内外政策評論 TheOpinion on Global & Domestic Issues

このブログは、広い視野から内外諸問題を分析し、提言を試みます。
Policy Essayist

激動の時代を経て生まれたブッダの基本思想     (その3)     ―ブッダのルーツの真実―

2017-06-26 | Weblog

激動の時代を経て生まれたブッダの基本思想     (その3)


    ―ブッダのルーツの真実―

 日本の多くの仏教建築、文化財が世界遺産となっており、神社などと並んで日本文化の一部となっている。国勢調査においても、仏教系統が9,600万人、総人口の約74%。

 ところがブッダ(通称お釈迦様)の誕生地やシャキア王国の王子として育った城都カピラバスツなど、その歴史的、社会的な背景については、一般には余り知られていない。ブッダの誕生地は「北インド」と習った人が多く、未だに多くの教科書にはそのように記載。

 また、ブッダは29歳までシッダールタ王子として‘カピラヴァスツ’で過ごしたが、‘カピラヴァスツ’城址とされる遺跡が、インド側とネパール側にある。これだけ社会科学が発達した今日の世界で、2つのカピラ城の謎が解決されていないのも不思議だ。そのことは、ブッダ誕生のルーツや基本思想が生まれた時代性が十分には解明されていないことを意味する。

 ブッダ誕生の歴史的、社会的な背景やルーツを知ることは日本の文化や思想をよりよく知る上で必要。

 このような観点や疑問から2011年に著書「お釈迦様のルーツの謎」(東京図書出版)を出版。また2015年、英文著書「The Mystery over Lord Buddhas Roots」がニューデリーのNirala Publicationsから国際出版致しました。

 特に英文では、このようにしてより明らかになった歴史的、文化的な背景を基礎として、ブッダの基本思想やその歴史的な意味合いに注目した。

Ⅰ.ブッダのルーツの真実と歴史的背景             (その1で掲載)

 1、ブッダの生誕地ルンビニ(ネパール)

   2、城都カピラバスツ(シャキア部族王国―ブッダ青年期の居城)と周辺の遺跡群

 3、もう一つのカピラバスツ遺跡は何かーインドのピプラワとガンワリア

 4、歴史の証人―決め手となる法顕と玄奘の記録

 

  Ⅱ、激動の時代を経て、相対的安定期に生まれたブッダの基本思想(その2に掲載)

 2つのカピラバスツの解明からブッダ時代の歴史的背景や時代性が明らかになる。

 ブッダが属するアーリアンは長い時間を掛けてイラン高原を経てインド大陸に大挙して流入し、南東に向かいつつインド亜大陸全域に拡大した。ブッダが誕生した紀元前56世紀頃には16大国が割拠して競い合う状況であったが、その後200年余りを掛けてインド北部中央部に位置するマガダ国(現在のビハール州)のマウリア王朝時代にアショカ王(紀元前268年―紀元前232年)が壮烈な戦いを繰り返し、ほぼ全域を統一した。

 ブッダ誕生の時代は、アーリアンの大規模な人口移動を伴う激変の時代から部族毎の定住の時代への移行期であり、ドラビダ族などの先住民族との戦いが終わり、支配が確立し各地に定着するにつれて人口融合が始まった相対的安定期の時代であった。

 このような激動の時代に、ブッダは生後7日ほどで母マヤデヴィ王妃を亡くしたが、29歳までシャキア王国の王子シッダールタとしてカピラ城で暮らし、29歳で修行のため城を出た。シッダールタは、各所で問答をしつつ、南東に向かいマガダ国(現在のビハール州)に入り、首都ラージャグリハ(現在のラージギル)からブッダガヤに行き、ここで数名のバラモンの修行者と共に諸欲抑制の苦行を67年行い、限界的な断食瞑想に入り遂に悟りを開いたのである。

 このようなブッダ誕生の歴史的、社会的背景から次のようなことが読み取れる。

 1、根底にバラモンの思想と先代ブッダの存在―知的文化(古代ブッダ文化)の存在

 2、王子の地位を捨て悟りの道を決断した基本思想―人類平等と人類共通の課題

 3、   生きることに立脚した悟り 

 4、   不殺生、非暴力の思想 

 5、ヨーロッパ、アジアを大陸横断的に見た思想の流れ 

 アジア、ヨーロッパの思想を大陸横断的に見てみると、ブッダ思想の誕生(紀元前623年頃~紀元前5世紀)からほぼ半世紀後に中国に孔子思想(紀元前551年から紀元前479年)、そして約1世紀後にギリシャにソクラテス、プラトン思想(紀元前469年頃から紀元前399年)が誕生し、それぞれ中国やヨーロッパの思想、哲学の基礎を築いた。

 宗教においても、キリスト教は500年後、イスラム教は1,000年以上も後であり、ブッダ思想は人類史上先駆的な思想であり、また先駆的な宗教。

 紀元前2000年から紀元前1000年頃のアーリアンの人口移動を見ると、ブッダ思想にもアーリアンの思想、文化の影響。今度はブッダ思想、文化が長い時間を経て中国やギリシャなどに運ばれ、相互に影響か。民主主義の原点となる人類平等思想や弱者救済や福祉、そして殺人や暴力への戒めの思想など、ブッダ思想に既にその萌芽。

 飛鳥時代に日本に伝来したブッダの思想、文化は、ヨーロッパからアジアへのダイナミックな人口移動の流れと徐々に進展する民族融合の過程で誕生し、そして中国やヨーロッパの思想、文化との相互交流。日本の思想、文化は、本来極東に限定された局地的なものではなく、ヨーロッパとアジアに広がるダイナミックな思想、文化の流れと繋がっていることが分かる。Copy Rights Reserved.

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

 激動の時代を経て生まれたブッダの基本思想     (その3)     ―ブッダのルーツの真実―

2017-06-26 | Weblog

 激動の時代を経て生まれたブッダの基本思想     (その3)


    ―ブッダのルーツの真実―

 日本の多くの仏教建築、文化財が世界遺産となっており、神社などと並んで日本文化の一部となっている。国勢調査においても、仏教系統が9,600万人、総人口の約74%。

 ところがブッダ(通称お釈迦様)の誕生地やシャキア王国の王子として育った城都カピラバスツなど、その歴史的、社会的な背景については、一般には余り知られていない。ブッダの誕生地は「北インド」と習った人が多く、未だに多くの教科書にはそのように記載。

 また、ブッダは29歳までシッダールタ王子として‘カピラヴァスツ’で過ごしたが、‘カピラヴァスツ’城址とされる遺跡が、インド側とネパール側にある。これだけ社会科学が発達した今日の世界で、2つのカピラ城の謎が解決されていないのも不思議だ。そのことは、ブッダ誕生のルーツや基本思想が生まれた時代性が十分には解明されていないことを意味する。

 ブッダ誕生の歴史的、社会的な背景やルーツを知ることは日本の文化や思想をよりよく知る上で必要。

 このような観点や疑問から2011年に著書「お釈迦様のルーツの謎」(東京図書出版)を出版。また2015年、英文著書「The Mystery over Lord Buddhas Roots」がニューデリーのNirala Publicationsから国際出版致しました。

 特に英文では、このようにしてより明らかになった歴史的、文化的な背景を基礎として、ブッダの基本思想やその歴史的な意味合いに注目した。

Ⅰ.ブッダのルーツの真実と歴史的背景             (その1で掲載)

 1、ブッダの生誕地ルンビニ(ネパール)

   2、城都カピラバスツ(シャキア部族王国―ブッダ青年期の居城)と周辺の遺跡群

 3、もう一つのカピラバスツ遺跡は何かーインドのピプラワとガンワリア

 4、歴史の証人―決め手となる法顕と玄奘の記録

 

  Ⅱ、激動の時代を経て、相対的安定期に生まれたブッダの基本思想(その2に掲載)

 2つのカピラバスツの解明からブッダ時代の歴史的背景や時代性が明らかになる。

 ブッダが属するアーリアンは長い時間を掛けてイラン高原を経てインド大陸に大挙して流入し、南東に向かいつつインド亜大陸全域に拡大した。ブッダが誕生した紀元前56世紀頃には16大国が割拠して競い合う状況であったが、その後200年余りを掛けてインド北部中央部に位置するマガダ国(現在のビハール州)のマウリア王朝時代にアショカ王(紀元前268年―紀元前232年)が壮烈な戦いを繰り返し、ほぼ全域を統一した。

 ブッダ誕生の時代は、アーリアンの大規模な人口移動を伴う激変の時代から部族毎の定住の時代への移行期であり、ドラビダ族などの先住民族との戦いが終わり、支配が確立し各地に定着するにつれて人口融合が始まった相対的安定期の時代であった。

 このような激動の時代に、ブッダは生後7日ほどで母マヤデヴィ王妃を亡くしたが、29歳までシャキア王国の王子シッダールタとしてカピラ城で暮らし、29歳で修行のため城を出た。シッダールタは、各所で問答をしつつ、南東に向かいマガダ国(現在のビハール州)に入り、首都ラージャグリハ(現在のラージギル)からブッダガヤに行き、ここで数名のバラモンの修行者と共に諸欲抑制の苦行を67年行い、限界的な断食瞑想に入り遂に悟りを開いたのである。

 このようなブッダ誕生の歴史的、社会的背景から次のようなことが読み取れる。

 1、根底にバラモンの思想と先代ブッダの存在―知的文化(古代ブッダ文化)の存在

 2、王子の地位を捨て悟りの道を決断した基本思想―人類平等と人類共通の課題

 3、   生きることに立脚した悟り 

 4、   不殺生、非暴力の思想 

 5、ヨーロッパ、アジアを大陸横断的に見た思想の流れ 

 アジア、ヨーロッパの思想を大陸横断的に見てみると、ブッダ思想の誕生(紀元前623年頃~紀元前5世紀)からほぼ半世紀後に中国に孔子思想(紀元前551年から紀元前479年)、そして約1世紀後にギリシャにソクラテス、プラトン思想(紀元前469年頃から紀元前399年)が誕生し、それぞれ中国やヨーロッパの思想、哲学の基礎を築いた。

 宗教においても、キリスト教は500年後、イスラム教は1,000年以上も後であり、ブッダ思想は人類史上先駆的な思想であり、また先駆的な宗教。

 紀元前2000年から紀元前1000年頃のアーリアンの人口移動を見ると、ブッダ思想にもアーリアンの思想、文化の影響。今度はブッダ思想、文化が長い時間を経て中国やギリシャなどに運ばれ、相互に影響か。民主主義の原点となる人類平等思想や弱者救済や福祉、そして殺人や暴力への戒めの思想など、ブッダ思想に既にその萌芽。

 飛鳥時代に日本に伝来したブッダの思想、文化は、ヨーロッパからアジアへのダイナミックな人口移動の流れと徐々に進展する民族融合の過程で誕生し、そして中国やヨーロッパの思想、文化との相互交流。日本の思想、文化は、本来極東に限定された局地的なものではなく、ヨーロッパとアジアに広がるダイナミックな思想、文化の流れと繋がっていることが分かる。Copy Rights Reserved.

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

 激動の時代を経て生まれたブッダの基本思想     (その3)     ―ブッダのルーツの真実―

2017-06-26 | Weblog

 激動の時代を経て生まれたブッダの基本思想     (その3)


    ―ブッダのルーツの真実―

 日本の多くの仏教建築、文化財が世界遺産となっており、神社などと並んで日本文化の一部となっている。国勢調査においても、仏教系統が9,600万人、総人口の約74%。

 ところがブッダ(通称お釈迦様)の誕生地やシャキア王国の王子として育った城都カピラバスツなど、その歴史的、社会的な背景については、一般には余り知られていない。ブッダの誕生地は「北インド」と習った人が多く、未だに多くの教科書にはそのように記載。

 また、ブッダは29歳までシッダールタ王子として‘カピラヴァスツ’で過ごしたが、‘カピラヴァスツ’城址とされる遺跡が、インド側とネパール側にある。これだけ社会科学が発達した今日の世界で、2つのカピラ城の謎が解決されていないのも不思議だ。そのことは、ブッダ誕生のルーツや基本思想が生まれた時代性が十分には解明されていないことを意味する。

 ブッダ誕生の歴史的、社会的な背景やルーツを知ることは日本の文化や思想をよりよく知る上で必要。

 このような観点や疑問から2011年に著書「お釈迦様のルーツの謎」(東京図書出版)を出版。また2015年、英文著書「The Mystery over Lord Buddhas Roots」がニューデリーのNirala Publicationsから国際出版致しました。

 特に英文では、このようにしてより明らかになった歴史的、文化的な背景を基礎として、ブッダの基本思想やその歴史的な意味合いに注目した。

Ⅰ.ブッダのルーツの真実と歴史的背景             (その1で掲載)

 1、ブッダの生誕地ルンビニ(ネパール)

   2、城都カピラバスツ(シャキア部族王国―ブッダ青年期の居城)と周辺の遺跡群

 3、もう一つのカピラバスツ遺跡は何かーインドのピプラワとガンワリア

 4、歴史の証人―決め手となる法顕と玄奘の記録

 

  Ⅱ、激動の時代を経て、相対的安定期に生まれたブッダの基本思想(その2に掲載)

 2つのカピラバスツの解明からブッダ時代の歴史的背景や時代性が明らかになる。

 ブッダが属するアーリアンは長い時間を掛けてイラン高原を経てインド大陸に大挙して流入し、南東に向かいつつインド亜大陸全域に拡大した。ブッダが誕生した紀元前56世紀頃には16大国が割拠して競い合う状況であったが、その後200年余りを掛けてインド北部中央部に位置するマガダ国(現在のビハール州)のマウリア王朝時代にアショカ王(紀元前268年―紀元前232年)が壮烈な戦いを繰り返し、ほぼ全域を統一した。

 ブッダ誕生の時代は、アーリアンの大規模な人口移動を伴う激変の時代から部族毎の定住の時代への移行期であり、ドラビダ族などの先住民族との戦いが終わり、支配が確立し各地に定着するにつれて人口融合が始まった相対的安定期の時代であった。

 このような激動の時代に、ブッダは生後7日ほどで母マヤデヴィ王妃を亡くしたが、29歳までシャキア王国の王子シッダールタとしてカピラ城で暮らし、29歳で修行のため城を出た。シッダールタは、各所で問答をしつつ、南東に向かいマガダ国(現在のビハール州)に入り、首都ラージャグリハ(現在のラージギル)からブッダガヤに行き、ここで数名のバラモンの修行者と共に諸欲抑制の苦行を67年行い、限界的な断食瞑想に入り遂に悟りを開いたのである。

 このようなブッダ誕生の歴史的、社会的背景から次のようなことが読み取れる。

 1、根底にバラモンの思想と先代ブッダの存在―知的文化(古代ブッダ文化)の存在

 2、王子の地位を捨て悟りの道を決断した基本思想―人類平等と人類共通の課題

 3、   生きることに立脚した悟り 

 4、   不殺生、非暴力の思想 

 5、ヨーロッパ、アジアを大陸横断的に見た思想の流れ 

 アジア、ヨーロッパの思想を大陸横断的に見てみると、ブッダ思想の誕生(紀元前623年頃~紀元前5世紀)からほぼ半世紀後に中国に孔子思想(紀元前551年から紀元前479年)、そして約1世紀後にギリシャにソクラテス、プラトン思想(紀元前469年頃から紀元前399年)が誕生し、それぞれ中国やヨーロッパの思想、哲学の基礎を築いた。

 宗教においても、キリスト教は500年後、イスラム教は1,000年以上も後であり、ブッダ思想は人類史上先駆的な思想であり、また先駆的な宗教。

 紀元前2000年から紀元前1000年頃のアーリアンの人口移動を見ると、ブッダ思想にもアーリアンの思想、文化の影響。今度はブッダ思想、文化が長い時間を経て中国やギリシャなどに運ばれ、相互に影響か。民主主義の原点となる人類平等思想や弱者救済や福祉、そして殺人や暴力への戒めの思想など、ブッダ思想に既にその萌芽。

 飛鳥時代に日本に伝来したブッダの思想、文化は、ヨーロッパからアジアへのダイナミックな人口移動の流れと徐々に進展する民族融合の過程で誕生し、そして中国やヨーロッパの思想、文化との相互交流。日本の思想、文化は、本来極東に限定された局地的なものではなく、ヨーロッパとアジアに広がるダイナミックな思想、文化の流れと繋がっていることが分かる。Copy Rights Reserved.

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

 激動の時代を経て生まれたブッダの基本思想     (その3)     ―ブッダのルーツの真実―

2017-06-26 | Weblog

 激動の時代を経て生まれたブッダの基本思想     (その3)


    ―ブッダのルーツの真実―

 日本の多くの仏教建築、文化財が世界遺産となっており、神社などと並んで日本文化の一部となっている。国勢調査においても、仏教系統が9,600万人、総人口の約74%。

 ところがブッダ(通称お釈迦様)の誕生地やシャキア王国の王子として育った城都カピラバスツなど、その歴史的、社会的な背景については、一般には余り知られていない。ブッダの誕生地は「北インド」と習った人が多く、未だに多くの教科書にはそのように記載。

 また、ブッダは29歳までシッダールタ王子として‘カピラヴァスツ’で過ごしたが、‘カピラヴァスツ’城址とされる遺跡が、インド側とネパール側にある。これだけ社会科学が発達した今日の世界で、2つのカピラ城の謎が解決されていないのも不思議だ。そのことは、ブッダ誕生のルーツや基本思想が生まれた時代性が十分には解明されていないことを意味する。

 ブッダ誕生の歴史的、社会的な背景やルーツを知ることは日本の文化や思想をよりよく知る上で必要。

 このような観点や疑問から2011年に著書「お釈迦様のルーツの謎」(東京図書出版)を出版。また2015年、英文著書「The Mystery over Lord Buddhas Roots」がニューデリーのNirala Publicationsから国際出版致しました。

 特に英文では、このようにしてより明らかになった歴史的、文化的な背景を基礎として、ブッダの基本思想やその歴史的な意味合いに注目した。

Ⅰ.ブッダのルーツの真実と歴史的背景             (その1で掲載)

 1、ブッダの生誕地ルンビニ(ネパール)

   2、城都カピラバスツ(シャキア部族王国―ブッダ青年期の居城)と周辺の遺跡群

 3、もう一つのカピラバスツ遺跡は何かーインドのピプラワとガンワリア

 4、歴史の証人―決め手となる法顕と玄奘の記録

 

  Ⅱ、激動の時代を経て、相対的安定期に生まれたブッダの基本思想(その2に掲載)

 2つのカピラバスツの解明からブッダ時代の歴史的背景や時代性が明らかになる。

 ブッダが属するアーリアンは長い時間を掛けてイラン高原を経てインド大陸に大挙して流入し、南東に向かいつつインド亜大陸全域に拡大した。ブッダが誕生した紀元前56世紀頃には16大国が割拠して競い合う状況であったが、その後200年余りを掛けてインド北部中央部に位置するマガダ国(現在のビハール州)のマウリア王朝時代にアショカ王(紀元前268年―紀元前232年)が壮烈な戦いを繰り返し、ほぼ全域を統一した。

 ブッダ誕生の時代は、アーリアンの大規模な人口移動を伴う激変の時代から部族毎の定住の時代への移行期であり、ドラビダ族などの先住民族との戦いが終わり、支配が確立し各地に定着するにつれて人口融合が始まった相対的安定期の時代であった。

 このような激動の時代に、ブッダは生後7日ほどで母マヤデヴィ王妃を亡くしたが、29歳までシャキア王国の王子シッダールタとしてカピラ城で暮らし、29歳で修行のため城を出た。シッダールタは、各所で問答をしつつ、南東に向かいマガダ国(現在のビハール州)に入り、首都ラージャグリハ(現在のラージギル)からブッダガヤに行き、ここで数名のバラモンの修行者と共に諸欲抑制の苦行を67年行い、限界的な断食瞑想に入り遂に悟りを開いたのである。

 このようなブッダ誕生の歴史的、社会的背景から次のようなことが読み取れる。

 1、根底にバラモンの思想と先代ブッダの存在―知的文化(古代ブッダ文化)の存在

 2、王子の地位を捨て悟りの道を決断した基本思想―人類平等と人類共通の課題

 3、   生きることに立脚した悟り 

 4、   不殺生、非暴力の思想 

 5、ヨーロッパ、アジアを大陸横断的に見た思想の流れ 

 アジア、ヨーロッパの思想を大陸横断的に見てみると、ブッダ思想の誕生(紀元前623年頃~紀元前5世紀)からほぼ半世紀後に中国に孔子思想(紀元前551年から紀元前479年)、そして約1世紀後にギリシャにソクラテス、プラトン思想(紀元前469年頃から紀元前399年)が誕生し、それぞれ中国やヨーロッパの思想、哲学の基礎を築いた。

 宗教においても、キリスト教は500年後、イスラム教は1,000年以上も後であり、ブッダ思想は人類史上先駆的な思想であり、また先駆的な宗教。

 紀元前2000年から紀元前1000年頃のアーリアンの人口移動を見ると、ブッダ思想にもアーリアンの思想、文化の影響。今度はブッダ思想、文化が長い時間を経て中国やギリシャなどに運ばれ、相互に影響か。民主主義の原点となる人類平等思想や弱者救済や福祉、そして殺人や暴力への戒めの思想など、ブッダ思想に既にその萌芽。

 飛鳥時代に日本に伝来したブッダの思想、文化は、ヨーロッパからアジアへのダイナミックな人口移動の流れと徐々に進展する民族融合の過程で誕生し、そして中国やヨーロッパの思想、文化との相互交流。日本の思想、文化は、本来極東に限定された局地的なものではなく、ヨーロッパとアジアに広がるダイナミックな思想、文化の流れと繋がっていることが分かる。Copy Rights Reserved.

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

 激動の時代を経て生まれたブッダの基本思想     (その3)     ―ブッダのルーツの真実―

2017-06-26 | Weblog

 激動の時代を経て生まれたブッダの基本思想     (その3)


    ―ブッダのルーツの真実―

 日本の多くの仏教建築、文化財が世界遺産となっており、神社などと並んで日本文化の一部となっている。国勢調査においても、仏教系統が9,600万人、総人口の約74%。

 ところがブッダ(通称お釈迦様)の誕生地やシャキア王国の王子として育った城都カピラバスツなど、その歴史的、社会的な背景については、一般には余り知られていない。ブッダの誕生地は「北インド」と習った人が多く、未だに多くの教科書にはそのように記載。

 また、ブッダは29歳までシッダールタ王子として‘カピラヴァスツ’で過ごしたが、‘カピラヴァスツ’城址とされる遺跡が、インド側とネパール側にある。これだけ社会科学が発達した今日の世界で、2つのカピラ城の謎が解決されていないのも不思議だ。そのことは、ブッダ誕生のルーツや基本思想が生まれた時代性が十分には解明されていないことを意味する。

 ブッダ誕生の歴史的、社会的な背景やルーツを知ることは日本の文化や思想をよりよく知る上で必要。

 このような観点や疑問から2011年に著書「お釈迦様のルーツの謎」(東京図書出版)を出版。また2015年、英文著書「The Mystery over Lord Buddhas Roots」がニューデリーのNirala Publicationsから国際出版致しました。

 特に英文では、このようにしてより明らかになった歴史的、文化的な背景を基礎として、ブッダの基本思想やその歴史的な意味合いに注目した。

Ⅰ.ブッダのルーツの真実と歴史的背景             (その1で掲載)

 1、ブッダの生誕地ルンビニ(ネパール)

   2、城都カピラバスツ(シャキア部族王国―ブッダ青年期の居城)と周辺の遺跡群

 3、もう一つのカピラバスツ遺跡は何かーインドのピプラワとガンワリア

 4、歴史の証人―決め手となる法顕と玄奘の記録

 

  Ⅱ、激動の時代を経て、相対的安定期に生まれたブッダの基本思想(その2に掲載)

 2つのカピラバスツの解明からブッダ時代の歴史的背景や時代性が明らかになる。

 ブッダが属するアーリアンは長い時間を掛けてイラン高原を経てインド大陸に大挙して流入し、南東に向かいつつインド亜大陸全域に拡大した。ブッダが誕生した紀元前56世紀頃には16大国が割拠して競い合う状況であったが、その後200年余りを掛けてインド北部中央部に位置するマガダ国(現在のビハール州)のマウリア王朝時代にアショカ王(紀元前268年―紀元前232年)が壮烈な戦いを繰り返し、ほぼ全域を統一した。

 ブッダ誕生の時代は、アーリアンの大規模な人口移動を伴う激変の時代から部族毎の定住の時代への移行期であり、ドラビダ族などの先住民族との戦いが終わり、支配が確立し各地に定着するにつれて人口融合が始まった相対的安定期の時代であった。

 このような激動の時代に、ブッダは生後7日ほどで母マヤデヴィ王妃を亡くしたが、29歳までシャキア王国の王子シッダールタとしてカピラ城で暮らし、29歳で修行のため城を出た。シッダールタは、各所で問答をしつつ、南東に向かいマガダ国(現在のビハール州)に入り、首都ラージャグリハ(現在のラージギル)からブッダガヤに行き、ここで数名のバラモンの修行者と共に諸欲抑制の苦行を67年行い、限界的な断食瞑想に入り遂に悟りを開いたのである。

 このようなブッダ誕生の歴史的、社会的背景から次のようなことが読み取れる。

 1、根底にバラモンの思想と先代ブッダの存在―知的文化(古代ブッダ文化)の存在

 2、王子の地位を捨て悟りの道を決断した基本思想―人類平等と人類共通の課題

 3、   生きることに立脚した悟り 

 4、   不殺生、非暴力の思想 

 5、ヨーロッパ、アジアを大陸横断的に見た思想の流れ 

 アジア、ヨーロッパの思想を大陸横断的に見てみると、ブッダ思想の誕生(紀元前623年頃~紀元前5世紀)からほぼ半世紀後に中国に孔子思想(紀元前551年から紀元前479年)、そして約1世紀後にギリシャにソクラテス、プラトン思想(紀元前469年頃から紀元前399年)が誕生し、それぞれ中国やヨーロッパの思想、哲学の基礎を築いた。

 宗教においても、キリスト教は500年後、イスラム教は1,000年以上も後であり、ブッダ思想は人類史上先駆的な思想であり、また先駆的な宗教。

 紀元前2000年から紀元前1000年頃のアーリアンの人口移動を見ると、ブッダ思想にもアーリアンの思想、文化の影響。今度はブッダ思想、文化が長い時間を経て中国やギリシャなどに運ばれ、相互に影響か。民主主義の原点となる人類平等思想や弱者救済や福祉、そして殺人や暴力への戒めの思想など、ブッダ思想に既にその萌芽。

 飛鳥時代に日本に伝来したブッダの思想、文化は、ヨーロッパからアジアへのダイナミックな人口移動の流れと徐々に進展する民族融合の過程で誕生し、そして中国やヨーロッパの思想、文化との相互交流。日本の思想、文化は、本来極東に限定された局地的なものではなく、ヨーロッパとアジアに広がるダイナミックな思想、文化の流れと繋がっていることが分かる。Copy Rights Reserved.

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

 激動の時代を経て生まれたブッダの基本思想     (その2)     ―ブッダのルーツの真実―

2017-06-26 | Weblog

 激動の時代を経て生まれたブッダの基本思想     (その2)


    ―ブッダのルーツの真実―

 日本の多くの仏教建築、文化財が世界遺産となっており、神社などと並んで日本文化の一部となっている。国勢調査においても、仏教系統が9,600万人、総人口の約74%。

 ところがブッダ(通称お釈迦様)の誕生地やシャキア王国の王子として育った城都カピラバスツなど、その歴史的、社会的な背景については、一般には余り知られていない。ブッダの誕生地は「北インド」と習った人が多く、未だに多くの教科書にはそのように記載。

 また、ブッダは29歳までシッダールタ王子として‘カピラヴァスツ’で過ごしたが、‘カピラヴァスツ’城址とされる遺跡が、インド側とネパール側にある。これだけ社会科学が発達した今日の世界で、2つのカピラ城の謎が解決されていないのも不思議だ。そのことは、ブッダ誕生のルーツや基本思想が生まれた時代性が十分には解明されていないことを意味する。

 ブッダ誕生の歴史的、社会的な背景やルーツを知ることは日本の文化や思想をよりよく知る上で必要。

 このような観点や疑問から2011年に著書「お釈迦様のルーツの謎」(東京図書出版)を出版。また2015年、英文著書「The Mystery over Lord Buddhas Roots」がニューデリーのNirala Publicationsから国際出版致しました。

 特に英文では、このようにしてより明らかになった歴史的、文化的な背景を基礎として、ブッダの基本思想やその歴史的な意味合いに注目した。

Ⅰ.ブッダのルーツの真実と歴史的背景             (その1で掲載)

 1、ブッダの生誕地ルンビニ(ネパール)

  2、城都カピラバスツ(シャキア部族王国―ブッダ青年期の居城)と周辺の遺跡群

 3、もう一つのカピラバスツ遺跡は何かーインドのピプラワとガンワリア

 4、歴史の証人―決め手となる法顕と玄奘の記録

 

  Ⅱ、激動の時代を経て、相対的安定期に生まれたブッダの基本思想

 2つのカピラバスツの解明からブッダ時代の歴史的背景や時代性が明らかになる。

 ブッダが属するアーリアンは長い時間を掛けてイラン高原を経てインド大陸に大挙して流入し、南東に向かいつつインド亜大陸全域に拡大した。ブッダが誕生した紀元前56世紀頃には16大国が割拠して競い合う状況であったが、その後200年余りを掛けてインド北部中央部に位置するマガダ国(現在のビハール州)のマウリア王朝時代にアショカ王(紀元前268年―紀元前232年)が壮烈な戦いを繰り返し、ほぼ全域を統一した。

 ブッダ誕生の時代は、アーリアンの大規模な人口移動を伴う激変の時代から部族毎の定住の時代への移行期であり、ドラビダ族などの先住民族との戦いが終わり、支配が確立し各地に定着するにつれて人口融合が始まった相対的安定期の時代であった。

 このような激動の時代に、ブッダは生後7日ほどで母マヤデヴィ王妃を亡くしたが、29歳までシャキア王国の王子シッダールタとしてカピラ城で暮らし、29歳で修行のため城を出た。シッダールタは、各所で問答をしつつ、南東に向かいマガダ国(現在のビハール州)に入り、首都ラージャグリハ(現在のラージギル)からブッダガヤに行き、ここで数名のバラモンの修行者と共に諸欲抑制の苦行を67年行い、限界的な断食瞑想に入り遂に悟りを開いたのである。

 このようなブッダ誕生の歴史的、社会的背景から次のようなことが読み取れる。1、根底にバラモンの思想と先代ブッダの存在―知的文化(古代ブッダ文化)の存在

 ブッダは、シャキア族の王子であり、バラモン教の教育を受けた。他方、この地域には悟りを開いた者がブッダ(賢者)として崇められる風習があり、複数の先代ブッダ(賢者)の存在が遺跡として残っている。従って、‘先代ブッダ’を宗教上どのように解釈するかは宗教上の問題であるが、この地域に古代ブッダ文化とも言える知的文化、知的基盤が存在したことを意味し、そのような文化的、歴史的な背景から今日のブッダ思想が誕生したと言える。

 2、王子の地位を捨て悟りの道を決断した基本思想―人類平等と人類共通の課題

 ブッダは、シャキア族の王子シッダールタとしてクシャトリア(騎士階級)に属し、支配階級として恵まれた生活を送っていたと見られる。英語ではブッダ卿としてLordの敬称が付されている。

 そのシッダールタ王子が、長じるにつれて城外で「病、老、死」で苦しむ人々を見て、精神的な救いの手を差し伸べるべく悟りの道を求め、城を出た。

 この点は、ブッダが慈悲深かったと言う以上に、ブッダの基本思想を示している。

 一つは、人類平等の思想に立脚。

 ブッダは、支配階級に属する王子という恵まれた地位を捨てて城外の人々にも救いの手を差し伸べる道を選んだということであり、人と人の間に壁を設けないという人類平等の思想に立脚しており、今日の民主主義思想に繋がる重要な思想的な萌芽と言える。ともすると民主主義思想は欧米からもたらされた思想と思われるところがあるが、その思想はキリスト教が誕生する500年以上も前に誕生しており、その思想がブッダ教の根底にあり、日本人もこの思想に古くから接していると言えるのだろう。

 これは、アーリアンが南下するにつれて先住民族との融合が更に進み、ブッダ思想が浸透するにつれて、聖職者・賢者を頂点とするバラモン教の教えが後退して行くことを意味する。そしてバラモン教は庶民化を余儀なくされ、部族信仰の神々と結合して行ったと見られる。

 もう一つは、「病、老、死」という課題に普遍性。

ブッダが精神的な手を差し伸べようとした「病、老、死」の問題は、日本だけでなく多くの国における今日的な課題であり、時代、地域を超えた課題の普遍性がある。

 

 3、   生きることに立脚した悟り

 シッダールタは、長期の断食で極限状態に達していたある日、うっすらと目を開け、弱々しく、しかししっかりした足取りでガンジス河の支流ナイランジャナー川に行き体を清めた。そして川沿いを通りかかった村娘スジャータはそのやつれ切ったブッダの姿を見掛け、家に戻りミルク粥を作りシッダールタに差し出した。シッダールタはこれを受け取り、食べた後、改めて瞑想に入り、悟りを開いた。

 これを見て、シッダールタと共に修行を重ねていた一部の者は去って行った。シッダールタは堕落したと。

 しかし、このことはシッダールタの悟りにおいて、人類平等思想と並んで重要な意味を持っている。シッダールタが、断食で極限状態に達していた中でまず悟ったことは、過度の欲求や煩悩はもとより好ましくないが、極端な抑制や苦行も、欲望自体を消滅させるものでもなく、「解脱」に導くものでもない、生命の摂理に従って自然に生きることに真理があることをまず悟ったのだ。これが「中庸の道」、「中道の法」と言われる教えである。そしてシッダールタは、生きるということを基礎に、最終的な瞑想に入り、悟りを開きブッダ(賢人、聖人)となったのである。そしてブッダは、マガダ国とコーサラ国の首都を行き来し、この間郷里シャキア王国を訪れながら、80歳に至るまで生きる教えを説いたのだ。

 

 4、   不殺生、非暴力の思想

 各種の文献によると、ブッダは、コーサラ国のヴイルダカ王がシャキアを攻撃するとの知らせを受け、深く憂い、進軍する路上の枯れ木の下に座り、ヴイルダカ王に憂慮の気持ちを伝えたところ、王は一旦兵を引き返した。しかしヴイルダカ王は再三に亘り進軍を繰り返し、ブッダはこれを阻み続けたが、最終的に進軍を許した。何故か。何故進軍を許したのか。ブッダが一人身を挺して進軍を阻んだことにより、多くの人々に避難する時間を与え、命を救ったと見られる。ブッダは、不殺生、非暴力を実践して見せた。

 ブッダは、徹底した非暴力、不殺生を重んじ、結果としてシャキア族の滅亡を防げなかったように見える。しかしヴィルダカ王は凱旋後、火事に遭い苦しみの中で命を失い、地獄に落ち、そこであらゆる苦しみを与えられたとされている。ヴイルダカ王の末路が殺生への戒めだ。

 マガダ国はブッダが修行をし、悟りを開いたところであり、また代々ブッダを庇護したところであるが、後世において、ビルダカ王の支配地コーサラ地域はマガダ国に滅ぼされた上、ブッダの教えはマウリア王朝のアショカ王によって信仰、崇拝され、普及されたのである。アショカ王(在位紀元前269年より232年頃、ブッダの活動拠点だったマガダ国のマウリア王朝)は、インド統一の過程で、隣国カリンガ国との闘いで大量の殺戮を行った。アショカ王は、報いを恐れ不戦と不殺生を誓い、ブッダ教に深く帰依し、普及に努めたのであろう。

 このような歴史は、ブッダの非暴力、不殺生の教えや精神はアショカ王はじめ人々の心に届き、非情な暴力に勝利したことを物語っていると言えよう。

 更に後世において、インドが第一次世界大戦後英国からの独立運動(インド国民会議)を起こした際、マハトマ・ガンジーが非暴力の不服従運動を貫いた。ガンジーはヒンドウ教徒ではあったが、ブッダの不殺生、非暴力の教えがインド全体に大きな影響を与えていたのであろう。世界の強国英国に武器を持たずに立ちはだかったマハトマ・ガンジーの姿は、ブッダが一人枯れ木の下に座し、大国コーサラ国のヴイルダカ王の進軍を阻止しようとした姿と重なる。もしガンジーが、武器を持って英国に立ち向かっていたら、ひとたまりもなく潰されていたであろう。

 現実論からすると、こうした徹底した非暴力主義、戦争や武力紛争の無い世界への願いは理想でしかなく、非現実的と一蹴されるであろう。

 しかし本当にこのような現実論だけで良いのであろうか。戦争や武力紛争の無い世界が「理想」であれば、理想に向かって努力することが人類の知恵ではないだろうか。人類の歴史を切り開いて来たのは、どの分野においても理想に基づくものである。無論、現実論は重要であり、極論をしているのではない。必要な備えは行う。

 現在、世界には地域紛争が絶えない。パレスチナ・イスラエル、中東紛争は長期に継続し、アルカイーダによる国際テロもこれが遠因となっていると共に、チュニジアやリビアで始まった「アラブの春」と呼ばれる民主化の動きはエジプトそしてシリアへと広がっている。米国のハンテイントン教授は、1996年に「文明の衝突」と題する論文を発表した。東西冷戦の後、各国国民が宗教や価値観その他で一致点(アイデンテイテイ)を求めてグループ化する動きが活発化することを予測したもので、拡散するモスレム勢力とキリスト教勢力の対立やアフリカでの民族間対立など、現象面では当たっている。だが「文明の衝突」には、このような対立、紛争がどのように和解出来るのか、その答えは示されていない。

 またアルカイーダによる国際テロと国家との戦いのように、伝統的な主権国家間の紛争、戦争ではなく、国境無き国際的テロ集団を武力で根絶することは困難な上、民間人(シビリアン)を巻き込むことや第3国の主権侵害などの問題が生じ易くなり、これまでの戦時法規等では律し切れない側面がある。軍事抑止を含む伝統的な安全保障論についても、核兵器やミサイル・衛星などの宇宙兵器を含む大胆な軍備縮小や衛星打ち上げの国際管理などに人類の英知を集めても良い。国際的な軍備管理は各国にとっての安全保障にも資する。

 ブッダの非暴力、不殺生の教えは、人種的、宗教的紛争の絶えない今日において、ユニークで示唆に富むものであり、改めて世界が着目し、必要としている教えではないだろうか。因みに、ブッダにしてもガンジーにしても決して不抵抗主義ではない。ブッダは、ヴィルダカ王の大軍の進行を何回も身を挺して阻み、多くの人々の命を救った。ガンジーは、英国の支配の前に非暴力、不服従で対抗し、インドを独立に導いた。

 

 5、ヨーロッパ、アジアを大陸横断的に見た思想の流れ  (その3に掲載)

Copy Rights Reserved.

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

激動の時代を経て生まれたブッダの基本思想     (その1)     ―ブッダのルーツの真実―

2017-06-26 | Weblog

激動の時代を経て生まれたブッダの基本思想     (その1)


    ―ブッダのルーツの真実―

 日本の多くの仏教建築、文化財が世界遺産となっており、神社などと並んで日本文化の一部となっている。国勢調査においても、仏教系統が9,600万人、総人口の約74%。

 ところがブッダ(通称お釈迦様)の誕生地やシャキア王国の王子として育った城都カピラバスツなど、その歴史的、社会的な背景については、一般には余り知られていない。ブッダの誕生地は「北インド」と習った人が多く、未だに多くの教科書にはそのように記載。

 また、ブッダは29歳までシッダールタ王子として‘カピラヴァスツ’で過ごしたが、‘カピラヴァスツ’城址とされる遺跡が、インド側とネパール側にある。これだけ社会科学が発達した今日の世界で、2つのカピラ城の謎が解決されていないのも不思議だ。そのことは、ブッダ誕生のルーツや基本思想が生まれた時代性が十分には解明されていないことを意味する。

 ブッダ誕生の歴史的、社会的な背景やルーツを知ることは日本の文化や思想をよりよく知る上で必要。

 このような観点や疑問から2011年に著書「お釈迦様のルーツの謎」(東京図書出版)を出版。また2015年、英文著書「The Mystery over Lord Buddhas Roots」がニューデリーのNirala Publicationsから国際出版致しました。

 特に英文では、このようにしてより明らかになった歴史的、文化的な背景を基礎として、ブッダの基本思想やその歴史的な意味合いに注目した。

Ⅰ.ブッダのルーツの真実と歴史的背景

 1、ブッダの生誕地ルンビニ(ネパール)

 現在、ブッダの誕生地はネパールのルンビニであることが国際的に認められているが、国際的に知られるようになったのはそう古いことではない。インド自体が世界に知られるようになったのは、英国の植民地となり英領インドとなった19世紀になってからだ。

 そして189612月に、英領インド北西州の考古学調査官フュラー博士が、ネパール南部のルンビニに碑文が刻まれている石柱があるとの噂を聞き、ネパールの許可を得てネパール側と合同で行う形でこの「アショカ・ピラー」(アショカ王の石柱)を発掘し、碑文を解読した。これによりブッダの生誕地を巡る当時の論争は決着した。

 アショカ王(在位 紀元前269年より232年頃)は、紀元前2世紀中頃にほぼインド全域を統一しマガダ国マウリア王朝の全盛期を築いたが、カリンガの闘いでの大虐殺への報いを恐れ、不戦と不殺生を誓い、ブッダ教に深く帰依したと言われている。アショカ王は、ブッダゆかりの地を訪問し、ルンビニ他に石柱を建てた。石柱には、パーリー語でアショカ王が即位20年を記念し、“ブッダがここに誕生したことを思い、・・・石柱を建立した”旨刻まれている。

 この発見により、19世紀末のブッダの誕生地論争に終止符が打たれたが、インドでは生誕地は北インドと思われていることが多く、英国の著名な百科事典にも1990年代までブッダの生誕地は‘北インド’と記されていた。第一次世界大戦後、インドの独立運動が激化する中で、ネパールはインドからの侵攻を恐れ、これら遺跡を埋め戻すなどの保護策を取ったが、その後再発掘され、1997年にUNESCOの世界文化遺産に登録されるなど、ブッダの生誕地としてのルンビニが国際的に認められるようになった。

 インドとネパールの間には、古くから深いジャングルに覆われた国境が残っているが、英国がインドを植民地とした頃から、ネパールは鎖国政策を取ったため、インド領内における欧州の研究家によるブッダ遺跡の発掘や研究はインド領内で行われ、計算や推測でブッダの生誕地などが決められたことから、ブッダの生誕地は‘北インド’という誤った認識が流布された、報道や百科事典にも載ったのであろう。日本の教科書の多くが、未だにブッダの生誕地を‘北インド’と教えている。教科書の通り答えれば試験は通るのであろうが、真実ではないようだ。

 ブッダは、紀元前6世紀から5世紀にかけて現在のネパール南部ルンビニでシャキア王国(釈迦族の部族王国)の王子(シッダールタ)として誕生した。当時出産は母の実家で行うことが慣例であったので、母マヤデヴィ王妃はカピラバスツ城から故郷であるコーリア王国に向かう途中、王園であるルンビニ園で出産した。

 ブッダの生誕地ルンビニは、カピラバスツ城の位置を特定する上で基点となるので重要。

  2、城都カピラバスツ(シャキア部族王国―ブッダ青年期の居城)と周辺の遺跡群

 ところがマヤデヴィ王妃が誕生したばかりの王子を連れて帰ったシャキア王国のカピラバスツ城跡が、生誕地ルンビニの西25キロほどのネパール側のテイラウラコット村とルンビニからインド国境を越えた南西87キロほどのピプラワ/ガンワリア村にある。

1)テイラウラコット村のカピラバスツ城址

 ルンビニから西に25キロほどのところにあるテイラウラコット村のカピラバスツ城址には、煉瓦造りの西門やそこから南北に伸びる城壁や内部の建築物の土台などが見られる。また城外に質素な博物館があり、出土品の白色土器や黒色土器などの陶器や貨幣と見られるトークンなどが展示されている。これらの出土品の多くは、紀元前56世紀のものであり、時代的にもブッダの時代と一致する。19世紀末から20世紀初頭に掛けて欧州の考古学者等が発掘をしたことが記録に残っているが、風化による損傷や持ち去られることを恐れ、ほとんどが埋め戻されている。

 ブッダが属するシャキア(釈迦)族は、北西インドを中心に勢力を広げていたコーサラ族の流れを汲んでいるとされている。インド北西地域には、紀元前2000年頃からアーリア人がイラン高原を経由して長い年月を掛けて流入し、人口圧力の中で先住民との抗争を続けながら南東方向に浸透した。そして紀元前10世紀頃から先住民のトラヴィダ族等との融合が始まるが、アーリアンの支配と種族の保全の観点から、バラモン(司祭・聖職者階級)、クシャトリア(騎士・支配階級)、ヴァイシャ(農業・生産者階級)及びスードラ(従属者階級)というカースト制度が発達したと見られる。

 紀元前6世紀頃から紀元前5世紀頃にかけては、インド北西部を中心として16大国が割拠し競い合っていたが、コーサラ国がブッダが修行に向かったマガダ国などと並んで最も有力な国の一つであった。コーサラ国は、現在のインドのウッタル・プラデッシュ州の北西部に位置する。そして時の国王が、故あって第一王妃の王子、王女に森に行き、国を作るよう指示した。王子、王女たちは「ヒマラヤ南麓」に辿り着き、そこで賢者カピラ・ゴータマに出会い、シャキア王国を築いたと言われている。

2)テイラウラコット村のカピラバスツ城址の周辺に多くの遺跡。

 またカピラバスツ城址のあるテイラウラコット村の半径7キロの周辺には、城壁の外側に父王スッドウダナの墳墓と言われている大小2つの仏塔(ツイン・ストウーパ)やブッダが悟りを開いた後帰郷し父王スッドウダナと再会した場所(クダン)、そしてシャキヤ族がコーサラ国のヴィルダカ王に殲滅されたサガルハワなど、素朴ではあるが歴史的には興味ある遺跡が数多くある。

 更に、アショカ王はルンビニの他、現在のゴータマ・ブッダ以前に存在したとされる先代ブッダ(賢人、聖職者)の生誕地やゆかりの地を訪問し、ルンビニと同様のチュナール砂岩の石柱を建立し、遺跡が残っている。

ⅰ)寄り添って並ぶ2つの仏塔 (トウウイン・ストウーパ)

ⅱ)歴史を刻む2つのアショカ・ピラー。アショカ王が何度もブッダの郷里に足を運んだ証拠。

・ゴテイハワのアショカ・ピラー

・ニグリハワのアショカ・ピラー石柱上部には、次の趣旨の4行の碑文が刻まれている。

 ピヤダシ王(アショカ王の別称)は「・・・即位[20]を経て国王自ら訪れ

[そして]国王は[この石柱を建立することを]指示した」)

ⅲ)シッダールタ王子が、覚醒後ブッダとして父王と再会した場所クダンー4つの僧院遺跡やマウンドが。

 (背景:ブッダは、ラージグリハ(現在のインドのビハール州)で富豪より寄進された竹林の僧院(漢字表記 竹林精舎)からカピラバスツまで約770キロ、2ヶ月ほどの道。)

 ⅳ)サガルハワのストウーパ(仏塔)遺跡


 法顕伝は、「大城の西北に数百千のストウーパがある。」等と記述。

 父スッドーダナ王の逝去後、一族から王位を継承したマハナマ王になった頃、コーサラ国の王位を奪ったヴイルダカ王が、ブッダの再三の制止を振り切ってカピラバスツに攻め入り、攻防の末サガルハワで多数のシャキア族の人々を殺戮したとされている。多くのシャキアの人々は、この悲劇を前にしてこの地を去り、アフガニスタン地域を含め各地に移動したが、多くはブッダのインドの活動拠点であった南東方向に移動したと言われている。

 このような歴史的な遺跡の存在は、ここにシャキア王国の城都カピラバスツがあったことを如実に物語っていると共に、カピラ城址周辺には古代ブッダ文化地帯とも言える知的文化があったこと示している。

 

 3、もう一つのカピラバスツ遺跡は何かーインドのピプラワとガンワリア

 ところがインド側のピプラワ村にもカピラバスツとされる遺跡がある。その南東1キロほどのところに「パレス」と表示されている遺跡がある。ネパール国境に接するウッタル・プラデッシュ州にあり、直線距離ではルンビニの西南西約16キロのところに位置するが、インドーネパール国境沿いは古くから存在するジャングルがあり、国境をまたぐ道は少ないので、地域住民のみが行き来できる道では87キロ近くある。

 ピプラワのカピラバスツには、大きな仏塔遺跡があり、仏舎利が入った骨壷が発見されている。その周囲に煉瓦造りの建物の遺跡がある。四方の建物はほぼ同様の構造となっており、中央の広間を独居房が囲む内部の構造から、仏塔を中心とする僧院群のように見える。周囲に「城壁」もない。「パレス」と称されるガンワリアの遺跡も同様の構造の僧院群に見える。その中にひときわ重厚な僧院遺跡が一つある。それが「パレス」とは思えない。

 ピプラワの遺跡も貴重なブッダ遺跡の一つではあるが、遺跡を比較するとネパール側の遺跡がカピラバスツ城跡と見られる。

 

 4、歴史の証人―決め手となる法顕と玄奘の記録

 シャキア王国が「ヒマラヤ南麓」に築かれたとの記録はあるが、その居城カピラバスツがあった所在地を含め、それ以上詳細な記録はない。しかし西暦5世紀と7世紀にこの地を訪れた者がおり、それぞれ記録を残している。中国の僧侶法顕がブッダの聖地を訪問し、その200年ほど後に玄奘が法顕の道を辿るように訪問している。

 法顕は仏国記の「カピラバスツ城」の項で、城址の様子を述べた後、「城の東50里に王園がある。王園の名は論民(ルンビニのこと)と言う。」と記述している。中国の「里」を換算すると、「城の東25キロのところに王園がある」ことになるので、逆にルンビニを基点とすると25キロ西にカピラバスツ城があることになる。実際にブッダの生誕地ルンビニから西に25キロほどのところにテイラウラコット村があり、そこにカピラバスツ城址とされる遺跡がある。

 玄奘も、法顕と同様のルートを辿りコーサラ国の首都シュラバステイや僧院などを経てカピラヴァスツを訪問し、「大唐西域記」においては「カピラヴァスツ国」の項で記述しているが、法顕とは異なる記述をしている。カピラヴァスツを「城」ではなく「国」と捉えている。その状況を、「周囲4千里ある。空城(人気のない町)は十数あり、荒廃は既に甚だしい。王城は崩れ落ちて、周囲の量もさだかでない。」などとしており、およそ法顕とは異なる記述をしている。嘗て欧州の研究家が、玄奘の足取りを詳しくトレースしたが、複雑なジグザグ状態の道程で、法顕の足取りとは異なることが分かっている。

 法顕の同地訪問後200年以上も経っているので、遺跡は壊れ、ジャングルに覆われて、地域住民の意識からも薄れていたと思われるので、別のところに案内された可能性が強い。  

ルンビニについても、法顕で記述されている石柱には触れておらず、周囲は草木に覆われ、虎や象などの野獣も出没するので、長居は無用と早々に退散していることが描かれている。玄奘の「天竺」訪問を伝奇風に描いた‘三蔵法師’(「西遊記」)では、孫悟空やサゴジョウなどが従者として法師を色々な外敵から守っているが、もとより「大唐西域記」にはそのような記述はない。

 玄奘が描写した「カピラバスツ国」の状況は、現在のインド側のカピラバスツの風情と非常に似ている。ブッダに関連する貴重な遺跡ではあるが、城壁はなく、周囲に民家なども無く、正に「周囲の量もさだかでない。」そもそもカピラバスツは、シャキア王国の城であるので、国王になっていないブッダをまつる仏塔が中心に据えられることはない。ブッダは、29歳で城を出て、修行し、ブッダとなって何回も郷里を訪れているが、カピラバスツ城には宿泊せず、父王スッドウダナが用意したクダンの僧院に滞在した。ピプラワ村にあるカピラバスツは、コーサラ国のビルダカ王がシャキア王国を攻めた際に、シャキア族が難を逃れてた時に建てられた僧院群か、ブッダ没後に建てられた仏塔を中心とする僧院群であろう。因みに、仏舎利は当初8つの部族王国に分けられ、その後マガダ国のアショカ王がインド地域を統一した後に各所から仏舎利を集め、多くの場所に分散したと言われている。だから仏舎利が多くの場所で祭られていても不思議はない。

 

  Ⅱ、激動の時代を経て、相対的安定期に生まれたブッダの基本思想

(その2に掲載)

   1、 根底にバラモンの思想と先代ブッダの存在

        ―知的文化(古代ブッダ文化)の存在―

   2、 王子の地位を捨て悟りの道を決断した基本思想―人類平等と人類共通の課題

   3、 生きることに立脚した悟り

   4、 不殺生、非暴力の思想

   5、 ヨーロッパ、アジアを大陸横断的に見た思想の流れ

Copy Rights Reserved.

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

 日・ロ共同経済活動の早期実施を期待する

2017-06-26 | Weblog

 日・ロ共同経済活動の早期実施を期待する

 2016121516日、プーチン・ロシア大統領が訪日し、山口県と東京で安倍首相との一連の首脳協議が行われた後、首相官邸で共同記者会見が行われ、今次協議の結果などが報告された。

 1、 平和条約締結に向けて出発点となる北方4島での日・ロ共同経済活動

 両国首脳は、20161216日、共同記者会見に際し声明を発出し、「択捉島、国後島、色丹島及び歯舞群島における日本とロシアによる共同経済活動に関する協議を開始する」ことに合意し、この協議が、「平和条約の締結に向けた重要な一歩になり得ること」を相互に確認したことを明らかにした。

 201612月のプーチン大統領の訪日に際しては、この他、日本の旧島民の墓参等に際する4島訪問手続きの簡素化、及び8項目の協力プランに沿って、医療・保健、エネルギー、産業多様化、極東開発、先端技術協力等の分野で合計12の文書に署名し、またウラジオストック等での都市づくり、生産管理に関する訪日研修、極東での温室野菜栽培事業、農産物乾燥保存技術等など、企業等が行うプロジェクトに関して68件の文書に署名された。これらはいわば‘日・ロ間の平和条約締結に向けての環境作り’、或いは平和条約の果実の前倒しとも言える措置であるが、今次会談の最大の進展は、‘特別な制度の下での北方四島での日・ロ共同経済活動’について合意したことであろう。

 2、日・ロ共同経済活動の早期実施が不可欠

 ‘北方四島での日・ロ共同経済活動’は、平和条約に関する両国の立場を害さず、「特別な制度」の下で実施されることになっている。即ち両国の北方4島の領土権に関する立場を害することのない「特別な制度」の下で実施されることになるが、領土権がぶつかり合うことのない「国際的な特区」或いは自由貿易地域的な取り決めが必要となると見られる。この点で日・ロ政府当局間が双方の立場に固執すれば長期に亘る協議となる恐れがあり、更に平和条約締結が遠のく恐れがあるが、首脳間で十分協議の上で合意したことであるので、一両年中にも「特別な制度」での取り決めに合意し、実施に移すことが不可欠である。

 3、 日本の旧島民地権者の地権回復が緊要

 日・ロ共同経済活動は、‘漁業,海面養殖,観光,医療,環境その他の分野’を含む分野で進められることになるが、具体的な活動に当たって施設や道路等のインフラ整備が行われることになろう。そのため4島の各所で土地が収容、利用されることになると予想されるので、旧島民及びその後継者の地権が侵害される恐れがある。

 従って、日・ロ共同経済活動の実施に当たっては、旧島民の地権をまず保護する必要があろう。

 今次会談で、日本の旧島民の墓参等に際し4島訪問手続きの簡素化が行われることは歓迎されるとことであるが、日・ロ共同経済活動が実施されるに際し、日本の旧島民の地権(4島における土地登記者及びその相続者等)を回復、或いは代替物件の提供が不可欠であろう。旧島民は17千人ほどであったが、ソ連の軍事支配の下で強制的に退去させられたものである。これらの島民はほとんどが軍人ではなく、首都東京から1,000キロ以上も離れ、戦争や戦闘には関与していない一般市民(シビリアン)であったので、シビリアンが所有、相続している土地、不動産は一定の保護、補償がなされるべきであろう。

 国家の領土権は、国家と国家の間の問題であり、シビリアンである個人の地権、所有権とは異なり、個人の土地、財産所有権の問題であるので、責任ある国家としてはそれを尊重する義務がある。国家間の戦争において、戦闘に関与していない一般市民の生まれ、育った故郷に平穏に住む権利を奪うことは、今日の国際通念において人道上も、人権の上でも容認されて良いものではない。プーチン大統領は、現在北方4島に住んでいるロシア人の生活があることを強調している。しかしソ連が占領する以前からこれら4島に住んでいた日本人の旧島民が17千名ほどおり、日・ロ共同経済活動と並行して、或いはその一環として、それら島民が故郷に住む権利を回復すべきであろう。プーチン大統領も、ロシア人の生活だけでなく、日本の旧島民の気持ちは十分に分かるであろう。

 日・ロ間には‘平和条約’こそないが、戦闘は終結し、1956年には外交関係が再開し、事実上の平和は維持されており、その中で北方4島において共同経済活動を実施しようとしている。事実上の平和が維持されている今日、4島に住んでいた日本の旧島民及びその家族が故郷に住む権利、そして地権の回復か代替地の提供が早期に行われることが強く期待される。(201715.)Copy Rights Reserved.

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

歴史的な英文著書‘The Mystery over Lord Buddha’s Roots’ が国際出版

2017-06-26 | Weblog

歴史的な英文著書‘The Mystery over Lord Buddha’s Roots’ が国際出版

歴史的な英文著書‘The Mystery over Lord Buddha’s Roots’(著者小嶋光昭)が国際出版され(Nirala Publications, New Delhi, India)、Amazon India(タイトル又は著者名で検索)又は Manohar (Lord Buddha’s Roots又は著者名で検索)でも購入出来ます。

タイトルは“ミステリー”となっていますが、これまで明らかにされていなかった驚くべき真実が示されています。シャキア(釈迦)王国の存亡の真実。修行後ブッダとなったシッダールタ王子が29歳まで過ごしたカピラヴァスツ城の場所の真実。そしてそのような真実に新たな光を当てることにより、劇的に変化するブッダ時代の歴史的、社会的な背景の真実。そしてブッダの基本となる思想や哲学。これまで多くの点で闇とされ、或いは解明が阻まれて来た真実が明らかにされています。

本著は、ブッダのルーツ、そしてシャキア部族王国の社会的、文化的背景等につき、驚くような歴史的な解明を行っています。2500年以上前にネパールのルンビニで生まれ、カピラヴァスツ城で過ごしていたシッダールタ王子は、城を出て修行し、偉大なる思想家、賢者であるブッダとなる道を歩んだ。しかし、カピラヴァスツ城の具体的な場所や恵まれた立場にあったシッダールタ王子が何故城を後にしたのか、そしてシャキア部族王国が何故ジャングルの中に消えることになったのか。謎は未だ解明されていない。それどころか、カピラヴァスツ城と言われる遺跡は、今日でもネパールのテイラウラコット村とインド側のピプラワ・ガンワリアの2か所にあり、イギリスの著名な百科事典でも明確な説明がされていない。本著はその真実を解明しており、歴史的な意義があります。

その上、そのような真実の解明の過程から、ブッダ時代の社会的、文化的背景がより明らかになります。そして、そのような社会的、文化的時代性を背景にして、人類平等思想、生命の摂理に基づいて自然に生活すること(中庸の法、中庸の道)の重要性、病・老・死に直面した社会福利思想、そして不殺生・非暴力思想などのブッダ思想が生まれたことが鮮明に示されています。そのような根本思想は、ユーラシア大陸の東西に伝波し、その後生成して行く東西の思想、哲学や宗教の発展に影響を与えています。

そして、そのようなブッダの中核的な思想は、今日の世界にも重要な指針を提供していると言えるのではないでしょうか。

日本には、仏教は飛鳥時代に(仏教公伝西暦552年)中国、朝鮮を介して漢語訳されたと経論等と共に伝えられ、推古天皇が仏教を普及するようにとの勅令を出し、聖徳太も17条憲法(西暦604年)で僧侶を敬うようにとの趣旨を明らかにして以来、朝廷に受け入れられることになった。

そして武家勢力の伸張に伴い、仏教は武家、庶民へと普及し、江戸時代には檀家制度や寺子屋などを通じ統治機構の末端の役割を果たす仏教制度として確立され、日本の思想、文化へ幅広い影響を与えている。

仏教は、日本固有の仏教制度として定着しているが、ブッダ教は、アーリアン(インド・ヨーロッパ語族)の長期にわたるインド亜半島への移動という大きな社会変動の中で生まれた思想である。ブッダの基本思想は、その後ユーラシア大陸の東西に伝播し諸思想、哲学に影響を与えた普遍性のある国際的な思想であることを改めて理解する必要があろう。本著はそのようなブッダ思想誕生の真実と歴史的、社会的な背景を提供している。

 

*出版社: Nirala Publications, New Delhi, India.

*インターネット・ブックショップ:Bagchee Books, Amazon India、及びManohar他

・日本語版「お釈迦さまのルーツの謎」(初版、東京図書出版)は、アマゾン他、インターネット・ブックショップで購入出来ます。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Historic new book ‘The Mystery over Lord Buddha’s Roots’ is now available on e-bookshops

2017-06-26 | Weblog

Historic new book ‘The Mystery over Lord Buddha’s Roots’ is now available

on e-bookshops

The historic new book ‘The Mystery over Lord Buddha’s Roots’, written by Mr. Mitsuaki KOJIMA, Ambassador Ret., is now available on Amazon India(search by Title or Author’s name). It is also available on Manohar (e-book shop, search by Lord Buddha’s Roots, or Author’s name).

The title of the book is ‘The Mystery over Lord Buddha’s Roots.’, but it is only a mystery until you read it through and find the Truth. Its real theme is the truth. Truth about the rise and fall of the Shakya Kingdom, and Truth about the location of Kapilavastu, the resident Castle where Buddha, as Prince Siddartha, lived until 29 years old. Truth about Buddha’s thinking and philosophy. So many aspects which have been kept in the dark and unsolved are shed light.

The book offers an amazing and historic revelation of the facts about Lord Buddha's roots and the social and cultural background around Buddha’s period. Prince Siddhartha, born in Lumbini, Nepal, over 2,500 years ago and raised at the Castle Kapilabastu of the Shakya Kingdom, but left the Castle to become a Buddha, great thinker or Sage. There still remains mystery about the location of the Kapila Castle, the historical and cultural background of why he left the Castle, giving up his prestigious position as Crown Prince, and how Shakya Kingdom vanished in the jungle. Over the centuries around Buddha’s time, there started a dynamic population flow of the Aryan race from Europe to the Indian subcontinent, naturally causing a racial fusion with indigenous population. And the dramatically changing historical and social background of Buddha’s age required a new way of thinking, wisdom and philosophy.  

The author points out, by shedding light on such facts, how the Buddha teachings such as human equality, human welfare facing ailing, aging and dying, the Law of the Golden Mean to live naturally in accordance with the providence of life and no killings, non-violence must have travelled far and wide from the area and influenced the subsequent developments of philosophical schools and religions across the Eurasian Continent.

And the core elements of Buddha teachings still offer an important guidance at the present time.

 

*The publisher is Nirala Publications, New Delhi, India.

*Available also on Bagchee Books, Amazon India, Amazon.com and other e-bookshops

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

NHK受信料の義務化と放送枠の大幅自由化を支持          (その2)

2017-06-26 | Weblog

NHK受信料の義務化と放送枠の大幅自由化を支持          (その2)

 自民党情報通信戦略調査会の放送法改正に関する小委員会は、9月24日、NHKの受信料を契約の有無に拘わらず支払いを義務化する提言をまとめたようだ。NHKの受信料の世帯支払い率は全国値推計で75.6%(2014年度末現在)と低い上、家庭訪問などの徴収コストが735億円(2015年度予算、受信料収入の10.7%)にも達しており、徴収コストが膨大なことに加え、4分の1近くが未払いとなっていることが問題視されている。

 このようなことから、同小委は、不払い者に対する罰則(英国BBCの例)やテレビの有無に拘わらず世帯毎に徴収(ドイツ公共放送の例)などを参考にして、受信料義務化を検討するよう提言している。

 NHK受信料の徴収コストが巨額な上、世帯不払い率が全国で4分の1に達している状況は速やかに是正することが望ましいので、徴収コストが掛からない形での受信料支払いの義務化を支持したい。

 しかし義務化の前に、公共放送としてどのような番組を放送すべきかなどを精査することが不可欠ではないだろうか。

 1、「公共放送」として維持すべき放送事業とは                          (その1で掲載)

 2、英国の国営放送BBCも巨大化から事業規模縮小に転換              (その1で掲載)

 3、受信料徴収の義務化と徴収コストの削減    

 上記の通り、「公共放送」としての事業規模を大幅に縮小し、それ以外で民営化(民間委託等を含む)出来るものを自由化すると共に、「公共放送」の受信料については義務化し、735億円もの巨額な徴収コストを無くす一方、公平な受信料支払いに基づく事業収入の安定化を図ることが望ましい。

 徴収方法については、世帯別や個人からの徴収を前提とする義務化であれば、税金として徴収する方が合理的であろうが、税金化には財源の制約や「報道の自由」との問題がある。また受像機、受信機を持たない者からも徴収することは不適当であろう。

 上記の観点から、「テレビ受像機、ラジオ受信機」の購入時点に、‘NHK受信料’として製品価格の一定比率の低額料金を徴収し、販売業者がNHKに納付する方式を検討してみてはどうだろうか。「テレビ受像機、ラジオ受信機」の定義や受信料の額については別途定めることとするが、「テレビ受像機、ラジオ受信機」以外からは徴収しない。これにより、視聴者との関係では製品購入時での契約となり、政府(総務省)の関与もほとんど無くなるので、「報道の自由」についても確保し易くなろう。

 なおBS衛星放送についてはコード化が可能であるので、世界各国で行われている通り、有料の個人契約とする。既にNHK海外放送(衛星放送)については有料の個人契約となっている。(2015.11.25.) (All Rights Reserved.)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

新都知事にコンパクトなオリンピック予算等を要請する!!

2017-06-26 | Weblog

新都知事にコンパクトなオリンピック予算等を要請する!!

 舛添都知事の辞任を受けて行われる都知事選は、候補者がほぼ出揃い、各候補の都政への基本姿勢や施策等が示され始めている。

 しかし誰が都知事になっても、2020年の東京オリンピック・パラリンピックについては、東京都内の限られた競技場でコンパクトに実施するとの当初の案よりも、実施を東京都に限定せず、広く地方の利用可能な施設や場所を最大限に活用し、コンパクトな予算の下で実施されるよう要請したい。

 2020年にオリンピック・パラリンピックが日本で開催されることは歓迎するところである。しかしコンパクトな実施を売り物にして開催を獲得したが、新国立競技場の建設費用はもとより、競艇場や選手村、プレスセンターの設置など、当初予算より遥かに高額な費用が予想されるなど、予算、即ち納税者、国民の負担からすると膨大で、コンパクトどころではない。都民の負担はさることながら、コンパクトではあるが多額の予算を投じることは、東京の一極集中を更に促進することになろう。何故東京にのみ限定し、このような膨大な資金を投じなくてはならなおのだろうか。

 地方は過疎化し、限界集落が増え続けているので、地方の活性化の一助とするためにも、地方で活用できる施設等は最大限に活用し、いわばオールジャパンで東京、地方ともども楽しめるオリンピック・パラリンピックにすべきではないだろうか。もし総費用において余り差がなくても、東京にだけ投じるよりも、地方にも資金を投じる方が有意義であろう。

 選手等の負担を軽減する意味で交通手段の確保が重要となるが、専用列車や臨時便の増発、或いはタッチ・アンド・ゴーで搭乗できるシャトル便の確保やICカードの発給などで、移動を円滑にするなどの工夫は可能であろう。またこのような新たな移動モデルは、大会後の交通手段の向上となるものと予想される。

(2016 .7.12.)(All Rights Reserved)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

 激動の時代を経て生まれたブッダの基本思想     (その2)     ―ブッダのルーツの真実―

2017-06-19 | Weblog

 激動の時代を経て生まれたブッダの基本思想     (その2)


    ―ブッダのルーツの真実―

 日本の多くの仏教建築、文化財が世界遺産となっており、神社などと並んで日本文化の一部となっている。国勢調査においても、仏教系統が9,600万人、総人口の約74%。

 ところがブッダ(通称お釈迦様)の誕生地やシャキア王国の王子として育った城都カピラバスツなど、その歴史的、社会的な背景については、一般には余り知られていない。ブッダの誕生地は「北インド」と習った人が多く、未だに多くの教科書にはそのように記載。

 また、ブッダは29歳までシッダールタ王子として‘カピラヴァスツ’で過ごしたが、‘カピラヴァスツ’城址とされる遺跡が、インド側とネパール側にある。これだけ社会科学が発達した今日の世界で、2つのカピラ城の謎が解決されていないのも不思議だ。そのことは、ブッダ誕生のルーツや基本思想が生まれた時代性が十分には解明されていないことを意味する。

 ブッダ誕生の歴史的、社会的な背景やルーツを知ることは日本の文化や思想をよりよく知る上で必要。

 このような観点や疑問から2011年に著書「お釈迦様のルーツの謎」(東京図書出版)を出版。また2015年、英文著書「The Mystery over Lord Buddhas Roots」がニューデリーのNirala Publicationsから国際出版致しました。

 特に英文では、このようにしてより明らかになった歴史的、文化的な背景を基礎として、ブッダの基本思想やその歴史的な意味合いに注目した。

Ⅰ.ブッダのルーツの真実と歴史的背景             (その1で掲載)

 1、ブッダの生誕地ルンビニ(ネパール)

  2、城都カピラバスツ(シャキア部族王国―ブッダ青年期の居城)と周辺の遺跡群

 3、もう一つのカピラバスツ遺跡は何かーインドのピプラワとガンワリア

 4、歴史の証人―決め手となる法顕と玄奘の記録

 

  Ⅱ、激動の時代を経て、相対的安定期に生まれたブッダの基本思想

 2つのカピラバスツの解明からブッダ時代の歴史的背景や時代性が明らかになる。

 ブッダが属するアーリアンは長い時間を掛けてイラン高原を経てインド大陸に大挙して流入し、南東に向かいつつインド亜大陸全域に拡大した。ブッダが誕生した紀元前56世紀頃には16大国が割拠して競い合う状況であったが、その後200年余りを掛けてインド北部中央部に位置するマガダ国(現在のビハール州)のマウリア王朝時代にアショカ王(紀元前268年―紀元前232年)が壮烈な戦いを繰り返し、ほぼ全域を統一した。

 ブッダ誕生の時代は、アーリアンの大規模な人口移動を伴う激変の時代から部族毎の定住の時代への移行期であり、ドラビダ族などの先住民族との戦いが終わり、支配が確立し各地に定着するにつれて人口融合が始まった相対的安定期の時代であった。

 このような激動の時代に、ブッダは生後7日ほどで母マヤデヴィ王妃を亡くしたが、29歳までシャキア王国の王子シッダールタとしてカピラ城で暮らし、29歳で修行のため城を出た。シッダールタは、各所で問答をしつつ、南東に向かいマガダ国(現在のビハール州)に入り、首都ラージャグリハ(現在のラージギル)からブッダガヤに行き、ここで数名のバラモンの修行者と共に諸欲抑制の苦行を67年行い、限界的な断食瞑想に入り遂に悟りを開いたのである。

 このようなブッダ誕生の歴史的、社会的背景から次のようなことが読み取れる。1、根底にバラモンの思想と先代ブッダの存在―知的文化(古代ブッダ文化)の存在

 ブッダは、シャキア族の王子であり、バラモン教の教育を受けた。他方、この地域には悟りを開いた者がブッダ(賢者)として崇められる風習があり、複数の先代ブッダ(賢者)の存在が遺跡として残っている。従って、‘先代ブッダ’を宗教上どのように解釈するかは宗教上の問題であるが、この地域に古代ブッダ文化とも言える知的文化、知的基盤が存在したことを意味し、そのような文化的、歴史的な背景から今日のブッダ思想が誕生したと言える。

 2、王子の地位を捨て悟りの道を決断した基本思想―人類平等と人類共通の課題

 ブッダは、シャキア族の王子シッダールタとしてクシャトリア(騎士階級)に属し、支配階級として恵まれた生活を送っていたと見られる。英語ではブッダ卿としてLordの敬称が付されている。

 そのシッダールタ王子が、長じるにつれて城外で「病、老、死」で苦しむ人々を見て、精神的な救いの手を差し伸べるべく悟りの道を求め、城を出た。

 この点は、ブッダが慈悲深かったと言う以上に、ブッダの基本思想を示している。

 一つは、人類平等の思想に立脚。

 ブッダは、支配階級に属する王子という恵まれた地位を捨てて城外の人々にも救いの手を差し伸べる道を選んだということであり、人と人の間に壁を設けないという人類平等の思想に立脚しており、今日の民主主義思想に繋がる重要な思想的な萌芽と言える。ともすると民主主義思想は欧米からもたらされた思想と思われるところがあるが、その思想はキリスト教が誕生する500年以上も前に誕生しており、その思想がブッダ教の根底にあり、日本人もこの思想に古くから接していると言えるのだろう。

 これは、アーリアンが南下するにつれて先住民族との融合が更に進み、ブッダ思想が浸透するにつれて、聖職者・賢者を頂点とするバラモン教の教えが後退して行くことを意味する。そしてバラモン教は庶民化を余儀なくされ、部族信仰の神々と結合して行ったと見られる。

 もう一つは、「病、老、死」という課題に普遍性。

ブッダが精神的な手を差し伸べようとした「病、老、死」の問題は、日本だけでなく多くの国における今日的な課題であり、時代、地域を超えた課題の普遍性がある。

 

 3、   生きることに立脚した悟り

 シッダールタは、長期の断食で極限状態に達していたある日、うっすらと目を開け、弱々しく、しかししっかりした足取りでガンジス河の支流ナイランジャナー川に行き体を清めた。そして川沿いを通りかかった村娘スジャータはそのやつれ切ったブッダの姿を見掛け、家に戻りミルク粥を作りシッダールタに差し出した。シッダールタはこれを受け取り、食べた後、改めて瞑想に入り、悟りを開いた。

 これを見て、シッダールタと共に修行を重ねていた一部の者は去って行った。シッダールタは堕落したと。

 しかし、このことはシッダールタの悟りにおいて、人類平等思想と並んで重要な意味を持っている。シッダールタが、断食で極限状態に達していた中でまず悟ったことは、過度の欲求や煩悩はもとより好ましくないが、極端な抑制や苦行も、欲望自体を消滅させるものでもなく、「解脱」に導くものでもない、生命の摂理に従って自然に生きることに真理があることをまず悟ったのだ。これが「中庸の道」、「中道の法」と言われる教えである。そしてシッダールタは、生きるということを基礎に、最終的な瞑想に入り、悟りを開きブッダ(賢人、聖人)となったのである。そしてブッダは、マガダ国とコーサラ国の首都を行き来し、この間郷里シャキア王国を訪れながら、80歳に至るまで生きる教えを説いたのだ。

 

 4、   不殺生、非暴力の思想

 各種の文献によると、ブッダは、コーサラ国のヴイルダカ王がシャキアを攻撃するとの知らせを受け、深く憂い、進軍する路上の枯れ木の下に座り、ヴイルダカ王に憂慮の気持ちを伝えたところ、王は一旦兵を引き返した。しかしヴイルダカ王は再三に亘り進軍を繰り返し、ブッダはこれを阻み続けたが、最終的に進軍を許した。何故か。何故進軍を許したのか。ブッダが一人身を挺して進軍を阻んだことにより、多くの人々に避難する時間を与え、命を救ったと見られる。ブッダは、不殺生、非暴力を実践して見せた。

 ブッダは、徹底した非暴力、不殺生を重んじ、結果としてシャキア族の滅亡を防げなかったように見える。しかしヴィルダカ王は凱旋後、火事に遭い苦しみの中で命を失い、地獄に落ち、そこであらゆる苦しみを与えられたとされている。ヴイルダカ王の末路が殺生への戒めだ。

 マガダ国はブッダが修行をし、悟りを開いたところであり、また代々ブッダを庇護したところであるが、後世において、ビルダカ王の支配地コーサラ地域はマガダ国に滅ぼされた上、ブッダの教えはマウリア王朝のアショカ王によって信仰、崇拝され、普及されたのである。アショカ王(在位紀元前269年より232年頃、ブッダの活動拠点だったマガダ国のマウリア王朝)は、インド統一の過程で、隣国カリンガ国との闘いで大量の殺戮を行った。アショカ王は、報いを恐れ不戦と不殺生を誓い、ブッダ教に深く帰依し、普及に努めたのであろう。

 このような歴史は、ブッダの非暴力、不殺生の教えや精神はアショカ王はじめ人々の心に届き、非情な暴力に勝利したことを物語っていると言えよう。

 更に後世において、インドが第一次世界大戦後英国からの独立運動(インド国民会議)を起こした際、マハトマ・ガンジーが非暴力の不服従運動を貫いた。ガンジーはヒンドウ教徒ではあったが、ブッダの不殺生、非暴力の教えがインド全体に大きな影響を与えていたのであろう。世界の強国英国に武器を持たずに立ちはだかったマハトマ・ガンジーの姿は、ブッダが一人枯れ木の下に座し、大国コーサラ国のヴイルダカ王の進軍を阻止しようとした姿と重なる。もしガンジーが、武器を持って英国に立ち向かっていたら、ひとたまりもなく潰されていたであろう。

 現実論からすると、こうした徹底した非暴力主義、戦争や武力紛争の無い世界への願いは理想でしかなく、非現実的と一蹴されるであろう。

 しかし本当にこのような現実論だけで良いのであろうか。戦争や武力紛争の無い世界が「理想」であれば、理想に向かって努力することが人類の知恵ではないだろうか。人類の歴史を切り開いて来たのは、どの分野においても理想に基づくものである。無論、現実論は重要であり、極論をしているのではない。必要な備えは行う。

 現在、世界には地域紛争が絶えない。パレスチナ・イスラエル、中東紛争は長期に継続し、アルカイーダによる国際テロもこれが遠因となっていると共に、チュニジアやリビアで始まった「アラブの春」と呼ばれる民主化の動きはエジプトそしてシリアへと広がっている。米国のハンテイントン教授は、1996年に「文明の衝突」と題する論文を発表した。東西冷戦の後、各国国民が宗教や価値観その他で一致点(アイデンテイテイ)を求めてグループ化する動きが活発化することを予測したもので、拡散するモスレム勢力とキリスト教勢力の対立やアフリカでの民族間対立など、現象面では当たっている。だが「文明の衝突」には、このような対立、紛争がどのように和解出来るのか、その答えは示されていない。

 またアルカイーダによる国際テロと国家との戦いのように、伝統的な主権国家間の紛争、戦争ではなく、国境無き国際的テロ集団を武力で根絶することは困難な上、民間人(シビリアン)を巻き込むことや第3国の主権侵害などの問題が生じ易くなり、これまでの戦時法規等では律し切れない側面がある。軍事抑止を含む伝統的な安全保障論についても、核兵器やミサイル・衛星などの宇宙兵器を含む大胆な軍備縮小や衛星打ち上げの国際管理などに人類の英知を集めても良い。国際的な軍備管理は各国にとっての安全保障にも資する。

 ブッダの非暴力、不殺生の教えは、人種的、宗教的紛争の絶えない今日において、ユニークで示唆に富むものであり、改めて世界が着目し、必要としている教えではないだろうか。因みに、ブッダにしてもガンジーにしても決して不抵抗主義ではない。ブッダは、ヴィルダカ王の大軍の進行を何回も身を挺して阻み、多くの人々の命を救った。ガンジーは、英国の支配の前に非暴力、不服従で対抗し、インドを独立に導いた。

 

 5、ヨーロッパ、アジアを大陸横断的に見た思想の流れ  (その3に掲載)

Copy Rights Reserved.

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

 激動の時代を経て生まれたブッダの基本思想     (その2)     ―ブッダのルーツの真実―

2017-06-19 | Weblog

 激動の時代を経て生まれたブッダの基本思想     (その2)


    ―ブッダのルーツの真実―

 日本の多くの仏教建築、文化財が世界遺産となっており、神社などと並んで日本文化の一部となっている。国勢調査においても、仏教系統が9,600万人、総人口の約74%。

 ところがブッダ(通称お釈迦様)の誕生地やシャキア王国の王子として育った城都カピラバスツなど、その歴史的、社会的な背景については、一般には余り知られていない。ブッダの誕生地は「北インド」と習った人が多く、未だに多くの教科書にはそのように記載。

 また、ブッダは29歳までシッダールタ王子として‘カピラヴァスツ’で過ごしたが、‘カピラヴァスツ’城址とされる遺跡が、インド側とネパール側にある。これだけ社会科学が発達した今日の世界で、2つのカピラ城の謎が解決されていないのも不思議だ。そのことは、ブッダ誕生のルーツや基本思想が生まれた時代性が十分には解明されていないことを意味する。

 ブッダ誕生の歴史的、社会的な背景やルーツを知ることは日本の文化や思想をよりよく知る上で必要。

 このような観点や疑問から2011年に著書「お釈迦様のルーツの謎」(東京図書出版)を出版。また2015年、英文著書「The Mystery over Lord Buddhas Roots」がニューデリーのNirala Publicationsから国際出版致しました。

 特に英文では、このようにしてより明らかになった歴史的、文化的な背景を基礎として、ブッダの基本思想やその歴史的な意味合いに注目した。

Ⅰ.ブッダのルーツの真実と歴史的背景             (その1で掲載)

 1、ブッダの生誕地ルンビニ(ネパール)

  2、城都カピラバスツ(シャキア部族王国―ブッダ青年期の居城)と周辺の遺跡群

 3、もう一つのカピラバスツ遺跡は何かーインドのピプラワとガンワリア

 4、歴史の証人―決め手となる法顕と玄奘の記録

 

  Ⅱ、激動の時代を経て、相対的安定期に生まれたブッダの基本思想

 2つのカピラバスツの解明からブッダ時代の歴史的背景や時代性が明らかになる。

 ブッダが属するアーリアンは長い時間を掛けてイラン高原を経てインド大陸に大挙して流入し、南東に向かいつつインド亜大陸全域に拡大した。ブッダが誕生した紀元前56世紀頃には16大国が割拠して競い合う状況であったが、その後200年余りを掛けてインド北部中央部に位置するマガダ国(現在のビハール州)のマウリア王朝時代にアショカ王(紀元前268年―紀元前232年)が壮烈な戦いを繰り返し、ほぼ全域を統一した。

 ブッダ誕生の時代は、アーリアンの大規模な人口移動を伴う激変の時代から部族毎の定住の時代への移行期であり、ドラビダ族などの先住民族との戦いが終わり、支配が確立し各地に定着するにつれて人口融合が始まった相対的安定期の時代であった。

 このような激動の時代に、ブッダは生後7日ほどで母マヤデヴィ王妃を亡くしたが、29歳までシャキア王国の王子シッダールタとしてカピラ城で暮らし、29歳で修行のため城を出た。シッダールタは、各所で問答をしつつ、南東に向かいマガダ国(現在のビハール州)に入り、首都ラージャグリハ(現在のラージギル)からブッダガヤに行き、ここで数名のバラモンの修行者と共に諸欲抑制の苦行を67年行い、限界的な断食瞑想に入り遂に悟りを開いたのである。

 このようなブッダ誕生の歴史的、社会的背景から次のようなことが読み取れる。1、根底にバラモンの思想と先代ブッダの存在―知的文化(古代ブッダ文化)の存在

 ブッダは、シャキア族の王子であり、バラモン教の教育を受けた。他方、この地域には悟りを開いた者がブッダ(賢者)として崇められる風習があり、複数の先代ブッダ(賢者)の存在が遺跡として残っている。従って、‘先代ブッダ’を宗教上どのように解釈するかは宗教上の問題であるが、この地域に古代ブッダ文化とも言える知的文化、知的基盤が存在したことを意味し、そのような文化的、歴史的な背景から今日のブッダ思想が誕生したと言える。

 2、王子の地位を捨て悟りの道を決断した基本思想―人類平等と人類共通の課題

 ブッダは、シャキア族の王子シッダールタとしてクシャトリア(騎士階級)に属し、支配階級として恵まれた生活を送っていたと見られる。英語ではブッダ卿としてLordの敬称が付されている。

 そのシッダールタ王子が、長じるにつれて城外で「病、老、死」で苦しむ人々を見て、精神的な救いの手を差し伸べるべく悟りの道を求め、城を出た。

 この点は、ブッダが慈悲深かったと言う以上に、ブッダの基本思想を示している。

 一つは、人類平等の思想に立脚。

 ブッダは、支配階級に属する王子という恵まれた地位を捨てて城外の人々にも救いの手を差し伸べる道を選んだということであり、人と人の間に壁を設けないという人類平等の思想に立脚しており、今日の民主主義思想に繋がる重要な思想的な萌芽と言える。ともすると民主主義思想は欧米からもたらされた思想と思われるところがあるが、その思想はキリスト教が誕生する500年以上も前に誕生しており、その思想がブッダ教の根底にあり、日本人もこの思想に古くから接していると言えるのだろう。

 これは、アーリアンが南下するにつれて先住民族との融合が更に進み、ブッダ思想が浸透するにつれて、聖職者・賢者を頂点とするバラモン教の教えが後退して行くことを意味する。そしてバラモン教は庶民化を余儀なくされ、部族信仰の神々と結合して行ったと見られる。

 もう一つは、「病、老、死」という課題に普遍性。

ブッダが精神的な手を差し伸べようとした「病、老、死」の問題は、日本だけでなく多くの国における今日的な課題であり、時代、地域を超えた課題の普遍性がある。

 

 3、   生きることに立脚した悟り

 シッダールタは、長期の断食で極限状態に達していたある日、うっすらと目を開け、弱々しく、しかししっかりした足取りでガンジス河の支流ナイランジャナー川に行き体を清めた。そして川沿いを通りかかった村娘スジャータはそのやつれ切ったブッダの姿を見掛け、家に戻りミルク粥を作りシッダールタに差し出した。シッダールタはこれを受け取り、食べた後、改めて瞑想に入り、悟りを開いた。

 これを見て、シッダールタと共に修行を重ねていた一部の者は去って行った。シッダールタは堕落したと。

 しかし、このことはシッダールタの悟りにおいて、人類平等思想と並んで重要な意味を持っている。シッダールタが、断食で極限状態に達していた中でまず悟ったことは、過度の欲求や煩悩はもとより好ましくないが、極端な抑制や苦行も、欲望自体を消滅させるものでもなく、「解脱」に導くものでもない、生命の摂理に従って自然に生きることに真理があることをまず悟ったのだ。これが「中庸の道」、「中道の法」と言われる教えである。そしてシッダールタは、生きるということを基礎に、最終的な瞑想に入り、悟りを開きブッダ(賢人、聖人)となったのである。そしてブッダは、マガダ国とコーサラ国の首都を行き来し、この間郷里シャキア王国を訪れながら、80歳に至るまで生きる教えを説いたのだ。

 

 4、   不殺生、非暴力の思想

 各種の文献によると、ブッダは、コーサラ国のヴイルダカ王がシャキアを攻撃するとの知らせを受け、深く憂い、進軍する路上の枯れ木の下に座り、ヴイルダカ王に憂慮の気持ちを伝えたところ、王は一旦兵を引き返した。しかしヴイルダカ王は再三に亘り進軍を繰り返し、ブッダはこれを阻み続けたが、最終的に進軍を許した。何故か。何故進軍を許したのか。ブッダが一人身を挺して進軍を阻んだことにより、多くの人々に避難する時間を与え、命を救ったと見られる。ブッダは、不殺生、非暴力を実践して見せた。

 ブッダは、徹底した非暴力、不殺生を重んじ、結果としてシャキア族の滅亡を防げなかったように見える。しかしヴィルダカ王は凱旋後、火事に遭い苦しみの中で命を失い、地獄に落ち、そこであらゆる苦しみを与えられたとされている。ヴイルダカ王の末路が殺生への戒めだ。

 マガダ国はブッダが修行をし、悟りを開いたところであり、また代々ブッダを庇護したところであるが、後世において、ビルダカ王の支配地コーサラ地域はマガダ国に滅ぼされた上、ブッダの教えはマウリア王朝のアショカ王によって信仰、崇拝され、普及されたのである。アショカ王(在位紀元前269年より232年頃、ブッダの活動拠点だったマガダ国のマウリア王朝)は、インド統一の過程で、隣国カリンガ国との闘いで大量の殺戮を行った。アショカ王は、報いを恐れ不戦と不殺生を誓い、ブッダ教に深く帰依し、普及に努めたのであろう。

 このような歴史は、ブッダの非暴力、不殺生の教えや精神はアショカ王はじめ人々の心に届き、非情な暴力に勝利したことを物語っていると言えよう。

 更に後世において、インドが第一次世界大戦後英国からの独立運動(インド国民会議)を起こした際、マハトマ・ガンジーが非暴力の不服従運動を貫いた。ガンジーはヒンドウ教徒ではあったが、ブッダの不殺生、非暴力の教えがインド全体に大きな影響を与えていたのであろう。世界の強国英国に武器を持たずに立ちはだかったマハトマ・ガンジーの姿は、ブッダが一人枯れ木の下に座し、大国コーサラ国のヴイルダカ王の進軍を阻止しようとした姿と重なる。もしガンジーが、武器を持って英国に立ち向かっていたら、ひとたまりもなく潰されていたであろう。

 現実論からすると、こうした徹底した非暴力主義、戦争や武力紛争の無い世界への願いは理想でしかなく、非現実的と一蹴されるであろう。

 しかし本当にこのような現実論だけで良いのであろうか。戦争や武力紛争の無い世界が「理想」であれば、理想に向かって努力することが人類の知恵ではないだろうか。人類の歴史を切り開いて来たのは、どの分野においても理想に基づくものである。無論、現実論は重要であり、極論をしているのではない。必要な備えは行う。

 現在、世界には地域紛争が絶えない。パレスチナ・イスラエル、中東紛争は長期に継続し、アルカイーダによる国際テロもこれが遠因となっていると共に、チュニジアやリビアで始まった「アラブの春」と呼ばれる民主化の動きはエジプトそしてシリアへと広がっている。米国のハンテイントン教授は、1996年に「文明の衝突」と題する論文を発表した。東西冷戦の後、各国国民が宗教や価値観その他で一致点(アイデンテイテイ)を求めてグループ化する動きが活発化することを予測したもので、拡散するモスレム勢力とキリスト教勢力の対立やアフリカでの民族間対立など、現象面では当たっている。だが「文明の衝突」には、このような対立、紛争がどのように和解出来るのか、その答えは示されていない。

 またアルカイーダによる国際テロと国家との戦いのように、伝統的な主権国家間の紛争、戦争ではなく、国境無き国際的テロ集団を武力で根絶することは困難な上、民間人(シビリアン)を巻き込むことや第3国の主権侵害などの問題が生じ易くなり、これまでの戦時法規等では律し切れない側面がある。軍事抑止を含む伝統的な安全保障論についても、核兵器やミサイル・衛星などの宇宙兵器を含む大胆な軍備縮小や衛星打ち上げの国際管理などに人類の英知を集めても良い。国際的な軍備管理は各国にとっての安全保障にも資する。

 ブッダの非暴力、不殺生の教えは、人種的、宗教的紛争の絶えない今日において、ユニークで示唆に富むものであり、改めて世界が着目し、必要としている教えではないだろうか。因みに、ブッダにしてもガンジーにしても決して不抵抗主義ではない。ブッダは、ヴィルダカ王の大軍の進行を何回も身を挺して阻み、多くの人々の命を救った。ガンジーは、英国の支配の前に非暴力、不服従で対抗し、インドを独立に導いた。

 

 5、ヨーロッパ、アジアを大陸横断的に見た思想の流れ  (その3に掲載)

Copy Rights Reserved.

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

激動の時代を経て生まれたブッダの基本思想     (その1)     ―ブッダのルーツの真実―

2017-06-19 | Weblog

激動の時代を経て生まれたブッダの基本思想     (その1)


    ―ブッダのルーツの真実―

 日本の多くの仏教建築、文化財が世界遺産となっており、神社などと並んで日本文化の一部となっている。国勢調査においても、仏教系統が9,600万人、総人口の約74%。

 ところがブッダ(通称お釈迦様)の誕生地やシャキア王国の王子として育った城都カピラバスツなど、その歴史的、社会的な背景については、一般には余り知られていない。ブッダの誕生地は「北インド」と習った人が多く、未だに多くの教科書にはそのように記載。

 また、ブッダは29歳までシッダールタ王子として‘カピラヴァスツ’で過ごしたが、‘カピラヴァスツ’城址とされる遺跡が、インド側とネパール側にある。これだけ社会科学が発達した今日の世界で、2つのカピラ城の謎が解決されていないのも不思議だ。そのことは、ブッダ誕生のルーツや基本思想が生まれた時代性が十分には解明されていないことを意味する。

 ブッダ誕生の歴史的、社会的な背景やルーツを知ることは日本の文化や思想をよりよく知る上で必要。

 このような観点や疑問から2011年に著書「お釈迦様のルーツの謎」(東京図書出版)を出版。また2015年、英文著書「The Mystery over Lord Buddhas Roots」がニューデリーのNirala Publicationsから国際出版致しました。

 特に英文では、このようにしてより明らかになった歴史的、文化的な背景を基礎として、ブッダの基本思想やその歴史的な意味合いに注目した。

Ⅰ.ブッダのルーツの真実と歴史的背景

 1、ブッダの生誕地ルンビニ(ネパール)

 現在、ブッダの誕生地はネパールのルンビニであることが国際的に認められているが、国際的に知られるようになったのはそう古いことではない。インド自体が世界に知られるようになったのは、英国の植民地となり英領インドとなった19世紀になってからだ。

 そして189612月に、英領インド北西州の考古学調査官フュラー博士が、ネパール南部のルンビニに碑文が刻まれている石柱があるとの噂を聞き、ネパールの許可を得てネパール側と合同で行う形でこの「アショカ・ピラー」(アショカ王の石柱)を発掘し、碑文を解読した。これによりブッダの生誕地を巡る当時の論争は決着した。

 アショカ王(在位 紀元前269年より232年頃)は、紀元前2世紀中頃にほぼインド全域を統一しマガダ国マウリア王朝の全盛期を築いたが、カリンガの闘いでの大虐殺への報いを恐れ、不戦と不殺生を誓い、ブッダ教に深く帰依したと言われている。アショカ王は、ブッダゆかりの地を訪問し、ルンビニ他に石柱を建てた。石柱には、パーリー語でアショカ王が即位20年を記念し、“ブッダがここに誕生したことを思い、・・・石柱を建立した”旨刻まれている。

 この発見により、19世紀末のブッダの誕生地論争に終止符が打たれたが、インドでは生誕地は北インドと思われていることが多く、英国の著名な百科事典にも1990年代までブッダの生誕地は‘北インド’と記されていた。第一次世界大戦後、インドの独立運動が激化する中で、ネパールはインドからの侵攻を恐れ、これら遺跡を埋め戻すなどの保護策を取ったが、その後再発掘され、1997年にUNESCOの世界文化遺産に登録されるなど、ブッダの生誕地としてのルンビニが国際的に認められるようになった。

 インドとネパールの間には、古くから深いジャングルに覆われた国境が残っているが、英国がインドを植民地とした頃から、ネパールは鎖国政策を取ったため、インド領内における欧州の研究家によるブッダ遺跡の発掘や研究はインド領内で行われ、計算や推測でブッダの生誕地などが決められたことから、ブッダの生誕地は‘北インド’という誤った認識が流布された、報道や百科事典にも載ったのであろう。日本の教科書の多くが、未だにブッダの生誕地を‘北インド’と教えている。教科書の通り答えれば試験は通るのであろうが、真実ではないようだ。

 ブッダは、紀元前6世紀から5世紀にかけて現在のネパール南部ルンビニでシャキア王国(釈迦族の部族王国)の王子(シッダールタ)として誕生した。当時出産は母の実家で行うことが慣例であったので、母マヤデヴィ王妃はカピラバスツ城から故郷であるコーリア王国に向かう途中、王園であるルンビニ園で出産した。

 ブッダの生誕地ルンビニは、カピラバスツ城の位置を特定する上で基点となるので重要。

  2、城都カピラバスツ(シャキア部族王国―ブッダ青年期の居城)と周辺の遺跡群

 ところがマヤデヴィ王妃が誕生したばかりの王子を連れて帰ったシャキア王国のカピラバスツ城跡が、生誕地ルンビニの西25キロほどのネパール側のテイラウラコット村とルンビニからインド国境を越えた南西87キロほどのピプラワ/ガンワリア村にある。

1)テイラウラコット村のカピラバスツ城址

 ルンビニから西に25キロほどのところにあるテイラウラコット村のカピラバスツ城址には、煉瓦造りの西門やそこから南北に伸びる城壁や内部の建築物の土台などが見られる。また城外に質素な博物館があり、出土品の白色土器や黒色土器などの陶器や貨幣と見られるトークンなどが展示されている。これらの出土品の多くは、紀元前56世紀のものであり、時代的にもブッダの時代と一致する。19世紀末から20世紀初頭に掛けて欧州の考古学者等が発掘をしたことが記録に残っているが、風化による損傷や持ち去られることを恐れ、ほとんどが埋め戻されている。

 ブッダが属するシャキア(釈迦)族は、北西インドを中心に勢力を広げていたコーサラ族の流れを汲んでいるとされている。インド北西地域には、紀元前2000年頃からアーリア人がイラン高原を経由して長い年月を掛けて流入し、人口圧力の中で先住民との抗争を続けながら南東方向に浸透した。そして紀元前10世紀頃から先住民のトラヴィダ族等との融合が始まるが、アーリアンの支配と種族の保全の観点から、バラモン(司祭・聖職者階級)、クシャトリア(騎士・支配階級)、ヴァイシャ(農業・生産者階級)及びスードラ(従属者階級)というカースト制度が発達したと見られる。

 紀元前6世紀頃から紀元前5世紀頃にかけては、インド北西部を中心として16大国が割拠し競い合っていたが、コーサラ国がブッダが修行に向かったマガダ国などと並んで最も有力な国の一つであった。コーサラ国は、現在のインドのウッタル・プラデッシュ州の北西部に位置する。そして時の国王が、故あって第一王妃の王子、王女に森に行き、国を作るよう指示した。王子、王女たちは「ヒマラヤ南麓」に辿り着き、そこで賢者カピラ・ゴータマに出会い、シャキア王国を築いたと言われている。

2)テイラウラコット村のカピラバスツ城址の周辺に多くの遺跡。

 またカピラバスツ城址のあるテイラウラコット村の半径7キロの周辺には、城壁の外側に父王スッドウダナの墳墓と言われている大小2つの仏塔(ツイン・ストウーパ)やブッダが悟りを開いた後帰郷し父王スッドウダナと再会した場所(クダン)、そしてシャキヤ族がコーサラ国のヴィルダカ王に殲滅されたサガルハワなど、素朴ではあるが歴史的には興味ある遺跡が数多くある。

 更に、アショカ王はルンビニの他、現在のゴータマ・ブッダ以前に存在したとされる先代ブッダ(賢人、聖職者)の生誕地やゆかりの地を訪問し、ルンビニと同様のチュナール砂岩の石柱を建立し、遺跡が残っている。

ⅰ)寄り添って並ぶ2つの仏塔 (トウウイン・ストウーパ)

ⅱ)歴史を刻む2つのアショカ・ピラー。アショカ王が何度もブッダの郷里に足を運んだ証拠。

・ゴテイハワのアショカ・ピラー

・ニグリハワのアショカ・ピラー石柱上部には、次の趣旨の4行の碑文が刻まれている。

 ピヤダシ王(アショカ王の別称)は「・・・即位[20]を経て国王自ら訪れ

[そして]国王は[この石柱を建立することを]指示した」)

ⅲ)シッダールタ王子が、覚醒後ブッダとして父王と再会した場所クダンー4つの僧院遺跡やマウンドが。

 (背景:ブッダは、ラージグリハ(現在のインドのビハール州)で富豪より寄進された竹林の僧院(漢字表記 竹林精舎)からカピラバスツまで約770キロ、2ヶ月ほどの道。)

 ⅳ)サガルハワのストウーパ(仏塔)遺跡


 法顕伝は、「大城の西北に数百千のストウーパがある。」等と記述。

 父スッドーダナ王の逝去後、一族から王位を継承したマハナマ王になった頃、コーサラ国の王位を奪ったヴイルダカ王が、ブッダの再三の制止を振り切ってカピラバスツに攻め入り、攻防の末サガルハワで多数のシャキア族の人々を殺戮したとされている。多くのシャキアの人々は、この悲劇を前にしてこの地を去り、アフガニスタン地域を含め各地に移動したが、多くはブッダのインドの活動拠点であった南東方向に移動したと言われている。

 このような歴史的な遺跡の存在は、ここにシャキア王国の城都カピラバスツがあったことを如実に物語っていると共に、カピラ城址周辺には古代ブッダ文化地帯とも言える知的文化があったこと示している。

 

 3、もう一つのカピラバスツ遺跡は何かーインドのピプラワとガンワリア

 ところがインド側のピプラワ村にもカピラバスツとされる遺跡がある。その南東1キロほどのところに「パレス」と表示されている遺跡がある。ネパール国境に接するウッタル・プラデッシュ州にあり、直線距離ではルンビニの西南西約16キロのところに位置するが、インドーネパール国境沿いは古くから存在するジャングルがあり、国境をまたぐ道は少ないので、地域住民のみが行き来できる道では87キロ近くある。

 ピプラワのカピラバスツには、大きな仏塔遺跡があり、仏舎利が入った骨壷が発見されている。その周囲に煉瓦造りの建物の遺跡がある。四方の建物はほぼ同様の構造となっており、中央の広間を独居房が囲む内部の構造から、仏塔を中心とする僧院群のように見える。周囲に「城壁」もない。「パレス」と称されるガンワリアの遺跡も同様の構造の僧院群に見える。その中にひときわ重厚な僧院遺跡が一つある。それが「パレス」とは思えない。

 ピプラワの遺跡も貴重なブッダ遺跡の一つではあるが、遺跡を比較するとネパール側の遺跡がカピラバスツ城跡と見られる。

 

 4、歴史の証人―決め手となる法顕と玄奘の記録

 シャキア王国が「ヒマラヤ南麓」に築かれたとの記録はあるが、その居城カピラバスツがあった所在地を含め、それ以上詳細な記録はない。しかし西暦5世紀と7世紀にこの地を訪れた者がおり、それぞれ記録を残している。中国の僧侶法顕がブッダの聖地を訪問し、その200年ほど後に玄奘が法顕の道を辿るように訪問している。

 法顕は仏国記の「カピラバスツ城」の項で、城址の様子を述べた後、「城の東50里に王園がある。王園の名は論民(ルンビニのこと)と言う。」と記述している。中国の「里」を換算すると、「城の東25キロのところに王園がある」ことになるので、逆にルンビニを基点とすると25キロ西にカピラバスツ城があることになる。実際にブッダの生誕地ルンビニから西に25キロほどのところにテイラウラコット村があり、そこにカピラバスツ城址とされる遺跡がある。

 玄奘も、法顕と同様のルートを辿りコーサラ国の首都シュラバステイや僧院などを経てカピラヴァスツを訪問し、「大唐西域記」においては「カピラヴァスツ国」の項で記述しているが、法顕とは異なる記述をしている。カピラヴァスツを「城」ではなく「国」と捉えている。その状況を、「周囲4千里ある。空城(人気のない町)は十数あり、荒廃は既に甚だしい。王城は崩れ落ちて、周囲の量もさだかでない。」などとしており、およそ法顕とは異なる記述をしている。嘗て欧州の研究家が、玄奘の足取りを詳しくトレースしたが、複雑なジグザグ状態の道程で、法顕の足取りとは異なることが分かっている。

 法顕の同地訪問後200年以上も経っているので、遺跡は壊れ、ジャングルに覆われて、地域住民の意識からも薄れていたと思われるので、別のところに案内された可能性が強い。  

ルンビニについても、法顕で記述されている石柱には触れておらず、周囲は草木に覆われ、虎や象などの野獣も出没するので、長居は無用と早々に退散していることが描かれている。玄奘の「天竺」訪問を伝奇風に描いた‘三蔵法師’(「西遊記」)では、孫悟空やサゴジョウなどが従者として法師を色々な外敵から守っているが、もとより「大唐西域記」にはそのような記述はない。

 玄奘が描写した「カピラバスツ国」の状況は、現在のインド側のカピラバスツの風情と非常に似ている。ブッダに関連する貴重な遺跡ではあるが、城壁はなく、周囲に民家なども無く、正に「周囲の量もさだかでない。」そもそもカピラバスツは、シャキア王国の城であるので、国王になっていないブッダをまつる仏塔が中心に据えられることはない。ブッダは、29歳で城を出て、修行し、ブッダとなって何回も郷里を訪れているが、カピラバスツ城には宿泊せず、父王スッドウダナが用意したクダンの僧院に滞在した。ピプラワ村にあるカピラバスツは、コーサラ国のビルダカ王がシャキア王国を攻めた際に、シャキア族が難を逃れてた時に建てられた僧院群か、ブッダ没後に建てられた仏塔を中心とする僧院群であろう。因みに、仏舎利は当初8つの部族王国に分けられ、その後マガダ国のアショカ王がインド地域を統一した後に各所から仏舎利を集め、多くの場所に分散したと言われている。だから仏舎利が多くの場所で祭られていても不思議はない。

 

  Ⅱ、激動の時代を経て、相対的安定期に生まれたブッダの基本思想

(その2に掲載)

   1、 根底にバラモンの思想と先代ブッダの存在

        ―知的文化(古代ブッダ文化)の存在―

   2、 王子の地位を捨て悟りの道を決断した基本思想―人類平等と人類共通の課題

   3、 生きることに立脚した悟り

   4、 不殺生、非暴力の思想

   5、 ヨーロッパ、アジアを大陸横断的に見た思想の流れ

Copy Rights Reserved.

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする