関係が色濃く出る結果となっている。
 百済王の使節が倭の国(日本)の天皇への献上品としてブッダ像や経典などを持参したとすれば、日本に珍重される物と判断してのことであろうから、ブッダ教が日本に、少なくても朝廷周辺においてある程度知られていたと見るべきであろう。上記の歴史書には、日本最古の本格的な寺院とされている元興寺の前身である法興寺が蘇我馬子により飛鳥に建立されたとされている。当時朝廷は、蘇我氏を中心とする西部グループと物部氏を中心とする伝統派グループが血を血で洗う勢力争いをしていたと言われているが、蘇我馬子が平安を祈り百済から伝えられたブッダ教を敬ったと伝えられている。
 その後蘇我氏グループが物部氏グループを倒し、朝廷に平穏が戻ったが、推古天皇が仏教を普及するようにとの勅令を出し、聖徳太も17条憲法(西暦604年)で僧侶を敬うようにとの趣旨を明らかにして以来、仏教は朝廷に受け入れられることになった。
それは、アショカ王が紀元前2世紀半ばにインドのほぼ全域を統一しマウリア王朝の全盛期を築いたが、カリンガの戦いで大量の殺戮を行ったことへの償いか、死後地獄に送られあらゆる苦しみを課されることを恐れたのか、深くブッダ教に帰依した姿に重なるところがある。紀元前5世紀にインドの16大国の一つであるコーサラ国のビルダカ王がシャキア王国を殲滅したが、ビルダカ王は凱旋後、火事に遭い、苦しみの中で地獄に落ち、その地獄であらゆる苦しみを課されたと伝承されており、これがブッダ教の不殺生、非暴力の教え、戒めの背景の一つとなっている。統治の上では、国家の平安、安定への朝廷の願いが込められていたと言えようが、抗争を集結させ、統治を永続させるため仏教を精神的な拠り所にする狙いがあったと見られる。
 そして武家勢力の伸張に伴い、仏教は武家、庶民へと普及し、江戸時代には檀家制度や寺子屋などを通じ統治機構の末端の役割を果たす仏教制度として定着して行くと共に、日本の思想、文化へ幅広い影響を与えて行った。その後明治政府となり、天皇制が復活し神道が重視されることとなり、全国で廃仏毀釈が行われ寺院数は減少した。しかしもともと仏教は朝廷により受け入れられ、日本仏教として各層に広く普及、発展して来たものであるので、日本の思想、文化の中に浸透し今に伝えられているている。
 ところが仏教の創始者であるブッダ誕生の歴史的、社会的背景などについては、学校教育などにおいても、仏教系の学校は別として、ほとんど教えられていない。
 生誕地のルンビニについては1997年にUNESCOの世界遺産として認定され国際的に確立しているが、城都カピラバスツ、通称カピラ城の位置については確立していない。それ自体は2,500余年前の場所でしかないが、その謎を解いて行くと(詳細は筆者著書「お釈迦様のルーツの謎」参照)、ブッダ誕生の歴史的、社会的な背景が浮かび上がって来ると共に、ブッダ思想や文化に関心のある方々にとっては、カピラ城周辺はブッダのルーツを巡る聖地ともなる。

 2、ブッダの生誕地ルンビニ  (その2で掲載)
 3、2つのカピラバスツ城の謎 (その3で掲載)
 (1)ネパールのテイラウラコット村にあるカピラバスツ城址
 (2)インドのピプラワとガンワリアのカピラバスツ
 4、ブッダ誕生の聖地から読めること(その4で掲載)
 (1)根底にバラモンの思想と先代ブッダの存在―浮かび上がる古代ブッダ文化の存在
 (2)王子の地位を捨て悟りの道を決断した基本思想
 (3)ボードガヤで悟りを開き、「ブッダ」として80歳まで教えを説く
 (4)不殺生、非暴力の思想
 (5)ヨーロッパ、アジアを大陸横断的に見た思想の流れ
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シリーズ ブッダ誕生の聖地を読む (その1)  

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シリーズ ブッダ誕生の聖地を読む (その1)  
 大晦日の零時に近づくと日本各地のお寺で除夜の鐘が鳴り、それぞれに煩悩を払って新年を迎える。日本には奈良や京都はもとより、2011年6月にUNESCOの世界文化遺産として登録された岩手県平泉町の中尊寺など、多くの仏教建築、文化財が世界遺産となっており、神社などと並んで日本文化の一部となっており、日常生活にも浸透している。国勢調査においても、信仰の程度は別として仏教の系統が9,600万人、総人口の約74%にものぼる。
 ところが仏教の基礎を築いたブッダ(通称お釈迦様)の誕生地やシャキア王国の王子として育った城都カピラバスツなど、その歴史的、社会的な背景については一般には余り知られていない。確かにこれまでブッダの誕生地は「北インド」と習った人が多く、未だに多くの教科書にはそのように記載されている。更に城都カピラバスツ(通称カピラ城)については、今日でもネパール説とインド説があり、国際的にも決着していない。2,500年以上前の伝承上、宗教上の人物であるので、今更どちらでもよいような話ではあるが、日本文化や慣習、思想に関係が深いので、宗教、信仰とは別に、知識としてブッダ誕生の歴史的、社会的な背景やルーツを知ることは日本の文化や思想をよりよく知る上で必要なのであろう。
 それ以上に、日本が国際社会に主体的に発信して行くためには、文化的、思想的な芯や基本的な価値観を明らかにしなくては国際社会の信頼を得られないどころか、耳を傾けてむらえない。
 1、飛鳥時代の朝廷に受け入れられた仏教
 ブッダ教が日本に伝来した由来については、「日本書紀」に飛鳥時代の西暦552年、百済の聖明王よりブッダの金銅像と経論他が欽明天皇に献上されたことが記されており、これが仏教公伝とされている。しかし元興寺建立の経緯などが記されている「元興寺伽藍縁起」の記述から西暦538年には既に仏教が伝えられたと見ることが出来る。経論などは中国で漢語訳された経典などがもたらされたことから、仏教、仏陀など漢字表記となっており、中国との関係が色濃く出る結果となっている。
 百済王の使節が倭の国(日本)の天皇への献上品としてブッダ像や経典などを持参したとすれば、日本に珍重される物と判断してのことであろうから、ブッダ教が日本に、少なくても朝廷周辺においてある程度知られていたと見るべきであろう。上記の歴史書には、日本最古の本格的な寺院とされている元興寺の前身である法興寺が蘇我馬子により飛鳥に建立されたとされている。当時朝廷は、蘇我氏を中心とする西部グループと物部氏を中心とする伝統派グループが血を血で洗う勢力争いをしていたと言われているが、蘇我馬子が平安を祈り百済から伝えられたブッダ教を敬ったと伝えられている。
 その後蘇我氏グループが物部氏グループを倒し、朝廷に平穏が戻ったが、推古天皇が仏教を普及するようにとの勅令を出し、聖徳太も17条憲法(西暦604年)で僧侶を敬うようにとの趣旨を明らかにして以来、仏教は朝廷に受け入れられることになった。
それは、アショカ王が紀元前2世紀半ばにインドのほぼ全域を統一しマウリア王朝の全盛期を築いたが、カリンガの戦いで大量の殺戮を行ったことへの償いか、死後地獄に送られあらゆる苦しみを課されることを恐れたのか、深くブッダ教に帰依した姿に重なるところがある。紀元前5世紀にインドの16大国の一つであるコーサラ国のビルダカ王がシャキア王国を殲滅したが、ビルダカ王は凱旋後、火事に遭い、苦しみの中で地獄に落ち、その地獄であらゆる苦しみを課されたと伝承されており、これがブッダ教の不殺生、非暴力の教え、戒めの背景の一つとなっている。統治の上では、国家の平安、安定への朝廷の願いが込められていたと言えようが、抗争を集結させ、統治を永続させるため仏教を精神的な拠り所にする狙いがあったと見られる。
 そして武家勢力の伸張に伴い、仏教は武家、庶民へと普及し、江戸時代には檀家制度や寺子屋などを通じ統治機構の末端の役割を果たす仏教制度として定着して行くと共に、日本の思想、文化へ幅広い影響を与えて行った。その後明治政府となり、天皇制が復活し神道が重視されることとなり、全国で廃仏毀釈が行われ寺院数は減少した。しかしもともと仏教は朝廷により受け入れられ、日本仏教として各層に広く普及、発展して来たものであるので、日本の思想、文化の中に浸透し今に伝えられているている。
 ところが仏教の創始者であるブッダ誕生の歴史的、社会的背景などについては、学校教育などにおいても、仏教系の学校は別として、ほとんど教えられていない。
 生誕地のルンビニについては1997年にUNESCOの世界遺産として認定され国際的に確立しているが、城都カピラバスツ、通称カピラ城の位置については確立していない。それ自体は2,500余年前の場所でしかないが、その謎を解いて行くと(詳細は筆者著書「お釈迦様のルーツの謎」参照)、ブッダ誕生の歴史的、社会的な背景が浮かび上がって来ると共に、ブッダ思想や文化に関心のある方々にとっては、カピラ城周辺はブッダのルーツを巡る聖地ともなる。

 2、ブッダの生誕地ルンビニ  (その2で掲載)
 3、2つのカピラバスツ城の謎 (その3で掲載)
 (1)ネパールのテイラウラコット村にあるカピラバスツ城址
 (2)インドのピプラワとガンワリアのカピラバスツ
 4、ブッダ誕生の聖地から読めること(その4で掲載)
 (1)根底にバラモンの思想と先代ブッダの存在―浮かび上がる古代ブッダ文化の存在
 (2)王子の地位を捨て悟りの道を決断した基本思想
 (3)ボードガヤで悟りを開き、「ブッダ」として80歳まで教えを説く
 (4)不殺生、非暴力の思想
 (5)ヨーロッパ、アジアを大陸横断的に見た思想の流れ
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各国、各地域の努力に委ねられた世界経済 (総合編)

2012-11-29 | Weblog

各国、各地域の努力に委ねられた世界経済 (総合編)
 10月10日から開催されていた国際通貨基金(IMF)・世銀総会の一連会合は、最終日の13日に国際通貨金融委員会及び合同開発委員会のコミュニケをそれぞれ採択して閉幕した。いずれのコミュニケでも、世界経済の情勢認識において、多くの先進国経済で課題が残っている一方、新興市場経済においても成長が減速しているとして世界経済の脆弱性を指摘しつつ、財政・金融及び構造面での一層の努力が必要であり、成長を下支えする措置が取られているとの認識を示すに留まり、具体的には各国、各地域の努力に委ねた形となっている。特に雇用創出の必要性を強調しているが、これも各国の努力に委ねられている。
 通貨金融問題についても、米国の金融・証券危機に端を発する欧州債務危機が中国などの新興経済国に波及していることを反映し、世界経済が減速し、不確実性が高まったとの認識を示すにとどまっており、具体的な措置を示していない。為替レートについては、黒字国においては国内の成長の源泉、即ち内需の強化の必要性を指摘する一方、赤字国については、「輸出競争力を強化しつつ国内貯蓄を増加させ、適切な場合には為替レートの更なる柔軟性を促進する」との姿勢を明らかにしている。貿易黒字国と赤字国では為替レートへの対応が異なってくるが、急速な円高と2011年の東日本大震災の影響などが重なって貿易赤字に転じた日本などの貿易赤字国については、円安への柔軟な対応を行うことも容認されることになる。
 これに関連し、10月11日に開催された主要7か国(G7)財務相・中央銀行総裁会議において、城島財務大臣は、急激な円高が日本経済に及ぼす悪影響への懸念を表明し、為替介入に対する理解を求め、主要各国から具体的な協調的行動が示されたわけではないが、いわば黙認された形となった。
 1、長期経済停滞の中で国際協調に徹した日本
 日本経済は、90年代のバブル経済の崩壊後の長期の経済停滞の中で、2009年9月、米国大手証券の一つであったリーマン・ブラザースの破たん(リーマン・ショック)に端を発した世界的な金融危機を背景として、輸出産業を中心とする経済停滞を一層深刻なものにした。そのような長期の経済停滞の中で2011年3月11日、東日本大震災に見舞われ経済停滞は一層深刻化した。その結果、日本の貿易収支は2011年に赤字に転じ、2012年においても上期(1-6月)は過去最大の2兆9千億円強の大幅赤字となり、7、8月期も赤字が継続し、本年度上期(4-9月)の貿易赤字は3兆2千億円強と1979年以来最大の貿易赤字を記録した。
 このような日本の長期の経済停滞、深刻化にも拘わらず、為替レートは、対ドル、対ユーロ共に2009年10月以降独歩高の状況であり、2011年末以降1ドル80円を割り込んでいる。日本の長期の経済停滞と東日本大震災の影響、2011年来の貿易赤字を勘案すると、明らかに日本の経済実体を越える円高が継続し、日本経済を圧迫し来ていると言える。
 為替レートが1ドル80円を割り込んだのは、米国のオバマ政権が、大統領選挙を1年後に控えた2011年秋頃より輸出の倍増、雇用創出を打ち出し始めてからである。その最大の対象国は最大の貿易相手国となった中国である。中国は元安を維持して来ているが、日本は、長期経済停滞の中で、米国をはじめとする世界経済の回復を期待しつつ為替、金融面で国際協調に徹して来たと言える。
 2、日本経済の回復には円レートの適正化が不可欠 
 米国連邦準備理事会のバーナンキ議長は、ゼロ金利の下での通貨供給の一層の量的緩和を行う構えだ。2008年9月のリーマン・ショック後景気が低迷し、失業率が9%台から8%台に下がったものの、8%台の失業率は景気回復に重くのしかかっているとしている。ドルの量的緩和が更に行われれば、インフレ懸念が指摘されると共に、基軸通貨であるドル安が進む恐れがある。
 オバマ大統領は、11月の大統領選挙を控え、景気回復、特に雇用創出に優先度を置いており、2016年までに製造業で雇用を100万人創出する、そのため輸出を倍増することを昨年来訴えている。連邦準備理事会の金融の量的緩和もこの方針に沿うものであり、いずれもドル安に誘導する結果となる。
 一方中国は、国民総生産で世界第2の新興経済国になったにも拘わらず、基本的には元安を維持して来ており、米国の大統領選挙のTV討論会でも争点の一つとなっている。
 ユーロについては、ギリシャの財政・金融破綻を契機として一段のユーロ安が進んだが、破たん国への金融支援のために設立された欧州金融安定基金(EFSF、3年間2,000億ユーロ)の後継として恒久的な欧州安定メカニズム(ESM、融資能力5,000億ユーロ)の設置に合意され、継続的な金融支援メカニズムが構築された。更に2013年から欧州中央銀行(ECB)がEU域内の銀行を一元的に監督する機能を持つことに合意され、欧州安定メカニズムによる域内銀行に対する資本注入がECBにより直接行える可能性が出て来るなど、EUの金融支援、監督体制が整って来たことから、各国において緊縮財政への抵抗などは見られようが、ユーロは当面安定化するものと期待される。
それだけに米国と中国の責任ある経済運営、為替政策を期待したい。特に基軸通貨国である米国の金融、為替政策は、日本をはじめ世界経済への影響を十分勘案し、適正に運営されることを期待したい。他方日本は、貿易黒字から昨年来貿易赤字に転換している上、主要企業の景況感が悪化しているので、円安への適正化を図るべき時期であり、確固として金融の量的緩和と円安誘導を実施し、円為替の正常化を図ることが不可欠であろう。そのためには、まず政府が円高を阻止し、円の正常化に誘導、転換するとの明確なメッセージを市場に示すと共に、確固たる措置を取ることが望まれる。具体的には、東日本経済復興や日本の経済回復の進捗状況を見極めつつ、今後3年間程度は1ドル90円から100円を目標として、金融の量的緩和を維持しつつ、ドル買い介入を続けるなど毅然たる措置を取ることが望まれる。経済界も政府に対し経済実体に沿った円の適正化を要請すると共に、円為替の正常化に向けて金融・証券界を含め企業間で協調行動を取るなど、歩調を合わせることが望まれる。
無論財政支出による景気の下支えは必要であるが、復興支援のための5年間19兆円に加え更なる財政支出をすることは、赤字公債頼みの財政支出となるので、財政健全化への国際的な要請に反することになるほか、予算執行の遅れや不適正執行の問題があると共に効果にも限界がある。このような状況においては、地方を含め民間活力を引き出すことが不可欠であり、そのためには中・低所得層への所得減税や負担感が高い地方税(住民税、事業税など)、法人税の減税がより効率的且つ効果的と見られる。
いずれにしても日本産業の速やかな回復のためには円為替の正常化が最も効果的であろう。そして日本の経済立て直しは、中・長期的に世界経済回復の牽引力ともなろう。(2012.10.20.)(All Rights Reserved.)(不許無断引用)

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各国、各地域の努力に委ねられた世界経済 (総合編)

2012-11-29 | Weblog

各国、各地域の努力に委ねられた世界経済 (総合編)
 10月10日から開催されていた国際通貨基金(IMF)・世銀総会の一連会合は、最終日の13日に国際通貨金融委員会及び合同開発委員会のコミュニケをそれぞれ採択して閉幕した。いずれのコミュニケでも、世界経済の情勢認識において、多くの先進国経済で課題が残っている一方、新興市場経済においても成長が減速しているとして世界経済の脆弱性を指摘しつつ、財政・金融及び構造面での一層の努力が必要であり、成長を下支えする措置が取られているとの認識を示すに留まり、具体的には各国、各地域の努力に委ねた形となっている。特に雇用創出の必要性を強調しているが、これも各国の努力に委ねられている。
 通貨金融問題についても、米国の金融・証券危機に端を発する欧州債務危機が中国などの新興経済国に波及していることを反映し、世界経済が減速し、不確実性が高まったとの認識を示すにとどまっており、具体的な措置を示していない。為替レートについては、黒字国においては国内の成長の源泉、即ち内需の強化の必要性を指摘する一方、赤字国については、「輸出競争力を強化しつつ国内貯蓄を増加させ、適切な場合には為替レートの更なる柔軟性を促進する」との姿勢を明らかにしている。貿易黒字国と赤字国では為替レートへの対応が異なってくるが、急速な円高と2011年の東日本大震災の影響などが重なって貿易赤字に転じた日本などの貿易赤字国については、円安への柔軟な対応を行うことも容認されることになる。
 これに関連し、10月11日に開催された主要7か国(G7)財務相・中央銀行総裁会議において、城島財務大臣は、急激な円高が日本経済に及ぼす悪影響への懸念を表明し、為替介入に対する理解を求め、主要各国から具体的な協調的行動が示されたわけではないが、いわば黙認された形となった。
 1、長期経済停滞の中で国際協調に徹した日本
 日本経済は、90年代のバブル経済の崩壊後の長期の経済停滞の中で、2009年9月、米国大手証券の一つであったリーマン・ブラザースの破たん(リーマン・ショック)に端を発した世界的な金融危機を背景として、輸出産業を中心とする経済停滞を一層深刻なものにした。そのような長期の経済停滞の中で2011年3月11日、東日本大震災に見舞われ経済停滞は一層深刻化した。その結果、日本の貿易収支は2011年に赤字に転じ、2012年においても上期(1-6月)は過去最大の2兆9千億円強の大幅赤字となり、7、8月期も赤字が継続し、本年度上期(4-9月)の貿易赤字は3兆2千億円強と1979年以来最大の貿易赤字を記録した。
 このような日本の長期の経済停滞、深刻化にも拘わらず、為替レートは、対ドル、対ユーロ共に2009年10月以降独歩高の状況であり、2011年末以降1ドル80円を割り込んでいる。日本の長期の経済停滞と東日本大震災の影響、2011年来の貿易赤字を勘案すると、明らかに日本の経済実体を越える円高が継続し、日本経済を圧迫し来ていると言える。
 為替レートが1ドル80円を割り込んだのは、米国のオバマ政権が、大統領選挙を1年後に控えた2011年秋頃より輸出の倍増、雇用創出を打ち出し始めてからである。その最大の対象国は最大の貿易相手国となった中国である。中国は元安を維持して来ているが、日本は、長期経済停滞の中で、米国をはじめとする世界経済の回復を期待しつつ為替、金融面で国際協調に徹して来たと言える。
 2、日本経済の回復には円レートの適正化が不可欠 
 米国連邦準備理事会のバーナンキ議長は、ゼロ金利の下での通貨供給の一層の量的緩和を行う構えだ。2008年9月のリーマン・ショック後景気が低迷し、失業率が9%台から8%台に下がったものの、8%台の失業率は景気回復に重くのしかかっているとしている。ドルの量的緩和が更に行われれば、インフレ懸念が指摘されると共に、基軸通貨であるドル安が進む恐れがある。
 オバマ大統領は、11月の大統領選挙を控え、景気回復、特に雇用創出に優先度を置いており、2016年までに製造業で雇用を100万人創出する、そのため輸出を倍増することを昨年来訴えている。連邦準備理事会の金融の量的緩和もこの方針に沿うものであり、いずれもドル安に誘導する結果となる。
 一方中国は、国民総生産で世界第2の新興経済国になったにも拘わらず、基本的には元安を維持して来ており、米国の大統領選挙のTV討論会でも争点の一つとなっている。
 ユーロについては、ギリシャの財政・金融破綻を契機として一段のユーロ安が進んだが、破たん国への金融支援のために設立された欧州金融安定基金(EFSF、3年間2,000億ユーロ)の後継として恒久的な欧州安定メカニズム(ESM、融資能力5,000億ユーロ)の設置に合意され、継続的な金融支援メカニズムが構築された。更に2013年から欧州中央銀行(ECB)がEU域内の銀行を一元的に監督する機能を持つことに合意され、欧州安定メカニズムによる域内銀行に対する資本注入がECBにより直接行える可能性が出て来るなど、EUの金融支援、監督体制が整って来たことから、各国において緊縮財政への抵抗などは見られようが、ユーロは当面安定化するものと期待される。
それだけに米国と中国の責任ある経済運営、為替政策を期待したい。特に基軸通貨国である米国の金融、為替政策は、日本をはじめ世界経済への影響を十分勘案し、適正に運営されることを期待したい。他方日本は、貿易黒字から昨年来貿易赤字に転換している上、主要企業の景況感が悪化しているので、円安への適正化を図るべき時期であり、確固として金融の量的緩和と円安誘導を実施し、円為替の正常化を図ることが不可欠であろう。そのためには、まず政府が円高を阻止し、円の正常化に誘導、転換するとの明確なメッセージを市場に示すと共に、確固たる措置を取ることが望まれる。具体的には、東日本経済復興や日本の経済回復の進捗状況を見極めつつ、今後3年間程度は1ドル90円から100円を目標として、金融の量的緩和を維持しつつ、ドル買い介入を続けるなど毅然たる措置を取ることが望まれる。経済界も政府に対し経済実体に沿った円の適正化を要請すると共に、円為替の正常化に向けて金融・証券界を含め企業間で協調行動を取るなど、歩調を合わせることが望まれる。
無論財政支出による景気の下支えは必要であるが、復興支援のための5年間19兆円に加え更なる財政支出をすることは、赤字公債頼みの財政支出となるので、財政健全化への国際的な要請に反することになるほか、予算執行の遅れや不適正執行の問題があると共に効果にも限界がある。このような状況においては、地方を含め民間活力を引き出すことが不可欠であり、そのためには中・低所得層への所得減税や負担感が高い地方税(住民税、事業税など)、法人税の減税がより効率的且つ効果的と見られる。
いずれにしても日本産業の速やかな回復のためには円為替の正常化が最も効果的であろう。そして日本の経済立て直しは、中・長期的に世界経済回復の牽引力ともなろう。(2012.10.20.)(All Rights Reserved.)(不許無断引用)

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各国、各地域の努力に委ねられた世界経済 (総合編)

2012-11-29 | Weblog

各国、各地域の努力に委ねられた世界経済 (総合編)
 10月10日から開催されていた国際通貨基金(IMF)・世銀総会の一連会合は、最終日の13日に国際通貨金融委員会及び合同開発委員会のコミュニケをそれぞれ採択して閉幕した。いずれのコミュニケでも、世界経済の情勢認識において、多くの先進国経済で課題が残っている一方、新興市場経済においても成長が減速しているとして世界経済の脆弱性を指摘しつつ、財政・金融及び構造面での一層の努力が必要であり、成長を下支えする措置が取られているとの認識を示すに留まり、具体的には各国、各地域の努力に委ねた形となっている。特に雇用創出の必要性を強調しているが、これも各国の努力に委ねられている。
 通貨金融問題についても、米国の金融・証券危機に端を発する欧州債務危機が中国などの新興経済国に波及していることを反映し、世界経済が減速し、不確実性が高まったとの認識を示すにとどまっており、具体的な措置を示していない。為替レートについては、黒字国においては国内の成長の源泉、即ち内需の強化の必要性を指摘する一方、赤字国については、「輸出競争力を強化しつつ国内貯蓄を増加させ、適切な場合には為替レートの更なる柔軟性を促進する」との姿勢を明らかにしている。貿易黒字国と赤字国では為替レートへの対応が異なってくるが、急速な円高と2011年の東日本大震災の影響などが重なって貿易赤字に転じた日本などの貿易赤字国については、円安への柔軟な対応を行うことも容認されることになる。
 これに関連し、10月11日に開催された主要7か国(G7)財務相・中央銀行総裁会議において、城島財務大臣は、急激な円高が日本経済に及ぼす悪影響への懸念を表明し、為替介入に対する理解を求め、主要各国から具体的な協調的行動が示されたわけではないが、いわば黙認された形となった。
 1、長期経済停滞の中で国際協調に徹した日本
 日本経済は、90年代のバブル経済の崩壊後の長期の経済停滞の中で、2009年9月、米国大手証券の一つであったリーマン・ブラザースの破たん(リーマン・ショック)に端を発した世界的な金融危機を背景として、輸出産業を中心とする経済停滞を一層深刻なものにした。そのような長期の経済停滞の中で2011年3月11日、東日本大震災に見舞われ経済停滞は一層深刻化した。その結果、日本の貿易収支は2011年に赤字に転じ、2012年においても上期(1-6月)は過去最大の2兆9千億円強の大幅赤字となり、7、8月期も赤字が継続し、本年度上期(4-9月)の貿易赤字は3兆2千億円強と1979年以来最大の貿易赤字を記録した。
 このような日本の長期の経済停滞、深刻化にも拘わらず、為替レートは、対ドル、対ユーロ共に2009年10月以降独歩高の状況であり、2011年末以降1ドル80円を割り込んでいる。日本の長期の経済停滞と東日本大震災の影響、2011年来の貿易赤字を勘案すると、明らかに日本の経済実体を越える円高が継続し、日本経済を圧迫し来ていると言える。
 為替レートが1ドル80円を割り込んだのは、米国のオバマ政権が、大統領選挙を1年後に控えた2011年秋頃より輸出の倍増、雇用創出を打ち出し始めてからである。その最大の対象国は最大の貿易相手国となった中国である。中国は元安を維持して来ているが、日本は、長期経済停滞の中で、米国をはじめとする世界経済の回復を期待しつつ為替、金融面で国際協調に徹して来たと言える。
 2、日本経済の回復には円レートの適正化が不可欠 
 米国連邦準備理事会のバーナンキ議長は、ゼロ金利の下での通貨供給の一層の量的緩和を行う構えだ。2008年9月のリーマン・ショック後景気が低迷し、失業率が9%台から8%台に下がったものの、8%台の失業率は景気回復に重くのしかかっているとしている。ドルの量的緩和が更に行われれば、インフレ懸念が指摘されると共に、基軸通貨であるドル安が進む恐れがある。
 オバマ大統領は、11月の大統領選挙を控え、景気回復、特に雇用創出に優先度を置いており、2016年までに製造業で雇用を100万人創出する、そのため輸出を倍増することを昨年来訴えている。連邦準備理事会の金融の量的緩和もこの方針に沿うものであり、いずれもドル安に誘導する結果となる。
 一方中国は、国民総生産で世界第2の新興経済国になったにも拘わらず、基本的には元安を維持して来ており、米国の大統領選挙のTV討論会でも争点の一つとなっている。
 ユーロについては、ギリシャの財政・金融破綻を契機として一段のユーロ安が進んだが、破たん国への金融支援のために設立された欧州金融安定基金(EFSF、3年間2,000億ユーロ)の後継として恒久的な欧州安定メカニズム(ESM、融資能力5,000億ユーロ)の設置に合意され、継続的な金融支援メカニズムが構築された。更に2013年から欧州中央銀行(ECB)がEU域内の銀行を一元的に監督する機能を持つことに合意され、欧州安定メカニズムによる域内銀行に対する資本注入がECBにより直接行える可能性が出て来るなど、EUの金融支援、監督体制が整って来たことから、各国において緊縮財政への抵抗などは見られようが、ユーロは当面安定化するものと期待される。
それだけに米国と中国の責任ある経済運営、為替政策を期待したい。特に基軸通貨国である米国の金融、為替政策は、日本をはじめ世界経済への影響を十分勘案し、適正に運営されることを期待したい。他方日本は、貿易黒字から昨年来貿易赤字に転換している上、主要企業の景況感が悪化しているので、円安への適正化を図るべき時期であり、確固として金融の量的緩和と円安誘導を実施し、円為替の正常化を図ることが不可欠であろう。そのためには、まず政府が円高を阻止し、円の正常化に誘導、転換するとの明確なメッセージを市場に示すと共に、確固たる措置を取ることが望まれる。具体的には、東日本経済復興や日本の経済回復の進捗状況を見極めつつ、今後3年間程度は1ドル90円から100円を目標として、金融の量的緩和を維持しつつ、ドル買い介入を続けるなど毅然たる措置を取ることが望まれる。経済界も政府に対し経済実体に沿った円の適正化を要請すると共に、円為替の正常化に向けて金融・証券界を含め企業間で協調行動を取るなど、歩調を合わせることが望まれる。
無論財政支出による景気の下支えは必要であるが、復興支援のための5年間19兆円に加え更なる財政支出をすることは、赤字公債頼みの財政支出となるので、財政健全化への国際的な要請に反することになるほか、予算執行の遅れや不適正執行の問題があると共に効果にも限界がある。このような状況においては、地方を含め民間活力を引き出すことが不可欠であり、そのためには中・低所得層への所得減税や負担感が高い地方税(住民税、事業税など)、法人税の減税がより効率的且つ効果的と見られる。
いずれにしても日本産業の速やかな回復のためには円為替の正常化が最も効果的であろう。そして日本の経済立て直しは、中・長期的に世界経済回復の牽引力ともなろう。(2012.10.20.)(All Rights Reserved.)(不許無断引用)

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シリーズ ブッダ誕生の聖地を読む (その2 )  

2012-11-29 | Weblog

シリーズ ブッダ誕生の聖地を読む (その2 )  
 大晦日の零時に近づくと日本各地のお寺で除夜の鐘が鳴り、それぞれに煩悩を払って新年を迎える。日本には奈良や京都はもとより、2011年6月にUNESCOの世界文化遺産として登録された岩手県平泉町の中尊寺など、多くの仏教建築、文化財が世界遺産となっており、神社などと並んで日本文化の一部となっており、日常生活にも浸透している。国勢調査においても、信仰の程度は別として仏教の系統が9,600万人、総人口の約74%にものぼる。
 ところが仏教の基礎を築いたブッダ(通称お釈迦様)の誕生地やシャキア王国の王子として育った城都カピラバスツなど、その歴史的、社会的な背景については一般には余り知られていない。確かにこれまでブッダの誕生地は「北インド」と習った人が多く、未だに多くの教科書にはそのように記載されている。更に城都カピラバスツ(通称カピラ城)については、今日でもネパール説とインド説があり、国際的にも決着していない。2,500年以上前の伝承上、宗教上の人物であるので、今更どちらでもよいような話ではあるが、日本文化や慣習、思想に関係が深いので、宗教、信仰とは別に、知識としてブッダ誕生の歴史的、社会的な背景やルーツを知ることは日本の文化や思想をよりよく知る上で必要なのであろう。
 それ以上に、日本が国際社会に主体的に発信して行くためには、文化的、思想的な芯や基本的な価値観を明らかにしなくては国際社会の信頼を得られないどころか、耳を傾けてむらえない。
 1、飛鳥時代の朝廷に受け入れられた仏教 (その1に掲載)
 2、ブッダの生誕地ルンビニ  (その2で掲載)

 ブッダは、紀元前6世紀から5世紀にかけて現在のネパール南部ルンビニで誕生し、29歳までシャキア(釈迦)族の部族王国の王子としてカピラバスツ城で育ち、29才で悟りの道を求めて城を後にした。王子の名はシッダールタ・ゴータマ、そしてその部族名(シャキア)からお釈迦様の名で親しまれている。シッダールタ王子は後に悟りを開き、ブッダ(悟りを開いた者の意)となり、ブッダ教(仏教)の創始者になった。

 ルンビニは、1997年にUNESCOの世界文化遺産に登録されており、ブッダの生誕地としては国際的に認知されていると言ってよいだろう。ルンビニには、マヤデヴィ寺院、沐浴したとされる池やシッダールタ王子誕生を描写した石像などがある。

 しかし歴史的に重要なのは、アショカ王が建立した石柱であり、そこに刻まれている碑文(パーリ語)により、19世紀末のブッダの生誕地論争に終止符が打たれた経緯がある。アショカ王(在位 紀元前269年より232年頃)は、ほぼインド全域を統一しマガダ国マウリア王朝の全盛期を築いたが、カリンガの闘いでの大虐殺への報いを恐れ、不戦と不殺生を誓い、ブッダ教に帰依したと言われている。同時にルンビニは、シッダールタ王子が育ったカピラバスツ城の位置を特定する上でも重要な基点となる。

 なお、日本の教科書での記述振りは1990年代末以降若干改善されて来ているものの、「ブッダの誕生地は(ネパールの)ルンビニ」等と記されている教科書は相対的に少なく、未だに「北インド」と書かれているものが多いようであるので、改定が課題となっている。


 3、2つのカピラバスツ城の謎 (その3で掲載)
 (1)ネパールのテイラウラコット村にあるカピラバスツ城址
 (2)インドのピプラワとガンワリアのカピラバスツ
 4、ブッダ誕生の聖地から読めること(その4で掲載)
 (1)根底にバラモンの思想と先代ブッダの存在―浮かび上がる古代ブッダ文化の存在
 (2)王子の地位を捨て悟りの道を決断した基本思想
 (3)ボードガヤで悟りを開き、「ブッダ」として80歳まで教えを説く
 (4)不殺生、非暴力の思想
 (5)ヨーロッパ、アジアを大陸横断的に見た思想の流れ
                                        (2012.11.08)(Copy Rights Reserved.)

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シリーズ ブッダ誕生の聖地を読む (その2 )  

2012-11-29 | Weblog

シリーズ ブッダ誕生の聖地を読む (その2 )  
 大晦日の零時に近づくと日本各地のお寺で除夜の鐘が鳴り、それぞれに煩悩を払って新年を迎える。日本には奈良や京都はもとより、2011年6月にUNESCOの世界文化遺産として登録された岩手県平泉町の中尊寺など、多くの仏教建築、文化財が世界遺産となっており、神社などと並んで日本文化の一部となっており、日常生活にも浸透している。国勢調査においても、信仰の程度は別として仏教の系統が9,600万人、総人口の約74%にものぼる。
 ところが仏教の基礎を築いたブッダ(通称お釈迦様)の誕生地やシャキア王国の王子として育った城都カピラバスツなど、その歴史的、社会的な背景については一般には余り知られていない。確かにこれまでブッダの誕生地は「北インド」と習った人が多く、未だに多くの教科書にはそのように記載されている。更に城都カピラバスツ(通称カピラ城)については、今日でもネパール説とインド説があり、国際的にも決着していない。2,500年以上前の伝承上、宗教上の人物であるので、今更どちらでもよいような話ではあるが、日本文化や慣習、思想に関係が深いので、宗教、信仰とは別に、知識としてブッダ誕生の歴史的、社会的な背景やルーツを知ることは日本の文化や思想をよりよく知る上で必要なのであろう。
 それ以上に、日本が国際社会に主体的に発信して行くためには、文化的、思想的な芯や基本的な価値観を明らかにしなくては国際社会の信頼を得られないどころか、耳を傾けてむらえない。
 1、飛鳥時代の朝廷に受け入れられた仏教 (その1に掲載)
 2、ブッダの生誕地ルンビニ  (その2で掲載)

 ブッダは、紀元前6世紀から5世紀にかけて現在のネパール南部ルンビニで誕生し、29歳までシャキア(釈迦)族の部族王国の王子としてカピラバスツ城で育ち、29才で悟りの道を求めて城を後にした。王子の名はシッダールタ・ゴータマ、そしてその部族名(シャキア)からお釈迦様の名で親しまれている。シッダールタ王子は後に悟りを開き、ブッダ(悟りを開いた者の意)となり、ブッダ教(仏教)の創始者になった。

 ルンビニは、1997年にUNESCOの世界文化遺産に登録されており、ブッダの生誕地としては国際的に認知されていると言ってよいだろう。ルンビニには、マヤデヴィ寺院、沐浴したとされる池やシッダールタ王子誕生を描写した石像などがある。

 しかし歴史的に重要なのは、アショカ王が建立した石柱であり、そこに刻まれている碑文(パーリ語)により、19世紀末のブッダの生誕地論争に終止符が打たれた経緯がある。アショカ王(在位 紀元前269年より232年頃)は、ほぼインド全域を統一しマガダ国マウリア王朝の全盛期を築いたが、カリンガの闘いでの大虐殺への報いを恐れ、不戦と不殺生を誓い、ブッダ教に帰依したと言われている。同時にルンビニは、シッダールタ王子が育ったカピラバスツ城の位置を特定する上でも重要な基点となる。

 なお、日本の教科書での記述振りは1990年代末以降若干改善されて来ているものの、「ブッダの誕生地は(ネパールの)ルンビニ」等と記されている教科書は相対的に少なく、未だに「北インド」と書かれているものが多いようであるので、改定が課題となっている。


 3、2つのカピラバスツ城の謎 (その3で掲載)
 (1)ネパールのテイラウラコット村にあるカピラバスツ城址
 (2)インドのピプラワとガンワリアのカピラバスツ
 4、ブッダ誕生の聖地から読めること(その4で掲載)
 (1)根底にバラモンの思想と先代ブッダの存在―浮かび上がる古代ブッダ文化の存在
 (2)王子の地位を捨て悟りの道を決断した基本思想
 (3)ボードガヤで悟りを開き、「ブッダ」として80歳まで教えを説く
 (4)不殺生、非暴力の思想
 (5)ヨーロッパ、アジアを大陸横断的に見た思想の流れ
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シリーズ ブッダ誕生の聖地を読む (その2 )  
 大晦日の零時に近づくと日本各地のお寺で除夜の鐘が鳴り、それぞれに煩悩を払って新年を迎える。日本には奈良や京都はもとより、2011年6月にUNESCOの世界文化遺産として登録された岩手県平泉町の中尊寺など、多くの仏教建築、文化財が世界遺産となっており、神社などと並んで日本文化の一部となっており、日常生活にも浸透している。国勢調査においても、信仰の程度は別として仏教の系統が9,600万人、総人口の約74%にものぼる。
 ところが仏教の基礎を築いたブッダ(通称お釈迦様)の誕生地やシャキア王国の王子として育った城都カピラバスツなど、その歴史的、社会的な背景については一般には余り知られていない。確かにこれまでブッダの誕生地は「北インド」と習った人が多く、未だに多くの教科書にはそのように記載されている。更に城都カピラバスツ(通称カピラ城)については、今日でもネパール説とインド説があり、国際的にも決着していない。2,500年以上前の伝承上、宗教上の人物であるので、今更どちらでもよいような話ではあるが、日本文化や慣習、思想に関係が深いので、宗教、信仰とは別に、知識としてブッダ誕生の歴史的、社会的な背景やルーツを知ることは日本の文化や思想をよりよく知る上で必要なのであろう。
 それ以上に、日本が国際社会に主体的に発信して行くためには、文化的、思想的な芯や基本的な価値観を明らかにしなくては国際社会の信頼を得られないどころか、耳を傾けてむらえない。
 1、飛鳥時代の朝廷に受け入れられた仏教 (その1に掲載)
 2、ブッダの生誕地ルンビニ  (その2で掲載)

 ブッダは、紀元前6世紀から5世紀にかけて現在のネパール南部ルンビニで誕生し、29歳までシャキア(釈迦)族の部族王国の王子としてカピラバスツ城で育ち、29才で悟りの道を求めて城を後にした。王子の名はシッダールタ・ゴータマ、そしてその部族名(シャキア)からお釈迦様の名で親しまれている。シッダールタ王子は後に悟りを開き、ブッダ(悟りを開いた者の意)となり、ブッダ教(仏教)の創始者になった。

 ルンビニは、1997年にUNESCOの世界文化遺産に登録されており、ブッダの生誕地としては国際的に認知されていると言ってよいだろう。ルンビニには、マヤデヴィ寺院、沐浴したとされる池やシッダールタ王子誕生を描写した石像などがある。

 しかし歴史的に重要なのは、アショカ王が建立した石柱であり、そこに刻まれている碑文(パーリ語)により、19世紀末のブッダの生誕地論争に終止符が打たれた経緯がある。アショカ王(在位 紀元前269年より232年頃)は、ほぼインド全域を統一しマガダ国マウリア王朝の全盛期を築いたが、カリンガの闘いでの大虐殺への報いを恐れ、不戦と不殺生を誓い、ブッダ教に帰依したと言われている。同時にルンビニは、シッダールタ王子が育ったカピラバスツ城の位置を特定する上でも重要な基点となる。

 なお、日本の教科書での記述振りは1990年代末以降若干改善されて来ているものの、「ブッダの誕生地は(ネパールの)ルンビニ」等と記されている教科書は相対的に少なく、未だに「北インド」と書かれているものが多いようであるので、改定が課題となっている。


 3、2つのカピラバスツ城の謎 (その3で掲載)
 (1)ネパールのテイラウラコット村にあるカピラバスツ城址
 (2)インドのピプラワとガンワリアのカピラバスツ
 4、ブッダ誕生の聖地から読めること(その4で掲載)
 (1)根底にバラモンの思想と先代ブッダの存在―浮かび上がる古代ブッダ文化の存在
 (2)王子の地位を捨て悟りの道を決断した基本思想
 (3)ボードガヤで悟りを開き、「ブッダ」として80歳まで教えを説く
 (4)不殺生、非暴力の思想
 (5)ヨーロッパ、アジアを大陸横断的に見た思想の流れ
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シリーズ ブッダ誕生の聖地を読む (その1)  
 大晦日の零時に近づくと日本各地のお寺で除夜の鐘が鳴り、それぞれに煩悩を払って新年を迎える。日本には奈良や京都はもとより、2011年6月にUNESCOの世界文化遺産として登録された岩手県平泉町の中尊寺など、多くの仏教建築、文化財が世界遺産となっており、神社などと並んで日本文化の一部となっており、日常生活にも浸透している。国勢調査においても、信仰の程度は別として仏教の系統が9,600万人、総人口の約74%にものぼる。
 ところが仏教の基礎を築いたブッダ(通称お釈迦様)の誕生地やシャキア王国の王子として育った城都カピラバスツなど、その歴史的、社会的な背景については一般には余り知られていない。確かにこれまでブッダの誕生地は「北インド」と習った人が多く、未だに多くの教科書にはそのように記載されている。更に城都カピラバスツ(通称カピラ城)については、今日でもネパール説とインド説があり、国際的にも決着していない。2,500年以上前の伝承上、宗教上の人物であるので、今更どちらでもよいような話ではあるが、日本文化や慣習、思想に関係が深いので、宗教、信仰とは別に、知識としてブッダ誕生の歴史的、社会的な背景やルーツを知ることは日本の文化や思想をよりよく知る上で必要なのであろう。
 それ以上に、日本が国際社会に主体的に発信して行くためには、文化的、思想的な芯や基本的な価値観を明らかにしなくては国際社会の信頼を得られないどころか、耳を傾けてむらえない。
 1、飛鳥時代の朝廷に受け入れられた仏教
 ブッダ教が日本に伝来した由来については、「日本書紀」に飛鳥時代の西暦552年、百済の聖明王よりブッダの金銅像と経論他が欽明天皇に献上されたことが記されており、これが仏教公伝とされている。しかし元興寺建立の経緯などが記されている「元興寺伽藍縁起」の記述から西暦538年には既に仏教が伝えられたと見ることが出来る。経論などは中国で漢語訳された経典などがもたらされたことから、仏教、仏陀など漢字表記となっており、中国との関係が色濃く出る結果となっている。
 百済王の使節が倭の国(日本)の天皇への献上品としてブッダ像や経典などを持参したとすれば、日本に珍重される物と判断してのことであろうから、ブッダ教が日本に、少なくても朝廷周辺においてある程度知られていたと見るべきであろう。上記の歴史書には、日本最古の本格的な寺院とされている元興寺の前身である法興寺が蘇我馬子により飛鳥に建立されたとされている。当時朝廷は、蘇我氏を中心とする西部グループと物部氏を中心とする伝統派グループが血を血で洗う勢力争いをしていたと言われているが、蘇我馬子が平安を祈り百済から伝えられたブッダ教を敬ったと伝えられている。
 その後蘇我氏グループが物部氏グループを倒し、朝廷に平穏が戻ったが、推古天皇が仏教を普及するようにとの勅令を出し、聖徳太も17条憲法(西暦604年)で僧侶を敬うようにとの趣旨を明らかにして以来、仏教は朝廷に受け入れられることになった。
それは、アショカ王が紀元前2世紀半ばにインドのほぼ全域を統一しマウリア王朝の全盛期を築いたが、カリンガの戦いで大量の殺戮を行ったことへの償いか、死後地獄に送られあらゆる苦しみを課されることを恐れたのか、深くブッダ教に帰依した姿に重なるところがある。紀元前5世紀にインドの16大国の一つであるコーサラ国のビルダカ王がシャキア王国を殲滅したが、ビルダカ王は凱旋後、火事に遭い、苦しみの中で地獄に落ち、その地獄であらゆる苦しみを課されたと伝承されており、これがブッダ教の不殺生、非暴力の教え、戒めの背景の一つとなっている。統治の上では、国家の平安、安定への朝廷の願いが込められていたと言えようが、抗争を集結させ、統治を永続させるため仏教を精神的な拠り所にする狙いがあったと見られる。
 そして武家勢力の伸張に伴い、仏教は武家、庶民へと普及し、江戸時代には檀家制度や寺子屋などを通じ統治機構の末端の役割を果たす仏教制度として定着して行くと共に、日本の思想、文化へ幅広い影響を与えて行った。その後明治政府となり、天皇制が復活し神道が重視されることとなり、全国で廃仏毀釈が行われ寺院数は減少した。しかしもともと仏教は朝廷により受け入れられ、日本仏教として各層に広く普及、発展して来たものであるので、日本の思想、文化の中に浸透し今に伝えられているている。
 ところが仏教の創始者であるブッダ誕生の歴史的、社会的背景などについては、学校教育などにおいても、仏教系の学校は別として、ほとんど教えられていない。
 生誕地のルンビニについては1997年にUNESCOの世界遺産として認定され国際的に確立しているが、城都カピラバスツ、通称カピラ城の位置については確立していない。それ自体は2,500余年前の場所でしかないが、その謎を解いて行くと(詳細は筆者著書「お釈迦様のルーツの謎」参照)、ブッダ誕生の歴史的、社会的な背景が浮かび上がって来ると共に、ブッダ思想や文化に関心のある方々にとっては、カピラ城周辺はブッダのルーツを巡る聖地ともなる。

 2、ブッダの生誕地ルンビニ  (その2で掲載)
 3、2つのカピラバスツ城の謎 (その3で掲載)
 (1)ネパールのテイラウラコット村にあるカピラバスツ城址
 (2)インドのピプラワとガンワリアのカピラバスツ
 4、ブッダ誕生の聖地から読めること(その4で掲載)
 (1)根底にバラモンの思想と先代ブッダの存在―浮かび上がる古代ブッダ文化の存在
 (2)王子の地位を捨て悟りの道を決断した基本思想
 (3)ボードガヤで悟りを開き、「ブッダ」として80歳まで教えを説く
 (4)不殺生、非暴力の思想
 (5)ヨーロッパ、アジアを大陸横断的に見た思想の流れ
                                        (2012.11.08)(Copy Rights Reserved

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